『 たった一つの言葉 』

21
「何か書物がないのかしら?」というキャロルの問いにムーラが幾分自慢げに
「王子の私室に数多く揃っております」と答えたのが発端だったとキャロルは思った。
泣いて感情を爆発させた後、キャロルは今更ながら王子に向かうと恥かしくなり、ぎこちない態度を取っていたが王子もキャロルの気持ちを汲んだのか、穏やかに笑う程度で接しており、落ち着いた日を過ごしていた矢先だった。
丁度人気のない折、王子の私室という今まで入った事のない、王子の一面を知る部屋を覗いてみたいいう好奇心もあり、こっそりと入り、書物を少し見せてもらうつもりだったのだ。
そこは世継ぎの王子の部屋としては、非常に簡素で実用的に整えられた部屋で、キャロルは今まで自分が知った王子の一面を納得させるものでもあり、反面大国の世継ぎの君なのに意外であるという驚きを感じた。
使い込まれた武具、剣や弓矢などの手の跡、積み重ねられた粘土板、巻いてまるでピラミッドのようになっている書物が知らない間にキャロルの顔に笑みを呼んだ。
誠実で努力の跡の見える部屋だとキャロルは思った。それがまるで自分の事のように嬉しく思えた。
でもあの人は本当に私を愛してるのかしら?そつがない洗練された仕草で、私をからかうばかり・・・・。
肝心なことはまだ何も聞いてない、私だって嫌いじゃないとしか言ってない・・・。
物思いに耽っているうちに足音が近づいてきて、キャロルは悪戯を見つかった子供のように垂れ幕の陰に潜んでしまった。
王子はキャロルが此処に居ても怒りはしないだろうけど、自分は恥かしいと思ったのだ。
「・・・私室までお供いたしまして申し訳ありませぬ、ですが、内密の件でございますれば・・。」
「構わぬ、将軍、分かっておる」
入ってきたのは王子と王子に忠心を捧げ、影のように仕えている将軍のようだった。

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「して首尾は?」
「はい、エジプトのメンフィス王の弟と名乗るネバメンとやらは、なんと罪人でした、先日同じ牢にいたという男に確認させました。」
「ふん、罪人か・・・。なかなかの大芝居を打ったものよ。」
「なんでも火傷した腕の部分には罪人の証たる刺青があったそうで、ネバメンを見た医師も何ゆえこんな所に火傷をしたか不審に思っていたというこですな。」
「罪人である証があれば、メンフィスが死ねば、王位継承権のあるのは姫だけぞ、充分エジプトに乗り込めるな。」
冷笑とも言える王子の声音にキャロルの身体は固まった。
「メンフィス王といえば、あの殷という東の国からきたリーという男の針の技は、見事なものでございましたな。」
「あやつは毒に体を慣らしておるゆえ、毒では死なぬ。あの針で体の自由を瞬時に奪えるのは便利なものだ。」
「あの男はエジプトに潜ませておりますゆえ、王子の命があれば、直にでもメンフィス王の命を奪うでしょうな。
 大層王子に恩義を感じておる様子、裏切りはないでしょう。」
「となれば、メンフィスの命は我らが思うままだな、だがまだ早い。ネバメンとやらの身元が明るみに出た時こそ・・。」
「ですがカーフラ妃が嫁しておりますれば、油断なりませぬ。リビアの介入も読まなければ。」
「ふん、いざとなればリーに始末させよ。」
恐ろしい会話の内容にキャロルはどうにか身体の震えを押さえようと必死だった。
メンフィスが倒れたのも目覚めさせたもの全ては王子の仕業だなんて!
しかもエジプト王家が隠そうとしていたネバメンの事も証拠まで押さえている。
そして私が王位継承権を持っていることゆえに、王子は私を手元に置きたがったのだわ。
ばかなキャロル・・・王子の優しさは見せかけだったのに・・それを信用しようとしてたなんて・・・・。
早く、早く逃げなければ・・・・。
「悪い子だ、姫ともあろう者が盗み聞きとは・・・。さて、悪さをしたそなたには仕置きが必要だな。」
いつの間にか垂れ幕を捲りあげ、王子が自分を見つめていた、あの穏やかな笑顔で。
薄茶色の瞳にはキャロルに分からない光が宿っていた。

