10.


 

 斉藤はしばらく有也の顔を凝視していたが、やがてドアを閉めて立ち去った。

 有也は息をついた。
 膝の上では馨がまだ泣いている。有也の首に腕を回して、肩に顔を埋めて。
 清潔なシャンプーの匂いが鼻腔をくすぐった。

「馨」
「ごめん。ごめん。許して、南、ごめん。ごめん」
「馨」

 呼びかけてもうわ言のように繰り返すだけ。おそらくまだ、10年前の世界にいるのだろう。
 ならば。

「許すよ、馨・・・水沢。怒ってない。全然怒ってないから」
「みなみ」
「怒ってない。許すよ」

 10年前の記憶に重ね合わせるように囁くと、恐る恐る馨は顔を上げ、有也と視線を合わせた。

「辛かったな。怖かったよな」
「みなみ」

 幼子のような瞳で、馨は有也を見つめる。
 言葉もどこか舌足らずで、とても可愛いと思った。

「もう何も怖くないよ。俺が守ってやる」
「みなみ」
「ごめんな。怖い思いさせて。もう忘れちまえ」

 今の出来事も、10年前のことも。
 全部忘れて、また笑ってくれることを祈った。

「でも、僕は、みなみを・・・」
「お前が謝ることじゃないよ。お前は何も悪くない」

 本当は、あの時こういうべきだったのだ。
 それを言葉にできない感情に振り回されて、更に馨を傷付けたのは他ならぬ自分自身。

「もう寝ろ。寝たらみんな夢だと思えるから」
「うん・・・」

 素直に馨は頷いて、再び有也の肩口に顔を埋めた。
 しばらく背中を叩いてあやしているうちに本当に眠り込んだようで、やがて静かな寝息が聞こえ始めた。その体は弛緩し切っていて、怯えも恐怖も感じられない。普段なら、少しの接触でも体を硬くしてしまうのに。
 しかし、本当の意味では、何も変わってはいないのだろうと有也は思った。おそらくもう一度目覚めた時には、また同じこと。

「ちゃんと教えてやらないとな」

 有也は馨を抱いて立ち上がった。部屋の隅に片付けられていた寝具を足で広げる。

「抱き合うこととか、愛されることの意味を、さ」

 そしてそれは、自分の役目だと思うのだ。あの時馨を追い詰めたのが自分だったから、というそれだけではなく。
 今、馨を愛しくて抱きたいと思っているから、その役目は誰にも譲れないと思った。

 布団を敷いて、その上に馨を横たわらせる。その時、有也は馨の手が有也のシャツの裾を掴んでいることに気付いて苦笑した。
 本当に、これではまるで子供ではないか。

「どこにも行かないよ」

 指を1本1本シャツから解きながら囁く。
 シャツの肩は馨の涙で濡れていた。これでは、今日は仕事にならないだろう。
否、店に行けばロッカーに替えのシャツくらいあるし、一旦自宅に戻っても良いのだが・・・。 
 そんなことより今は、馨の側にいたいという気持ちが強かった。
 ちゃぶ台の上に放り出してあった携帯を手に取ると、メモリを検索して店に本日欠勤の連絡を入れてから、有也も横になった。
 男2人が寝るには布団は狭すぎたし、多少の暑苦しさはあったが、さして気にはならなかった。

 馨の頭を腕に乗せて、しっかりと胸の中に抱きこむ。
大切な命を抱き締めて、有也もやがて眠りについた。




  

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