健三×晴海 671さん





「じゃぁ私もう寝るね」
ご飯は要らないから、と、家に着くなり自室に閉じこもってしまった。
学校では、いつもどおりだったのに、帰り道、二人きりになった途端に、いきなり黙りこくって。
ぼくが頑張ってひとりでぺちゃくちゃ喋ってる横で、深いため息ばかりついて。
ぼーっとしてるから、どうしたの?って聞いたのに、それにも返答なし。一体どうしたんだ、本当。
「どうしたの?おれでよけりゃ、聞くよ?」
しめだしくらった扉の前で、部屋に向かって話しかけてみるけど、
小さく「何でもないから、大丈夫よ。心配かけてごめんなさい」と返したきり、部屋の中からは物音もしない。
強引に聞いて答える人じゃないだろうから、とりあえずご飯だけでもと、ひとりキッチンへ向かう。
「坊ちゃま。晴海お嬢さまはどうなされたのですか?」
キッチンに着くなり、ぼくこそが尋ねたいことを聞かれた。
流石に、いつもと様子が違うことに気付いたのだろう。ぼくの分だけをよそいながら、婆やが心配そうな顔で見てくる。
だけどさっきの言葉の通り、余計な心配はさせたくないだろうことはうかがえたので、
適当に学校の用事で忙しいらしい、などとごまかしておいた。
「ごはん、部屋まで持ってくよ」
そう、要らないとは言ってもご飯を抜くのは本当はよくないし、後から食べたくなるかもしれないし。
お盆の上におかずとごはんをのせ、慎重に階上へと向かう。
「どうせ読んだところで返事ないだろうし。この辺においとけば出てきた時気付くかな」
そっとかがんでドアの横に、音を立てないよう気を使いながらお盆を置く。
そしてそのまま、今度は自らが食事にありつこうと身を起こした、その時。
嗚咽が、聞こえた。
(!!?)
まさか、まさかと思い、耳を澄ますと、扉の向こうから、微かながらに鼻をすする音がする。
(ウソだろっ…!?)
晴海が、まさか晴海が泣くなんて。
生まれてこの方、聞いたことも見たこともない。
逆なら数え切れないほどあるけど。
(いや、でも…)
考えられないことじゃない。むしろ普通だ、当たり前のことだ。
血も涙もないわけじゃなし、今は思春期、悩むことも色々あるだろう。
まして晴海は女の子だ。
友人関係や、恋のひとつやふたつが破れたとかで、涙を流すことだって…。
「………」
恋、なんて考えたとたんに、胸の中にじわりじわりと黒いものが広がる。
ないとは言い切れない。いつもは厳しい顔つきをしてるけど、決してしの姫ほど美人だとも言えないのだろうけれど、可愛い。
誰が否定しても、ぼくだけはそうと言い切れる。
顔が同じ人間に、こんなことを言ったら、ナルシストだとか誤解されそうだけど。
あの頑固なまでのまっすぐな考え方も、聡明さも、強さも、全部…ぼくは、好きだ。
「!!」
自分の思ったことに、思わず顔に朱が走る。
悶々とした気持ちが湧き出て、居心地が悪くなってしまったので、ぼくも寝室に引きこもることにした。
「おれもご飯要らない」と伝えて、婆やの悲鳴を無視して階段を駆け上がる。
先程の、問題の部屋の、すぐ向かいの部屋が僕の寝室。
何でこんなに近いんだと、部屋の配置を呪いながら、音を立てないようドアを開く。
「…………」
――――――頭の中でまで否定したって、報われないから、開き直ろう。
ぼくは、晴海が好きだ。
姉弟のそれと違って、一人の人間として、女の子として。
だから、晴海がもし他の男と…なんて考えたら、どうやったって歓迎の心持にはなれない。
そして、ぼくも驚くほどの希少価値を持つ晴海の涙が、誰か他の人間のために流れたのかなんて考えたら…
ムカムカして、イライラして、総じてとても腹が立って…だけど何より、とても悲しくなる。
そして。
「自分勝手だな…おれ」
思考が随分とんでしまったことに気がついて、思った。
「他の男と」「見たことない」…これじゃただ、自分の思い通りにいかないからって機嫌を損ねてる子供と同じだ。
本当に大事なのは、滅多に弱みを見せない彼女が、こらえ切れないほどの悲しさを抱えているかもしれないという事実。
「あーあ」
ばたり、とベッドに沈む。
上着は脱いでるからいいけど、ズボンとワイシャツはしわくちゃになっちゃうかもな…。
そう思いはするけど、もう起き上がる気力はない。
ただただ、ぼーっと、天井を眺める。
(そういえば、本当に、晴海が泣いたところ見たことないな)
胸の痛みに拍車をかける事実の再認識。
ぼくこそ涙が出そうだ、と呟いたのは、目の端から雫がこぼれた後だった。


