12、優しい嘘
シリアスな雰囲気に戸惑う。
菫子は、笑いかけるのをためらった。
「涼ちゃん」
「待っとったで。話がある」
固い声にごくりと息をのんだ。
「ここでできる話なの?」
「ああ」
ひいてくれた椅子に座ると、涼が間近で見つめてきた。
言いたそうにしながら、タイミングを計っているように見える。
「菫子、会えない時も心は一つやから、俺を信じて待っとってくれ」
「どういうこと?」
「暫く会えんようなると思う。勿論連絡はするけどな」
「……分かった」
「寂しがったりせんのやな」
「寂しくないわけないじゃない。
きっと理由があるに決まってるから納得できるのよ」
言い聞かせているだけ。
毎日顔が見たくて、声も聞きたくて嫌になるくらいなのに。
困らせたくないから、大丈夫と、強がって笑う。
「……そうやな。誕生日は絶対会おう。嫌言うても押しかけるから」
「約束だものね」
「ああ」
テーブルの下、涼の膝に手を伸ばし、自分の手のひらを重ねた。
握り返された力に、息を抜く。
「浮気はしないって分かるから、大概のことは納得できるのよ」
「えらい信頼されてるなあ。ほんまに嬉しいわ」
「しないでしょ」
「菫子以外は、目に入らへんから大丈夫や」
菫子は緩く微笑んだ。
力強い言葉だった。
「でも、寂しくなったらいつでも言うんやで。すぐに飛んでいって」
言葉を切られ、首を傾げる。
「抱いてやる」
耳元に囁かれ、驚いて、蹴り倒す勢いで椅子を立った。
ぞくぞくと震えてしまったのは内緒だ。
「け、決心鈍るから止めてよ」
「本気やから」
目が、真剣そのもので、うっと怯んだ。
「……きっとよ」
そう甘えたように漏らしてしまったのは不可効力だ。
菫子は、涼が去っていくのを見送ると椅子に座り直した。
小さな溜息をつく。
濃厚に過ぎた3月が嘘のように、奇妙な約束を交わした。
まだ、正式に付き合い始めて二週間ほどしか経っていないのだ。
付き合う前も友人同士として過ごしていた期間があったため、
もっと長く一緒にいる気がしている。
少しだけ、距離を置くだけ。大したことじゃない。
言い聞かせて、日々電話とメールは欠かさないようにした。
短い言葉でも、伝え合えることは嬉しい。
涼の部屋で会うことはなく、河原や大学の図書館や中庭ばかりだった。
会う頻度も一緒にいる時間も短くなったけれど、涼は変わらず
菫子のことだけを見つめてくれるから、幸せだった。
想いを募らせながら勉強と、日々を過ごしていた。
そんな日々の中、伊織からもたらされた悲報。
菫子は、見舞いに訪れた縁で、葬儀に参列した。
21歳の誕生日にこの世から去った室生優。
棺の中で彼は、澄んだ笑顔を浮かべていた。
瞳の端に涙をにじませながらも気丈に振る舞う伊織の様子は凛々しくて、
どこか痛くて、彼女の様子に菫子は涙が止まらなかった。
初七日も終えた時、伊織は菫子の胸でこらえていた涙を溢れさせた。
伊織が、菫子に抱きしめられて泣いている。
いつだって、抱きしめてくれるのは伊織の方だったからこそ、ありったけの想いをこめて、抱擁する。
涙の後、幾分すっきりした顔で伊織は菫子に笑いかけた。
『……ありがとう。そろそろ菫子を草壁君に返さなきゃね』
曖昧に微笑んで、頷いた。
涼のあの発言から、もう二週間が経つ。
そういえば、今週は一度も会っていなかったが、
会えない理由は上手くはぐらかされて聞けないでいる。
独りにさせてごめんなと一言書かれたメールに彼の気持ちが表れている気がした。
「でも、寂しいよ……」
ぽつり、洩れた言葉に自分で驚いた。
口にすれば余計孤独を感じた。
遠距離恋愛のカップルはもっと会えないのだから贅沢だ。
会おうと思えば会える距離だから、寂しさが募るのだ。
