『 遠い約束 』 0−0 「王子、和子様のご誕生でございます!男御子でございます!御母君ともどもご無事でございます!」 興奮にうわずった声のムーラが政務の間の扉を開きざま、叫んだ。 おおっ、というどよめきの声が政務の間を揺るがし、すぐさま伝令役がこの輝かしい知らせを公にするために走っていった。 (私の・・・私が姫に生ませた私の子・・・。ヒッタイトの血を継ぐ子) イズミル王子はしばし立ちつくした。嵐のような激しい想いが静かに立つその体の内を駆けめぐる。 エジプト王の妃であった佳人を、その愛故に騙して現心(うつつごころ)を失わせ我が物とし、一度は真実愛した男性の子を流した胎内に我が子を孕ませた・・・! (我が想い、我が望み、我が命・・・。何よりも愛しい姫が私の子を産んでくれた。私が望んだその通りに。 だが私の罪は・・・最愛の姫に犯した我が罪は永遠に消えぬか・・・!) 「王子。どうか和子様のお顔をご覧下さいませ。・・・姫君もお待ちでございましょう。たいそうお苦しみになられましたゆえ」 ムーラの声に我に返り、初めて父となった王子は喜びの喧噪の中、ゆっくりと産屋に向かっていった。 (私の子・・・。私が産んだ王子の子。ああ・・・メンフィス・・・!許して、許して!私、私、あなたと・・・あなたとの間に出来た子を裏切ってしまった) 金茶色の髪の毛をした色白の嬰児を見るキャロルの顔は憔悴しきって蒼白だった。窶れてもなお美しいその顔のどこにも初子を無事に産み落とした母の喜びはない。 エジプトの王妃であったキャロルは、キルケーの妖かしに惑わされヒッタイト王子イズミルの妃となった。 彼女が正気と記憶を取り戻したのと、その胎内に夫メンフィス以外の男性の胤を宿していると分かったのはほぼ同時であった。 悪夢のような妊娠期間。キャロルは自害も許されず、絹と真綿の牢屋で文字通り‘生き長らえさせられた’。 (母である私が望まぬままに授かった可哀想な赤ちゃんと一緒に死んでしまいたかった。そうすれば楽になれたのに) 0−1 その時、産屋の扉が開きイズミル王子が現れた。 王子は自身の罪深さに戦くように一瞬、立ち止まったがすぐに喜びに顔を輝かせてキャロルと嬰児の横たわる寝台に駆け寄った。 「おお・・・!」 王子は自分の罪も何もかも忘れ果てて、母となったばかりの最愛の妃と生まれたばかりの男児に見とれた。それは何と美しいのだろう! 「姫、よく頑張って私の和子を産んでくれた。 そなたが難産の苦しみの中に居るというのに何もしてやれぬ私が歯がゆくて、万一そなたを失うようなことがあったら何としようと居ても立ってもいられなかった・・・! ああ、姫!本当に・・・本当に・・・!」 王子の茶色の瞳は喜びの涙で潤んでいた。浮かない顔のキャロルの手を押し頂き接吻で覆う。聖なる物であるかのように。 激しく深くキャロルを愛するが故に、深い罪を犯し最愛の女性を悲しみのどん底に突き落としたイズミルの、それは紛れもない真実の愛だった。 だがイズミルに返されたのは冷たい拒絶と無関心の仕草だった。 「あなたの・・・子です。あなたが望んだあなたの子です。どうか・・・この子だけは愛してやってください。悲しませないでやってください。 この子は・・・あなただけの子です。この子にはあなたしかいないのだから」 言外にこの嬰児は自分の望まぬ子、と告げるキャロルの哀しい声音。 (これが私への罰か。永劫に消えぬ私の罪に対する罰か・・・) 「・・・・そのようなこと、言われるまでもないこと。私はこの子を愛する。 私の愛するそなたが産んだ子だ。何故、愛さぬ道理があろう。 私はそなたとそなたの産んだ子を愛する。誰にも渡さぬ。どこへもやらぬ」 王子は冷たく固い妻の身体を寝台から抱き起こした。 「愛しているのだ。愛しているのだ。何故、分からぬ?何故、分かってくれぬ?」 「何故と訊くの?私を騙してまでこんな情けない境遇に追いやった人が? 死にたかったのに死ぬことすら許されず、屈辱の中で生きるしかないようにした人が?」 0−2 その時、嬰児が元気な泣き声を上げた。キャロルは反射的に赤子を抱き上げるとぎこちなく初めての乳を含ませた。 赤子は小さな小さな口をいっぱいに開け、乳首を探り当てると慣れぬ様子で命の素を飲み始めた。 静かな産屋の中に一心に乳を吸う嬰児の息遣いだけが響く。 望んで授かったわけではない命なのに、心ならずも産み落とした冷酷な男の子なのに、キャロルはまだ名付けられてもない嬰児を愛しい、と思った。 (そうなのね。無事に生まれてきてくれたあなたは何の罪もない。私を信じ切って全てを任せてくれる。 だったら私はあなたを愛し、守ってあげる。誰にも欺かれないように。幸せになれるように。 無垢なあなたが・・・私の生きさせる。私にはあなたしかいない・・・) まだ目が見えるわけでもないだろうに、赤子は父親譲りの茶色の瞳でキャロルを見つめた。キャロルの目に涙が盛り上がり、薄紅に染まった頬を滑り落ちた。 不意にキャロルの肩に大きな王子の手が置かれた。王子の目に暖かく真摯な光が宿り、その偽りのない誠実さがキャロルの胸を激しく打った。 「私は生涯かけて、そなたとそなたが産んでくれた和子を守ろうぞ。 それが私の・・・そなたへの詫びであり、心の証だ」 「王子・・・」 自分への激しすぎる愛故に、重い罪を犯した憎い男。正々堂々と王者の道を歩むべき男が、足を踏み外したのは何故だったのか。 キャロルは自分に触れる王子の手を乱暴にはねつけたりせず、ただそのままにしておいた。男の体温はゆっくりと赤子を抱くキャロルのそれと溶け合っていった。 0−3 王子とキャロルの間に生まれた男の子はスレイマンと名付けられた。 キャロルがこのスレイマンを愛することはこの上なく・・・そしてイズミル王子はそんな母子をこれ以上はないというほど大切に愛した。 口では決して多くを語りはしなかったが、イズミル王子の細やかな心遣いと愛情は常にキャロルの上に注がれており、キャロルもまたいつしかそれを拒絶することをしなくなっていったのである。 それが愛なのかと問われれば、キャロルは首を傾げ、王子もまたキャロルを慮って明言は避けただろう。 しかし初めて父と母となった男女の上には初めて穏やかな時間が流れ始めていったのである。 キャロルと遊んでいたスレイマンは、ムーラと共に中庭に現れたイズミル王子を見つけると嬉しそうに駆け寄ってきた。 「ちちーえ、ちちーえ!」 「おお、スレイマン」 イズミル王子は笑み崩れ、我が子を抱き上げた。 父親に得意げに拾った小石を見せびらかすスレイマンを見るムーラの瞳もまた優しい光を宿していた。 0−4 イズミル王子はスレイマンを軽々と抱き上げて城壁の上に連れていってやった。 はしゃぐ幼児を大切に抱きかかえる大柄な男性を見送る二人の女性、キャロルとムーラ。 先に口を開いたのはムーラだった。 「スレイマン様は大きくなられましたこと。それに・・・何と父君によく懐いて。 私はあのような穏やかなイズミル王子のお顔を見たことがありませぬ。 いつも厳しい顔を崩さなかったあの王子があのように笑われる。 私は嬉しい。王子があのように幸せそうであるのを拝見いたしますると」 キャロルは黙ってムーラの言葉に耳を傾けた。 (そう・・・スレイマンが生まれてあの人は変わった。それは私も気づいていることだわ) 「姫君、ありがとうございます。 姫君の胸の内に渦巻く思いは同じ女として痛いほど分かります。私の愛し子はあなた様に対して、人として決してしてはならぬことをなされたのでございますもの」 「ムーラ?」(気づいている?この人は?) 「卑怯なる手段でもって姫君を妃とし・・・あなた様もご自分も不幸になる道を選んだ我が王子なのに・・・あなた様は王子の和子を生みまいらせ、そして愛し慈しんでくださる。 本当なら憎い憎い男の子供、殺したいほどでしょうに。姫君が王子を許せぬ者と蔑み憎むのは道理でございます。 しかしその憎い相手の子を慈しむ姫君の慈悲のお心が私にとっては何よりもの救いと映るのです。私の、私の愛するイズミル王子への慈悲が有り難いのです。 ありがとう、姫君。本当にありがとうございまする・・・」 キャロルはただただこみ上げてくる涙を堪えて、ムーラの手を押し頂くばかりだった。 0−5 それでも平和な日々は長くは続かなかった。 エジプトのファラオが妻を拐かした犯人をようやく発見し、復讐と奪還のための戦を始めたのである。 火のようにヒッタイトに攻め入るエジプト王。エジプト軍の士気は高く、軍はあっという間にヒッタイトの奥深くまで侵入した。 戦が始まってわずか一ヶ月の間に・・・ファラオはイズミル王子とその“妻子”のいる城塞を包囲したのである。 (くっそう・・・!援軍さえ来れば、そしてこの炎熱の季節さえ終わればエジプト軍など蹴散らしてくれるものを!) 敗色濃いヒッタイト軍の城塞。矢狭間から包囲軍を見下ろすイズミル王子の顔には疲労と苛立ちの色が濃かった。 