第20章
ディアンは、仮ではなく名実共に伯爵家の子息になった。
手紙でやり取りした両親は、かなり喜んでいた。
二度と帰って来なくてもいいから、伯爵令息として立派に
生きて欲しいなどと、素っ気無く言われ、悲しむというより呆れた。
何人も上に兄弟がいて、末の息子のディアンは
若干疎まれていた節があったので、少しでも役に立てたのかもしれない。
平民から貴族の身分になったディアンを誇ってもらえるのなら。
若干のむなしさも、胸に去来してはいたのだけれど、救いはあった。
そして、大切な王女とのこと。
さすがにこれで全てが万事上手く行くなどと楽観的に考えてはいなかった。
今しか見えない日々でも、小さな光を信じていたい。
ディアンは、物思いから意識を戻し、夜明けの光に目を細めた。
与えられた部屋は、城の使用人部屋よりも格段に広く豪華だった。
欲しいものがあったら遠慮なく言うようにと、養父であるジャックに
言われ、申し訳ない気持ちでいっぱいになったものの、
遠慮しすぎると、逆に傷つけるので彼が薦めることは断らないことにしていた。
決して、贅沢を望んでいるわけではないのだが、
自分の子供がいなかった僕は、
ディアンという存在ができてとても有難く愛おしく思っている。
だから、側にいる限りは君を甘やかさせて欲しいんだと、
そう言われては何も言えなくなった。
(有難いことだな……俺なんかに)
窓のカーテンを開けると広大な庭の手入れをするジャックの姿が見えた。
朝から、働き者だ。立ち姿もまっすぐで、優雅で美しい。
「おはようございます、父上」
「おはよう」
お父様は、恥ずかしいので結局父上と呼ぶことに落ち着いた。
最初に呼んだ時、吹き出されたのはムッとしたが。
「今日も早いんですね」
「花は手入れするだけ答えてくれるんだよ。
水を与えすぎるのも駄目なんだけどね」
「ああ、分かります。今日俺が朝食作りますね」
「ありがとう。頼むよ」
ジャックの笑みに、ディアンも微笑み返した。
貯蔵庫でジャムと、干し肉を籠に入れて調理室へと向かう。
干し肉を入れたスープと、パンが朝食のメニューだ。
ジャックと交代だったり、共に作ったり
食事を作る時間が親子のふれあいの時間になっている。
夜と朝の短い時間は貴重だ。
「いい匂いだね」
「座ってください」
長身であるジャックは、歩幅も大きい。
180センチのディアンより更に数センチ高いのだ。
30歳を半ばを過ぎた今も端正な美貌に衰えはない。
快活な人柄も、人好きのするものだろう。
「どうしたの、僕の顔に何かついているかい? 」
「あ、いいえ……」
凝視していたらしいのに気づき、はっとする。
顔のほてりを冷ますように手のひらをひらひらと振った。
「結婚はもうされないのですか」
「まさか、母親が欲しくなったとか。僕の愛じゃ足りないのかな」
冗談ぶった物言いに、ディアンも笑って返す。
「十分いただいてますよ? 」
「なら、よかった」
にっこり微笑んだジャックは、ふと真面目な顔になって続けた。
「一番したかった人とできなかったから、もういいんだ。
ああ、大切な女性ならいるよ。たまにデートもするし」
ジャックは、音を立ててグラスを飲み干す。ディアンは息を飲んだ。
のどの動きまで、観察してしまう。
結婚までは考えないが、相手はいるということだ。
彼も伯爵として忙しくしているはずだが、
彼の生活を全部把握しているわけではない。
時間は作るのが大人なのだろう。
「この家は、ディアンが継いでくれるからもう、憂いはないんだよ」
「は……って、ええ?」
意味を掴みそこね、うろたえる。相手はいたって真顔だった。
食事の席で肉を咀嚼(そしゃく)する音と、
水を飲む音が響く合間にゆっくりと会話は続けられている。
