目覚めて素早く衣服を纏うと、庭園へと駆け出す。
 太陽の位置からすれば、午後3時が過ぎていると思われた。
 後ろから面倒くさそうな態でクライヴが歩いてくる。
 ルシアは噴水で顔を洗いながら、水面に移った自分の顔を見て驚く。
 姉が言ってくれた『綺麗になった』を真に受けたわけではないが、
 随分変った気がした。そこには、女が映っていたのだ。
 少女から女に変った自分がいた。
 顔を上げれば、クライヴがいつの間にやら隣にいて
 彼も顔を洗ったのか、すっきりとした表情をしている。
 気配がない男だ。
 雫が顎を伝っている。
 目線が絡む。
「……んんっ」
突然、唇が塞がれた。顎が指先で捕らえられている。
 注ぎこまれた水は何故か熱くて、お湯みたいだとルシアは思った。
「はぁ……」
 ごっくんと飲み込んだルシアは、平然としているクライヴを睨んだ。
「水くらい自分で飲めますって」
「美味かっただろ」
「……喉が渇いていましたから」 
負けず劣らずのルシアだ。
「よかったぜ」
 まったくもって唐突な男だ。
 何がと聞き返せばまたクライヴの思うツボだから
 ルシアは敢えて聞き流した。
 耳元で囁かれるから吐息が触れる。ルシアはぼぼぼっと赤くなった。
 すたすたと庭園から出て行くクライヴに
「私はあなたからパワーをもらいました。
 きっと後悔しますよ!」
 強気に言い放った。気合は十分のようだ。
 クライヴは、ひらひらと手を振っている。
 ルシアは拳を握り締めた。
 部屋に杖を忘れたことに気づいたルシアは、小走りで駆けて行った。
 ベッド脇に置いていた杖を手にし、ぶんぶんと振ってみる。
 ふとベッドの上に目がいったルシアは、メモらしきものを拾い上げた。
『魔法の効果が上がるように杖を強化しておいた。
 最高の時間をくれたお礼に俺からのささやかな贈り物だ』
 文字からクライヴの声が聞こえてくる気がした。
 ルシアの錯覚に過ぎないが。
『次にお前を奏でられる日が楽しみだ。
 甘く美しい声で啼くお前は、声と表情と仕草で俺を魅入らせる』
「こんなくさくさなこと言う人だったかしら」
 クライヴがこの手紙を書いている姿を想像するだけで笑いが込み上げる。
 彼のことだ。いたって真顔だったのだろう。
 ルシアは杖を手に庭園へと戻った。
 因みに文机の上には、魔術書が置かれている。
 これは、クライヴがくれたもの。
 子供時代に紛失した魔術書の内容をそっくりそのまま写したコピーだ。
 こんなものよく理解できたなあとルシアは感心するばかり。
ルシアなんて初級編までで本を放り出したくなったというのに。
 それに写本なんて、酷く労力がいる。
 クライヴは、自分の世界に入るとルシアの言葉も聞こえてない時がある。
 底知れぬ集中力で、写本をやり遂げたに違いない。
 魔術勝負の日まであと6日残ってない。
 ……無駄に過ごしたわけではないけれど。
 庭園に駆け出すと、思いきり息を吸って深呼吸した。
 この澄んだ空気は魔力が源だなんてルシアはとてもではないが信じられない。
「……頑張ります」
 ルシアは景気づけに、花を咲かせてみることにした。
 花は既にたくさんあるので、うるさいと怒られるだろうか。
 それにしても、クライヴが花を見つめて微笑んでいる姿は身震いがするほど怖い。
咲かせてもすぐ萎れたり、枯れてしまうことも少なくなく
 成功したためしがなかった。今度こそと思う。
 明朗とした声が、空気が振るわせる。
 杖を振り翳した。
 ぽぽぽん。
 すると辺り一面に、黄色、赤、白、青、様々な色と形の花が一面に咲き乱れた。
(どうか、無事にいきますように)
 切なる願いを込める。
 きらきらと光を浴びて輝く花は、暫くしても誇らしげに咲いたまま。
「やった!」 
 庭園の景色が一層賑やかになった。
