「この、馬鹿!跳ねられたらどうすんだ!」
すんでのところで馨の鞄に手が届き、引きずり戻した。
「車は急に止まれないって昔小学校とかで習っただろ!?」
「やだ、離して!」
人目を集めているのは承知の上で有也は馨を抱きしめた。馨はパニックを起こしたように叫んで暴れている。
「離せよ!馬鹿!」
「馬鹿はどっちだよ!」
馨が車道に飛び出そうとした時、心臓が止まるかと思った。
「勘弁してくれよ、もー・・・」
汗ばんだ首筋に顔を埋めて呟くと、馨は少し大人しくなった。
「・・・ごめん。ちょっと驚いて・・・怖くなっただけだから」
「・・・」
「もう、大丈夫。離して」
ゆっくりと腕を解くと、瓶底眼鏡の奥の大きな瞳が微笑んでいた。
「・・・逃げちゃってごめんね。びっくりしたもんだから・・・僕に何か用事だった?」
そういえばここでバイトしてるって話したもんね、と呟くように続ける。
「話したいことがあって・・・」
「え?嘘」
「ついでに送るよ」
「あ、うん。ありがとう」
先ほどのパニックが嘘のように穏やかに笑う馨。有也は違和感を感じていた。
あのひどいパニックは何だ。なぜ、あんなに怯えていた?
有也そのものに怯えていたというよりも、あれではまるで――。
「南の車ってさっきの派手な車?」
「え?ああ、うん」
その思考は馨の明るい声によって遮られた。
「すごいね。僕と同い年なのに、あんな車に乗れるなんて」
「ああ・・・水商売だしな。それなりには儲けてるよ」
塾の横に停めた車にたどり着き、助手席のドアを開けてやる。
「どうぞ?」
わざとらしく手を差し出すと、馨は笑い転げた。
「すごいねー。さすがホスト」
「女性を喜ばせて幾らの商売ですから?」
更にわざとらしくウインクなどしてやるとますます馨は大笑いする。
「もー。ヤバイよ南。面白すぎ」
「笑ってないで早く乗れよ」
「ごめんごめん」
馨は促されるまま車に乗り込んだ。シートがふかふかだ、などと言ってはしゃいでいるのが聞こえる。それに苦笑しながら有也はドアを閉めた。
ヤバイのはどっちだよ、と思う。何であんなに暑い中走った後なのに、シャンプーの匂いとかしちゃったりするわけ。
変な色気、出しすぎ。
「じゃ、出すよ。そういやお前、メシ食った?」
軽く頭を振って邪念を追い払うと、有也は車のエンジンをスタートさせた。
「あ、まだー」
「何か食ってく?」
「うーん・・・」
馨は表情を曇らせた。
「・・・僕、あんまりお金ないんだ。でも、この間泊めてもらったお礼に、何かご馳走したい」
「いいよ。無理すんなよ」
「僕んち、散らかってるけど来る?」
「え?」
思ってもみない申し出に、有也は車を走らせながら馨の顔を覗き込んでしまう。
「危ないよ!」
「あ、ごめんごめん」
「うん。だから、おんぼろアパートで散らかってるんだけど、来てくれるなら何か作るよ」
ヤバイ。嬉しい。
「じゃー、お言葉に甘えてお邪魔しようかな?」
「うん、ぜひぜひ」
平静を装って返答するけれど、頬が緩むのを止められない。
でも、同時に少しだけ心配になった。抱きしめて、キスして耳を嘗め回したのはごく最近のこと。
明らかに邪な思いを抱いていると分かる人間を家に入れるというのは、警戒心がなさすぎではないのか。
それとも・・・?
都合のいい考えを振り払う。期待したら、その期待が裏切られた時ツライ。過度の期待は恋愛には禁物だ。
「何か食べたいものある?途中でスーパー寄って帰ろうね」
悶々とする有也の横で、馨はとてもご機嫌だった。
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