「何驚いてるの。この家に入ったってことはそういう意味だよ。
未来のトリコロール伯爵? 」
子息になるというのは、単に彼の子供になるということではなく
後継者になったということか。
不安が更に増し気が重くなる。
鈍いディアンは、今の今まで考えもしなかったのだ。
「まだ隠居するつもりはないから、ずっと先の話だよ。
一応心に留めて置いてほしいってだけ」
「……はい。父上は俺が後を継げると思われますか」
「そうなってほしいと願うよ。
王室も養子を認めた時点で跡目の存在を認識しただろうし」
自信満々に言い切られ、面食らう。
「何か、色々ありすぎて受け止め切れないというか」
「学園に行く前に重い話だったね」
曖昧に笑う姿に、愛想笑いを返す。
「君がいてくれることが嬉しすぎて、一気に言い過ぎてしまった」
ジャックは、目礼をしてディアンへの謝罪とした。
「俺も下心いっぱいですから、いいんです」
「王女様と一緒になりたいんだろ」
「……く、口に出さないでくださいよ! 」
「純情だなあ……キス位してるくせに」
(くらいって……! )
焦りを覚える。
キスするだけで心臓がうるさく鳴り響くのだ。
普段はとても清廉な好人物なのだが、時折悪魔の顔を見せる。
その表情さえ魅力的で、まさしく悪魔だ。
下世話な話題で人をからかって遊ぶのだから。
純情な青少年を弄ばないでほしいと本気で思ったディアンである。
「キスしたら、その先が知りたいと感じるものなんですか」
悪魔にはとてもかなわないが、大胆に切り返す。
ジャックは、感じ入ったように目を伏せて、笑みを刻んだ。
「君も案外男だね」
「……女性じゃありません」
真面目に言ったのに爆笑され、顔が赤くなる。
口をつぐんだディアンだが、ジャックも
笑い続けることはなかった。
先程の態度が嘘のように、誠実な表情を浮かべて、口を開いた。
「その内分かるよ。
初めての人が永遠の人になればいいね。幸せな意味で」
どきっとした。
あまりにもリアルに聞こえ、彼の経験なのではないかと邪推してしまう。
悲しい終わりであっても、決して忘れられない。
他の人を愛しても、忘却のかなたに消えることはないのだ。
「父上……」
テーブルの上の一輪挿しには、
ジャックが丹精こめて育てた花が、生けられている。
淡い白色の清廉な花だ。
その花を見つめて、言葉を胸に抱く。
「さ、もう学園へいく刻限だよ」
頷いて、玄関へ向かう。
後ろで見送る父が、行ってらっしゃいと呟いたので、
小さく、行ってきますと返しておいた。
(……朝からハードだ)
学園へ行く前に消耗してしまい、よたよたと広い庭を抜けた。
城にたどり着くと、城門の前でリシェラが待っていた。
グリンフィルドの第一王女にして、王と王妃の血を引く唯一の存在だ。
望まざるとも、王位継承権第一位だ。
城門を守る兵士と立ち話をしていた彼女は、
ディアンが声をかける前にくるりと振り向いた。
赤い髪が肩の少し下を流れている。
癖のある髪がふわん、と風になびいた。
手入れが大変かもしれないが、毛先が内に巻かれている髪はリシェラによく似合っていた。
頭頂部を飾る白いリボンカチューシャも。
あまりの可憐さに見とれてしまい、言葉をなくしてしまったディアンは、
ぱたぱたと駆け寄ってくるリシェラが、眼前で瞳に映り込むまで気づかなかった。
「わっ……! 」
「もう、どうしたの。ぼうっとして」
「す、すみません」
「行きましょう」
すたすたと歩いてくるリシェラを追いかける。
城門が遠ざかり、城の敷地内を抜けたところで、リシェラが手を繋いできた。
辺りには誰もおらず、街道に入るまでは二人きりでいられる。
小さく、柔らかな手のひらを握り返し、見つめる。