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「お・・・王子・・・。」
王子の笑みがキャロルの恐怖心をますます煽り立てる。あの冷たい眼の光は何?
「将軍、用ができた、下がれ」
王子の口調には有無を言わさないものが潜んでおり、将軍はちらりとキャロルの方に心配そうな眼差しを投げかけて姿を消した。
将軍の後を追うようにキャロルも慌てて扉の方に走り出そうとしたが、王子の逞しい腕が伸びてきて腕と腰を捕まえ抱き寄せた。
「困った姫だ、そなたには知らせるつもりはなかったのだがね・・・。」
ねっとりした甘い囁きは、ヒッタイトでの初めての夜に聞いたものと同じ響きを持っていた。
そうだ、悪魔が囁くような・・・穏やかな中に淫靡で何か奥底に秘めた計り知れない怖さをもって・・・。
「帰る・・帰ります!エジプトに帰らなきゃ!」
腕のうちでキャロルは必死になって抗った。私がここにいることでまた戦になったりしたら!
それがキャロルの一番の心配でもあり、そしてメンフィスを助けたいと思ったのだ。
「エジプトにはそなたの居場所などないぞ、そなたは私の正式な妃、そなたの婚姻をもって同盟が締結したのではなかったかな?」
なんでこんな恐ろしい事を平気な顔で淡々と話せるの?悠々とした涼しい表情で!
「それにカーフラ妃がおるのを忘れたか?カーフラのメンフィスに対する執心はかなりのものと聞いておる。
 そなたなどいとも簡単に殺させるぞ。」
笑い混じりの声音にキャロルも思わず腹が立って言い返す。
「メンフィスは私を愛してくれてるわ!損得など考えずに!アイシスよりも私を優先して結婚したんですもの!」
身体に廻された腕に力が入り、キャロルは痛みにかすかなうめき声を洩らす。
「そなたが悪いのだよ、私の愛を信じないのだから・・・。だがもう遠慮は要らぬ、分からせてやろう。」
イズミル王子に抱き上げられて寝室に連れ込まれようとするキャロルの口から悲鳴が響き渡った。

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どのくらいの時間が流れたのか、キャロルにはわからなかった。
窓も扉も締め切った薄暗い寝室の中、イズミル王子は憑かれたと言わんばかりにキャロルを求める・・・・。
頭の中には綿でも詰まっているのか、自分に何が起こっていいるのかさえはっきりしない。
体が重く、幾度も絶頂へと追いやられるのも今は苦痛のようにも思えた。
王子の動きのままに翻弄される白い体には、まるで自分の意志というものが感じられなかった。
でも耳に残る王子の囁きは、キャロルの心を切なく締め上げた。
何故に申さぬ・・・この私を愛すると・・・。あのテーベで、布を落としてそなたと会うた時から、私が愛するは天にも地にもそなた唯一人だというに・・・・。
さあ、我が名を呼べ、そなたを抱く私の名を・・・!
自分の名を呼べと、愛してると言えと言うその様子に、キャロルは返って物悲しいものを感じてしまうことを禁じえなかった。
私に命令するその言葉の裏に、この人はどれほどの哀しみや孤独を抱いているのか・・・・。
荒い息を吐いて汗ばんだ胸に抱き寄せるこの人に、私はどういえばいいのだろう
王子だって私のことを愛してるなんてちゃんと言ってない・・・・。
ただ『いとしいそなた』とかそんな風にいうだけ、メンフィスだって言ってくれたのに・・・・。
こうして抱かれていると、よくわかるのに、ばかな人・・・・。
私だって何にも言えなくなる・・・・・。
私にはも帰るところもなんにもないのに・・・。
頬に伝う涙を黙って王子が唇で拭う。仕草はこんなにも優しいのに、心がすれ違ってばかり・・・・。
身体は熱いのに心が冷めてるなんて、とキャロルは思う。
今の私に出来ることは何もないのかト、キャロルは考えることを放棄した。

