『 踊り子の呟き 』 1 「やめよ!まだ子供ではないか!」 恐ろしさのあまりに目をかたく瞑り、腕で庇おうとした姿勢のまま聴いた、涼やかでありながら威厳のある、若い殿方のお声。 そのお声の持ち主のために、私は生きていけると思った。11歳の頃だった。 物心つけば廓で、下働きをさせられていた。 「お前は美しくなるだろうよ、それまでしっかり働きな」 美しく装ったたくさんの女性は何のためにそこにいるのか、幼いながらも私にはわかった。 夜毎訪れる殿方を、お酒や踊りや歌で慰め、癒し、奉仕するのを目の当たりにした日々。 仕込まれた踊りを歌を楽器の腕を客に披露している横で、姉様方は殿方にしな垂れかかり、自分の手練の技で閨へと誘い込む。 成長するのが恐かった。 大きくなれば、私は踊りを見せるだけじゃなく、見知らぬ男にこの体を売らねばならない。 姉様方のように、美しく装い、媚びた流し目で・・・。 その日は確実に近づいている、と廓の主人や召使の男達の視線や口さがないおしゃべりがそれを知らせていた。 あの日までは。 戦が起こり、略奪が始まり、私は逃げようとした。 でも見知らぬ戦装束の男が私を捕らえ、殺されると思った瞬間。 そのお声はその場の空気の色を変え、強張った体を誰かが抱きかかえた。 「ほう、子供のくせに悩ましい香りがする、何の香だ?」 がっしりした腕が私を抱き上げ、恐る恐る目を開けると、その琥珀色した目と私の目はぶつかった。 「ね・・姉様方が焚き染められるもの・・です・・。私が焚くので・・香りが・・」 たくさんの殿方の訪れる廓にいても、こんなに顔立ちが整って美しい方は見たことがなかった。 涼やかな目元、凛とした口許には、子供の私のためなのか、うっすらと笑みがあった。 「ミタムンよりはまだ幼かろう、遊び相手になるやもしれぬ、我が城に参るか?」 そして私はヒッタイトの王宮に来たのだ。 2 ミタムン王女は私より幾分か年上だった。 一端の貴婦人として扱ってもらいたがる、大人になりかけの子供のようで、見るからに子供っぽい私は相手にされなかった。 でも私の歌や踊りはお気に召したようで、幾度も王女の前で歌い、異国の舞を見せると徐々に遊び仲間の片端に呼ばれることも増えていった。 女同士のいざこざも、廓ではよくあることだったし、もっと気まぐれな姉様に仕えたこともあったせいかミタムン王女の我侭なんて、取るに足らぬことと扱いなれた私の様子に、ミタムン王女の養育を担っているムーラ様にもお目をかけていただけた。 そこで私を助けたのは、この国の世継ぎの王子のイズミル王子だったと聞かされたのだ。 あの時、あのお声がなかったら、私は殺されていただろう。 そうでなくとも、子供でも容赦なく体を奪われたことも想像できる。 イズミル王子は私の命の恩人だった。 あのまま廓にいても、一生そこから出ることもなく、姉様のように殿方に媚びて暮らして行かねばならなかった。 その暮らしからも抜け出せた、二重の喜び。 お会いする機会はなくとも、せめてここで心をこめてお仕えしよう。 あのお方のために・・・・。 あのお声が私を生かせて下さるのだ、そう思うと喜びが胸にあふれてくる。 時折お姿を拝見できるだけで、噂話を聞くだけでも、私には充分だったのだ。 3 やがてミタムン王女にお輿入れのお話が持ち上がった。 王女は私が廓にいたことを知り、遊び仲間を遠ざけて、あまり口を挟まない私を相手に様々な思いを語っていた。 「エジプトのメンフィス王の下へ嫁すこととなるやもしれぬ。 噂話では女と見紛うばかりの美少年王だと聞いているが、その気性は炎のように激しいのだ、と。 だが私も、このヒッタイトの王女、何の引けもとらぬはず。 エジプトを妾のものとしてみせようぞ。 だが、まだ男女の秘め事はよくわからぬ、そなたなら・・・。」という言葉が出るのは予想していた。 「私めには手に余るご相談でございます、私はただ、姉様方のお世話をしただけのこと。 ですが、廓秘伝の秘め事の際に焚く、特別な香なら王女に差し上げましょう。 その香は、必ずや王女の願いを叶える手助けをすることでしょう。」 香を焚くのは私の仕事で、その調合を私は覚えていた。幸なことに王宮に必要なものは揃っており、稀に後宮の女性からも香の調合を請け負っていたのだ。 王女は私の香を密かに忍ばせ、エジプトへ旅立った。 