++++

日をまたいで朝日が昇っても、ぼくの心が晴れることはなかった。
昨日とはうってかわって、ぼくも押し黙ってしまったものだから、学校までのぼくたちの間には象より重い沈黙が漂っていた。
晴海は、才蔵やしの姫の姿を見つけるなり、表情も態度もがらっと変わっていたけれど、ぼくはといえば、そう器用にいかない。
一人鬱々と、晴海の後にくっついていくのが精一杯だった。
「三好君…どうかなさいましたか…?」
門で合流した才蔵が心配そうな声をかけてきたけど、聞こえない振りをした。
嘘はつきたくないし、でも本当のことも言いたくない。
残された手段は、沈黙しかないんだから。

+ + + +

放課後、多少なりに元気が回復したぼくは、それでも部活には出られそうもないので、同級の部活友達に休みの伝言を頼んだ。
本当は、自分で言いにいくのが筋なんだけど…今日は、晴海と一緒に帰りたくない。
一緒に帰れば、昨日のことを問い詰めずに入られないから。
そして、出来れば出会うのも避けたかった。「休む」なんて言ったら、逆に色々聞かれて、
そこから糸がほどけるように昨日のことが出てくるとも限らないからだ。
部室近くは、そういった意味では危険がいっぱいだから、なるべく近寄らず、密やかに帰るしか方法はない。
連絡を頼んで、机から教科書を出そうとした時、はた、と才蔵に目がとまった。
「――――――しの姫でも、泣いたりすることあるのかなぁ」
ふと思ったことが、ぽろ、と口からこぼれてしまった。
「しのぶさまが、何か?」
あ。…と気付いても、もう遅い。
いつものごとく、教室外へ流れ込んでいった、千代さんとしの姫の乱闘終了待ちの才蔵は、ぼくの独り言も漏らさず耳にしたようだ。
おまけに内容はしの姫。
興味津々、とばかりに、キラキラ輝く無邪気な瞳を向けられたら、観念するしかないじゃないか。
「…才蔵は見たことある?」
座ってるぼくからは、立ってぼくを見下ろしてくる才蔵の顔がよく見える。
大きな眼鏡の奥にある、同じく大きな目をまるくする。
そして、問うてくる。
「な、何を…?」
「しの姫の涙」
「ええええっっ!!?」
マッチに火がついたみたいに、燃え上がるように顔が赤くなる。
…面白い。
困ったような目をしてるけど、口元はどうしても笑ってしまうようだ。
本当、才蔵ってしの姫のことが好きなんだなぁ。
でも、今日はからかいたくて聞いてるわけじゃない。
昨日のアレ以来、ずっと澱んでる気持ちを晴らすために、同じく想い人のいる人間に話を聞こうと思っているだけだ。