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その夜のイズミル王子はいつになく疲れているようにキャロルには見えた。
黙って杯を傾けている、眉目秀麗な顔立ちには、どことなく近寄りがたい雰囲気さえ漂っていた。
何かあったのかしら?でも王子は私には私には何もいわないし、どうしたら良いのかしら?
不思議そうに、また自分を心配しているのか黙って見つめているその無防備な細い体を見たとき、 イズミル王子は少し表情を和らげ、キャロルを膝のうちに抱き寄せた。
「あの・・・どうかしたの?何かあったの?」
キャロルの問いかけに、王子も話す必要があると思ったのか、杯を置き、もう一度キャロルを抱きなおして口を開いた。
リビア国王がエジプトを訪れた折、一行に紛れ込んだ者に襲われたこと、その際にカーフラ王女と側にいたネバメンが襲われ命を落としたこと。
弔いもそこそこにリビア国王が帰国したことで、リビア国内の内政不安が表面化してしまったこと。
表向きネバメンも王家の者として葬儀が行われることなど・・・・。
王子の静かな声音のなかに、キャロルは陰ながら王子が関与したことを知った。
「そなたは何が望みだ?エジプトが欲しければそなたにやろう、どうする?」
突然の思ってもみなかった問に、キャロルは驚いて青い目を見開いた。
「いいえ!いらないわ!私・・・国なんて欲しくない!」
「では何を望む?黄金か?その身を飾る宝石か衣か?城か?」
「そんなもの、何にも欲しくない!欲しいのは・・・・。」
欲しいのは・・・・とキャロルは口篭もった。元々物欲の薄いキャロルである、宝石も黄金も自分にはそこまで執着がなかった。
「ほんに・・・そなたは変わった姫だ、」
大きな手が小さな白い頬を包み、薄茶色の瞳が覗き込む。軽く開いた薔薇色の唇を塞ぐそれ・・・。

26
私が望むのは何?
国も宝石もわたしにはそこまで価値がない。
帰るところもなく、私は一人なのに・・・。
そう、愛し愛し合える人、家族があれば・・・・。
王子は確かに私を大事にはしているみたいだけど、私にはまだよくわからないわ。
パパとママのように、あんなふうに愛し合えるのならいいのに・・・・。
王子の唇も手も胸の中も、全ては安心できるのに、でも私には足りないの。
何が足りないの?私が欲張りなだけ?
「・・和子が・・・いや・・なんでもない・・・。」
王子の呟きがあったが、キャロルの耳には良いのか悪いのか届かなかった。
「姫、明日から私は出かけねばならぬ、しばらく留守にするゆえ、いい子にしておくようにな。」
からかうように笑いの含んだ声が、キャロルの物思いを打ち破った。
「どこへいくの?」
キャロルは自分でもそれと気付かぬうちに王子にしがみ付いていたらしい。自分の胸元の衣装を握り締める白く小さな手を王子は眼を細めて見ていた。
姫は、自分ではわかってはいない、だが確実に自分を愛し始めているのだと、
王子の顔にはかすかな笑みが広がった。
「おやおや、そんな寂しげな顔をするとは・・・。やっと私も人並みに妻に愛された男のような気にさせられる・・・。」
王子の笑いを含んだ声音が、キャロルの頬を紅潮させる。
顔を背ける幼い仕草が王子の表情を更に綻ばせ、腕は逃すまいと華奢な体を絡みつく。
「すぐに戻る、いい子にしておれ。」
キャロルは自分の受けたショックを悟られないように、必死に王子の胸の中に顔を埋めた。
ちょっと留守にするって聞いただけで、どうしてこんなにもショックなのかしら?
いない方がいいはずでしょう?キャロル。
自分の感情の起伏にコントロールのきかないことがまらキャロルには信じられなかった。
そしてそれが唯一耐えられる方法であるかのように、大きな背中に腕を廻したのである。

