約束にも満たない

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 引っ越すんだ。
 そう告げた後、キラの顔をアスランはしっかりと見られなかった。
 まるで裏切るかのような罪悪感に、押しつぶされるかと思った。




   

約束にも満たない






 腕に絡まったまま動かないキラを、アスランは困ったように見下ろす。
 引越しのことを告げた、次の瞬間にはもうこういう状態だった。まるでコアラのように、必死にキラはアスランの腕に張り付いている。
 どうしてちゃんと目を見ていなかったんだろうとアスランは後悔したが、後の祭りだ。目を見ていれば、キラの様子の変化に気付いて、どうにか出来たかも知れないのに。
 いつまでも帰ってこないキラを心配したのだろう、様子を見に来たキラの母は「あらあら」と、そんなふたりに苦笑して見せた。
「アスランくんが困ってるわよ、キラ」
 離れなさいと彼女は言ったわけでもなかったが、諭すような響きに、キラはますます身を押しつけるようにして腕に力を篭めた。しがみついていると言える。
 溺れて、呼吸も出来ないひとのように。
「キラ……」
 ぽつん、と零されたアスランの呟きにキラの肩が震えた。しっかりと腕に懐かれてしまっている今は、アスランからキラの顔は見えない。ただ、泣いてはいないことは分かった。――服に押し付けられている顔は、さらさらと乾いていたから。
「寂しいんでしょう」
 今日は、このままにしておいてあげましょう。
 そう言ったのは、キラの母親と一緒にきたアスランの母だった。彼女はすまなそうに、そして哀れみをもってキラとアスランを見た。彼女にも、どうにもできないことだ。
 そうね、とキラの母も頷いた。そうしてふたりは下にいるわね、と告げて、階段を下りていった。扉が閉められたせいで部屋が薄暗い。買ったばかりの目覚し時計が、闇の中に光っていた。もう夜と言っても差し支えのない時間なのだと、そこでアスランは知った。
「キラ」
 小さく、呼ぶ。返事はない。
 微かに頭が横に振られて、小さな体がますます小さく丸まった。
 もはやどうしたらいいのか、アスランには分からなかった。





 それから三日ほど経っても、状況に変わりはなかった。
 キラは常にアスランの腕にしがみついて離れない。
 食事をするときも寝るときも、ずっとそうすることが当然のようにアスランの腕にくっついている。名前を呼んでも首を動かすだけで返事をしない。おかげでアスランは、ここしばらく、キラの声を聞いていなかった。
 どうしたらいいのだろう。
 アスランは考える。どうしたら、キラは納得するのか。
 アスランだって、できることなら引越しなんてしたくはなかった。
 ここで、キラのそばで、遊んで笑ってたまには喧嘩なんかもして、それでも楽しく生活していきたかった。今までがそうであったように、これからも。
 けれどそれはできないのだ。アスランの父はそう決めてしまっていたし、母も掛け合ってくれたようだが、父は折れてはくれなかった。それは、父にとっては決定事項だということだ。もう、どんなにアスランが嫌だといったところで、覆らない。
 アスランはぼんやりと、腕に絡む熱源に思考を運ぶ。
 暖かくて、少しだけ重いそれは、懐かしくてとても心地がよかった。本当のところは。
 ずっと一緒だと思っていた。
 ずっと一緒にいたかった。
 それがもう叶わないのだと、今更ながらにアスランは思い知る。目頭が熱くなってきて、アスランは慌てて上を向いて瞬きをした。――泣いてはいけない。
 だって自分が泣いてしまったら、誰がキラを慰めるというのだ。泣いてはいけない。
 同時に、何故キラは泣かないのだろうと思った。そうしたら慰められるのに。「泣くなよ」と言って肩を抱いて背中を撫でて、髪にキスをして――そうしたら。
 そうしたらきっと、こんなに胸の底に通じるような熱さが込み上げてきたりしないのに。
「キラ、」
 呼びかける。応えはあまり期待しなかった。
「……キラ、」
 期待はしなかったけれど、頑ななキラの態度にアスランは悔しくて唇を噛み締めた。もしかしたらただ、泣くのを堪えたかっただけかもしれない。
「話がしたい」
 ぎゅう、と腕に押し付けられるキラの体。どこか涙に通じる熱が、じんわりと腕から全身に伝わった。アスランの体が痺れるように震える。
「話が、したいんだ」
 時間がないんだ。アスランはそう胸の中でひとりごちた。
 キラの返事はない。
 細く、アスランの唇から熱く息が漏れる。
「俺だって、ここにいたいけど――」
 キラの肩が揺れた。
「……」
 小さく――傍にいるアスランにほど聞こえないくらい小さな声で、キラが何かを言った。ゆっくりと、顔が上がる。
「キラ?」
 これからはキラが泣いたら誰が慰めるのだろう――そう思っていた綺麗な顔は、さらさらに乾いていた。
 怒りを湛えた紫色の瞳が、アスランを睨んだ。

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