「なな、何をいきなり尋ねられるかっ」
口をぱくぱく、陸に上がった人魚のように呼吸もままならない才蔵に、更なる追い討ちをかけてみる。
「見たことある?おれと晴海、しの姫とは結構小さい頃からの付き合いなんだけど…見たことないんだ。
逆は…まぁ、それなりにあるんだけど。
才蔵なら、しの姫と仲いいし、もっと小さい頃一緒に住んでたりもしたみたいだし?
なら、そんな情景目撃の一度や二度くらいあるかなって」
赤い顔のまま、口をあんぐりあけて固まってる。
目線はぼくの頭上をこえて窓の外。
おそらく何も見えていない。
頭の中で何かぐるぐる回っているんだろう、面白いほど分かりやすい。
かといって、そのままでもつまらないので、ぱちん、と手を叩くと、慌てて頭をぴぴぴとふってぼくを凝視する。
「あの、その…いえ、なんというか…それは…」
しどろもどろになりながら、なにやら哀願するような、そんな眼差し。
だけれどぼくが目線をそらさないでいると、観念したようにうつむいて、ポソポソと白状し始めた。
「……あ、ありま…す…」
「………」
本当に情けない話だけど、期待してしまった答と違ったことに、いくばくかの安堵と、
置いていかれたような、円の外に独りでたたずんでいるような疎外感を感じてしまった。
好きな人の、弱い部分を、普段他人には見せない部分を、才蔵は見たことがあるのだ。
「…へーえ…」
「なんだ、あるのか。」
そう思ってしまう自分の考えが本当に見苦しい。
だけど、昨日からの胸のモヤモヤはそんなことを気にして思考を制御できるほど生易しいもんじゃない。
考えたくなくても考えてしまって、どんなに気をつけていても、気付けば険阻な顔つきになっていた。
「三好君、今日朝から何だか…」
何かを言いかけた才蔵の言葉を、すさまじい足音・土煙・そして声がさえぎる。
その中に想う人を見つけて、ぼくのため息はさらに深いものになった。
「しの姫ー!!廊下を走るもんじゃありませんっ!」
「おまえだって走ってるじゃないっ」
廊下の向こうを右から左へ、瞬く間に走り去って行く二人。
しの姫を走らせる原因になった千代さんはいつしか消えている。
ははぁ、しの姫どっかで何かを壊したな。それを晴海に目撃されたに違いない。
しかし、何故ここに晴海が。
部活じゃないのか、今の時間。
「まだ来て幾日も立たない新参者が言うのもなんですが…僕には、三好さんにおいてもなかなか想像つかないですよ…」
はは、と乾いた笑いをうかべる才蔵。
そりゃそうだろう、だってぼくだって…
「でも三好君は、ご兄弟ですから、三好さんの色んな姿を御存知なんでしょうね」
――――――御存知ないよ。
