11、桜色
眠気がどんどん押し寄せてきて何度も瞼をこする。
こんな睡眠不足を味わうことになるなんて一年前はまったく予想もしていなかった。
自分がまさかと思う。
やけにすっきりとしていた彼を思い出せば、ありえなくて腹が立つ。
春だから余計眠いというのもあるが、まどろむと心地よくてついうとうとしてしまう。
顔の前で指が揺れている。
「ほえ……?」
「……ぼんやりしすぎね」
「ちょっとね」
脱力して答えると伊織が、うっすらと笑い、飴を差し出してきた。
「……ありがと」
炭酸入りのレモンキャンディは、目を覚ますのにちょうどよかった。
「幸せな寝不足よね……」
「あはは」
笑うしかない。
ずっとこんな風ではないだろう。ソレだけがすべてではないし。
会える時、触れ合える時は大事にしたい。
菫子が、くるくるとシャープペンシルを回し、筆記し始める。
幾分すっきりしたので、教授の話し声もすり抜けていくことなく集中して聞くことができた。
春の暖かさが、嬉しいと感じていた。
バイト先のコンビニに行くと、仲島は昨日で辞めたらしく、新しいバイト店員が入っていた。
二つ年下で大学一年の女の子だ。
店長によると、電話で辞めることを知らせて来て店には顔を出さなかったという。
正直、ほっとした。彼の執拗さにいい加減疲れてきていた所だ。
彼にも新しい出会いがあればいいと思う。
動いていると、意外と時間の過ぎるのも早い。
ワン切りが来たので、一言メールを返し、出入り口近くに佇んでいた。
ちらちらと外の方を伺っていると見慣れたバイクが止まり、ヘルメットを外す姿が見えた。
小憎らしいくらい様になっていて、涼はやはりバイクだと思う。
「……すーみーれ」
「うわっ」
目を、後ろから伸びた大きな手が覆っている。
菫子は、後ろから、くっいている涼に顔を赤らめて、頬を膨らませた。
「公衆の面前でやめてよ」
「気にすんなや。俺ら彼氏彼女やんか」
「……人に見られる場所でいちゃいちゃしたくないの分かるでしょ」
「分からへん」
後ろから肩に腕を回されて、菫子は、するりと抜け出した。
外に出ると、すたすた追いかけてきた涼に手を掴まれる。
「涼ちゃん、どうしたの」
「どうもせえへんよ」
「本当?」
「単に見せつけたかっただけや。この女は俺の物やって」
「……もう、あの人いないから大丈夫よ」
「そうなんや。でも店長は男やろ」
「は? 店長は、店員に邪(ヨコシマ)な感情抱いたりしないわよ」
「それはともかくとして、この世の中何が起こるか分からへんからな。
警戒せなあかんねん。分かったか、菫子」
「警戒が、人前でのいちゃつきなの?」
「唾つけとることを示せるからな」
「……唾つけられてるのよね」
バイクに乗りこみながら、菫子は、遠い目をした。
(なんて、的確な表現なのかしら……うう)
「……菫子ん家まで送ればええんやろ」
「うん。外までね」
釘をさすと、薄く笑われる。
「へーい」
しっかりと腰にしがみつくと、バイクのエンジンがかかった。
「バイクが大好きになったかも」
「お、今度バイクショップ行くか。見るのも楽しいで」
「行く、行く」
連呼した菫子に、涼の笑う気配が伝わってきた。
「……決めた。次のプレゼントは革パンと革ジャンにしよう」
「……うっかり興奮しちゃったじゃないの」
「何かますます俺色って感じ。可愛い奴め」
たわいもない会話をしていると、時間の流れるのも早い。
車の間をすり抜けて、進んだバイクは、菫子の部屋の前で止まった。
「……このヘルメットも私専用なんでしょ」
「気がつくの遅いで」
からからと笑った涼に、頬を染める。
「涼ちゃん、今日の夕ご飯、何にするの」
「まだ決めてない。冷蔵庫の中身見て決めるかな」
「……昨日の残りの煮物でよかったら」
恐る恐る口に出すと、涼は目を輝かせた。
菫子は、ふわと抱きあげられた。
くるくると宙で体が回る。
「びっくりするんだけど」
子供のようなことをされ気恥かしさでいっぱいだ。
「ありがとな」
地に下されると、ぎゅっとめいっぱい抱きしめられ、ぼうっとしてしまった。
「……オーバーよ」
「そうか?」
口づけが降ってくる。その甘さにくらりとした。
いとおしそうに見つめて、髪を撫でる。
「……取ってくるね」
腕を抜け出して、ぱたぱたと駆け出した。
頬の熱が冷めなくて、何なのよと思いながら。
部屋につくと、すーはーと深呼吸して動揺を宥めた。
小さな触れ合いでさえ、どきどきする。
付き合い始めてまだ日は浅いのに、友人同士の頃よりずっと涼を知っている。
侵食して、溢れ出す。
あの頃はまっすぐ見つめられたが、両想いになった今は
視線を交わすと、胸がきゅんと疼いて切なくなる。
こんなに、夢中なのを知っているのだろうか。
冷蔵庫からタッパーを取り出すと、蓋がしっかり閉まっているのを確認して、胸に抱えた。
戻ってきた時より、静かな動作で部屋を出る。
「お待たせ」
「うわ、めっちゃ美味そう」
涼は、頬まで火照らせて、菫子から煮物入りのタッパーを受け取った。
犬だったら確実に尻尾を振っていそうだ。
「ありがとさん」
「ど、どういたしまして」
改めて言われると照れるものだ。
「涼ちゃん、前から不思議に思ってたんだけど、おおきにとか言わないよね」
「ははは。すみれ、おおきには、商売人が使うんやで」
「新しく知ることができてうれしいです」
「いやいやー」
涼は満更でもなさそうだ。ひとしきり頭を掻いている。
何だろう、このやり取り。
お笑い系カップルになってしまうのは時間の問題では!