私の仕事はなくなり、王女の遊び仲間も解散した。 ムーラ様にお仕えする人の片端にそっと居場所を探し出し、彼女達のために時折、琴を奏で、歌を歌う静かな日々。 「そなたか、歌っているのは。・・廓の片隅にいたあの時の子供か?」 庭の木陰で一人爪弾き、誰に聞かすこともなく歌っていた私に、突然大柄な影が側へ近寄り、横へ座り込んだのはイズミル王子だった。 覚えのある涼やかなお声は、私の耳にはどんな歌よりも耳に甘く響いた。 礼をとり去ろうとする私を王子は引きとめた。 「後宮の女が厭わしいのだ、しばらく歌でも聴かせよ。」 王子は長くまとめた髪を一払いし、楽な姿勢になった。 王子のために歌うことができる喜びを胸に、私は歌った。それは恋の歌だった。 4 「そなたは子供なのに、落ち着き払った目をしているな、面白い」 歌を一つ歌い終わると王子はそう言った。 「ミタムンは表情の豊かな目だった。くるくると表情もよく変わっていたものよ。 だがそなたは違う。見据えた目だ、名はなんという?」 名はあるといえばあった。だが宮殿の前に捨てられていた私は「サライ(宮殿)」とそのまま呼び名をつけられはしたが廓では大概「おい!」や「お前!」「「ちび!」と言われて名もないことも同然であった。 それに廓では客を取ることになる頃、宝石や花などの源氏名をつけられることになっていたのだから、それまでは名前など意味がなかった。 ここ、王宮に来てからも「踊り子」と呼ばれていて、今更宮殿の意味のある名などかえって混乱する元となるだけなので私は名乗ったことなかったのだ。 「では、私がそなたに名をやろう。その夜のような髪にちなんで、ライラと呼ぼう。」 「・・ありがとうございます・・・。」 私の髪は一体どこの血が混じっているのかわからないけれども、緩やかな波打った髪を持つ人々の中では異彩を放つ、真っ直ぐな黒髪で、それがまた目立ち、よくからかわれる原因だった。 だが王子から名を与えられることになったのは髪のおかげだったと、生まれて初めてこの髪を持ったことに感謝した。 私に生きる意味を下さった王子が名まで与えて下さった! それは大きな喜びだった。 「では名づけた礼に、もう少し歌ってみよ」 そういい終わった王子の手が私の頭に触れようとした時、手の動きに私の身体は竦んだ。 男が私の身体に触れようとする時、それは姉様方と戯れようとする時と同じ気配がした。 だから私はいつも触れられないように身体をひねり、避けるようにしていた。 王宮ではほとんど女性のいるところばかりだったので、その心配もなかったけれども、それでも時折すれ違う兵などからも同じ気配がしていて、その習慣は抜けきれるものではなかった。 王子をご立腹させてしまう!!命の恩人になんてことを! 私の胸は不安でいっぱいになりながらも地面に平伏した。 5 「王子!」 聞きなれない若い男の声に、私も王子もそちらを向くと、一人の若い男の人が立っていた。 「ルカ、今戻ろうとしたところだ。」 王子の言葉にルカと呼ばれた方は礼をとったが、「将軍がお待ちでございます、お急ぎください」と用件を口に出した。 「あいわかった」と王子も立ち上がり身仕舞を正す。 その間も私の胸は不安で胸の鼓動が耳元で大きく鳴っているようだった。 「ライラ、またそなたの歌を聞かせよ、そなたの声は心地よい」 そういい終わると、恐れていたようなものでなく、暖かな手がそっと触れ、その感触は私の全身から力を抜くきっかけとなった。 そしてルカと名乗る方を従えて宮殿の中へと向かわれたのだ。 夜も更けた頃、ムーラ様に昼間のことをお話し、王子から名を頂いたことを告げると、いつもは厳しい表情のムーラ様もほんの少し笑みを浮かべられた。 ミタムン様がいらっしゃらなくなり、妹姫を可愛がってらした王子には、幼いそなたが妹のように見えたのだろう、と。 世継ぎの王子から名を拝領するなどと、なんと光栄なことか。 心してお仕えするように。 その言葉は胸に染み入った。 命の恩人のうえ、名づけてくださった!なんて幸せなんだろう。 今まで感じたことのない気持ちで寝床についた。 それ以後、時折王子は私が庭で歌っていると、お声をかけてくださるようになり、私を相手に、笑みを浮かべお話に興じることになった。 子供なので後宮のお仕えする方々の嫉妬の対象にならないこと、その割にそういったことに詳しく、王子にしてみると私の感想は面白いらしく、時折はお声をだして笑われることもあった。 