身長差の為、見下ろす格好になってしまうが、相手は気にしていない風だ。
仕方がないこととはいえ、臣下が主を見下ろすなんて。
ディアンは、申し訳ない気持ちになりながら、腰をかがめて、視線を落とす。
そんな彼に気づき、リシェラが逆に背伸びしてきたので、
抱えるように腕の中に引き寄せてしまった。
中途半端に、踵(かかと)が宙に浮く。
小さな体は、どこかふんわりと柔らかかった。
「……ディアン」
「あなたが可愛いから」
恋がもたらす熱に浮かされている。甘くて抗(あらが)えない感情に。
華奢な体を強く抱きしめると、頬を染めてくすぐったそうに微笑んだ。
胸を高鳴らせるディアンと同様に
彼を意識してくれている彼女が、嬉しく愛しかった。
「ディアンって男の人なのね」
ジャックと似たようなことを言われたが、恥ずかしいというより
寧ろ、彼女を胸に抱きしめられる強さがあってよかったと誇れる。
体格が違うから、閉じ込めてしまうなんて容易で。
髪をなでて、口づける。
大胆な振る舞いだなと内心笑う。
「ディアンは将来、トリコロール伯爵になるの?」
「……はい」
リシェラはふいに、黙り込んだ。考え込む風情だ。
「私、あなたとずっと一緒にいたい……」
リシェラの無邪気さには時折呆れることがある。
刹那の今は、続くわけではない。未来を見ていないのだ。
さらり、何でもないことのように口にする彼女が、憎らしかった。
彼の懊悩など知る由もないのだろう。
「本気で言っているのよ」
何も言わないディアンに、リシェラが不満げに口元を歪めた。
奔放で、無垢な王女に、胸の内で何かが音を立てて壊れる。
切れた。
「俺だって、同じ気持ちだ。
あなたが、思うより強く側にいたいって願ってるんだ。
ずっと一緒にいたいなんて簡単に口にしないで欲しい。
この時間を壊したくないから」
丁寧語を外し、素で語りかける。
リシェラは不敬に思うどころか、自ら腕を絡めてくる。
それが、答えだと信じて、影を重ねる。
唇が重なり、離れる瞬間に見た瞳は潤んでいて、
どうしていいか分からなくなる。
ディアンは、刹那的な感情に身を任せるとろくなことにならないくらい知っていた。
「王女と臣下としてではなくて、ただの恋人同士みたい」
「これからも、こんな風に話してもいいのですか? 」
「……うん。距離が近くに感じられるから」
「他の誰かに見られたら大変だな。
不敬罪で捕らえられて処罰されてしまう」
「……ふふ」
「行きましょうか」
自ら指を絡めて、隣を歩く。
変わり者の王女は、ディアンをどこまで赦してくれるのだろうか。
「どうかされましたか、リシェラ様」
「な、何でもないの……何でも!」
学園から戻ってきた早々、寝台に潜り込み、
うつ伏せで足をばたばたさせている王女の無作法振りに、怪訝な視線が降り注ぐ。
「冷めない内にお飲みくださいね」
忠実な側仕えのメイドは、テーブルに温かな飲み物を注ぐと部屋を辞した。
「……ディアン」
急な変貌に、心がついていくのがやっとだった。
男性的でこれまで見たことがない彼。
いや、出会った頃の彼は、不遜な物言いで擦れた印象だったではないか。
必死で隠していた仮面が、剥がれ落ちただけだ。
いつもの丁寧な物腰よりもらしいと思え、格好よくも感じる。
すっかり青年らしくなって成長した分、魅力に変わっていた。
ひとしきり、寝台の上をごろごろ転がった後、むくりと起き上がった。
衣服を着替え、リボンカチューシャを外す。
ティアラを頭につけると、部屋を出た。
廊下を歩いていると、久しぶりに見る顔に出くわした。
彼をまともに見ることができなくて、目を逸らすが、
相手はいきなり跪き、深々と平伏してきた。
床に額を擦りつけている状態である。
「リ……いえ王女様」
