慰撫

 パシッ。

 定規が振り下ろされる。

 パシッ。

 音の数だけ、手首から前腕の内側に、何本もの赤い筋が刻まれていった。

「私たちは愛之介さんが憎くてこんなことをしているわけじゃないのよ」

「あなたを愛しているからこうするの」

 これは、呪いの言葉だ。

 この痛みは、この傷は、愛の証なのだと。

 幼い愛之介はそう自分自身に言い聞かせた。

「ありがとうございます。愛してくださってありがとうございます」

 愛之介は感謝の言葉を口にした。

 父や伯母たちの前では決して涙は流さなかった。涙を見せれば罰を受ける。愛が分からない子だと。

 だから泣くときはひとりだった。

 涙を見せたことがあるのはただひとり。忠だけ。


「うっ!」

 手首の激痛に目を見開いた。嫌な夢。酷い寝汗だ。

 愛之介は、荒い息を整えながら、手首に恐る恐る触れてみる。疼く感じは残っているが痛みはないようだ。

 あのトーナメントが終わってから、同じような悪夢で飛び起きることが何度かあった。

 すっかり忘れていた痛みの記憶。疼くことはあっても痛むことなどなかったのに。なぜ今頃になって。

 忌々しい。睡眠が浅くなって職務に支障が出たらどうしてくれる。


「大丈夫?」

 掛けられた声に恐る恐る首を回した。ベッドのかたわらに立つ人影。何度か瞬きをして夢や幻覚ではないことを確認する。

「ランガくん?」

 幽霊でもなさそうだ。だが、なぜ彼がここにいる?

 体を起こしながら、寝起きの混乱した頭で思考をめぐらす。

 思い出した。

 彼に書類の英訳の手伝いという臨時アルバイトを、また急遽頼んでいたのだ。時間もなかったこともあり、三日ほど、どうせなら泊まり込みで集中して片付けて欲しいと。伯母たちには、アメリカ留学していたときの知り合いだと紹介している。旅行したカナダで世話になった一家の息子が、今沖縄に住んでいるのだという説明に、彼女らは疑問を持っていない。

 日本語より英語の方が意思疎通がスムーズだと理由をつけ、自分や忠以外の誰かがいるときの会話は英語で行うことにしている。それならうっかり「愛抱夢」呼びされても、ボロは出ない。


 それより、ランガが愛之介の寝室に今こうしている現実だ。

 彼にはゲストルームをあてがっている。もちろん、わざわざこの部屋まで訪ねてきてくれることは嬉しいし大歓迎だ。

 いやいや、そういうことではない。


「どうして君が僕の部屋にいる?」

「目が覚めた。胸が変にドキドキして」ランガは胸に手を当てた。「なんか、嫌な感じで部屋を出たら声が聞こえて。ドアの前でどうしようか悩んでいたらスネークが」

「忠が?」

「うん、これを渡されて様子を見てきてって頼まれた」

 はい、とランガはペットボトルの水を差し出した。

 何を考えているんだ、忠。

 愛之介は受け取ったボトルのキャップをひねり、ごくごくと水を喉に流し込んだ。

 サイドテーブルにボトルを置き「とりあえず、座って」とランガをベッドに座らせた。

 声が聞こえたということは、うなされていたことがバレているということか。もしこれがランガでなく忠だったら、その記憶が無くなるまでぶん殴っていたかもしれない。

 ランガを自分の代わりに差し出した忠の判断は、己の身を守るという意味でも極めて正しい。

 さて、どうしたものか。どうはぐらかすか。

 しばし沈黙する愛之介に、ランガが口を開いた。

「その腕、どうかしたの?」

 はっとして、左手首の内側をさすっていた指を離した。無意識だった。

「昔、怪我をしてね。治ったくせに触るのが癖になった。だからなんでもない」

「嘘。さっきうなされていたとき、そこ握りしめていた。覚えていないの?」

 そんな醜態を晒していたのか。ランガは鈍感なようでいて、ごくたまに妙なところで鋭い。しかも、見て見ぬふりをするなどという気遣いができるほど器用でもない。

「やれやれ、君には誤魔化せなさそうだ。でも今は話せないかな」

「俺が子供だから?」

「いや、そういうことじゃない。ただ僕の中でもまだ整理がついていないだけだよ。そのうち話せるようになったらね」

「わかった。別に説明して欲しかったわけじゃない」

 ランガは、素直に引き下がった。

「いい子だ」

「ただ、愛抱夢が……」

 そこまで言ってランガは言葉に詰まった。

「ん?」

「泣いていた」

「僕がかい?」

 何を言っているのだろう。起きたとき目元が涙で濡れているような痕跡はなかった。流石にそんなみっともない真似していたらすぐに気が付く。それでもって、さっさと取り繕っている。そのくらいの芸当は朝飯前だ。