少ない自軍でヒッタイト軍はよく持ちこたえていた。だが守り一遍倒れの軍の分は悪かった。 王子が部屋の中を振り返れば、スレイマンを抱えて不安そうにしているキャロルと目があった。キャロルはスレイマンを熱風から守るために自分のベールを与えてやっている。 「姫、これを」(今少し自分の身を省みよ。そなたに何かあれば私は) 王子は自分のマントをキャロルに与えた。豪華なマントは消耗と絶望をもたらす乾風からキャロルを守るだろう。 「でも王子が。私は大丈夫だから」(この子と、この子の父親のあなたが無事でいてくれるなら) 「私は大丈夫だ。姫、どうか私のために・・・いや私とスレイマンのためにその身を大切にしてくれ。さぁ・・・」 0−6 その時。 大音響が城塞を揺るがした。 「エジプト軍が城門を突破いたしましたっ!」 「くっそう!ひるむな!援軍が来るまで持ちこたえよ!」 王子はそう言いながら鎧甲を身に纏った。 「姫、そなたは脱出いたせ。何があってもそなただけは無事でいてくれ!エジプト軍もそなたに無体はいたすまい」 そう言って王子はキャロルの腕の中からスレイマンを抱き取った。じき3歳になろうかという大柄な男の子は大まじめな顔で父親を見つめた。 「いやっ!スレイマンをどうして取るの?返して、私の子よ!」 「ならぬ。こればかりは・・・。スレイマンは私の子でもある。ヒッタイトの嫡流だ。どうして・・・そなたと共に落ちさせてやれよう。 私がスレイマンを守る。必ずだ。だからそなたは今の内にファラオの許に行け。 ・・・・・私が愛するそなたにしてやれる最後のことだ。そなたに心染まぬ懐妊を強いた私が今更・・と思うだろうが。私は・・・」 「いやっ!私もここに残る。ひどいわ、今になって私を捨てるの?もうヒッタイトにしか居場所のなくなった私を? 私はスレイマンの母親です。あ、あなたがスレイマンの父親であるのと同じように。お願い、私もあなたと一緒にいさせて!」」 「姫・・・そなたは・・・」(私と一緒にいてくれるのか?私を選んでくれたのか?) 見つめ合う王子とキャロル。 だが二人がそれ以上、相手の気持ちを確かめあう時間はなかった。 エジプトのファラオ メンフィスその人が・・・血塗れの剣を下げて単身乗り込んできたのである。 「キャロルっ!無事かっ!」 数年ぶりに最愛のキャロルに再会したメンフィスの喜びは一瞬にして潰え去った。彼が見たのは幼子を間に寄り添う男女の姿だったのである。 「・・・・イズミル、貴様、キャロルを・・・! おのれっ、忌々しい餓鬼共々殺してやるっ!!!」 メンフィスは信じられない素早さでイズミル王子とその腕にある幼子目がけて斬りかかってきた。 0−7 「だめぇっ!」 キャロルの絶叫が響きわたる。 「私の大事な人たちを殺さないで!取らないで!」 メンフィスの剣と、王子の間に割って入ったキャロル。 振り下ろされる剣。白いうなじに食い込む剣。 全ては音と色を失ったスローモーションのような現実味のない風景・・・。 「姫っ?!」 王子は咄嗟に何が起こったか理解できぬままに自分を見つめる青い瞳を見つめ返した。キャロルは万感の想いを込めてイズミル王子を、その腕の中にあるスレイマンを見つめた。 (あなた達こそ無事でいて欲しい。無事に逃れて生き延びて欲しい。それが私の望みだから。 私はスレイマンを・・・王子を・・・) キャロルは思った。死の直前の永遠の一瞬のうちに。 (そういえば・・・私、一度も言っていない。愛しているって。スレイマンにも・・・王子・・・にも・・・) キャロルはメンフィスを愛した。その心に偽りはない。 だが。同じようにイズミルを、自分にスレイマンを授けてくれたイズミルをも愛するようになった。 それはメンフィスに対して抱いた激しい炎のような愛ではなく、静かで曖昧な色合いの愛であったかもしれない。 穏やかで複雑な陰影を帯びた愛。それはキャロルが苦しみ悩み育んだ愛。 恋することもなく、いきなり子を産ませた憎い男ではあったがキャロルは間違いなく王子を理解し、受け入れられるようになっていた。長い長い時の後に。 (愛していますって・・・・でも・・・もう言えないの・・・) 王子はキャロルを抱き留めて、その頭を抱き寄せようとした。だがその手は虚しく空を切った。 はずみとはいえ、怒り狂うメンフィスは一刀のもと、憎いイズミルとその子を庇ったキャロルの首を切り落としたのである。 イズミル王子の目の前が真っ赤に染まった・・・・。 |