私は王子にお仕えできることで、十分過ぎるほど幸福になった。 6 王子は王宮を留守にされることも多かった。 国王の命を受け、あちこちの国々へと赴くのだ、とムーラ様から聞かされた。 寂しいと思うことも多かったが、私が香を調合できることを知った後宮にお仕えする方々のために、結局は廓にいた頃と同じように、美しく装った方々のところへ伺うことが増えた。 以前と違うのは、以前よりもずっと豪華だったことと、私自身がそこで踊ったり歌ったりしなくてすむことだった。 見かけが子供だと油断されるのか、後宮の方々は私などいないも同然に、様々な噂話に興じていた。 そこで私は王子に関する話をたくさん耳にし、心密かに喜んでいた。 国王は色好みの方で、堂々とした体格の良い側室が数多くいた。国王のために私に香を調合するよう言いつける方も多かった。 国王は大体のお相手は決まっていたが、王子にはまだ決まった側室というのがなく、そのため王子の寵を我がものとしようとする、野心を持つ方もいないわけではなかった。 国王の寵を受けている方でさえ、美しく賢い王子に誘いかけることもあるが、聞くところによると、その場では限りなく情熱のある恋人であっても、夜が明けると全くそんな素振りが合ったことすら信じられないほど冷めた態度をとられてしまうので、なかなか取り付く島がないのだ、という話だった。 お一人だけ、王子には特別扱いの女人がいるのを私は聞かされた。 王妃の遠縁に当たるミラ様と仰る方のことだ。 王妃は王子の妃に、そうでなくとも決まった側室にと望んでおられるのだが、肝心の王子の関心は今ひとつどころか、まるで置物でも見るようだと、口さがない人は嘲笑した。 王妃にお仕えするミラ様のお姿を遠くから拝見したが、身につける衣装が豪華なことを除けば、そう見栄えする容貌でもなく、廓にいた姉様方のほうがずっと美しいと私は思った。 王妃に従順な様子が、王妃のお気に召したことは子供の私でも想像がついた。 でもミラ様は恐ろしい方だろうと、私は経験から分かっていた。 おとなしそうに見えても、気位が高く、嫉妬心を普段は押し隠しているような女人はある日突然何をするかわからないと、廓の主人がこぼしていたことを知っていたからだ。 そして態度が表と裏とでは大層違うことも。 7 王宮の外ではたくさんの出来事が起こっているようだった。 しめやかに伝わったミタムン王女の死。 エジプトに現れた、若く猛々しい王を虜にした、黄金の髪を持つ神の娘の噂。 でも私は相変わらず後宮の方のために香を調合し、暇があれば琴を奏で歌う日々を過ごしていた。 後宮によく出入りするせいか、たくさんの人が私にいろいろな事を聞きたがったが、揉め事から身を守るのは口の堅さであると、廓で身につけた術のせいで、私は何も知らない振りをし、相手の知りたがることは何一つ話さなかった。 「子供のくせに泣きも笑いもしやしない」と陰口を叩かれることは合っても、殿方に媚び諂うことなく暮らしていけるこの生活を私は気に入っていた。 何より王子がいらっしゃるこの王宮で、このまま暮らせたら、といつも願っていたのだ。 時折王子がお声を掛けてくださることを楽しみにして、私は過ごしていた。 でもそれは私が子供だったからだと、ある日私は気がついた。 私の身体は成長していた。背が伸び、手足がきしむような痛みを伴うこともあった。 何より恐れていた女らしい体つきに、少しづつ膨らんでいく胸、少しづつ張り出していく腰つき。 淫靡なものを含む殿方の視線、憎悪を含む女人のきつい眼差し。 私はこの先どうなるんだろう・・・。 8 木陰で爪弾く私のところへ、待ち焦がれていた王子が実に久方ぶりに訪れた。 恋歌を爪弾く私に、王子は一人誰に語るわけでもなさそうに呟いていた。 そなたのように小柄で華奢なのに、あの気性はなんだろう? 並々でない慈愛の心を持ちながら、城を打ち壊す神の英知を持つ娘よ。 この腕に抱いたのに、我がものにならぬ、頑固な娘・・・。 王子は噂に聞いた、ナイルの姫君に恋慕しているのだと私はわかった。 それは哀しいと思わないわけではなかった、けれども王子をお慕いする気持ちには変わりがなく、やはり命の恩人の王子には幸福であって欲しいと願う心も私の中にはあった。 