「だから、俺、目が覚めたんだ」

 その順番だと、前後関係が滅茶苦茶だ。混乱しているのか。

「それは夢だよ。僕は大人だからね。もうずっと泣いていない。泣き方なんて忘れてしまったくらいだ」

 そうだ。あれ以来泣いてなんていない。あの日、ボードを燃やされたあの瞬間から、世界は現実味の乏しいものになった。

 スケートの中でたどり着ける、あの素晴らしい世界だけがリアルだった。

 このくだらない世界で泣く理由なんてあるものか。


 不意にカーテンの隙間から光が差し込んだ。月の位置が動いたのだろう。その光を受けたランガの頰がきらりと光る。

 指を伸ばして彼の頬に触れれば濡れている。

「泣いているのは君の方じゃないか」

 ランガは困惑した様子で、頰を指で拭い、手の甲で目をゴシゴシと擦った。

「あれ? おかしいな。どうしたんだろう。俺」

 目から溢れた涙が、ポロポロとこぼれ落ちていく様子を、愛之介は呆然と見つめる。

 ランガの頭を抱き寄せ、自分の胸に押しつけた。

「本当だよ。俺、聞こえたんだ。愛抱夢の声」

 くぐもった声。胸にかかる吐息がこそばゆい。

「そうか」とだけ言ってティッシュを渡し、絹糸のような髪を撫で唇を寄せた。

 追求してこの少年を困らせるのは無粋というものだ。このまま彼が落ち着いてくれるのを待とう。


 髪は雪のよう。誰が言ったのか。自然と周りから呼ばれるようになったSネームスノー。雪の国から来た彼をよく表している。彼の中性的な美貌からスノーホワイト、白雪姫と茶化す輩もいる。