 ぴょんぴょんと飛び跳ねるルシアは、嬉しくてたまらない様子だ。
 すべてが上手くいくといい。
 魔法を完成させて、ちゃんとマスターして後悔しない勝負にして。
 笑顔がよい方向に物事を引き寄せてくれる。
 そればかりではないけど、一理はある。
 花達が風に吹かれる。
 同じ気候条件、環境では本来なら咲かないはずの花達が、皆一緒に咲いている。
 命の限り寿命を全うしてほしい。
 ルシアは、初めて咲かせた花達を愛しく感じていた。
「……魔方陣の部屋を使わせてもらおう」
 花や植物がたくさん群生しているとはいえ、庭園は広く
 空いた空間もあるので魔術を使っても支障はないのだが、
 安全性を考えるとそちらの方がよかった。
 ルシアの魔術師としての能力は未知数であり、平たくいえば素人だ。
 もし強い魔術を使えるようになってもコントロールできない恐れがある。
 未熟な魔術師見習いに過ぎないのだから。
 より安全かつ効果的に魔術を使える場所に移動するのが懸命だろうとルシアは考えた。
「何でクライヴってば、言ってくれないの」 
 意地悪とルシアは思う。
 だが彼はそれぐらい気づけと突き放すことも知っている。
 飴と鞭を上手く使い分ける男なのだ。
 庭園を抜けて階段を上る。
 地下一階に辿り着いて扉を開ければ、クライヴがいた。
 彼は手に光を集めては、解き放っている。
 ルシアはきょとんとする。
 まさかより一層技を磨こうと!
 光が弾けては消えるのを目にして身震いした。
(そんなことしなくてもあなたは、底知れないほど強いですから!)
 まさかこてんぱんにしてしまうつもりでは。
 ぞわぞわと悪寒が背中を駆け上がったルシアは
「ク、クライヴ!」
 思わず叫んでしまった。
 生み出されていた光が消え、魔方陣の部屋に暗闇が戻る。
 ぱちぱちと瞬きしたルシアは、クライヴに近づいていった。
 銀髪は、暗闇の中で闇に溶けずに彼の存在を露わにしていた。
 目を眇めてクライヴがルシアの姿を捉えた。
「クライヴ、何してるんですか! 」
「お前が俺と闘うために一生懸命頑張っているのに、手を抜いては失礼かと思ってな」
 クライヴは変な所が律儀でくそ真面目だった。
 ルシアはぶんぶんと首を振る。
「いつも自信満々でぞんざいな振る舞いばかりで余裕に満ち溢れている態度の
 クライヴが、変ですって。
 余裕ぶってその辺でごろごろしててくださいよー」
 ルシアは拳を握り締めて言葉に力を込めた。
「礼には礼を尽くす主義だ」
 しつこく食い下がるクライヴはあくまで無表情。
「折角ですが結構です。全然失礼なんかじゃありませんから
 暫くゆっくりくつろいでいてください」
 不服そうなクライヴはルシアの勢いに気圧されたのか、どうでもよくなったのか
 床でごろ寝を始めた。頭の下で腕まで組んでいる。
 ルシアの真横で。
「……何故俺がルシアの言う通りにしなければならないんだ」
「たまにはいいじゃないですか。クライヴの気の向くままで被害被ってるのは私なんだから」
 クライヴは心底おかしそうな顔をした。
「被害か」
「……ここ使わせてください。庭園じゃろくに魔術を行えないんですもの」
 それを言いにきたのだった。危うく忘れそうだったが。
「今頃気づいたのか。鈍いのも天然記念ものだな」
「教えてくれなかったじゃないですか」
「ちょっと考えりゃ分かることだろうが。人に頼るばかりじゃ成長できないぞ」
 案の定、想像通り手痛い言葉が返ってきた。
 ルシアは一瞬顔を顰めたが、気を取り直して、
「怪我したら大変ですから、避けといた方がいいかもしれませんよ」
「……お前が俺に怪我を負わせられるとは思わない」
さきほどとの態度の違いにルシアは、唖然とした。
 否、こちらの方がよほどクライヴに合う。
「ライバルに自分の手管を見せるのは癪ですけどしょうがありませんね」
