ルシアは眠りから目覚めないクライヴに、焦りを覚えはじめていた。
十字を切り祈っても、何にもならない。もうひと月になる。
あの庭園で、日が昇り沈むのを毎日数えていたのだから間違いはない。
整った造作は、眠りにつく前と変わらないままだし、微かに開いた唇から息をしている。
何より心臓が生のリズムを刻んでいる。
少し不規則になっている気がするが、クライヴはちゃんと生きていて目の前にいる。
夜闇を散りばめたような美しい藍色の瞳が閉ざされたままなだけだ。
「クライヴ……」
腕を持ち上げようとすると、力が抜けたようにぱたりとシーツに沈んだ。
その行動に意志を感じるのは気のせいだろうか。
そもそも子供を宿している身で愛し合ったのが間違いだったのかもしれない。
内心で、自嘲する。
あの時焦燥に駆られた様子でこちらを求めるクライヴがどうしようもなく愛しくて、
彼を感じなければならない、とルシアの中で衝動が起きたのだ。
同じ気持ちで生身の互いに触れあって、この上ない幸福があった。
汚らわしいなんて欠片も思わなくて、むしろ神聖な気分だった。
口を押し開いて水さしから、水を注ぎこむ。
唇から喉にこぼれた雫を指で拭う。
ほとんど徒労に終わるのに繰り返すのは、彼の命を繋ぎ止めたいと願うから。
眠っている人間に必要かどうかはわからなかったけれど何もせずにいられなかったのだ。
ルシア自身も生まれてくる子の為に、何とか食事をかかさないようにしているが、
待つ人のいない食事の用意は適当になってしまっていた。
いつしか、涙も流れなくなって乾いた笑みを浮かべるようになった。
まるで張りついているかのような感情のない表情は誰にも見られたくはないわとルシアは思ったが。
『ルシア』
突然現れた気配にびくっと肩をすくめる。深く響く声は人の声ではない。
椅子に座ったまま振り向くと、異空間からの来訪者がそこにいた。
ふさふさと立派な毛並みの大きな獣。
魔界の門を守る番犬ケルベロスだ。
『……不測の事態が起きたのだな』
音も立てずにルシアの傍まで来たケルベロスは、不可解そうにつぶやいた。
「……ケルベロスさん、どうして」
『お前たちの様子をたまには見に来てやろうと思ってな』
枯れたはずの涙が瞳の端に浮かんだ。
不安な時に偶然訪れてくれた彼に、感謝の気持ちが浮かぶ。
こんなに嬉しいことはない。
「来てくださってありがとうございます」
『いつから目覚めないのだ』
「もう一か月くらいでしょうか」
「眠りに堕ちる前に何か異変はなかったか」
ケルベロスの問いかけに、一瞬惑う。
「うなされていて、とても不安そうでした。
恐ろしい夢を見たんだと思います。
あの時は手を握っていたらすぐ目を覚ましてくれたんですけど」
ケルベロスは、その言葉を聞いてううむと唸っていた。
さすがにそのあとまでは語れなかったが。
『夢の中に逆戻りというわけか』
ルシアは、横を向いて、ケルベロスを見つめた。
英知を湛えた瞳が、まっすぐクライヴを見ている。
「……このままずっと意識が戻らなかったらって思うと恐ろしくて」
ルシアは自分の想像に震えた。
両手で顔を覆う。
ケルベロスは、勇気づけているのか、長い尻尾をルシアの足に巻きつけた。
『無責任に楽観的なことは言うつもりはないが、後ろ向きだと余計に悪い方向に物事が進むものだ」
ケルベロスの言葉が、どこか遠くで聞こえた。
「悪夢にうなされる様な辛いことはなかったんです。
私のお腹に新しい命を授かってこれから
新しい未来を二人で築いていくって約束したのに」
『……ルシア』
「もしかして、クライヴは、子供ができたこと本当は嬉しくなかったの。
だから、悪い夢を見てそのまま帰ってこなくなったの」
ケルベロスに甘えてしまっていることも気づかぬふりをした。
感情を吐露することでしか自分を保てない。
獣であるケルベロスだからこそ、話せるのかもしれない。
クライヴが眠ってから、つかず離れず側にいてくれたホークスはいつの間にか姿を消していた。
そして、クライヴの側にいるのはルシアだけになり、
心が限界をきたそうとしている所でケルベロスが現れた。
「ごめんなさい。あなたを困らせるつもりはないんです」
ケルベロスはぶるぶると頭を振った。
『嬉しくないはずがないだろう。あのライアン・クライヴに
見初められたのだぞ。人嫌いで偏屈で陰険な黒魔術師に』
「そう……ですよね」
ケルベロスの言葉に深く同意した。
冷たかった彼は、穏やかな顔を見せるようになった。
不器用な優しさに触れる度、何度心が泣いたかわからない。
子供を授かった時本心から喜んでくれたクライヴを疑ってしまい、
申し訳なさでいっぱいになる。
『強大な力を持つ存在の介入を感じる』
ルシアの心臓がどくんと激しく鳴り響いた。
威厳をにじませてケルベロスは語り続ける。
『大いなる存在故はっきりと口にすることすら憚れるのだ。
お前も一度は想像したのではないか』
ごくん、と息をのむ。
「……神様の仕業ってことですね」
ルシアは、神を一度でも信じたことを悔やんだ。
神様がくれた出会いなんかじゃない。
クライヴを苦しめる無慈悲な存在なのに。
十字を切り、祈っていた自分が虚しい。
無駄なことは二度としないと心に誓った。