27
王子は何時戻るの?
王子の不在が反ってキャロルの意識をそちらに向ける。
体に残った、王子の愛した跡も消えてしまったけれど、そのことがもっとキャロルに寂しさを募らせる。
「・・王子はいつ戻るのかしら・・・。」
ムーラから手渡された飲み物を手に取り、キャロルがポツリと呟くのを王子の乳母は逃さなかった。
彼女の養育した王子が大切にする少女・・・でも王子が思うほどには王子のことを思ってはいない、エジプトの妃となっていた少女。
王子の幸福を願う乳母にしてみれば、未だに王子に対して心を開ききらない少女が憎らしくもあり、早く心の通じ合う夫婦となって欲しいと願ってもいたのだ。
「王子はお忙しい方でございます、この程度の留守でそう寂しがられてはお困りになりましょう。
 そのうち和子でも誕生なされば、そのようなことなど話す暇などありませぬ。」
ムーラの厳しい言葉にキャロルの表情は強張った。
内心きついことでも言い過ぎたかと、ムーラもほんの少しその厳しい表情と口調を和らげた。
「あのようなご寵愛ですゆえ、じき身ごもられましょう、ほんに今から楽しみですわ。
 王子でも姫でも、あのお方にお仕えしたようにお世話をして差し上げるのが・・・。」
「・・お願い・・一人にして・・・。」
キャロルはムーラの言葉を遮り、子供が嫌がるように首を左右に振った、気のせいか顔色も少し悪く見える。
年齢の割に幼い方なのかと訝しがりながらムーラはキャロルを置いて引き下がった。
キャロルにしてみれば考えたこともなかったこと、いや考えないようにしてきたことを今咽喉元に突きつけられたような気がしていた。
赤ちゃん・・・愛し愛し合える夫婦の結晶・・・・。
私の身体は?いいえ、まだそんな兆候など見せてはいないけれど、エジプトを出てからどれくらい経った?
まだ早いわ、早すぎる!
私と王子はただの体がつながっただけに過ぎない。お互いに心が通じ合ったわけではないのだ。
でも・・もし妊娠していたら・・・・。
キャロルの答えは一つだけだ、それを喜び待ち望むであろうこと。
でもそれを素直に喜べるのか否か、キャロルは途方にくれて両手で顔を被った。

28
キャロルは黙って物思いに耽ることが多くなった。
王子の留守ももう半月ほどもなり、今何処にいるのか所在さえはっきりしなかった。
ただでさえ王子の移動は早く、情報は伝わりにくいのである。
そのことはキャロルもよく承知しており、誰に対しても文句を言うわけでもなく、ただじっと一人で沈黙を守っている様子に、キャロルをよく知るルカもなんとか元気付けようと散歩などの気晴らしを勧め、自らも護衛を兼ねて黙ってキャロルの後をついて歩いた。
「そちらは・・・いけません、姫君、そちらは立ち入らないよう言い付かっております!」
いつの間にか後宮とおぼしき方へ二人は入り込んでいたらしかった。
「え?そうなの?でも・・女の人がおしゃべりしてるだけよ、ルカ。」
「なりません、さあ、姫君・・・。」
ルカが半ば強引にキャロルを連れ去ろうとする背後から、艶やかな女性の声が響いている。
「・・早く王子様、お戻りになられないのかしら?最近、こちらにはお見えにもならなくて・・。」
「こちらにいらっしゃる時はナイルの姫君から一夜たりとも離れないんですってさ。
 あんな子供子供した姫の何処がいいのかしらねえ・・・?」
「どうせすぐこちらにいらしゃるに決まってるわ、国王様の御子ですものね。」
「そうね、あんなに情熱的な国王様の御子ですもの、ほほほ・・・。」
キャロルの耳に届く王子の噂話に、キャロルは動揺する。
王子のキャロルの繊細な心を傷つけまいとする心遣いを今更ながらにルカは敬服し、キャロルを急いで抱き上げて宮殿に連れ帰った。
青ざめた顔をする主君の想い人をルカは言葉少なくとも慰めようとした。
そのルカにキャロルは無理に微笑んで見せた。
「大丈夫よ、ありがとう、ルカ。気にしてないわ、それよりせっかく散歩に誘ってくれたのに、ごめんなさいね」
ルカを気遣う優しい言葉をキャロルの口から出すのに、言葉と一緒に涙まで零れ落ちる様子に、ルカの心には王子とキャロルに対する詫びの言葉しか浮かんでこなかった。