 ルシアは、強気に言い放ち、クライヴが離れるより早く彼から距離を取った。
 庭園よりは狭いがこの部屋もかなりの広さがあるので離れれば、
 術者の魔術を受けてしまうことはない。 
「……可愛げない態度が逆に可愛く思えるから不思議だ」
 クライヴはそんな自分に苦笑する。
 距離が離れているのでルシアには聞こえないが。
 楽しい気分で、ちらりとルシアを見やる。
 杖を上方に振っている。
 地獄目(ルシア談)のクライヴは彼女の表情までも窺い知ることができた。
 緊張感のない緩んだ顔をこちらに向けている。
 以前のクライヴなら、怒りを覚えた所だ。
 今は呆れるに止まるが。
「……あれでも真面目にやってるんだろうな」
ルシアとクライヴの性格が正反対なだけなのである。
 惰眠を貪ろうと思っていたクライヴだが、結局ルシアが気になって眠れない。
 肘を立てて寝転がったまま、ルシアの方に視線をやった。

ルシアはクライヴが見守る中、夢中で魔法を唱えていた。
 魔術というのは結構な労力を使うものだ。
 あと六日でどうにか使えるようにならなければいけないなど相当きつい。
 もういっそ楽しめればいいかと楽観的にいくことも視野に入れた。
 大好きな睡眠も削りたいが、睡眠不足は
 体調不良を招いたり精神的にも不安的になりがちだ。
 そんなの馬鹿馬鹿しい。
 頑張るけどマイペースにやろう。
 無理をしたって、勝機などゼロより低いのだから。
ルシアは、素早く杖を振って魔法を繰り出す。
 魔術は人を殺す術でもある。
 人を簡単に殺められる術を持つ黒魔術師は忌み嫌われる存在。
 それを意識して常にシビアでいることが寛容だと、
 一度自分の生まれた時代に戻る以前、口が酸っぱくなるほど
   クライヴに言い聞かせられた為ルシアは、認識していた。
 魔術は人を殺す術であると。
 自分の力が未熟な場合、諸刃の剣となり自分に跳ね返ると。
 自分の力量を見極められずに、命を落とした魔術師も少なくないという。
 ルシアにはそんなことにはなってほしくない。
 自分が教えた責任と、何よりルシアを失いたくないと
 クライヴが真剣な目で語ったのはいつだったろうか。
 不真面目に映ってもルシアは至って真面目で敬虔に魔術を扱っている。
 クライヴの魔術を教わった弟子として強くなりたい。
 魔術師ライアン・クライヴの弟子として相応しく。


 見た目も派手なら、魔術も派手だな。
 クライヴはルシアを見やりながらそんなことを思う。
 まだ一人前になるまで程遠いルシアが、よく炎と風を合わせた
魔術などを思いついたものだが 付け焼き刃の魔術は心許ないものだ。
 必死なルシアに対して、告げることができなかった。
 いくら頑張ろうと、元々半人前の力しかないのに、どうして強い魔術が使えようか。
 二つの属性の魔術の合成は、両方ともをちゃんと扱えないと  上手くいくはずもないのだ。
 二つの魔術を合わせられたと錯覚しても結局中途半端に威力が半減する羽目になる。
 気づいてもいいはずだが、魔術勝負で実際にクライヴと相対するまで
 ルシアは分からないかもしれない。
 折角努力しているのに、言えない。
 クライヴは、卑怯者のレッテルを貼られるのだ。
 気づくまで放置しようだなんて。
 彼女はどうして一途になれるのだろう。
 ぎりぎりのところで均衡を保っている
 クライヴはルシアを見ていると時折たまらない思いがするのだった。
 いつか消えゆく儚げな炎のようで。
「……お前は、最高の弟子だよ」
 最高の弟子でこの世界で唯一の愛しい存在。
 クライヴの側で、彼に囚われることなく
純粋な想いをぶつけ  痛みまで感じさせる存在。
 未だかっていなかった奇跡を起こしたのだ。
 クライヴに、多大な影響を与え短い期間で自分の存在をこれまでかと
 ばかりに、彼の中に焼きつけてしまった。