晴海は、家でも、学校でも、同じ。
昨日みたいなことは本当に稀で、落ち込むことがあるのかなんてふざけたことを思うほど、負の感情とは無縁に見える。
いつもぼくの前を歩いているから、ぼくには晴海の表情がわからない。
感情の起伏も理性で抑えてるフシがあるから、素直な感情をあらわした…泣いた、姿なんて。
「見たことないよ」
「えっ、みよしく…っ」
「―――…健三っ」
才蔵が驚いて口を開く。しかしそれを、今ぼくの思考を占拠している、大事な大事なお姉さんがさえぎった。
いつの間にそこにいたのか、廊下側の窓からこちらを見てる。
「なに、晴海」
つとめて普通に返しながら、「お姉ちゃん」から「晴海」と呼び捨てにするようになったのはいつだったかなんて、考えていた。
ぼくの気持ちが変わってからか、それとも呼び方が先だったか…何にせよ、最初に呼んだ時はひどく怒られた。
二回目は返事をしてくれなかった。
でも、三回目は、ちょっと照れながら返してくれた。
「もう帰るわよ。しの姫、多分私がここにいたら教室に帰ってこないから」
「部活は!?」
「今日体調が悪いから、休むの。あなたも休むんでしょう?」
さっきまで、廊下の端から端まで走りまわっていたのに、体調が悪いって…。
しかもぼくの情報まで握っているとは。
もろくも計画第一号が崩れ去って、ショックが隠せない。
幸せと共に逃げていくため息。
いや、ため息と共に幸せが逃げるのか。
手と手を取り合ってぼくの幸せは遠ざかり、現実の二文字が重くのしかかる。
「何ため息ついてんのよ」と、通りすがりにあたまをこづかれた。
「しの姫…何やったの」
「廊下で鬼ごっこ中に、職員室へ行く途中の私にぶつかり、提出されたクラスの宿題(プリント&ノート)が窓の外にまで散らばった」
何か、その情景がこれ以上ないくらい鮮明に想像できる。
「あちゃ。全部みつかった?」
「なんとかね。
必死で集める私を尻目に、抜き足差し足で逃げ出そうとしたから、教育的指導を…」
「なるほど」
晴海の話を聞きながら、才蔵が蒼い顔をしている。
ぺこぺこ頭を下げる才蔵に、「奥君が謝ることじゃないわよ」と苦笑して、帰り支度を始めた。
ああ、あれだけ気を使って、安全な家路を模索していたのに、何故この人は。
休みの理由は聞かれなかったとは言え、今一緒に帰るのを拒否すれば絶対に怪しまれるに違いない。
それだけは避けたい。
「しの姫はたぶん国語準備室だと思うわ」
「あ、ありがとうございますっ」
しの姫と自分、二人分の鞄を引っさげて、ぱたぱたと教室を走り去っていく。
そんな才蔵の残した足音を聞きながら、ぼくはやはりすっきりしない気持ちで、腰をあげた。

