『 流転の姫君 』 71 メンフィスの死の知らせを聞いて、キャロルの心はこれでもう狙われないという安堵感とメンフィスを哀れに思う気持ちからか、ひとしきりイズミル王子の胸の内で涙を流した。 「知っていたわ、メンフィスが若くして亡くなるのを・・・。 愛していたらメンフィスが亡くなるその日まで、なんとか運命に抗おうとしたかもしれないわ。 その日までそれを乗り越えようとあなたを愛したように、愛で強い絆を結ぼうとしてたわ、きっと。 でも私はあなたを愛してしまった・・・。今はただメンフィスが哀れとしか思えないの・・・。」 イズミル王子は大きな身体でキャロルの華奢な身体をつつむように抱きしめた。 肩に流れた金の髪が嗚咽に揺れるのを見ながら、イズミル王子はキャロルを慰めた。 「もう泣くでない、そなたの身体に障るであろう。そなたは大事な身体なのだ。 何事かと和子も驚いておろう、姫よ。」 今はまだ目立たないが、ほんのりとふっくらしたキャロルの腹部に手を当てイズミル王子は微笑み、そして寝台に連れて来てくれたところであった。 やはりルカがキャロルの身辺警護を担っており、変わらずに側についている。 王子がキャロルを気遣う様子を見て、その幸福そうな表情がルカの顔も明るくしている。 「ねえ、ルカ・・・。あなたと随分あちこちに行ったわね・・・。 私はエジプトの人間でもなく、この世界に存在するどの国の人間でもないわ。 家族もいなくて寂しかった・・・。 だから落ち着ける場所が欲しかったの。」 不意にキャロルが独り言のように呟いたので、ルカはキャロルの顔を見た。 「はい・・存じています。本当にさまよいましたね、あの頃は」 苦笑交じりにルカも答えた。 「でも・・今は王子がいて・・赤ちゃんもいるわ。やっと私の探していた場所が見つかったような気がする。 勿論あなたもね、ルカ、ありがとう、ずっと私を守ってくれて、どれほど感謝していることか・・・。」 「なんと勿体無いお言葉を・・・。私は姫君にお仕えさせて頂くだけで幸せでございます!」 母になりつつあるキャロルの優美な中に慈愛のこもった笑みを、ルカはなんと美しいかと感じられた。 部屋の中に甘い香りのする風が吹き込んで、ルカもキャロルもそっと窓辺を見つめた。 72 いくつか季節が移り変わり、キャロルの警護をしていたルカは、イズミル王子の国王即位の際武官として抜擢され、今やイズミル王の片腕を担うルカ将軍となった。 筋肉質の引き締まった身体には更に鍛えられ、まさに男盛りといわんばかりに貫禄がついいている。 「ルカ将軍!」と子供の呼ぶ声にルカは振り返り、6歳くらいの小さな王子に身を屈めた。 「ラバルナ王子、今は勉学のお時間ではございませぬか?ムーラが探しておりましょう。」 ラバルナ王子と呼ばれた男の子はイズミル王に顔立ちや髪の色はよく似ていたが、父のオリーブ色の肌とは違い、母からその肌の白さを受け継いでいる。 「すぐ戻るよ、ねえ、ルカ将軍、ミタムンがね、私が剣や弓の稽古をしていたら自分もするって言って泣くんだよ。王女なんだから、そんなことさせられぬわけないのにね。」 さも困ったように稽古を邪魔されたことに対する不満を口にする王子に、ルカは苦笑いして見せた。 「王女様だから、武道の稽古をしてはならぬと言うことでもありますまい。 今はまだお早いので、もうしばらく待たれたほうがよろしいでしょう。」 「どうして将軍も止めないの?父上も母上も笑うばかりで止めないんだ。 危ないのに」 「・・・あなた様の母上様も、王から手解きを受けて鍛錬なさいましたよ。」 「うそ!だって母上がそんなのしてるのって見たことないよ!」 驚いた表情のラバルナ王子にルカは微笑んで、昔の事を思い出した。 「今ナイルの妃様は大事なお体ですゆえ、ご無理はならないのですよ。 王子もご存知でしょう?次の春頃にはご兄弟がお生まれになるのですから。 折をみて、王子にお話くださいます。さあ、お部屋までお送りいたしましょう。」 ルカは納得いかないような表情をしたラバルナ王子を私室まで送っていくと扉の隙間からキャロルが、自分によく似た金髪の女の子を膝の上に抱いているのが見えた。 73 「ねえ、ははーえ、おうた、歌って!おほちちゃまの歌!」 まだ舌足らずな可愛い声が部屋の外に漏れ聞こえてきて、ルカとラバルナ王子は顔を見合わせて思わず微笑んだ。 「ミタムンはきらきら星のお歌が大好きなのね、 このお歌はね、母上の国の子供がなにか楽器を習う時に最初に覚えるお歌なのよ。」 母親らしいキャロルの慈愛に満ちた言葉の後に、優しいきらきら星の歌声が流れてきて部屋の前で大柄な身体と小さな身体は足を止め、耳をすませた。 その歌声の中に、ルカはキャロルの中にある郷愁の想いを、こんな形で昇華させていることを改めて感じ、この国に骨を埋めようとするキャロルの決意を目の当たりに見たような気がした。 この国に落ち着き、妻として母として妃として聡明に努力するキャロルと、それまでの苦労を思い出しルカは主君イズミル王とナイルの妃の為に力を尽くそうと胸のうちに誓った。 「あら、何事です?ルカ、ラバルナ、どうしたのですか?」 キャロルの声に我に返った2人に、小さな王女が「あにーえ、遊んで!」と走り寄る。 午後の陽射しを受けて黄金の髪が輝いているキャロルは、慈愛に満ちた女神のように美しいとルカは思いながらも、用件を口に出した。 「広間に商人のハサンが到着しましたので、ナイルの妃をお呼びするようにとの王の申し付けでございます。」 74 「まあ、ハサンが?嬉しいわ、今度はどこからきたのかしら?」 キャロルの顔が喜びに輝くような笑顔になる。 丁度王子と王女を探していたムーラや女官たちに子供を預けると、キャロルはルカが慎重な様子で促すのを認め、「大丈夫よ、今は体調は悪くないのよ。」と話しながら広間へと向かった。 あの竜巻の後も、いくつも戦や駆け引きを行いながら今に至っている、とキャロルも思い起こした。 イズミル王と一緒に国を統べることに後悔はない、そのために戦も、汚い手と言われるようなこともしないわけにいかなかったが民を守るため、自分も王と子供達と共に行く抜く為の手段であると理解している。 そしてそのことが反って根無し草であった自分の想いを、今はこの国に骨を埋める決意に取って代わったことを誇らしく思った。 愛するイズミル王がいる、可愛いラバルナもミタムンも、そしておなかに宿るこの子も守ってみせると必ず幸福にするとキャロルは決めている。 広間の中央の玉座には堂々たる様子のイズミル王が座し、いつも通りの優しい琥珀色の眼差しでキャロルを見る。 そしていかにも裕福な商人らしいハサンも礼を正し、晴れやかな顔でキャロルを見ている。 自分はなんて幸福なのだろうと思うと、キャロルの顔には自然と笑みが浮かんできた。 もう途方にくれたさまよえる小娘はいない。 そこにいるのは優美な中にも凛とした芯の強さを感じさせる、一人の成熟した妃であった。 終わり |