皇帝が視察を終えて都へ帰還したのは、もう5日も前の話になる。 妊娠中の妻には目もくれず、視察先で拾ってきたという大きな瞳の愛らしい少年を花の間に迎え入れた。 その後、彼らは1歩も花の間から外に出ていないらしい。 ルゥラン帝国皇后・サヴィーナは、机に高く積み上げられた書類を一つ一つ手に取り、丁寧に印章を捺していく。彼女こそが、帰還後無視され続けている妊娠中の妻であった。 腹を時折さすりながら、ため息をつきながら、しかし彼女は作業の手を休めることはない。今休んだら夜に十分な睡眠をとることさえ難しくなる――そのくらいの書類の量だった。 普段は、彼女がこんなに書類を捌くことはない。なぜこんなに多いのかといえば、皇帝が5日間も政務を放り出して新しい愛妾の部屋から出てこないため、必然的に帝国第2位の決定権を持つ皇后の元へ書類が持ち込まれてくるせいだった。 「陛下、お疲れではございませんか?」 ドアが開き、サヴィーナの側近である男が人好きのする笑みを浮かべて入ってきた。 「キース…」 サヴィーナもほっとした表情を浮かべる。 キースと呼ばれたこの男は、ほんの5ヶ月ほど前にサヴィーナの祖国から呼び寄せられた。サヴィーナがルゥランに嫁ぐ前に付き合っていた恋人であり、現在の彼女の最愛の人。皇帝さえも黙認する関係であった。 「お疲れ様です。お茶が入りましたので休憩なさってはいかがでしょうか」 「ありがとう、でも…」 サヴィーナは書類の山に目をやる。時刻はすでに昼が近いというのに、書類は四分の一にも減っていない。 彼女は有能だが、仕事が丁寧すぎ、時間がかかりすぎるきらいがあった。 「…ああ、これは大変そうですね」 キースは苦笑すると書類を一部摘み上げる。 「しかも、軍事などは皇帝陛下でなければ処理できないものもありそうだし」 「そうなのよ。困ったわよね」 「…分かりました。叩き起こしてきましょう」 「え!?」 恋人の思いも寄らぬ大胆な発言に、サヴィーナは目を見開く。 皇帝…シュリは、とてつもなく恐ろしい男なのだ。サヴィーナとの間には共犯者のような関係が築かれているが、それでも尚、恐ろしいと思ってしまう。 特に今、彼は10年以上も思い続けた相手と閨にいる。その時間を邪魔するなど…考えるだけで恐ろしい。 別に怒鳴ったり暴力を振るったりするわけではない。ただ冷たい無表情を向けられるだけで、だからこそ余計に怖いのだ。 あの男を優しいと思えるのは、世界広しといえども今彼と共にいるであろう、少年ただ1人だと、サヴィーナは思う。 「や、やめなさいよ。あの人普通に怖いんだから」 「何をおっしゃいますか。皇后陛下に無理をさせるくらいなら、皇帝陛下の勘気など恐ろしくはございません」 「で、でも」 「私にとって大切なのはサヴィーナ様、ただお1人です」 きっぱりと恋人に言い切られてしまい、サヴィーナは言葉を失う。 キースと一度別れて、ルゥランに嫁いで、6年。和平と引き換えに、人質のようにたった一人差し出されたこの身を、シュリは子作りの道具としてしか見なかった。『他に想う相手がいるから、お前を愛することはできない。だが、お前が私の子を孕んだら、別れた恋人をルゥランに呼んでやる』と、そう言われた日の悔しさ、やるせなさを、昨日のことのように思い出せる。想う相手がアリューシャだということには、すぐに気が付いた。 本当は寂しかった。必死で虚勢を張って、シュリの一番の理解者である振りをしていたけれど、本当はずっと寂しかったのだ。 守られたかった。何も分からない異国で、たった一人生きていけるほど、サヴィーナは強くなかった。 だから、シュリと契約を交わした。キースに再び会う日をただ、夢見て。それだけを支えに生きてきた。 今、かつての恋人は変わらない笑顔でもって側にいて、支えてくれている。 「少し、お待ちくださいね」 額に軽いキスを落とされて、サヴィーナは初心な少女のように真っ赤になる。 子どもが腹にいても、本当の意味で愛し合って触れ合う行為を、サヴィーナはまだ知らなかった。 