手を繋いで無言で歩いた。実際に歩いていたのは10分にも満たなかっただろうか。馨にはとてつもなく長い時間に思えたけれど。
「散らかってるけどごめんな」
「いや、平気。こっちこそ甘えてお邪魔しちゃってごめん」
短い廊下を抜けて通されたリビングは、有也の言葉とは裏腹にきちんと整頓されていた。散らかっているといえば、テーブルの上に読みかけの雑誌が開きっぱなしで置いてあることくらいか。
「適当に座ってて。着替えてくるから」
「あ、悪い・・・ありがとう」
有也の背中を目で追いながら、馨は勧められるままにソファに腰を下ろした。
ヤバイ。非常にヤバイ。ため息が出るほどヤバイ状況。
あの男の匂いが染み付いて充満している部屋にいて、理性を失くしてしまいそうだ。
理性もなく、歯止めも効かず、叫んでしまいそうな気がする。
『好きだ』と。
中学校の修学旅行で養護教諭に犯された。
嫌で嫌で、泣き叫ぶ自分に、彼はこう囁いた。
『君は南が好きなんだろう。南にこうされたいと思っているだろう。僕には分かるよ・・・僕のことを南だと思ってご覧』
その時まで自覚していなかった。有也への思いは友情だと思っていた。
でも。
今、自分を抱いているのが彼だったら、と想像したら、体は容易に熱を持った。
それから、有也の顔が見られなくなった。自分がどうしようもなく汚れてしまったような気がして。そしてあの瞬間、有也の顔を思い浮かべたことが申し訳なくて。
有也との溝が深まっていく最中にも、養護教諭との関係は続いていた。彼は卑怯にも、『僕から逃げようとしたら、この関係を南にばらしてやる』と言って脅した。
逃げられるはずもなかった。どうしてもどうしても、有也には知られたくなかった。
けれど、有也に見られてしまった。冷たい目で、『二度と俺の目の前に現れるな。このホモが』と言い放たれた。
ほんの一瞬、有也が保健室に踏み込んで来た時、期待した。もしかしたら有也が助けてくれるのではないかと。
けれど、清潔な彼は許してくれなかった。
それから逃げるように転校。本当の気持ちは手紙に書いて、祖母に託した。有也の手に渡ったということは、祖母に電話で聞いた。
なのになぜ、今日再会して、家にまで連れてこられたのだろう。
ホモを気持ち悪いと思っているはずなのに。
期待もあるけど、それ以上に、怖い。
ずっと好きだった。転校してからも、有也以外の友達には出会えなかったし、有也以上に心惹かれる相手も現れなかった。
そして大人になった彼を見て、再燃した思いはもう爆発してしまいそうだ。
「水沢、コーヒー淹れたけど飲む?」
「えっ」
考え事に没頭していた馨は、Tシャツとスウェットに着替えた有也が背後に立ったことに気付かなかった。そういえばコーヒーのいい匂いがする。
素っ頓狂な声をあげた馨に、有也は苦笑した。
「もしかして座ったまま寝てた?寝るならコーヒーは良くないか」
「あ、ごめん・・・」
「あったかい紅茶でも淹れようか?酒が良ければそっちでもいいし、それとも寝るならベッド貸すけど」
時計を見ると、始発が動き出すまでもう1時間半というところだった。つまり、有也と一緒にいられるのもあと1時間半。
できるだけ、長く側にいたいと思った。酔い潰れたり、眠ってしまうのは勿体無さすぎる。
「えと・・・コーヒー頂きます」
「了解。でも眠かったら寝ていいよ?」
「や、もうすぐ始発動くから」
「別に無理して始発で帰らなくてもゆっくりしていけばいいのに。今日日曜だろ?」
「・・・」
「・・・ま、コーヒーでも飲みながらのんびり考えな」
「うん・・・」
ぽんぽんと馨の頭を叩いて、有也は馨の隣に腰を下ろした。
ゆったりとしたソファであるのに急に狭くなったように感じたのは物理的なものか。それとも、心理的なものか。
「って」
コーヒーカップを口に運びながら馨は思わず笑ってしまった。
「ちょっと近付きすぎじゃん。狭いよ」
そう、ソファには随分余裕があるのに、有也はなぜか馨にぴったりと寄り添っていた。
やめてくれ、と思う。
「いいじゃん。久しぶりに会ったんだし」
久しぶりに会ったから寄り添うという理屈がどうしても馨には理解できなかったけれど、そういえば昔はいつもこんな風にくっ付いていたことを思い出す。
もちろん今のように邪な思いは抱いていなかったし、純粋に友達としてのじゃれ合いだったけれど。
「今、何してんの?」
挙句の果てに肩に手を回されて抱き寄せられた。
「ちょっと、暑いよ!」
「エアコン強くしようか?」
そういう問題ではないと身を捩る馨をよそに、有也はエアコンを強にすると再び囁くように聞いた。
「働いてるの?」
「っ・・・」
息の触れた耳朶がありえないほど熱い。でも、気付かれてはいけないと、馨は必死で平静を装って答えた。
「今大学4年生」
「へえ、大学生なんだ」
「うん。高卒で2年働いてから入学したから」
母子家庭だったから、馨が大学に行くような資金はなかった。だから、馨が働いてお金を貯めるしかなかったのだ。
「ああ、そっか・・・お母さんは元気?」
「あ、うん。元気にしてるよ」
「就職は?」
「内定もらった。駅前の進学塾」
「ああ、あそこか。やっぱり英語?」
「うん。ずっとバイトしてた。今も平日の夜はバイトさせてもらってる」
「ふう、ん」
「っ」
ぺろ、と舌先で耳をくすぐられて馨は息を飲んだ。
「な、何すんだ」
「いや。相変らず可愛いな、と思ってさ。このちっちゃな耳なんか食べちゃいたいね」
かあっ、と顔が熱くなった。
「か、からかうなよ!」
「からかってなんかねぇよ」
「からかってるよ!だって南・・・知ってるんだろ」
「何を」
今や有也は馨の耳を口に含んで嘗め回していた。そんな経験のない馨は目が回りそうな感覚を味わう。
「ああ、そうか。知ってるよ。お前、俺が好きだったな」
頭から冷水を浴びせられたような気がした。
「知ってて、どうして」
「・・・関係ないよ。俺がしたいからしてる」
耳から唇が離れた、と思った直後、馨の唇が柔らかいもので覆われた。
それが先ほどまで自分の耳を嬲っていた有也の唇だと思い知るまでに、数秒。
恐怖に鳥肌が立つ。体が固まる。
馨はなぜ自分がキスされているのか分からなかった。ただ、何となく、有也の方には気持ちはないのだろうと思った。
きっと、やりたい衝動に駆られたのだろう。馨にはあまり経験がないが、男にはそういうのがあると聞く。
たまたまその時目の前に、昔自分を好きだと言っていた奴がいて、都合が良かったのだろう。
その考えはひどく自虐的で馨の心をとても傷つけた。
しかし、それでも、怖いのに嬉しいと思ってしまう自分が、ひどく滑稽だった。
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