「もう神様なんて信じないわ。あの人に意地悪する神だなんて
敬ってあげるものですか。神がいるとすれば
私にとっての神様は、この世界に呼び寄せてくれた彼だけだわ」
ルシアにとっての神は、クライヴだった。
ケルベロスは、何故かそれきり黙り込んでしまったが、
ルシアは、そんな彼ににっこりほほ笑みを浮かべた。
急に力が湧いてくるようだ
深く考え込んでいるようだったケルベロスは、唐突に口を開いた。
『クライヴが犯した禁で、お前はここにいるのか』
明るく笑うルシアは、ゆるやかに頷いた。
『……クライヴが、どこにいるのか分かった』
『どこですか?』
『……クライヴは時の牢獄にいる。時の理を侵した者が、閉じ込められる場所だ」
ケルベロスは重々しく告げた。
「どうすれば、彼を救い出せますか。
もし、方法があるなら教えてください」
ルシアは、何の恐れも抱いていないように見えた。
強い意志が宿る瞳で、ケルベロスを見据え問う。
ケルベロスは、愛しいものを想う力の凄まじさを感じていた。
『ルシア……お前も無事ではすまないかもしれない。
それでも、知りたいと云うのか』
「クライヴは私の夫ですよ。
妻として、命をかけて救いたいと願うのは当然じゃありませんか」
自信満々に言い切ったルシアにケルベロスは、瞳を緩めた。
いつかもケルベロスとの闘いで傷を負ったクライヴを必死の思いで救った。
彼の為になら何だってできる。その気持ちを改めて感じていた。
『お前が選んだのなら、応援しよう』
差し出された前足をルシアは手のひらに置いた。
手からはみ出してしまうほどの大きさだったが、ケルベロスの想いが伝わってきた。
『手に入れし者からすべての災厄を取り除き、星の降るごとく幸をもたらすという
伝説の冠。女神の星冠を手に入れるしか最早クライヴを救う方法はない』
「わあ、魔法みたい」
『黒魔術ではなく白魔術の部類だがな」
皮肉を言われたらしいが、ルシアは気に留めなかった。
「魔界にあるんですよね。あなたが知っているってことは」
『そうだ……』
「お願いです。連れて行ってください」
ひしっとルシアは、ケルベロスの手を握った。
『……私は本当にお前に弱いようだ』
苦笑する気配。
「じゃあ……」
ルシアが戸惑っている間に、その大きな背に乗せられた。
乗った感じは意外と安定している。
揺れて不安になることはなさそうだ。
「実は、一度乗ってみたかったんです。
ケルベロスさんに運ばれるクライヴが、ひそかに羨ましかったんですもの」
どこまでこの娘は大物なんだろうと
ケルベロスは、思った。
彼女なら、たやすく奇跡を起こしてしまうのではないかと根拠のない確信すら抱いてしまう。
『落ちないようにしっかり捕まれ』
ルシアはくすっと笑った。
『……行くぞ』
眠るクライヴを部屋に残してルシアは、魔界を目指した。
クライヴと魔界へ向かった時と違い、ケルベロスは呪文も唱えず白い壁を通り抜けた。
一瞬でたどり着いた魔界は、以前訪れた時と同じくクリーム色の世界だった。
温度がないので熱さも寒さも感じない。
すとん、とケルベロスの背を降りたルシアは、ついてこいと
いう風にゆっくりと歩みを進めるケルベロスの後ろにつき従う。
ケルベロスが守っている門まで辿り着いた時、ふと懐かしい気分になった。
初めて会ったケルベロスは、まさしく地獄の番犬で、
凄まじい力でクライヴを圧倒した。
その後は、何かと助けになってくれて、ルシアは親しみを覚えていったのだ。
ケルベロスが一声吠えると、門は開いていく。
門を通り抜けた後、すぐに閉じられる。
白い光がさく裂し、門の周辺を包みこんだように見えた。
クライヴに魔術を学んでいたルシアは、結界だと分かった。
『これで、不在でも大丈夫だ』
「ケルベロスさんがいた方がやはり、しっくりきますよね。門が守られてるって感じ」
『……退屈だがな」
「案外人間臭いんですね」
無邪気なルシアは、思ったことをそのまま口にする。
地獄の番犬も形無しだった。
『……私は目的の場所まで案内するしかできない。
自分で手に入れないと意味がないのだ』
「分かってます……私が頑張らないと駄目ですもの」
彼を救えるのは私しかいない。
ルシアは、拳を握った。
尻尾を振って歩きだすケルベロスの後をついていく。
「案内してもらえるだけで十分ありがたいです。
本来なら場所を聞いて一人で向かうべきですもの」
『……もしものことがあったら、クライヴに殺しても足りないくらいの目に遇わされる』
背を向けたままで放たれた言葉にルシアは笑った。
途方もなく歩いて、いつ辿り着くのか疑問に思いかけた時、
目の前に高い塔が立ちはだかっていた。
ルシアは、立ち止ったケルベロスより、前に進んだ。
『ルシアが無事に女神の星冠を戴けることを』
「はい」
授かった言葉が、何より力になる。
塔の入口は開かれていて、ルシアは、一歩ずつ進んでいく。
一度も振り返らず、塔の中に入った。
『お前が戻ってくるのを待っているぞ、光の娘』
塔の外では大きな獣が、じっと塔の方を見つめていた。
17.lineage 19.Engagement
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