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キャロルはこのところ庭の杏の木の下で物思いに耽る時間を過ごすことが多かった。
当人は知らなかったが、そこは王子が一人で寛いで過ごす場所で、人払いのしてある場所だったのだ。
木にもたれてかすかに漂う甘酸っぱい香りの中で、キャロルは王子のことを考えていた。
そこへルカが血相を変えてキャロルに報告しにきたのだ。
先ほど王子が戻られたが、負傷されたとのことで、極秘に戻って来られたのだ、と。
「そんなばかな・・・。王子の帰国にこんな静かなはずがないわ!」
キャロルはショックで目の前がくらくらするような頭をなんとかしゃんともたげて、ルカに詰め寄った。
「ですが・・世継ぎの王子の負傷ならば一大事でございますれば、隠密にされたのでは・・・・。」
ルカの言葉にキャロルは慌てて宮殿の方へと駆け出した。
嘘よ、嘘に決まってる!王子が、あの王子が怪我を?
私、まだ何にも言ってない!あの人にまだちゃんと言ってない!死ぬわけないわよね?そうよ!
王子の寝室には戸張が下ろしてあり、昼間なのに薄暗く設えてあった。
ムーラがいつも通りに静かに側に仕えていたが、キャロルが駆け込んできた姿に目を止め、
「まあ、静かになさいませ、姫君!」と小さな声で叱責した。
薄暗くした寝台の上で久し振りに見る王子の端整の顔は、この前見た時よりも幾分痩せたのか荒々し異様にキャロルの目には映った。
目を閉じた顔がキャロルに死の宣告をしたようにすら思われる。
酷い人、私にちゃんと言わせないの?言ってくれないままで終わってしまうの?
キャロルの頬をぽろぽろと涙が零れ落ちる。キャロルはふらふらと寝台の横に膝をついた。
「・・王子・・・王子・・・。」
「・・・何事だ?何故に泣く?うん・・・?」
寝台に伏せるキャロルの後頭部にふわりと温かい手の感触がして、キャロルは驚いて顔をあげた。
「私のために泣いているのか?それは嬉し泣きだとよいのだがね・・・。」

30
目の前にある幾分やつれた穏やかに微笑んだ王子の顔。
自分でも分からなかったこんなにも恋焦がれていたと思い知らされた懐かしく端整な顔立ち。
「だって・・・王子・・・王子が・・怪我をしたって・・。」
なんとか言葉を搾り出そうとするキャロルの目の前で、王子は悠々と半身を起こし、逞しく磨き上げた上半身の裸体を露にした。
「ああ・・・これのことか、矢で少し擦っただけだ、かすり傷とも言わぬ。」
太い左腕に巻かれた布がキャロルに示された。その瞬間に大きな安堵感と幸福感がキャロルの心を満たした。
「夜通し馬で駆けたのでな、仮眠を取ってからそなたに会うつもりだったのだよ。どうしたのだ?姫。」
王子からまるで表情を隠そうとしたように、キャロルが俯いたのを彼は逃さなかった。
機嫌でも悪くしたのか、と王子の手が細い肩に触れようとした瞬間。
「王子のばか!ばか!・・私がどれほど・・心配したか!」
「姫君!?」
ムーラはキャロルの言動に度肝を抜かれたと言っても過言ではなかった。
王子の胸を泣きながら小さな拳で叩き、アナトリアの近隣諸国に賢王子としてあまねく令名の響き渡る彼女の養育した王子が、この小柄な少女にばかだと罵られているのである。
「この私をばかだと罵ることが出来るのはそなたくらいなものだ、姫よ。」
ムーラが聞いたことのないような朗らかな笑い声が王子の口から飛び出した。そしていとおしそうに黄金の髪を撫で小柄で華奢な体を胸に抱く。
「変だと申してみたり、罵ってみたり、ほんにそなたには驚かされる・・・。」
ムーラにすればあまりの無礼に怒るしかないことを、王子は笑いながら楽しそうに腕の中の少女に語りかける。
「すぐ・・戻るって言ったくせに・・・。私が・・どれだけ・・・心配したか・・・・。」
「ああ、すまなかった、状況が変わって随分と足を伸ばさねばならなかったのだよ。」
それは誰が見ても恋人同志の睦言にしか聞こえなかった。キャロルの言動に驚かされたムーラもそれを認めないわけにもいかず、呆れるやら怒っていいやら感情を持て余しながらも、主君の喜びに満ちた表情を見てムーラはそっと部屋から引き下がった。
彼女が和子をその腕に抱く日もそう遠いことではないと思いながら。