しばらくして、キースだけが戻ってきた。 勧められるままにお茶を飲んでいると、執務室のドアが開き、シュリが現れた。 「…陛下」 胸元は中途半端に寛げられ、髪の毛はまだ湿っている。情事のあと慌てて風呂に入ってここへ来た、というのがありありと分かる様相であった。 「…悪かったな、5日も任せっぱなしにして」 とても本心から謝っているようには思えない声で、シュリは言った。 「いいえ、構いませんわ」 サヴィーナも本心からの言葉ではないとはっきりと分かる口調で言い返す。 「休暇は楽しゅうございましたか?」 「ふ、ん…」 これは、嫌味。 シュリは机に積み上げられていた書類の半分を取り上げ、執務室の応接用ソファに腰掛ける。仕草だけ見れば優雅で優美なのに、身に纏うオーラはどこまでも剣呑だ。 「私たちにも休暇を頂きたいものですねえ」 のほほんとした口調でキースが言うと、シュリは答えない。気まずそうに押し黙っている。 どういうわけか、元は一介の騎士であるにも関わらず、キースはシュリに強い。今日、シュリを閨から引きずり出してここへ連れてくることができたのは、それをしたのがキースだったからだろうとサヴィーナは思う。 お互い信頼しているようだし、嫌い、というわけではなさそうだが…。 「…サヴィの産後、落ち着いたらな…2人でどこかでゆっくりしてくると良い」 「わあ、良かったですねえ、サヴィーナ様。休暇ですよ、休暇」 シュリの寛大さにますますサヴィーナは分からなくなる。 キースは、それは負い目があるからですよ、と笑う。サヴィーナを子作りの道具にした負い目。サヴィーナに対しても、その恋人のキースに対しても。 6年間、偽りとはいえ妻として側にいたサヴィーナとしては、シュリがそんな殊勝なキャラクターだとはどうしても思えないのだが。 シュリという男は冷静で、冷淡。滅多なことではその氷のような美貌を動かすことはない。まるで彫刻のように美しい男。サヴィーナは、たまにこの男は本当に人間だろうかという疑念を抱いてしまう。 昔から彼が人間らしい表情をするのはたった一人の少年の前でだけだ。その豹変振りたるや、普段の彼を知っている者が見たら、発狂したとさえ思うほどだ。 皇帝・シュリの最愛の人、アリューシャ。たった一人、シュリの鉄仮面を動揺させることのできる存在。 「で…休暇はいかがでしたの」 「何が」 「可愛い可愛い人との休暇ですわよ。ちゃんと、事情は説明なさいましたか?」 互いに書類を睨みながらの会話だったが、サヴィーナのその一言にシュリの手が不自然に止まった。 「もしかして…何も言わなかった、とか?」 サヴィーナも手を止めてシュリを見つめる。 「…あれが聞かなかったからな」 あれ、とは、即ちアリューシャを指すのだとサヴィーナはすぐに理解した。 「聞かなかったら言わないの?」 「…言いたくはないな。あれには、知らせたくない」 あれという指示代名詞。明らかにアリューシャを目下に見ているようで、サヴィーナは少しむっとする。 何も知らせたくないというのは愛情かもしれないが、傲慢だ。きっと彼は、アリューシャに自分の汚い部分を見せたくないのだろう。大切に守り愛してきた、弟のような存在だから。 「ああ、それはアリューシャ様もさぞかし不安でしょうね」 サヴィーナが口を開くより先に、キースがのんびりと口を挟んだ。 「…不安?」 「陛下、意外と分かってませんね。人は、愛する人のことなら何でも知りたいものなんですよ。陛下も隠し事されたら気分悪いでしょう?」 「…」 やはりキースはシュリに強い、とサヴィーナは感心する。シュリにここまでいえるのは、多分キース以外にはいない。 「…今更」 「今更とか言わないで。きっとアリューシャ様は、聞きたくても聞けないでいると思いますよ」 「…」 「サヴィーナ様の話を聞いたとき、正直陛下はアリューシャ様を殺したかったのかと思いました。だって、裁かずとも守る方法はあったはずなのに。きっと、アリューシャ様もその可能性には気付いていると思いますよ」 今度こそシュリは黙り込んだ。 