「俺のこと、覚えてたんだな」
ダークグレーのスーツを少しだけラフに着崩した男――南 有也は、そう言って笑った。
対する馨は、ぽかんと見上げるしかない。無限とも思えそうな数の『なぜ』が頭の中を埋め尽くす。
「そりゃ、」
忘れるわけがない。初めてできた親友で、初恋の相手。そして、手酷い失恋を経験した相手。
10年経っても、忘れられない傷になっていた。
「忘れられるわけないって?」
「っ」
馨の言葉を奪った有也は笑みを浮かべて馨の目を覗き込んできた。
その笑みは決して揶揄するようなものではないし、馬鹿にするようなものでもない。瞳に浮かぶのはあくまでも優しい光で、侮蔑の色も見受けられない。
なのに馨は怖いと思った。
今、目の前にいる優しげな男は、『二度と俺の前に現れるな』と言い放った男なのだ。
「色々思うことはあるけど、会えて良かった。ずっと会いたいと思ってたよ」
「南・・・」
形は違うかもしれないけれど自分も同じ気持ちだったと、会いたかったと答えようと口を開いたところで愛想のない電子音が邪魔をした。
「うわっ。そういえば仕事放り出して来たんだった」
携帯電話のディスプレイを見つめて情けなく眉を下げる有也。こんな時間に仕事とは、有也の服装からしてホストなどの水商売の類であろうと馨は当たりを付ける。電話に応対する有也を見ながら、何も待つことはないだろうと帰ろうとした時、右手が掴まれたままだったことに気付いた。
その瞬間、それまで意識しなかった手の温もりを感じ、馨は動揺した。
「・・・うん。だからごめんって。・・・うん、そう」
有也の視線と意識が他所に向いているのをいいことに、その顔をそっと伺う。10年前と変わらぬ涼しげで端正な顔。けれど10年前よりも精悍さが増し、男らしい顔つきになっていた。
純粋に懐かしいと思う。淡く、幼い恋心は叶うことはなく、ふとしたことで痛む古傷を残したけれど。
この男が好きだった。どうしようもなく惹かれていた。
「うん、ごめん。じゃあ・・・うん、分かったって。じゃあね」
甘い顔と声で笑いながら有也は通話を終え、馨に向き直った。
「ごめんな。店、放り出してきたからマネージャーが心配してさ」
「いや、いいんだけど・・・戻らなくていいの?」
「戻らなくて良くなった。ていうか、良いことにした」
あっけらかんと業務放棄宣言をして、癖のない茶髪を掻き上げる。たったそれだけの仕草に、10年前にはなかった色気を感じて、切なくなる。
再会するなんて思ってなかったのに、こんないい男になって目の前に現れるなんて。
「水沢?どした?」
色気に当てられてぼーっとしていた馨の目に有也の顔のアップが飛び込んできて驚く。我に返るとものすごい至近距離に有也の心配そうな瞳があった。
「大丈夫?気分悪い?」
「・・・あ、いや、ううん、大丈夫。ちょっと眠いだけ」
「あー、お前昔から夜更かしできなかったもんな」
笑っている。もう二度と、笑顔など見ることはできないと思っていたのに。
「うるさいな。どうせ僕は子供だよ」
「拗ねんなよ」
テンポ良く交わされる耳障りの良い会話。それは10年前と何ら変わりない。
こうして、彼と交わす他愛のない会話が好きだった。
「こんな時間に出歩くなんて、水沢は悪い子供だな」
「子供扱いすんなって」
「いやいや、お兄さんに事情を話してごらん。悪いようにはしないから」
「怪しいよ!」
10年前に戻ったような気さえする。同じではないと分かっているのに、おかしくて、嬉しくて涙が出そうになる。
「な、水沢、うち来いよ。すぐそこだし、どうせ電車動くまで時間潰さなきゃだろ?」
「う、ん・・・うーん・・・」
それはとても魅力的な誘いだったけれど、あっさりと頷くことは躊躇われた。
汚いものを見るような目で見られたこと。罵声を浴びせられたこと。無視されたこと。
悪いのは自分だと分かっている。だけど本当に、あの時は気が狂いそうなほど辛かった。
今、彼と一緒にいるのは・・・怖い。
「行こ」
俯いて逡巡する馨に対して、有也はあの時のことを忘れたような気安さで手を引っぱる。
「ちょっ、放せよ。まだ行くとは・・・」
「ていうか、補導されたらどうするの」
「補導!?僕が!?」
「そう。未成年がこんな夜中に出歩いちゃだめでしょ」
「何でだよ!僕お前と同級生だろ!?」
「知ってるよ。見えないな、ってこと」
「お前が老けてんだよ!」
「失礼だな!」
「どっちがだよ!」
引きずられるようにして歩きながら、有也の背中に怒声を浴びせ、睨みつける。けれど、振り返った有也はこの上なく優しい目をしていて。
その視線だけで顔に血が上るのを自覚した。
「・・・行こ。おいで?」
「・・・うん・・・」
泣きそうになって俯いた。すると手をとても柔らかく握りこまれた。
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