失うのが恐ろしくなるのが怖くて、距離をつめるのが嫌だったのだ。
今でも友人のままなら、もっと気が楽なのだろう。
寂しくなったら抱いてやるだなんて、とっておきの殺し文句をくれたけれど、
実際そんなお願いをしたら、欲を抑えられないあさましい女だと思われるかもしれない。
心も体も、涼を求めていると自覚しながら、肝心のことが言えない。
誕生日になれば絶対会えるという確信があるけれど、声も聞かないままあと4日も待つことなどできない。
菫子は震える指先で、携帯の短縮機能で涼の番号を呼び出す。
何回かのコール音の後、涼は電話に出た。
『……涼ちゃん』
『菫子……』
お互い名を呼んだあと、数秒沈黙した。
『馬鹿、涼ちゃんなんて……涼ちゃんなんて』
何を言おうとしているのだろう。
声を聞けた安堵で、勝手に涙がこぼれてくる。
鼻をすすりながら、舌足らずの声で何度も名前を呼んだ。
『……すまん。言い訳になるかもしれんけど、
菫子に言えへん事情があったんや』
涙をぬぐいもせず、菫子は涼の声に耳を傾ける。
真摯な声音は、菫子を欺こうとしているようには思えない。
「……どうしても内緒にしなきゃいけないことなら言わなくてもいいよ」
「肝心な所で聞きわけよすぎるで。もっとわがまま言ってもええんやから」
「……そんなこと言われたら際限なく言っちゃうわよ!」
「うん」
「今すぐここに来て、抱いて」
必死の思いで、言葉にした。
「菫子が望むなら気のすむまで」
とびっきり甘い声音で、欲しい言葉を返してくれた。
また、頬を涙が滑る。
「うう……大好きなんだもん」
「声聞いたら飛んで行きたくなるから、我慢しとったけど、
そんなんせんかったらよかったかな」
自嘲する涼の声が届く。
「めっちゃ好きやで……本物のお前に会いたい」
「会いに来て」
涙交じりの声は、はっきりと涼に届いていた。
「……ああ」
電話を切って、涙を拭いた菫子は、鏡の前に座った。
元気になる力をくれるのはいつだってメイク。
一度化粧は落としていたが、もう一度魔法をかける。
泣き顔をかき消して、少しでも綺麗な姿で、彼に会いたい。
慣れた手つきでフェイスブラシを動かし、
マスカラでまつ毛をカールさせる。
瞬きして微笑む。
気にかかるのは、声からかなり疲れているのが伝わってきたことだ。
もしかして、バイトを増やしていたのだろうか!?
気がつかなかった自分の鈍さを呪う。
言ってくれなかった涼も、素っ気ないのだが。
「そんな意地悪はいらないわよ」
むかっとしてしまった菫子は、ベッドの上の抱き枕を抱えて床に座り込んだ。
「じゃあ、どんな意地悪ならいいって言うの……」
改めて思いいたると恥ずかしすぎた。
甘い声で、仕草で、優しく激しく翻弄してほしいのだ。
想像で、顔を赤らめる。
ぎゅっと、抱き枕に顔を押しつけて、頬の熱を逃がす。
涼の代わりにはならないが、触れていると心細さも少し薄れるから、毎日抱きしめて眠っていた。
押し入れにしまっていたのをわざわざ引っ張り出してまで。
「まだなの」
携帯を見ると、二時間が過ぎている。
23時半になろうとしていた。
そわそわし初め、携帯を開いた。
途端、着信音が鳴り響き、びくっとしながら通話を押した。
友人、恋人、家族はそれぞれ設定しているから、普段は滅多にならない着信音だ。
公衆という文字が浮かんでいる。
「……あの、柚木菫子さん?」
見知らぬ女性の声だ。
「はい」
「菫子さん、落ち着いて聞いて下さいね」
嫌な予感がしてたまらない。
ぐっと携帯を握る手に力を込めた。
「私は涼の母親です……。涼がバイクで事故に遭って、意識不明なの。さっきまで集中治療室に……」
細く聞き取りにくい声は、不安が表れていた。