1年前、アリューシャの父が皇位を狙って内乱を起こしたあの時、シュリはアリューシャに、「お前を助けることはできない」と詫び、陰謀の渦中に彼を放り込んだ。ご丁寧に、薬まで盛って。 あれは近年には稀な大規模な内乱だった。寄せ集めの軍隊とも呼べない集団で、警備の手薄な小都市を狙って攻略し、都を目指していく様はいっそ見事とも言えた。 その中に、剣がぶつかり合い、矢が飛び交う中に、シュリはアリューシャを放り込んだのだ。 口では「助けられない」とは言っても、シュリにはアリューシャを庇うことはできたはずだ。大掛かりな内乱で、蜂起のタイミングまで、シュリは知っていたのだ。一晩アリューシャを何も知らない顔で皇宮に留めておけば良かった。それだけで、アリューシャは巻き込まれなくてすんだ。内乱自体を防げた可能性もあった。 結果としてアリューシャは無事に、シュリの手に落ちてきた。アリューシャを手に入れるのに邪魔な兄を排除した上で。 けれど、一歩間違えばアリューシャが落命しかねない、そんな危険な状況だったのだ。 「…確かに、あれは冒険だった。だが、無事に守ることはできただろう?兄が皇位を狙う上で、アリューシャというシンボルは必要不可欠だった。奴らもアリューシャだけは死守しただろうし、私も配下の者を数人潜り込ませていた。最前線に出なければさほどの危険が及ぶこともない。だから、薬を盛って戦闘に出られないようにしただけの話だ」 「お見事な作戦です。しかし、アリューシャ様としてはいかがでしょうね?大好きな陛下に薬を盛られて戦場に放り出されて…。裏切られたとは思われないでしょうか?今、側にいても疑心暗鬼でいらっしゃるのでは?」 「…」 「お気の毒だと思いますよ」 最後はため息混じりに、キースは言葉を締めくくった。彼の言葉は、正論である。シュリは苦虫を噛み潰したような顔で書類を睨みつけていた。 「…5日間もあって、何なさってたの?」 気まずい沈黙を何とかしようと、サヴィーナが口を開く。 「ろくに会話もしていない、とか言わないでしょうね」 「…してないな」 「…呆れた。予想は付いてましたけど」 口を開いてみたものの、シュリの返答に脱力してしまい、サヴィーナも口を閉じる。再び重い沈黙が横たわった。 「…失礼致します、皇帝陛下」 しばらくは書類をめくる音だけが室内に響いていたが、その沈黙は外からのノックで遮られた。 「…何だ」 「花の方がお目覚めです」 「そうか、すぐに行く」 シュリは迷わずそう答えると立ち上がった。 「サヴィ、今日中に処理の必要な書類をまとめておいてくれ。まとめておいてくれたら、あとは私がするから」 「陛下?」 「急ぎのものはまとまり次第、花の間へ。緊急性のないものは私の執務室に運んでおいてくれればいい」 「では、午後からはお休みを頂いても?」 「ああ、5日間代行ご苦労だった」 それだけ言うと、シュリは慌しくドアへ向かう。思わずサヴィーナとキースは苦笑した。 「陛下、アリューシャ様にきちんとご説明を。大切になさっているのなら、尚更」 キースが呼び止めるとシュリは振り返り、少し考えるような素振りを見せた。 「…あれが、知りたいというのなら、善処する」 「良い心がけです」 シュリは面白くなさそうに鼻で笑うと今度こそ部屋を出て行った。 「ふふ、意外と分からず屋というか、駄目な人ですよねえ」 「あの人にあそこまで言えるのはあなただけよ…」 「そうでしょうか?」 食わせ者の男は、にこにこと柔らかい微笑を浮かべた。 「だって、陛下にも幸せになって欲しいじゃないですか」 「どうして?」 「私たちが幸せになるからですよ」 キースの断言にサヴィーナは一瞬呆気に取られ、ついで赤面する。 私たち、とはつまりキースとサヴィーナのこと。彼の頭の中には、2人で幸せになるビジョンが描かれている。 それだけで、サヴィーナは心が温かくなるのを感じた。 「さ、仕事は皇帝陛下にお任せして。午後から何をして過ごしましょうね…?」 |