菫子は、危機感を感じた。
「俺はボケと突っ込み両方いけるから、オールOKやで」
頭の中身が覗かれたようで、どきっとした。
「……そこまでお見通しにならなくていいわよ」
心でつぶやいたつもりが口に出してしまった。
「ありゃ、考えてることを顔から想像して答えてみたら当たっとったか。くくっ」
「顔に全部出ててごめんなさいね」
「そんなことないで。分からんことだってあるし。菫子もやろ?」
「え、ええ」
「菫子は分かりやすいけどな」
「どっちよ」
「今日はゆっくりおやすみ……すみれ」
口の端をあげて悪戯な顔で、おどけてみせた彼に、菫子は笑いながら
「……おやすみなさい」
告げた。
離れていく姿にお互い手を振って、別れを惜しむ。
「……ふう、もう少しでバイクに乗せて連れて帰りそうやった」
涼が、去り際に呟いた独りごとを、菫子は耳聡く聞きつけていた。
よく通る声というのもある。
夕食を終えて、シャワーを浴びてベッドに入る時、
頭を過ったのは涼の顔で、幾度となく振り払っても現れる。
「ばか……」
独りごちて、瞳を閉じる。
文字通り怒涛のごとく3月は過ぎて、桜が咲き乱れる季節になった。
カレンダーで赤く丸をつけた涼の誕生日までもう少しだ。
4月某日、菫子は、純白の桜が咲き誇る並木道を歩いていた。
真っ白な桜が、光を浴びて何て美しい風景なのだろうと目を細める。
逆にいえば、散ってしまったら途端に寂しい風景に様変わりしてしまうということだ。
大学に行く前にここに来ようと思ったのは誘われたからだ。
桜がまだ咲いていない季節に、何度か来たことがある。
隣には伊織がいて、今より幸せそうに微笑んでいた。
ふわり、風が巻き起こり、花びらがいくつか散った。
まだ散り始めていないのに、風は簡単にひとひらを散らしてしまう。
ベンチには、案の定長い黒髪を揺らす影が見えて、一歩近づくほどその存在を明らかにしていく。
とことこと、吸い寄せられるように近づく。
首を傾けて、空を見上げている伊織は、どこを見ているのだろう。
声をかけるのが躊躇われるほど、景色と同化していて一枚の絵のようだった。
「伊織……」
「……菫子」
目を瞠り、菫子を見つめた伊織は、笑みを取り繕った。
頬に残る涙の痕が、はっきりと分かる。
彼女は隅に避けて、隣に座ることを勧めてくれた。
「伊織が呼んでいるような気がしたの」
「……呼んでいたのかな」
くすっと笑った伊織は、いきなり菫子の手を握ってきた。
震える指先にぎょっと驚く。
「何かあったのね?」
「……ええ」
うつむいて、目を伏せて伊織はゆっくりと口を開いた。
「あと一週間で、彼がこの世界から消えてしまうわ」
嗚咽を堪えるように肩を震わせる伊織の肩に腕を回す。
「この間、覚悟しとかなきゃって言ったでしょ。
あの時が最初の命の期限の先刻からちょうど5ヶ月目だったの」
「……伊織、ずっと一緒に闘ってきたんだよね」
ふるふると伊織は首を横に振る。
「闘ってた……のかな。いつしか諦めちゃってた気がするわ」
「何言ってるのよ。いつだって室生くんのことを想ってたでしょう」
「それはそうだけど……」
「でしょ」
「菫子も影で力をくれてたわね」
「私こそ伊織がいなければどうなっていたか」
「草壁君と付き合っていたかどうかって?」
「片想い中もずっと励ましてくれたでしょ。諦めないのがいい所だって」
「菫子の頑張りがあったからよ。それでも、結果論だけど、草壁君と
あなたは、一緒にいるのが自然だと思うわ。笑っちゃうくらいお似合いよ」
「……喜んでいいのよね」
「いいのよ。収まるべき所に収まったんだから」
「そっか」
伊織のきっぱりとした口調に、菫子は笑みをほころばせた。
「あのね、言ってなかったかもしれないんだけど」
「なあに」
「卒業したら地方に行くわ」
「え……そうなの?」
驚きすぎてどう反応したらいいか分からない。
もっと前に知っていても不思議ではない情報なのに。
卒業してもまた会えると思い込んでいた節がある。
伊織も同じようにこの街で生きていくのだと身勝手にも考えていた。
「この街は綺麗な想い出が多すぎるから……って我ながら不純な理由ね」
「そんなことないよ。私も伊織と同じ立場だったら、ここから離れることを選んだ気がする」
伊織は、虚を突かれた顔をし、瞳を細めた。
「病室からもこの桜がよく見えるんでしょうね」
重くならないようにわざと軽く言った。
それを受け止めて伊織はうっすらと微笑んだ。
「とてもよく見えるわ……優もいつも見てるの」
「そっか」
菫子は立ち上がり、ベンチに座っている伊織を見た。
「それじゃ大学で」
「ありがとう」
そう告げるのが精一杯で、手を振りながらその場を離れた。
独りでいたい伊織の気持ちは分かるつもりだった。
大学に行くと、後から伊織もやってきた。涙の痕をメイクで隠している。
休憩時間に涼から、図書館で待っているとメールが来て、
図書館を訪れると、菫子がよく座る席の隣に涼が座っていた。
読んでいた本をテーブルに置いて、涼は菫子の方を振り向く。
こんな風に呼び出されるのは、実は初めてだった。
10、モノクローム 12、優しい嘘 top