++++

帰り道。ともすれば登校時よりも重苦しい空気になりそうなものを、今日は晴海が防いでいた。
明らかに、普段と打って変わって饒舌になっているのだが、
ぼくは「うん」とか「へぇ」とか「そうなんだ」なんて返すので精一杯で、一分おきに沈黙が流れた。
家まであと数十メートルといったところで、完全にネタが尽きてしまったのか、両親の旅行の話になった。
…昨日の帰りにぼくが話したのと同じだ。
気付いてないんだろうか。
「お母さん達、今頃楽しんでるかしら。仕事休んでまで行ってるんだし」
「うん…」
「そういえば今日、お手伝いさん休みなんだって。ご飯の支度はできてるらしいけど。えっと、鍵、鍵…」
「へぇ…」
「旅行のお土産、何がいいかしら。韓国っていったら、何があったっけ…」
「そうなんだ…」
「―――健三!!」
いきなり、なんでもない普通の会話の流れを破って、大きな声が上がった。
流石にびくっとして晴海をみやると、とても不機嫌そうな顔でこちらを睨んでいる。
ああ、もう玄関先、鍵も開けられてあと少しって所だったのに…。
ドアの前に立ちふさがれて、困惑して、次の言葉が紡げないでいると、痺れを切らしたかのように第二声が。
「聞いてるのっ?」
「ははは、ハイ!き、聞いてるよ。何なの、一体…」
「嘘を言うものじゃありません!「何かしら」って聞いて、「そうなんだ」って答は、
どう考えたって適当じゃないわ。本当は、全然聞いてなんかいないんでしょう!」
「………」
聞いてる。
だけど昨日、ぼくがこの話をした時に、その適当じゃない答え方をしたのは他でもない、晴海自身だ。
別にわざと真似してるとかじゃないけど、答えるだけでも努力を要するのだから、味気ない返事でも仕方ないじゃないか。
だからこそ、昨日の晴海もこんな答え方をしたのだろうし。
とはいえ、それをそのまま告げるわけにも行かないので黙っていると、更なる追い討ちがかかる。
「健三、あなた朝からなんか変よ。ずっとぼーっとして、浮かない顔して。何か悩みでもあるの?」
また、ぼくがした質問。
何だか珍しくイライラしてしまって、どこか意固地になってしまったのか、ぼくも昨日の晴海の言葉を繰り返す。
「何でもないよ。心配しないで」
「何でもないわけないでしょう?明らかにおかしいわよ」
ああ、もう。
なんてこった。
双子って言っても、ここまで似るもんなんだろうか。
なんだって、昨日のぼくと全く同じ言葉を吐いて来るんだ。
おなかのあたりが熱くなって、ぎりっと拳を固めて黙っていると、左手首をつかまれて、腕を引っ張られた。
「…ねぇっ」
「――…晴海はっ…!」
「!!」
掴んでいる手を掴み返して、扉にダンッと押し付けた。
じん、と手の甲に痛みを感じて、怒りの中でも彼女の手をかばったのが分かった。
イライラする。
かばってしまったことも、それなのにぼくに怯えた表情を向ける晴海も。
「晴海はさ…ぼくを心配してくれてるんだよね、それはわかるよ。
聞いてくるのも、ぼくを理解しようって言う気持ちの表れなんだろうって…。
けど、わかってる?気付いてる?
ぼくは昨日、同じことを聞いたよ。
だけど晴海は教えてくれなかったじゃん。
晴海が晴海のことを教えてくれないんなら、ぼくも晴海にぼくのことを話したくない」
顔は、見れなかった。
言い終わっても、やりきれない気持ちでいっぱいだった。
強く握りすぎていたことに気付いて、力を緩めると、手の中からずるっと腕が滑り落ちていく。
…怒鳴って、怖がらせたいわけじゃない。
こんなこと言うつもりなかった。
なのに…。
「…ごめんな、さい…」
小さく震える声に、さっと怒りから醒めた。
聞いたことがないくらい、弱弱しい声だった。
慌てて正面を向くと、右手を胸の前で握り締めて俯いている。
そして、ショックで固まっているぼくに背を向けて、急いで家の中へ入っていってしまった。
その後は散々だった。
どちらも夕食は要らないと、すぐに部屋に閉じこもってしまったから、
まだ七時も回らないうちから、家の中は真夜中のようにしーんとしていた。
そんな状態で、八時を過ぎたあたりから、家のどこかでかたんかたんと音がしていた。
気に止めることも出来ず憂鬱な気分で天井を眺め続けて数十分、こんこんと扉を叩く音がした。
「…お風呂支度したから、入りなさいよ」
うん、と頷こうとしたけれど。
その声を聞いて、さっきの「ごめんなさい」が呼び起こされて、声が出ない。
ぼくがこたえられないでいると、扉の向こうから気配が消えた。
無視したと、思われただろうか。
「はぁ………」
取り返しのつかないことは、どうしようもないから取り返しがつかないというんだ。
言葉の意味を、身をもってかみ締めながら、よろよろとお風呂の準備を始めた。

