怖い。口にしながらも、スィンは実際、自分が何を怖れているのか、具体的に思い浮かべられなかった。
右手に宿る紋章がちりちりと痛みを走らせる。背筋が粟立った。大切なものが、するりと手のなかから零れ落ちていく瞬間を思い出す。スィンは思わず歯を喰いしばっていた。
窓がかたかたと鳴った。
ルックが静かに頷くのを見て、スィンは微かな笑みを唇に乗せた。
「本当はずっと前から怖かったんだ。僕は自分では気付かなかったけれど、ルックは知ってたんだね」
「そうだよ」
知っている。ルックの頷きに、スィンは泣きそうに笑った。「僕は」
「どうしたらいいのか、ずっと考えてた」
「どうしたいのさ」
「……分からない」
スィンはゆるりと首を振る。それからぼんやりと窓辺へと視線を投げた。
暗くなった外。窓に水滴が走り始めているのが確認できた。ああ、またか。また、雨なのか。スィンは思う。
いつだって、何かに気付く日は雨が落ちてくる。
「……本当に?」
ルックが問いかける。声に抑揚は無かったが、怒っているというわけでもなさそうだった。
スィンは再びルックへと視線を戻す。静かな金茶色の目に、「嘘だよ」と語りかける。ゆるりと、笑った。
「本当は、分かっている。いや、分かっているつもりになっているというのかな。僕はまだそれほど紋章を知っているわけでも、覚悟が出来ているわけでもないんだ、ルック」
自分のなかで。手の甲の紋章の影で。深い深い世界の淵で、闇は牙を剥いて嗤っているのだろう。
そこには雨が落ちているだろうか。スィンは笑う。
「怖いよ」
もう一度言う。
スィンは片手で両目を覆った。涙はない。けれど、きっと情けない顔をしていると分かったからだ。
「知ってるよ」
ルックの言葉は、静かにスィンの胸の奥へと落ちた。そうだろうな、と思った。聡明な魔法遣いは、多分スィン以上にスィンのことを知っている。
だからこそ、こんなにも怖いのだ。
「これは――この紋章は、君をも喰らおうとするんだろう?」
「多分ね」
「僕は」
声が震えた。戻りたいと、不意に思った。それが何処までかは分からない。ただ、分からなかった頃に戻ってしまいたかった。しかしそれが何かも、分からない。
でも、もう戻れない。気付いてしまったからには。
「僕は君のことが大事になってるよ。前よりも、ずっと」
暗闇で迷ったとき差し出された白い手も覗き込んだ金茶の瞳も、失いたくはない。かといって、変質していく感情を留めることもできない。
――奇跡はもう起きないと知っているというのに。
する、と強い力で覆っていた手を外された。スィンは迷わせた視線を、ルックに合わせる。ルックは静かに口を開いた。
「好きだよ」
スィンは唇を噛みしめる。
怖かった。怖くて仕方がなかった。
大切なものがより大切となっていくこと。一律ではない感情。
これはエゴだと知っている。最低の、本当に自分勝手な、我が儘だ。
失いたくはないのに、離れたくはない。そしてそれを、許されたいと願っている。
初めて出会う自分の情動に、スィンは戸惑いさえ覚えた。
噛みしめていた唇を、そっと緩める。微かに血の味がした。
金茶の瞳が強くスィンを見つめている。これがエゴでも卑怯でも何でも、もう逃れられないのだろう。スィンは知る。逃れることを、きっとルックは許さない。それは、優しさと同等の感情で。
静かな室内で、雨が地に落ちていく音がスィンの耳に響く。
「僕もルックが好きだよ。……きっともう、ずっと前から好きになってたんだ」
知らないふりをしていただけで。
ルックは口の端を緩めた。それから掴んだままのスィンの手のひらにキスを落とす。
「馬鹿だね」
「……それはもうルックには言われたくないな」
唇の感触にスィンは首を竦める。
生温くさえ感じるくらいに心地よく、ゆっくりと進化していた感情。
変質していく感情は、何かを変えることになるだろうか。スィンは考える。多分、何も変わらないのだろう、変わって欲しくないと願っているものは、何一つも。
後はただ、紋章に翻弄されないよう、覚悟を決めるだけ。
「――ルック」
繋いだ手が震えていた。
「僕はルックが好きだ」
end
2006.03.24
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