 絶対的な何かを手にした時人は強くなり、弱くもなる。
 身を持って教えてくれたのがルシアだ。
 彼女を失った時クライヴは世界を壊してしまうことさえ厭わないだろう。
 視界の隅でルシアが、急に魔術を使うのを止めた。
 ぺたんと床に座り込み、頬杖をついている。
 適度に休憩を取ることを覚えたのならいいことだ。
 クライヴは口の端を緩く持ち上げ、腰を上げた。

 黒衣を捌いてクライヴが、歩いてくる。
 はっとしたルシアは杖を手から離してしまった。
 杖はからんからんと音を立てて回転し、すぐ側の床で動きを止めた。
 クライヴは口元を押さえた。
 あまりにも分かりやすく反応するルシアがおかしくて。
「……笑うなんてあんまりですよ」
 クライヴの口元が震えてるのも、声が漏れているのも聞き逃さないルシアだった。
「大体、今のは驚かせたクライヴが悪いんだから」
「そうだな、悪かった」
「本当に悪いと思ってますか?」
「勿論」
 くすっと笑ったルシアをクライヴは眩しそうに見つめていた。
 次の日もその次の日も、ルシアは魔方陣の部屋で、腕を磨いた。
 教える必要はないクライヴは、ルシアが休憩を取る度、
 厨房から差し入れたお茶を飲んだりおしゃべりをして、二人で過ごす時間を持った。
 そんな折ふと、クライヴはルシアの手の目が止まった。
   折角の綺麗な手の平が、傷だらけだ。
 指にできた肉刺が潰れている。
 白い皮膚の表面には無数の傷が走り、痛々しい。
 革の手袋を唇で乱暴に外すと、自らの手でルシアの手を擦った。
 治癒してやれない自分が、もどかしくて無力に過ぎないこの身が恨めしい。
 クライヴは、手の平を擦っては自らの頬に寄せる。
 無言で手の平を握り、優しく擦ってくれている。
 唐突で心臓に悪いけれどやっぱりこういう優しい所も好きなんだと改めて思う。
 無造作で、飾らない性分のクライヴ。
「痛むか」
「平気ですよー」
 どこがだよとクライヴは納得がいかない顔だ。
 ルシアは困らせるつもりはなく、心配かけたくない一心だった。
 ほんの小さな傷だし、生活する上での支障はないのだ。
「……クライヴ」
 クライヴはルシアの手の平や手の甲、指先の隅々に至るまで唇を押し当て始めた。
 リップノイズが耳に響いて、ぽっとルシアの顔が朱に染まる。
「傷を治す力があればいいのに」
 クライヴからぽつりと漏らされた言葉。
 どうして彼はこんなに切ない瞳をするのだろう。
 ルシアは、結局クライヴに気を遣わせてしまったことが申し訳ない
 と思いつつも、ちくちくとした痛みが吹き飛ぶくらい心が
 満たされるのを感じていた。
「……ううん、もう痛みなんて感じていません」
 ――あなたが癒してくれたから。
 不器用な優しさは、人間らしくて何よりも心に届いた。
   ルシアはお返しとばかりに、クライヴの頬に唇を寄せた。
 クライヴは、目を見開いたがすぐに真顔に戻り、
 ふわりとルシアの体を引き寄せた。
「今日は、明日に備えてゆっくり休め。
 明日、またこの部屋で会おう」
 淡々と紡がれた言葉には、精一杯の想いが込められている。
「はい!」
 ルシアは、ぎゅっと抱きついて抱擁に応えた。
 真正面から見つめてくる瞳は鋭くて、でもどこか柔らかい。
 ぽんぽんとルシアの背中を撫でてクライヴは体を離した。
「おやすみなさい、クライヴ」
「おやすみ」
 ルシアは、クライヴの瞳に自分の姿がしっかりと映されているのを感じて、
 些細なことに、喜びを感じられて良かったと思った。
 お互いに背中を向けて、部屋を後にする。
 先にルシアが階下へ向かい、それを見送ってクライヴが奥の寝室の扉を開けた。



9.口づけの呪文   11.私を魔界に連れてって♪
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