++++

風呂からあがって、ぼくは自室に戻ることもできず晴海の部屋の前でたたずんでいた。
理由は、今手にしている、薄ピンクのパジャマのズボン。
着替えを置こうとしたら、これだけ忘れ去られていて、放っとくのも部屋の外においておくのもあまりに冷たい仕打ちだし、
かといってそのまま部屋に戻ろうものなら下着泥棒と変わらなくなってしまう。
要は気軽にノックして、「忘れてたよ」だとか言って渡してしまえばすむのだ。
そうだ、これを機会に、さっきのことも謝れる。
言ってしまおう、言ってしまえ。
すう、と大きく息を吸って、深呼吸。震える手を叱咤しながら、こんこんと扉を叩く。
「……あれ?」
中からは、何の反応も返ってこない。
まさか、さっきのぼくの「無視」(そんなつもりはなかったけど)の仕返しに、晴海も?
「…は、はるみ…?」
声をかけてみる。返事はない。
まさか、泣いて―――――――
「…何やってるの?」
「ひゃぁぁっ」
後ろから部屋の中にいる人の声が聞こえた。
いや、いるはずの人の声が。
あんまりに唐突で、あんまりに近くから聞こえたものだから、思わず素っ頓狂な声が上がる。
驚いて振り向くと、すぐ後ろにお盆を抱えた晴海がいた。
「…ご飯、温めなおして、持ってきたの。昨日、持って来てくれたでしょ?」
はい、とわたされて、条件反射で受け取ってしまい、あっと気付いた時にはもう部屋の中に入ってしまっていた。
折角のチャンスだったのに、呆けている間に逃げてしまった。
おまけに、ズボンも渡せていない。
とりあえず、ご飯を部屋に置きに行ってから、もう一度向かいの部屋をノックする。
「どうぞ」
許可を確認してから、そっとノブに手を回す。
ゆっくり部屋の中に入っていくと、丁度晴海は明日の授業に必要な教科書類を鞄に入れているところだった。
どんな表情をしているのかは、こちらからはうかがえなかったけれど、
立ったままでいるのも不自然なので、もう少し奥まで行って、ベッドに腰掛ける。
(あれ?)
固い感触。見れば、布団がない。どこやったんだろう、と首を傾げていると、準備の終わったらしい晴海がこちらを向く。
その瞬間、とんでもない光景が目に飛び込んできた。
「ねぇ、健三」
「え、あ………、って、晴海!!?」
ししし、下!
ズボンでもスカートでも何でもいいけど、何で穿いてないんだっ!?
かろうじて上の裾が太ももを少し隠しているくらいで、ちょっと動いたらし、し、下着が…見えてしまうくらいの。
ぼくが、顔を赤くしたり蒼くしたりしながら注いでいる目線が、自らの下半身に向けられているものと気付いた晴海は、
しかし平然と「そうそう、お風呂場に忘れちゃって」なんて言ってのけた。
あ、そうだ、そうそう今言えば…
「こ、こ、これでしょっ」
「あ、持って来てくれたの。ありがとう」
震える手で差し出せば、笑顔で受け取る。
それはいいんだけど、何故そこで着用せずに、脇においてしまうのかっ!
相変わらず晴海は立ったままで、丁度ぼくの目の前に腰がくるものだから、目のやり場にとても困る。
え、遠山の目付…なんて、剣道の用語を心の中で呟きながら、視線を扉の向こうへ。
「わ、忘れるもんじゃないだろ」
「着がえ持って行ったのはいいけど、寒かったから。お風呂場、冷えるでしょう?」
あぁ…と、自分が震えながら着がえたのを思い出して、納得。
って、納得したからって問題は解決しない。
なるべく考えないようにしながら、とりあえず話を探す。
「あ、えっと…ふ、布団!どこやったの?ないじゃん」
「あぁ、隣の部屋にしいたの。そう、私あなたに話があって…今日、一緒に寝ない?」
隣の部屋って、ぼくらの部屋か。
寝室は別にあるけど、小さい頃の名残で、二人の部屋というのがある。
よくそこで、ぼくは漫画を読んだり、テレビを見たりしている。
…じゃなくて。
最後の言葉が、あまりに自然に空耳と思えるほど、唐突なものだから、会話の流れ上うんと承諾してしまった。直後、あれ?と思い直して、気付いた途端思わず大きな声が出た。
「はぁっ!?」
「昔はよくやったじゃない。
だって健三、怖がりだったし」
む、昔は昔だ。
ぼくらもう、中学生だぞ!?
「あなたの分は、お父さんのをしいてるから、大丈夫よ」
そう言う問題じゃないだろう…。
無理だよ、と言おうとしたけれど…。
多分、これは晴海なりに気を使ってのことだと思ったので。
先にやられちゃったなぁ、と苦笑した。
「ねぇ晴海」
「何?」
行くわよ、と出て行こうとする晴海の手を掴む。
そしてそのまま引き寄せて、ベッド際の椅子に座らせる。
「…ごめん」
「え?」
「どなったりして、ごめん。怒ったわけじゃないんだ」
握った指先が温かくて、ぼくの手が冷えていたことを知った。
その温かさが、もう一押しの勇気をくれる。
「晴海が泣いてた理由が、知りたかったんだ」
「…知って…?」
言葉にはせず、目でうなずく。
よかった、謝ることが出来て。
何の免罪符になるわけでもない、だけど何も言わなかったら、絶対に後悔してただろう…。
ほっとして、つないだ指を離す。
そしたら…手を引く間もなく、逆に握り返されていた。
「………私も、謝らなきゃいけないわ」
じんわりと、温かさに包み込まれる感触。
全身の体温が上がった気がした。


-2へつづく-

 

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