「は、はい……病院はどこですか」
震える。落ち着けと懸命に自分を宥めた。
「今から言うわね……メモしてくださる」
さらさらとメモを取る。ぽたり、と涙が染みて字が滲んだ。
「分かりました……」
「勝手に涼の携帯からあなたの番号を確認してしまったんだけど、
菫子さんには知らせた方がいいと思って。
名前の横に()で彼女って強調されてたから」
「……連絡して下さって感謝します。ありがとうございます」
「いいえ、心配かけてしまって……。起きたらうんと叱ってやらなきゃね」
「はい……」
「それじゃあ」
ぷつり、切れた電話。
押し寄せてくる慟哭。
(私の所に来ようとして涼ちゃんは、事故に遭った……)
涙でぐしゃぐしゃになった顔で瞼をこする。
バッグを手にして、慌てて部屋を出た。
個人経営の大きな病院。
タクシーを呼んで病院の名前を告げると、運転手は場所を知っていた。
「急いでください」
無茶な注文をつけた後で、すみませんと謝る。
事情を察したのか、近道を通って向かってくれた。
広い敷地内。
入口がいくつもあるけど、救急の方から入ってねと
聞いた通り救急の入口で、タクシーを降りる。
タクシーの真横には、救急車が止まって赤い光を点滅させていた。
その光にどきっとして、足早に病院内に駆け込む。
走ったらいけないと歩みを緩めて、受付で病室の場所を聞いた。
心臓が、激しく暴れている。
「……菫子さん?」
「え、あの……涼さんのお母さんですか?」
病室の外の廊下に、電話をくれた人と同じ声の持ち主が佇んでいた。
「はい……来てくれてありがとう」
首を振る。差し出された手を掴む。
「まだ意識は戻らないのよ……」
視線を落とした姿に、現実を改めて思い知った。
同じように俯くしかできない。
自分のせいで、彼は事故に遭って……目を覚まさないままだなんて口にできはしない。
罪悪感と、どうしようもない不安で引き裂かれそうだ。
「入ってもいいですか……?」
「どうぞ」
返事を聞くと、恐る恐る扉を開けた。
ベッドに横たわる姿に悲鳴を上げそうになる。
顔を見ることができても、嬉しいと思えなかった。
点滴の管に繋がれ、たくましい肩や胸元に痛々しく包帯が巻かれた姿につ、と胸が苦しくなる。
「涼ちゃ……ん」
薄く開いた唇は息を紡ぎ、胸元が波打っている。
規則正しいとはいかないまでも呼吸音は、ちゃんと聞こえる。
そっと、包帯の上から心臓の音を確かめて、ようやく胸をなでおろした。
「ごめん……ごめんなさい」
投げだされている手を握りしめる。
頬に指を沿わせて温もりに触れた。
早く、声が聞きたい。またふざけた口調で笑わせてほしい。
涼の手をベッドに戻し、置かれていた椅子に座った。
あまり動かしてはいけない。
「こんな寝顔見たくないわ……」
今日流した涙で一番、悲しい。
顔を手で覆い、声を殺して泣いた。
涼の側を離れない菫子を気遣うように毛布を掛けてくれたのは涼の母親だった。
翌日の大学は休んだ。
伊織に事情を説明するととても心配してくれ、ノートを取ってくれることを約束してくれた。
薄情とも思えたが、次の日から大学に行った。
涼は、菫子の生活ペースを崩してまで、つきっきりでいることは望まないと思ったのだ。
バイトの方は行かなかったが。
そして、涼の誕生日の前日になっても未だに彼は目を覚まさない。
時折、瞼が震え、目を覚ますのを期待するが、決して開かないのだ。
医師によれば、もうすぐ意識を回復するだろうとのことだった。
その言葉を信じたというより、涼の強さを信じた。
彼は簡単にいなくなったりしないと根拠もなく思う。
待つしかできないことが何より辛かった。
11、桜色 13、声を聞かせて top