 ランガが白雪姫だというのなら、棺のボードを用意した自分の策略は失敗して然るべきだ。白雪姫は棺の中で息を吹き返してしまうのだから。

 でも、今はそんな自分の間抜けさに感謝したい。

 警戒する様子もなく、無防備に体を預けている少年に、愛おしさが込み上げてくる。


 あれから、何度か一緒に滑った。

 ランガとのスケートは不思議だった。滑るたびに、愛抱夢の心を覆い隠していた何重にもなった薄衣が一枚一枚剥がされて行く。そんな感じがした。


 肩肘を張らなくていい。強がらなくてもいい。

 辛いのに大丈夫だと虚勢を張って、余裕ぶって空疎な笑顔を作らなくてもいい。

 大嫌いな相手に愛想笑いをする必要もない。

 神道家に縛られ、押し付けられる期待から自由でいられる。


 この少年がこうして側にいてくれれば、こんなにも楽に息ができる。

 スケート以外の退屈な俗世ですら輝いて見えるのだ。

 それは、ランガがたったひとりのかけがいの無い存在だと愛之介に思わせるに十分だった。


 まだ幸せだったころの記憶が静かに揺り起こされる。

 忠と一緒にスケートを始めたとき、心より笑顔になれた。ジョーやチェリーたちと毎晩のように滑った。大人が顔をしかめるようなお祭り騒ぎは最高に興奮した。

 そんな楽しさ全てを否定して固執した世界に、この子を連れて行こうとした。


 ランガはそのことを知っていながら、愛抱夢を拒絶しなかった。ただ、その孤独な魂に寄り添おうとした。


 あの決勝戦、子供の純粋さと残酷さは、物事の核心を容赦無く突きつけてくる。丸裸にされた心。全てを曝け出してふたりは全身全霊で激しくぶつかり合った。


 今更、ここで取り繕って何になると愛之介は思う。

 かっこ悪いだと? それがどうした。ランガの前で強がる必要なんて何もないのだ。

 それでも、彼に涙を見せることは絶対に拒否する。

 それは、大人の愛之介が、まだ子供のランガに見せる最後に残された意地なのだ。


 愛之介の腕の中でランガが身じろいだ。

「ごめんなさい。俺、何やっているんだろう。なんだか急に胸が締め付けられて、涙が止まらなくなった。愛抱夢には、かえって迷惑をかけた」

「迷惑じゃないよ」

 ランガが愛之介の左手首にそっと触れた。

「痛むのは左だけ?」

「え?」

 指摘されて初めて意識する。叩かれたのは両腕だった。でも、確かに最近、痛みが蘇るのは左だけだ。

 右手首をそっと押さえてみる。思い出すのは、あのひりつく痛みとは違う。この感覚は圧痛。それも心地よさを伴った。

 そうか。

 あのとき、あの世界でひとり深く絶望する愛抱夢の右手首をランガは強く掴み、俗世に引き戻した。右手首にランガの指の感触が強く刻まれているのだ。


 胸の中におとなしく収まっている少年に視線を戻す。もぞもぞと頭を持ち上げた彼がじっと見上げてくる。

 明るい光の中では鮮やかなブルーの虹彩が、薄闇の中では色を失くしている。それでも仄かな光をキラキラと反射させる瞳はとても美しい。


「前は右の方も痛かった。でも君が治してくれた。左の手首も君が治してくれるんだろ?」

 ランガは難しそうな顔をした。

「そうやって、またはぐらかす。俺、何もしていないし何もできない」

 拗ねたような物言いだ。

「理解できないのは君が子供だからだ。そのうち、わかるさ」

「またそれ」ランガは不満そうに口を尖らせた。

「さてと、ランガくんのおかげで今度こそいい夢が見られそうだ。遅くまですまなかったね」

 ランガが、あっ、と声をあげた。

「いけない。スネークをドアのところにずっと待たせたままだった」

「何? 忠は部屋の前で待っているのか?」

「うん。俺が部屋を出るまで待っていてくれるって」

 あいつめ。もしランガを一晩引き留めていたら、朝までドアの前で立ちんぼするつもりだったのか。するだろうな、あいつなら。忠犬もそこまでいくと腹立たしい。


 ゆっくりと離れていくランガの体温が名残惜しくて、思わず手を伸ばした。立ち上がろうとする彼の腕を愛之介は掴んだ。

「ランガくん」

「何?」

愛之介は口元まで出かかった言葉を飲み込んだ。

「あ、いや。忠に伝えてくれ。明日のスタートは一時間遅らせると。君も、一時間ほど起床時間をずらしてくれて構わない」

「わかった」

「おやすみ」

「おやすみなさい」

 パタンとドアが閉まる。


 もう少しでおやすみのキスを要求するところだった。今の彼なら他愛もなく応じてくれただろうが、まあいい。急いては事を仕損じる。焦りは禁物だ。

 さて、今度こそよい夢を見られそうだ。


 愛之介は再び横になると目を閉じる。すぐに深い眠りに落ちていった。


「以上が、本日の予定になりますが」

 愛之介の前で、スラスラとスケジュールを読み上げる秘書はポーカーフェイスを決め込んでいる。

 食えない犬だ。

「ランガくんはどうしている?」と仏頂面を崩さず訊いてみる。

「そろそろ朝食を食べ終わるころかと思います」

「昨晩のことだが、お前はずっとドアの前で待っていたのか?」

「はい。そのような約束でしたから」

 ものすごく悩む。こいつに訊くのはとても抵抗あるのだが、仕方ないと覚悟を決める。

「僕の部屋を出た彼はどういう様子だった?」

 忠は、愛之介から目を逸らし、ふっと視線を宙に飛ばした。

 なんだ、そのわざとらしい仕草は。

「泣き腫らした目。私にはそのように見えました。彼、泣いていたようですね」

「誤解だ、忠。僕は何もしていない」少々焦って否定する。

「存じています。愛之介様が彼を泣かすようなことをするなど、あり得ないことですから」

「なんで、泣かれたのかさっぱりだ」

 忠は、ふぅーとやや大袈裟な声とともに息を吐いた。そんなこともわからないのですか? と言いたげな目で愛之介を見た。

「あくまでも私の憶測、私見ですが、お話してもよろしいでしょうか」

「言ってみろ」

「本当は思いっきり泣きたいのに泣けない、やたらプライドが高くて意地っ張りでバカでねじ曲がった可哀想な大人、の代わりに彼は泣いていたのではないでしょうか」

 それは、僕のことか? 他はともかく、さりげなく「バカ」を紛れさせたな。

 忠はさらに続ける。

「赤毛くんもそうですが、彼らの真っ直ぐで単細胞なところは、我々大人には眩しすぎます。ときには毒になることすら。では、私は午後の準備がありますので失礼します。それと、あと五分もしたらランガくんがこちらに来るはずになっています」

 主人に反論の余地を与えず一方的に話終えた秘書は、部屋を後にした。


 奴め、一生僕の犬だと言ってやってからむしろ図々しくなっていないか?

 首輪を外してやることもやぶさかでは無い。しかし有能過ぎて替えはきかない。忠がいなくなれば、Sの運営も成り立たないだろう。癪に障るが。


 ドアをノックする音に愛之介は顔を上げた。

「入っていいですか?」

 いつもと変わらないランガの声にホッと胸を撫で下ろす。

「入りなさい」

 少し緊張した面持ちで入ってきたランガと目が合う。まだ少し目が腫れているようだ。

「おはようございます」

「おはよう。よく眠れたかい?」

 つくり物ではない、にこやかな笑顔で朝の挨拶を返した。

「はい」

 彼の花びらのような唇が綻び、小さな笑みがこぼれ落ちていく様に、しばし見とれる。

 かつて彼が赤毛の少年と一緒に屈託なく笑い合っていた姿を思い出す。あのときの笑顔は彼の親友のものだった。

 それでいいと今では思っている。

 目の前にいるこの少年の優しい微笑みは、自分だけのものなのだから。

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