行く当てはないけれど、とりあえず電車に乗った馨は自分の愚行に泣きたくなっていた。 有也は、ホストだ。再会する何年も前から、有也はそれで生活している。 仕事用の携帯には何百人もの女性の電話番号、メールアドレスが登録されているし、馨と一緒にいる時でも、しょっちゅう女性から電話がかかってくる。 馨といる時は電話はとらないし、店外デートも極力抑えているようだったが、絶えず女性の気配は側にあった。 分かっていたつもりだった。女性相手の商売だ。有也も、『女性を喜ばせて幾らの商売だ』と、言っていたではないか。 キスマークだらけの体を見た時、ショックだった。自分以外の誰かを有也が抱いたと知って、耐えられないと思った。 『俺は馨のものだよ』 何度でも囁いてくれた有也の言葉が蘇ってくる。ずっと信じていたし、これからも信じたいと思っていた。嘘だったとは思いたくない。やむを得ない事情があったのかもしれない。 けれど、自分は男で。 根っからの同性愛者でない有也の側に、一体いつまでいられるのだろうという不安が常にあったのも、事実。 『馨』 大好きな人。綺麗で、優しくて、大切な人。彼を手放したくない。 どんなに卑怯な手を使っても、それが人の道を外れていても、有也を手放したくないのだ。 『閉じ込めてしまいたい』 セックスのたびに、有也にきつく責め立てられながら、何度となく聞いた科白。いつも気が狂いそうな快楽に泣くことしかできなかったけれど、それは自分の台詞だと、思っていた。 『馨、愛してる』 愛する人に愛されることを知った心と体は贅沢で、一瞬でも有也と離れていたくないと叫ぶ。離れて数分しか経っていないのに、馨はすでに帰りたくなっていた。 でも、帰って、どうする? 足元に縋りついて懇願すればいいのか?捨てないでと頼めば、有也は叶えてくれるだろう。 だが、何か違う気がした。妙にひっかかりを覚えた。 (とことん女々しいな…) もっと強くならなければ。守るべき存在ではなく、対等に並び立てる、恋人になりたいのだ。 守られ、甘やかされるのは心地良かったけれど、本当はそれではいけないことは分かっている。 馨は携帯を取り出し、ディスプレイを見つめた。 平日の昼間に出歩くことは、別段怖くない。ストーカーの存在に有也は神経質になっているけれど、馨は、実は知っているのだ。 ストーカーの正体。彼は、平日の昼間は絶対に動けない。 (…決着を付けようか) ストーカーと直接会うのは、吐き気がするほど怖い。だが、そうすれば有也に認めてもらえるような気がする。 何よりもう、邪魔されたくない。 しばらくの逡巡の後、馨は意を決したように立ち上がった。折りしも、電車は駅のホームに入っていく。 馨は電車を降り、彼の携帯を鳴らした。 「突然呼び出すから何事かと思えば」 馨は、彼のそんな軽口にも応じることなく、口を引き結んだまま車のフロントガラスから前だけを見つめていた。 「確かに、アイツとやり合う時は呼べって言ったけど」 『今から、決着を付けに行く』 たった一言、それだけの台詞で彼は馨が今からなそうとしていることを正しく理解し、ここまで駆けつけてくれた。 馨にとって数少ない友人の一人だ。 高校時代の同級生である彼は、一緒にいた頃とはずいぶん雰囲気が変わって、怠惰な色気を纏わりつかせた男になっていた。 決して彼を嫌いではないのだけれど…その雰囲気は、どこか有也と同じ匂いがして今はとても不快だった。 「まあ、呼んでもらえて光栄だよ。水沢」 ごつごつした派手な指輪を嵌めた手で、馨の頭を撫でる。 「で…どこにいけばいいんだっけ?」 馨は短く行き先を告げた。私立中学校の名前に、彼はふん、と鼻を鳴らす。 「アイツ…まだ学校のセンセイやってんだ?」 「みたいだね」 考えるだけでも鳥肌が立つ…10年前に馨をレイプした保健教師。 あんな、生徒に手を出すような最低の男が、まだ学校という現場で働いているなど、考えるだけでもぞっとする。 「決着を付けに行こうと思ったのは、また付き纏われるようになったから?」 「…そうだね」 そう、また、だ。 彼は、執拗に馨だけを追いかけてくる。 10年前は現場を有也に踏み込まれ、馨が転校という形で逃げ出したことにより、終わった。 だが、それは本当の終わりではなく、高校時代にも山口は現れた。 「もう一回、俺が半殺しにしてやろうか?」 その時は、今、隣にいる彼が力ずくで追い払ってくれた。 「…いい」 けれど、こうして三度現れた。 正直、10年前のことはもう思い出したくもない。山口の影がちらつくたびに、10年前の傷に痛めつけられ、苦しんで…。 いい加減に決着を付けたい。 「自分で、何とかする」 おそらく、有也に言えばきっと何らかの手を打ってくれただろう。身辺をうろついているストーカーが山口だと言えば、間違いなく有也は怒り、馨を助けてくれたはずだ。 そして、隣にいる彼も、どんな形であれ、山口を追い払ってくれただろう。 けれど、それでは駄目だ。自分で蹴りをつけなければ、いつまでも終わりはない。 それに、そうしなければ有也に向ける顔がないような気もした。 有也の荷物にはなりたくないのだ。ただでさえ、自分は男で、女好きの有也に関しては著しく不利なのだ。この上、荷物になって、重いと思われるようなことがあれば、きっと側にはいられない。 「…高校生の時、アイツが現れて、がたがた震えてた人間の言う台詞とは思えないけど」 苦笑する。あの時は、ただ怖くて怖くて仕方なかった。 今ももちろん怖いけれど…山口以上に、有也を失うことの方が怖いのだ。 「さすがに、2度目だから」 居場所を突き止められるのも、電話や手紙で接触されるのも、2度目。免疫はある。 「そうだな…。まあ、傍観だけさせてもらうわ」 「うん」 「…命の危険が迫ったら、呼べよ?」 「それは、大丈夫だと思う」 カーステレオから静かに洋楽のバラードが流れていた。らしくないな、と馨はぼんやりと思う。 「…水沢さ、付き合ってる人いるの?」 「…うん」 そういえば、高校時代に付き合って欲しいと言われたことがあったっけ…。高校時代は有也のことを全然振り切れなくて、苦しかった頃だった。 結局断って、いい友達に戻ったけれど…こんな時だけ呼び出すのは都合が良すぎるかもしれない。 「ふぅん。それって彼氏?」 「まぁ…そうだね」 「彼氏には言えないの?今回のこと」 「彼氏も知ってるよ」 「何で俺を呼んだの?俺は嬉しいけど。彼氏に頼めば良かったじゃん?」 「…」 有也も知っている。 でも、言えなかった。 10年前の傷のことは、できるだけ有也には触れられたくないのだ。 馨にとってだけでなく、有也にとってもきっとトラウマだと思うから。 「…自分で決着を付けたいんだ。有也の手を借りずに」 「で、俺の手を借りたっていうんだったら、有也さん怒るんじゃないかなあ」 あのキャラだしなあ、と彼は誰にともなく呟いた。 「え?」 「や、何でもないよ。それより…着いたよ」 顔を上げると中学校の正門が視界に入った。 |
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