31
懐かしい温もりと匂いがキャロルの体を包む。
たくさん話さなければならないことがあるわ、いない間に、王子になんて話そうかと、ずっと考えてたのに・・・・。
でも言葉が出てこない。なんて言えばいいの?
王子の手が優しく体の線をなぞる、王子の声が耳元で甘く囁く。それがこんなに幸福なことだったなんて知らなかった!
「こんなにそなたが私を恋しがるならば、時折は離れるのも悪くはない、こんなに愛らしいとは・・・。
 だが私のほうが我慢できぬだろう、そなたの白い顔が胸に浮かんでばかりいた・・・。どれほどそなたを愛しているか・・・。」
小さな頤をやんわりと掴む王子の手で、キャロルは新たな涙を零しながら自分を見つめる薄茶色の瞳を見つめ返した。
「そんなに泣くほど私が厭わしいか?」
いつもは落ち着いた物言いの王子には珍しい不安げな口調にキャロルは首を左右に振った。
「違うの・・・。嬉しいの・・・。あなたが怪我をしたって知った時、どうしてもっと早くあなたのことが好きだって言わなかったんだろうって後悔したの。
 私ずっとあなたが私を愛してるって言ってくれる言葉が・・・それが欲しかったの・・・。」
「黄金よりも宝石よりもか?」王子の声には愛された自信を持った響きがする。
「ええ・・・そのたった一つの言葉欲しかったの、今やっと分かったわ・・。」
「なんとまあ、欲のない姫だ!これからいくらでもそなたの望むかぎり与えようぞ。
 そなたを愛しておる、そなたしか愛さない。」
その言葉にキャロルはきつく王子の胸にしがみ付いた。
やっと埋まったのだわ!私のどこかに欠けていたもの!足りなかったもの!
でも私も同じように王子に感じてもらいたい!この人が好きだから!愛しているのだから!
「愛してるわ、王子・・・。」
キャロルの囁きは王子の顔に満足そうな笑みをもたらし、更に継げようとした薔薇色の唇は口付けによって封じられた。

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キャロルに愛を囁く低く掠れた声がどんなに至福の時に誘っていったか、王子の名を幾度も呼ぶ甘い呻き声が王子を精神的な充足が肉体的にも遥かに深い満足を得るのに不可欠だったことを改めて知らせた濃密な時間を、二人は互いに分かち合い補って過ごした。
寝乱れてもつれ合う黄金の髪、疲労の色濃い艶やかな顔、白い肌に鮮やかに咲く幾つもの口付けの跡、それは王子が夢にまで見た愛しい少女の姿だった。
深い満足感で心地のよい疲労が王子にも眠気を誘うが、腕の中にいる細く白い裸身をまだ手放す気にはなれず、手は常に手放すまいと白く半透明な輝きを持つ肌から離れようとはしなかった。
口付ければ王子の要求に応える薔薇の唇も、たおやかに応える身体も何かもが王子を喜ばせた。
青く澄んだ瞳が満足そうに覗き込んでいる薄茶色の瞳と合った時、二人はどちらからともなく微笑み合った。
「どうしてもっと早く戻ってきてくれなかったの?私、毎日そのことばかり祈っていたの・・・。」
「可愛いことを申す・・・さて褒美はどうしようか?私をこのように喜ばせてくれるのはそなただけだ・・・。」
聡明なキャロルはそんな戯言では誤魔化せなかった、理由があってのことだと分かっているのだから。
「何かあったのでしょう?」
責めるわけでなく静かに問われると、王子の気持ちも変わり、右ひじをついた体勢に直し、眼の部分を空いた手で被った。
「そなたにも話しておかねばならぬ事ゆえ・・・。」
王子の苦笑した表情にキャロルの口許も引き締まった。

