11.




 狭い保健室で、馨は山口と対峙していた。
 室内に立ち込める消毒薬の匂いや薬品臭が、嫌でも馨に10年前のことを思い出させる。
 匂いの記憶というのは、鮮明なだけに残酷だ。

「久しぶりだね、コーヒーでもどう?」

 蛇のようないやらしい、ねっとり纏わり付くような視線に馨は鳥肌を立てた。

「君の方から会いにきてくれるなんてね。嬉しいよ」
「僕は嬉しくなんかない」
「そう?」

 あれはもう10年も前のことだ。自分も成長したし、助けてくれる人もいる。あの時とは違う。山口はもう怖くない。
 そう必死で言い聞かせるのに、足が震えた。

「最近はまた南と付き合ってるんだね。高校時代の彼はどうしたのかな。朝倉くんだっけ?」
「もう、僕に付きまとわないで」

 山口の独語のような問いかけを無視して、馨は言い放った。山口の口から有也の名前が出ると、本当に大切なものを踏みにじられた記憶が蘇って不愉快だった。

「…どうして?あんなに楽しかったじゃないか」
「僕は楽しくなんかなかった」
「でもあれは合意の上だっただろう?君も随分楽しんでいたじゃないか」
「違う!」
「違わないよ。最初は確かに僕が強引に迫ったのかもしれないけど、君も感じるようになってた」

 馨は顔を真っ赤にして唇を噛んだ。
 そうなのだ。

「あの頃の君は南が好きで、僕を南だと思えって言ったら簡単に感じるようになったよね。結局君の体は、誰にでも感じるようになってるんだよ。きっと、今でも。試してみる?」

 何が辛かったかと言って、あの時確かに快感を得てしまったことが一番辛かった。しかも、大好きで綺麗な有也をこんな卑劣な男と重ねて。心底有也に申し訳ない。
 
「君の体は可愛かったよ。敏感で、素直で。僕としてはもう一度やり直したいんだけどね」
「もう僕に関わらないで」
「嫌だね」

 簡単に話が通じる相手ではないと思っていたが、ここまで通じないと泣きたくなってしまう。

「僕は君を気に入っているからね」

 どこまでもこちらを無視した厚顔無恥な台詞とともに山口はゆらりと立ち上がると、馨を抱きすくめた。

「はなせっ!」

 ひょろひょろとした体のどこにこんな力があるのか、馨は身動きもままならないほどだった。慣れ親しんだ有也の体臭とは違う汗の匂いに、馨は吐き気を催す。

「こうして会いにきてくれて嬉しいよ。君も期待していたんだろう?」
「何を…」
「僕にもう一度抱かれたかったってことだ」
「この…!」

 自由に動けない恐怖に引きつる体を励まして、馨はジーンズのポケットに手を伸ばした。
 何の対策も持たずにここへ来たわけじゃない。こうなることはある意味では予想できていた。

「つっ!」

 コンビニで買ったカッターナイフがそこには忍ばされていて、馨は威嚇する意味で山口の首元に刃先を突きつけた。

 いつまでも付きまとわれるなら、もう殺してしまいたい。

 ただ、有也と一緒にいたい。何も考えずに側にいたい。この男を殺すことで叶うのなら、それは決して高い代償だとは思わない。
 有也の側にいられるのなら何でもする。有也を欺いて、他の男の手を借りてここへ来た。それが必要だと思ったからだ。この男を殺すことで人の道から外れても、構わない。

「もう一度言う。もう、僕に構うな」
「…」
「僕は本気だ。これ以上アンタに怯えるくらいなら、今すぐ殺す」

 ゆるゆると山口の腕が解けた。ほっとしたのもつかの間、その手は振り上げられ、馨の頬を張り飛ばした。
 衝撃でカッターナイフが落ちた。

「…生意気だなあ、僕に刃物を向けるなんて…。南は一体どういう教育をしてるんだ?ええ?」

 顎を掴んで無理やり視線を合わされる。体が10年前の恐怖を思い出し、がたがたと震え始めた。

「甘いなあ…。あんな陳腐な脅しかけるくらいなら、最初から僕を刺すべきだったんだよ。あんな脅しで引くと思った?」

 薄い唇がにやりと気味の悪い笑みを浮かべ、馨の唇に噛み付くようなキスをした。

「!」

 あまりのおぞましさに気が狂いそうだ。涙が止まらない。

 自分の浅はかさが情けなくなった。本当に、この男の言うとおり刺してしまうべきだった。
 有也のためなら人の道から外れても構わないと思いながら、どこかで躊躇してしまった。

「もう…いやだ…」
「君に拒否権はないよ。さて…ここで君を抱いたら、君の大好きな南はどんな顔をするだろうね?」

 くすくすと笑いながら、山口は馨をベッドに押し倒した。

「相変わらず白いね。綺麗な肌だ…」

 体は金縛りにあったように動かなかった。ただ、涙だけがこぼれて、馨は絶望する。生暖かい舌が首筋や鎖骨周りを這い回る。

「いやだ…」
「君は僕のものだよ。今からそれを分からせてあげようね」

 怖くて抵抗できない。
 10年前、山口が馨にしたのは性的虐待だけではなく、身体的な暴力もだった。
 大人の男に本気で殴られた恐怖は馨の心の底にまで染み付いている。抵抗したらもっと酷い目に合わされる…その恐怖が馨の体を縛っていた。

(有也、有也…)

 服を剥ぎ取られながら、有也を思う。本当は自分で何とかしたかった。有也の重荷になりたくなかった。
 でも、これでは。

「水沢!」

 震える下肢に手をかけられた時、誰かが飛び込んできた。
 次の瞬間には馨の上にいた山口が殴り飛ばされていた。




 

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