足早に、シュリは花の間に向かう。 アリューシャがまさかこんなに早く目を覚ますとは思わなかった。目が覚める頃には花の間にいてやろうと思っていたのに。 たった一人。5日間ずっと側にいたシュリがいなくて、きっと心細い思いをしているだろうと思う。キース辺りが聞けば、「子ども扱いも大概にしてください」と嘆息しそうな発想に、シュリも苦笑する。 シュリにとって、アリューシャはいつまでも小さな弟のままなのだ。 アリューシャが生まれた時から見ていた。恐ろしく小さくて、可愛らしい赤子が、少しずつ成長していく。 兄との確執があったから、その成長を常に側で見守ることはできなかったけれど、そうしたいと思い続けていたのは事実だ。 『シュリにぃさま』 皇帝になる者として、背負う責任と期待。誰もが、シュリを個人としては見ない。『シュリ』である前に、『皇太子』だった。そんなシュリを、たった一人、個人として見つめてくれた存在。 相手は道理も知らぬ幼子だったけれど、どれほど救われ、どれほど癒されたか。 どれほどに、いとおしく思えたか。 少し大きくなれば、シュリのあとを一生懸命ついて歩いた。両親に内緒でベッドにもぐりこんできたのも一度や二度ではない。朝になれば、そのたびにアリューシャは父親から大目玉を食らっていた。それが分かっていても、あの小さなぬくもりを手放すことはできなかった。 意味のない戦も、後ろにアリューシャがいると思えば、アリューシャを守るためのものだと思えば意味があった。軍神と称えられながらも窮地は何度だってあった。それでも生きて戻ろうと思ったのは、アリューシャの存在があったからに他ならない。 守るべきものは帝国ではなく、アリューシャ個人。 『兄様』と呼ばれるのが苦しくなったのは、一体いつだっただろう。 けれどやがて、アリューシャは否応なしに権力争いの渦中に巻き込まれていった。正当な、シュリの血を引く後継者が生まれるまでの皇太子位。もちろん、アリューシャを皇太子に担ぎ出した者たちは、後継者が生まれるまでにシュリを亡き者にする算段だっただろう。 権力に執着のないアリューシャは絶好の人形だった。 皇統を継ぐ者として受ける教育は、本来アリューシャには必要なかったはずのものだった。要らぬ苦労を強いられるアリューシャに、けれど素直に努力する彼の健気さに、早く救い出してやりたいと何度も思った。 そして、1年前のあの事件。 兄のことは好きでも嫌いでもなかった。生まれたその瞬間から憎まれていたのだ。好きになれるはずもない。 けれど、嫌悪の対象にもならなかった。それくらい、どうでも良かったのだ。 ただ、アリューシャの父であるという、それだけの理由で、生かしておいただけの話で。 あんな父親でも、いなくなればアリューシャが悲しむだろうと思ったから。 自分一人の命を奪おうとするなら、良い。シュリが死んで、その後にアリューシャを据えようという魂胆なら、見逃しても良かった。 だが、彼はアリューシャをシンボルにして国民を巻き込んだ。 思えば、愚の骨頂。寄せ集めの、軍隊とも呼べない組織で、皇帝に反旗を翻した。 その愚かしさこそが、兄の最後の意地というか、本気だったのかもしれないと思うが、今となってはどうでも良い。 シュリに対する私怨でアリューシャを内乱に巻き込むなど、それ以前にシュリの治世下で内乱を起こすなど、許されないことだった。 引導を渡す。葬り去ってみせる。 あの時初めて、兄に対し憎悪を抱いた。 そして、シュリの目論見は見事奏功し、アリューシャだけが今、シュリの側にいる。 こんな話を、どんな顔をしてアリューシャに告げれば良いと言うのだろう。 アリューシャの父親の破滅を本気で願い、アリューシャだけを手に入れるために、考えた手段。彼に薬を盛り、危険な戦乱の渦中に放り込んだことは、果たして許されるのだろうか。更に、姉のように慕っていたサヴィーナが、アリューシャのために子作りの道具にされていたと、知ったら。 兄というポジションではもう、満足はできない。けれど、今まで演じてきた『優しい兄』の仮面を、そう簡単に脱ぎ捨てることは躊躇われた。 全て告げれば、アリューシャは一体どんな顔をするだろうか。 「アリューシャ、目が覚めたか」 花の間のドアを開くと、アリューシャが夜着のまま、所在なさそうにソファに腰掛けているのが目に入った。 「シュリ」 向けられる笑顔は、それこそ花が綻ぶようなもので。本当に嬉しそうな、輝かんばかりの笑顔にシュリも微笑む。 「一人にして悪かったな」 「大丈夫」 隣に座って抱き締めると、綿の抜けたぬいぐるみのようにくったりと凭れ掛かってくる。完全に余計な力を抜いて寄り添われるのは、心を許された証のような気がして、ますますシュリはアリューシャを可愛く思う。膝に抱き上げて、わずかな隙間を惜しんで密着する。 ため息が出るほど幸福だった。 この体をどれほど望んだか。どれほど手に入れたいと渇望したか。 待って、待って、ようやく手に入れて、だからこそ5日間も解放してやることができなかった。泣いて怖がるアリューシャを宥めながら、一体何度抱いただろう。 まるで飢えた獣のように。否、ように、ではないだろう。実際シュリはアリューシャに飢えていたのだから。 「だいすき」 「アリューシャ?」 前触れもなく、アリューシャが呟いた。驚いてシュリが顔を見ようとすると、嫌がって顔をシュリの肩に埋めてしまう。 可愛い。そう感じると同時に、罪悪感も沸いた。この可愛いアリューシャに、隠していることが自分にはある。 全てをさらけ出して、全てを預けてくれたアリューシャ。行為の合間に、抱き締め合いながら、アリューシャは色んなことを話してくれた。 しかし、シュリの方にはまだ話していないことが山のようにある。 「アリューシャ」 意を決して、シュリは口を開いた。 「お前に、話していないことがある」 「え…?」 「長い話になるし、お前には本当は聞かせたくない。でも」 「僕、聞きたい」 滅多にそんなことをするような子ではないのに、アリューシャはシュリの言葉を途中で遮った。 「シュリのことなら、何でも知りたい」 「アリューシャ」 「シュリが僕に話してくれることなら何でも聞きたい」 シュリは惑う。全てを話したら、こんなふうに愛してくれているアリューシャを、もしかしたら失ってしまうのかもしれないという不安がよぎる。 でも、もう手放せない。逃げるのなら、縛り付ける。嫌われても仕方ない。そうなることは覚悟の上で、それでも欲しがったのはシュリだから。 見つめてくる真摯な瞳に後押しされて、シュリは話し出した。 |