5.



 色々考えて、僕は皇宮に行くことにした。
 かなり高い確率で、僕は兄様に会えなくなるらしい。父が全く邸に帰って来ないところを見ると、すでに陰謀は動き出しているようだ。

 皇宮に着いたのはすでに夜中だった。無礼とは承知の上で僕は兄様に面会を求めた。こんな夜中に会いたいといって、はいそうですかと会える人ではないのだけれど、僕は仮とはいえ皇太子。火急の用件と言えばその面会はすぐに許された。

「こんな夜中に、どうした、アリューシャ?」

 出されたお茶を飲みながら少し待つと、もう休んでいたのだろうか、ガウンを身に付けただけの姿で兄様は応接室に現れた。
 無礼を責めるでもなく、いつもと別段変わらない優しい笑顔で僕の向かいに座る。

「ち、父が」
「兄上が?」

 唐突に喋りだして、でも、主語を口にしただけでその後が続かなかった。
 父が、陛下の命を狙っています。
 そう兄様に告げたとして、陰謀の中身を知らないのに、一体何が変わるだろう?

「兄上が、また皇位を狙って何か陰謀でも?」

 兄様は苦笑混じりに言った。僕は驚きに目を見開く。

「お前も知っているだろうが…バリウラス地方」
 
 それは、先の御前会議で議題として出た地名だ。何でも、不穏な動きがあるとか。

「あれからお前の意見通り、バリウラスの領主を呼び寄せてみたが…どうやら裏で糸を引いているのは兄上らしい。それだけではない。バリウラスの周囲の地域も、兄上の煽動によって蜂起しようとしている」
「そこまで知っていて…」
「お前は、何も知らなかったようだな」

 兄様は、相変らず優しい表情で微笑むと続けた。

「今まで兄上を裁かなかったのは…もちろん相手が兄上だということもあったが、それ以上にお前を裁きたくなかったからだ。陰謀が明るみに出てしまえば次期皇帝として、奴らに担ぎ出されているお前を裁かないわけにはいくまい。しかし…今回は」

 その言葉に、事態はすでに手遅れになっていることを知った。

「今回はよほど周到に企んだようだな。こうなってしまっては、もう手が出せない」

 そこで、ようやく兄様は悔しそうな表情を露わにし、唇を噛んだ。

「陛下」
「今回は、お前を助けられないかもしれない。今の段階で陰謀を潰したとしても、兄上が噛んでいることはもう隠しようがない」
「陛下」
「許してくれ、アリューシャ」

 その苦しそうな顔を見つめていたら、訳もなく泣けてきた。

 どうか、そんなに苦しまないで。僕のことなど、どうでもいいから。

 今まで、兄様の情けによって生かされてきた。それはとてもとても、幸せな時間だった。
 だから、もういい。もういいのだ。
 兄様が苦しむのなら…僕のことなど本当にどうでもいい。

「陛下…もういいです」
「アリューシャ」
「もう、いいんです」

 本当にこれが最後になるのなら、言ってもいいだろうか。
 今までずっと、胸に秘め続けてきた思いを。今言うのは、卑怯だろうか?

 でも、言わずにはいられない。今を逃したら、もう二度と機会はない。

「…陛下。…いえ、兄様」
 僕は涙を拭って顔を上げた。

「僕は、兄様が好きでした。本当に、本当に好きでした。愛していました」

 抱いて欲しい、と喉元まで出掛かっているけれど、それは辛うじて堪えた。
 僕がそれを望めば、おそらくこの優しい人は応えてくれるだろう。けれど、それは気持ちのこもらない、ただの同情。
 仮に同情ではなく愛してもらえたとしても、僕を裁いたあと、きっと兄様が苦しむことになるから。

「今までありがとうございました。幸せでした」
「アリューシャ…」

 呆然と僕を見つめる兄様を見つめ返して、僕は立ち上がり、ドアに向かう。
 最後に、伝えることができただけでも良しとしなければ、と思う。涙が今すぐにでも溢れそうで、兄様を振り返ることができないまま、ドアにたどり着く。

「兄様、お元気で」

 小さく呟いた瞬間、僕は後ろから抱き締められていた。

「アリューシャ…私も愛しているよ」

 目眩がするような幸福感に包まれる。こんな状況なのに不謹慎だとは思うけれど、嬉しいと思う気持ちは抑えられなかった。

「もし…もし、お前を生かしておくことができたら」
 
 耳元で吐息とともに吹き込まれる低い声。背筋がぞくりとする。

「私を待っていろ。必ず、迎えに行くから」
「…はい」
「どんなに辛くても、諦めずに待っていてくれ」

「……はい」



 僕はドアを開けて廊下に出て、しばらく動くこともできずに立ち尽くしていた。涙が止まらなかった。
 とても、自分は幸せだと思った。

「…陛下」
「サヴィか」

 しかし、その直後。
 ドアの隙間から聞こえてきた会話に僕は絶望の縁に叩き落された。

「…悪い人ね、陛下…。いくらでも、守ることなどできるくせに」

 姉様の声は笑いさえ含んでいた。

「今、彼をわざわざ屋敷に帰らせなくても…このまま皇宮に留めておけば、彼は巻き込まれずにすむでしょうに」
「ふん…相変らず聡いことだ」

 それに対する兄様の声はとても冷たくて、僕はぞっとした。
 
「仮に今、守ることができたとして…一体何になる?同じことの繰り返しだ。アリューシャは、いつまでも巻き込まれ続ける」
「…どうなさるおつもり?」
「…さあな」

 それ以上、僕は聞いていることができなかった。兄様は、僕を裁きたくないといいながらも、僕を見捨てるつもりなのだ。
 一体どちらが本音なのか。いや、どちらが本音だろうと、もうどうでもいい。
 僕は、見捨てられた。あの優しい兄様に。
 
 考えてみれば当然のこと。僕の存在は、兄様にとって不穏分子でしかない。片付けられるものなら早くに片付けてしまうべきだ。分かっているけど。
 
 僕は、ただ悲しくて…兄様に見捨てられたことと、兄様にもう会えないことが悲しくて、必死で声と足音を殺してその場を後にした。



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