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「アイシスにしてやられたのだ・・・。」
その言葉に意外な名が出てきたことで驚愕した青い瞳が見開かれた。
王子はバビロニアの動向を探っていた、と話を始めた。
するとアイシス妃が療養と称して潮の海の神殿にもう数ヶ月に渡って潜んでいると聞き、何かあると疑いを持った王子は調査を始めたのだ。
だがその件のみならずあちこちの間者と連携を取っていると、突然エジプトのメンフィス王に王子誕生の知らせが入った。
他に和子がいるわけでもなく、当然世継ぎの誕生にテーベでは沸きかえった。
だがメンフィスに側室らしい存在があったことも聞き及んでいない上、国母となる女性は王宮に仕える女官で産後の肥立ちも悪く早世したという。
負に落ちないことばかりだったが、そこでアイシスがバビロニアに嫁す頃には、どのような手を使ったかは不明だがメンフィスの子を身ごもっていたのだと判明したのだ。
そして体調不良を理由に療養と称して潮の海の神殿に篭り男児を出産し、頃合を計ってその男児はテーベへと運ばれた、と。
エジプトの政を司るメンフィス、宰相、大臣はその赤子を見て王子と認めないわけにはいかなかった。
それほどまでに和子はメンフィス王に生き写しであったのだ。
血筋の面では申し分のないこの和子は直ちに体裁を取り繕われ、皇太子となるべく正当なる王家の世継ぎとしてネフェルマアトの名を賜り、

国中に公布した、というのが真相なのだ、と自嘲するように王子は語った。
「そなたにエジプトをやろうと思っていたのだが、世継ぎが出来てしまうと武力以外では乗り込み難い、
 さてどうしようか?」
想像もつかなかった成り行きにキャロルは驚いて声も出なかった。
でもアイシスのメンフィスの子供をなんとしても産もうとした硬い決意に、悲しいものを感じることをとめられなかった。
自分は敵対する国の王妃でありながらも、たった一人炎のようにメンフィスを愛したアイシス。
分かり合うことの得ない美しいエジプト王家の姉弟をキャロルはただただ哀れだと思った。

34
「エジプトなんていらないわ・・・。」
自然とキャロルの唇から言葉が零れた。
あんなにも帰りたいと恋焦がれたエジプトも、そしてメンフィスも今は何の感慨も呼び越さなかった。
自分でも不思議なほどそれは遥か彼方の存在のように思えた。
「そなたがエジプトに帰りたいと申すのなら奪ってしまえばよいと思っていたのだ、
 ならばそなたもここで落ち着くであろうと・・・。」
困ったように微笑んだ王子の顔が、キャロルにも驚くほど子供のように可愛らしく感じるなど今まであったろうか?
そしてそれが王子が自分に対する愛情ゆえのことだったことが、どれほど嬉しく思われたことか!
「私、自分のいる場所をちゃんと見つけたわ、ここだもの。」
そう言ってキャロルは王子の胸に軽く頭を持たせかけた。王子の顔が歓喜の表情に取って代わる。
「他には何もいらない、あなたがいればいいわ、本当よ。」
細い腕がしっかりと王子の背中に廻された、それと同時に太く逞しい腕がキャロルの身体にも廻される。
「欲しいのは言葉だけよ、言ってくれる?」
王子の長く垂らした茶色の髪がキャロルの顔に影を作った、そして耳元で囁く低く響く愛しい声音。
「そなたを愛してる・・・。」
キャロルはこれから訪れることを予想して目を閉じた。
なんて自分は幸福なんだろうと思いながら・・・・。

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