「あなた様のようなご立派な方にそこまで想われる幸福な姫も、じき王子の望みのとおりなりましょう」 その言葉に王子は少し微笑んだ。 「そなたのような子供に慰められるとはな、ほんにおかしいことよ。」 「おかしいのですか?」と思わず問い返した私に王子は心から楽しそうに笑った。 「まだ恋もしらぬそなたに、そう申させたことがおかしいのだ、子供だとばかり思っておったそなたにな」 涼やかなお声は朗らかだった、それが私には嬉しかった。 そのお声は少なくとも私に向けられた、私だけのもの。 どうか耳にその響きが少しでも長く残ってほしいと願いながら、王子のために歌を歌った。 9 王宮の廊下ですれ違ったミラ様に、私は礼をとり畏まった。 だが次の瞬間、頬に何かあたり、燃えるような熱さを感じた。 ミラ様が私を打ったのだ。 生憎と廊下には私とミラ様以外に人影はなかった。 「子供だと思うて油断したわ!先ほど王子と庭で何を話しておった! 王子のあのようなご様子など、私の前では・・・。よくもこの小娘が!」 闇雲に叩きつけられ、振り回されるミラ様のお手を、身の軽い私は避けることは容易かったが、そのことがまたミラ様の逆鱗に触れ、一行にやむ気配はなかった。 「おやめくださいまし!ミラ様!」 「形は幼くとも、男を蕩けさす手管は知っていると見える!流石に廓におった者よ! ならば廓へ戻るがよいわ!それとも国王様に召していただくか?」 「ミラ様!私はただ歌を歌っていただけに過ぎませぬ!ミラ様!」 いくら懇願してもミラ様の表情は空恐ろしいものだった。 「やめぬか!子供相手に何とする!」 凛とした威厳のあるお声がして、私の体は大きな腕に遮られ守られた。 「子供相手に醜態をさらすなど、母上が知られたらさぞお嘆きになろう、ミラ」 王子が私の前に立ちふさがって、ミラさまにを叱責していた。 普段は落ち着いた物言いをなさるばかりの王子が、このように声を荒げられるなどとは珍しいことだったので私も驚きながら、広い背中を見つめることしかできなかった。 「・・・そのものは子供ではありませぬ!女ですわ!」 ミラ様がそう仰るなり、裾を翻して去っていかれるのを、私は息を殺して見つめていた。 「大事無いか?ライラ」 勿体無いお言葉をかけてくださる王子に、私はただ頷くことしかできなかった。 胸の中に不安が広がっていくのを、私は打ち消すことはできなかった。 10 不安は的中した。 怪訝な表情を浮かべたムーラ様に私は呼ばれ、身を清め身仕舞を整えられ始めたのだ。 なんでも今宵はミノアからの客人のために宴があるのだが、 その宴に舞を舞い、歌って興を添えるよう国王様自らの命を受けたというのだ、この私が! いくら私が歌を歌えても舞が舞えても、子供のことだからと、今までは宴など呼ばれたことなどなかった。 ムーラ様の口振りでは、それはとんでもないことのようだった。 なのに急なお召しに、ムーラ様も側仕えの方も手は動かしてはいても、納得はいかない様子だった。 「夕刻前に、ミラ様が宴にとても華を添える踊り子がおります、是非お召しになってはと、進言されたとか・・・。」 「ライラは子供ゆえ、侍らすなどとしては、どんな失礼をしでかすかわかりませぬ、ご容赦くださいと申し上げたのに、 王妃様も是非にと仰られて・・・。」 薄化粧されながら私は合点がいった、やはりミラ様だったのだ・・・。 王子が私に笑いかけられたから、王子が私を庇ってくださったから。 「失礼のないよう、注意なさい、よいですね?」 いつもの厳しい顔つきのなかに、どことなく心配そうな色を見せたムーラ様に私は答えた。 「はい、精一杯お勤めいたします。」そう言って無理に微笑んで見せた。 踊ることに、歌うことに不安は感じていなかった。ただ、私はもう子供として扱われるのはもうないのだと、そちらのほうへの不安が大きかった。 側仕えの方々は口々に私を褒めた。 とても綺麗だわ、ライラ。もうすっかり娘らしくなっていたのね。 あなたの舞で、宴が華やかにならないはずがないわ。王子もさぞかし驚かれることでしょう。 そうだ、私は王子のために生きているのだ、では王子のために歌おう、踊ろう。 そう思うと、私の顔はしっかりと前を向き、恐れるものはなくなったような気がした。 手をとられ、私は大広間へと足を踏み出した。 全ては王子のために、胸の中に呟くと、私は姉様方のように、にっこりと微笑んで見せた。 |