面くらい、思わず立ち尽くしてしまう。
見下ろす格好になったが、落ち着かなかった。
身分が高いリシェラが緊張する必要はないのだが。
ザイスは跪く格好すら優雅だ。流石は貴族というべきか。
「止めてよ……どうして、そんなことするの? 」
「本来ならあなたの前に顔を出せるはずもないのですが、
今一度お詫びと、最後のご挨拶に来ました」
硬く張り詰めた声に、偽りは混じっていないと思われた。
唾を飲み込んで、ザイスを見やる。
「……私はもう何も気にしてないわ」
半分強がりで、半分は真実。
彼が目の前に現れて、少し心が揺らいだが。
「だから、私じゃなくて、別の誰かを早く見つけてお幸せになって。
将来の公爵様が、いつまでも独り身でいらっしゃるわけにいかないわ」
少しおどけて笑うと、気配を察したザイスが、立ち上がった。
「はっきり言ってくださるあなたが好きですよ……私もリシェラ様のような強さがほしい」
リシェラは白いグローブに包まれた手を差し出した。
恐る恐る手のひらを重ねてくる年上の男性に、この人を憎めないと感じた。
あの時薔薇園で、恐怖を与える強引さを見せてきた人と同じ人とは思えない。
改めて頭を下げ、低くかすれる声で謝罪をした。
リシェラに向き直ったザイスは澄んだ眼差しで、笑った。
快活で曇りのない表情に、不本意にも一瞬見とれてしまった。
意識したことがなかったが彼は、整った容貌の持ち主らしい。
跡継ぎとしての能力は優れていると聞くし、変わったのなら、
近い将来、彼の隣にいてくれるやさしい人ときっと出会えるだろう。
「少し遠くに行きます。これからはあなたのお姿を見ることはないでしょう」
「ご無事でいらしてね」
「最後に選別をくださいませんか」
リシェラが、は、と息をつめた瞬間、ゆるやかな速度で抱きしめられた。
拒み突き放すことを一瞬も考えず、身をゆだねる。
親愛の情をこめて背中をぽんぽんと叩く。
「ありがとう、リシェラ様。この思い出をよすがに生きていけます」
耳元で聞こえた声は震えていた。
短い抱擁の後、彼は、立ち去った。一度も振り返らず。
(泣いていたの……)
遠い血のつながりの不器用な男性。
この先、会うこともないと思えば、ほんの少し寂しさを抱いた。
風が一段と冷たさを増し、景色が寂しいものに変わっている。
また一年が、過ぎようとしていた。
少しでも一緒にいる時間が欲しくて、最近では
遠回りをして帰ったりしている。
リシェラは市井に下りることも多かったため、顔が知られている。
彼女の隣にいたら、ディアンはただの従者にしか思われない。
そのため、密に接することは不可能だった。
人目を気にしなければならない関係は、苦しい一方で
お互いへの気持ちを募らせていく。
「くしゅ……ん」
手のひらを顔に当てたリシェラにディアンが、上着を着せかけた。
それは、ディアンが着ていた物で、脱ぐと彼の方が寒いはずだ。
リシェラは、上目遣いで見上げ、惑う表情をした。
「風邪をひいてしまわれたらお会いできなくなるから」
「ディアンも駄目よ。温かくしなきゃ」
「あなたといれば寒さも吹き飛ぶんだ」
「そうね……そうかも」
心臓が高鳴って体が火照る。
きゅ、と繋がれた手は、最初は冷たかったけれど少しずつ温かくなった。
守るため、後ろを歩こうとするディアンを不満に思い、
隣にいて欲しいとリシェラが、ねだったのは、甘えたい気持ちから。
距離が急速に近づいて、ディアンは幸せをかみ締めていた。
上手く甘えることを知らなかった王女は、従者でもある恋人の側で変わっていく。
あの幼き日彼女の心を慰めたぬいぐるみは、大切にしまわれていることだろう。
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