5.




 テーブルの上に、『ちょっとアパートに帰ってきます』という書き置きを見つけたら、有也はいても立ってもいられなくなって、愛車のキーを掴んでいた。
 なぜこんな時に、と思う。あのアパートは危ないのだ。
 玄関は、鍵こそかかるが大人が蹴ったら簡単に破れそうに薄いし、壁だってそうだ。ベランダも隣家から伝って侵入できる。
 こんな、sakuraが何かを企んでいるかもしれない時に、なぜよりによってあんな危険な場所に。

 信号待ちの間ももどかしくて馨の携帯を鳴らす。眠っているのか、それとも別の理由か、電話をとる者はなかった。
 むなしく鳴り続ける発信音に、有也は恐怖を煽られる。
 
 程なくして馨のアパートに着いた。外から見ると部屋は暗く、人がいるようには思えなかった。
 明け方という時間帯でもあり、極力音を立てないように、静かに階段を昇る。もらった合鍵で玄関を開け、中に入ると、何かかさりとしたものを踏んだ。

 人の気配を感じる。

「馨?」

 はっと息を呑んだのが空気で分かった。

「馨?」
「有也?」

 小さな声で、答えはあった。ただその声は震えていて、不安を駆られながらも、そこにいてくれたことにわずかに安堵する。

「どうしたの?」
「馨に会いたくて。寝てた?」
「ううん」

 暗闇に目が慣れてくると、馨が部屋の隅に蹲っているのが分かった。すぐそこにベッドがあるのに、と不思議に思いながらもゆっくりと近づいていく。

 足がかさかさとしたものを、踏む。
 綺麗好きでいつもこまめに掃除をする馨にしては珍しいと思い、有也はその足元にあるものに興味を持った。

「電気、点けるよ?」
「だめっ」

 思いもよらない鋭い声に有也は驚いたが、手はすでに電灯のスイッチに伸びていて。
 パチン、という小さな音とともに室内が明るくなる。

「だめ、だめ!」

 馨の切羽詰った涙声。有也は呆然と、足元に散らばるものを見つめていた。
そして、無機質な電子音が鳴り響く。

 いつまでも止まないそれが、馨の携帯の着信音だと気づくまでに、数秒かかった。

「何だ、これ…」

 馨の嗚咽を聞きながら、有也は立ち尽くしていた。

 一体、誰がこんなことを。

「馨」

 携帯の着信音が有也を少しずつ現実に引き戻す。同時にふつふつと、怒りが湧き上がってきた。

 一体、誰が。
 誰が何様のつもりで、誰の許しを得て、こんなことを。

 ちゃぶ台の上に無造作に放られた携帯は尚もしつこく馨を呼んでいる。こんな明け方にこんなにしつこく電話を鳴らすなんて、嫌がらせ以外の何でもない。余計に腹が立って、有也はその携帯を取り上げた。

「ゆ、有也!やめて、お願いだから」

 馨は血相を変えて有也の足元に縋り付いてきた。ディスプレイに非通知の文字を見つけた有也は盛大に舌打ちする。

「馨」

 携帯の電源を落とすと、有也は馨の前にしゃがんだ。
 馨は、有也の顔を見ない。足元に散らばるものを一生懸命かき集めている。
 畳に、涙がぽたぽたと落ちた。

「馨、帰ろう。話は帰ってからしよう」

 足元に散らばるもの、それは、写真。
 10年前の馨が無邪気に笑うもの。そして、陵辱されつくしたあとの、痛々しい姿。
 生々しさに、吐き気さえした。

「ゆ、有也」
「何?」
「お、怒ってる?」
「何を怒るの?」

 激しい苛立ちが有也を襲った。こんなに大切なものを傷つけられて、確かに腹は立っている。けれど、それは馨に対してではない。
こんなに大切にしているのに、まだ信用されていないのかと、苛立った。

だが今はそれどころではない。こんなに怯えて、震えている馨の前で怒りを表に出すのは避けるのが賢明だろう。安心させてやる方が先だ。
 塞がり切っていない10年前の古傷を抉られた馨。10年前は、有也が更に傷つけた。

「馨、おいで」
「…」

 手を差し伸べるとおずおずと、だがしっかりと掴んでくる。こちらからも握り返して、指先に軽くキスをした。

「…愛してる」

 誰よりも、何よりも愛しいと思う気持ちだけは疑われたくないと思った。もう傷つけるつもりはない。守りたい。

「有也…」
「一緒に帰ろう。怖かったな」

 手を引っ張って、立ち上がらせる。これ以上、こんな不快な場所にいさせたくなかった。
 馨は、いったんは素直に従ったものの、少しして我に返ったように首を振った。

「だ、だめ」
「え?」
「有也の家にも、アイツ来てる」

 アイツ、というのが誰かは分からない。おそらく馨にも分かっていないだろう。
 ただ、こんな悪趣味な嫌がらせをした相手のことだということは分かる。

「何で、アイツ来たって分かるの?」

 その瞬間、馨はしまったという顔をした。
 有也にしてみれば深い意図があって聞いたわけではなく、純粋に疑問に思っただけだったのだが。
 来たことを知っているのなら、姿を見ていないだろうか、と。

「あの、…」
「どうしたの?」
「ご、ごめん。ごめん、有也。僕、有也宛の郵便物、開けちゃった」

 土下座でもしそうな勢いで馨は謝る。有也は呆気に取られてしまった。

 郵便物を見られるくらい。
 
「…別に、いいよ?」
「でも、人の手紙を勝手に」
「他の奴なら多分許さないけど、馨なら、いいよ」

 決して清廉潔白な過去を過ごしてきたとは言わないが、今更馨に見られて困るものなどない。見られて、誤解されるなら解いてやればいいだけの話だから。
 信じてもらえるか、多少不安なところはあるけれど、秘密を作る方が面倒臭い。

「で、その手紙でアイツが来たって分かったんだ?」
「うん。切手貼ってなかったし…」
「その封筒、見せて」

 ぎくりと馨は体を強張らせた。

「…ああ、中身はいいよ。見られたくないんでしょ?」

 大体、この部屋に散らばっているもので想像は付く。

「とりあえず、マンションの方に帰ろう。話はそれからしよう」
「でも」
「大丈夫、一緒にいるから」

 馨はようやく顔を上げて有也を見た。泣き顔が、少しだけ緩む。

 どんな奴が相手であれ、こんな卑劣な手を使うストーカーに屈するつもりはない。

(夜の男ナメんなよ)

 あらゆる人脈と、手段を駆使して、追い詰めてやることを心に誓った。







 

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