『 絆の生まれるとき 』 1 「何故にそのような憂わしげな顔をしているのだ?」 イズミル王子はキャロルの眉間を指先で撫でながら問うた。 キャロルは無言でぷいと顔をそむけ、王子を押しのけようとした。 「何故だ?何故、微笑むことをしない?不満があるなら申せ、望みがあるなら申せ。足りぬもの、欲しいものがあるのか?私は女の望みとやらを斟酌してやるのは不得手だ」 下エジプトで攫うようにして連れて来た娘は、家族を恋しがるばかりで少しもイズミル王子になつこうとしない。 そんな怯えて怒りっぽくなっている野生の小動物のような娘の心を解そうと、王子は美しく贅沢な身の回りの品々をこまごまと揃えてやったのだが返ってくるのは涙混じりの拒絶の表情。 「姫」 「・・・返してください」 「何?」 「あなたが捨てた私のロケット!あれは私が母からもらった大切な品だったの!返してください、私が欲しいのはあれだけ、他のものなんていらないっ!私の思い出の詰まったあれ・・・っ!」 「ロケット…?ああ、あの首飾り…」 キャロルがその小さな胸の中に抱きしめるようにして守ろうとした銀細工の小さな装身具。繊細な浮き彫りとはめ込まれた小さな宝石の見事な細工から一目で高価なものと知れた。 見たこともない意匠の品だった。母女神の国のものだったろうか? エジプトの衣装を脱がされたときも、メンフィス王が与えたという指輪を外された時も黙って屈辱に耐えていた娘が、その首飾りをとられた時は泣いて抗った。それだけは私のものですと。 2 イズミルはその瞬間に男の幻影を見て、自らの手でロケットを炉の中に放り込んだ。銀の飾りは小さな音を残して弾けて燃えた。 キャロルは王子が聞いたことのない悲痛な声をあげてそれを凝視していた。 それからキャロルは王子の目を見ることをしなくなった。伏せた目を無理やりに上げさせれば、そこにあるのは悲しみと怒りの深い淵。 「私が…そなたの飾りを捨てたのを怒っているのか」 王子は呟くように言った。闇雲で発作的な嫉妬に己を失って、飾りを焼き捨てたときは快感すら覚えたが。 (ではあの品はまこと、姫の母が娘に贈ったものであったのか…) 王子は苦い後悔を覚えて立ち尽くした。愛しい娘を悲しませるのはもとより本意ではない。大切なものを理不尽に奪われる痛みは王子にも充分理解できた。 (私のせい、か。昔のことなど全て忘れさせ、ただ私だけを見て欲しいなどと埒もない夢を見てこれだ。…私のせい、か。こんなことを望んだのではないのに) だが誇り高く、それ以上に愛情表現に不器用な青年の口から出たのは冷たい言葉だけだった。 「昔のことなど忘れよ。家族のことなど想うな。そなたのこれからの居場所はここだ。替わりの品は欲しいだけ与える!」 王子の口から出た冷たい言葉は刃となって王子の胸を刺し貫いた。その傷を、キャロルの涙と冷たい悲しみに満ちた視線がさらにえぐる。 (どうして泣かせてしまうのだろう?どうして怖がられ嫌われていくのだろう?私は・・・) 3 「姫様、お茶をどうぞ。お好きなお菓子もありますよ?」 ムーラが優しくキャロルに声をかけにきた。 (この人はいつも優しくしてくれる。王子が私を泣かせたその後は。そして言うんだ、お母さんのような優しい顔と声で。泣かないでください、王子のお心を汲んでさしあげてくださいませって。でもそれは全部王子のための言葉。あんな冷たい嫌な人でも、愛してくれる人はあるのに私は一人だわ・・・) 固い表情で新たな涙を堪えているらしいキャロルを哀れにも,育て子の真心を踏みにじる冷血の姫よとも思いながらムーラはキャロルの世話を焼く。 「王子は今日は早くにお戻りだそうでございますよ?予定されておりました謁見が一日延びました。王子がお戻りになりましたら、王子のお小さいころのお話などおねだりになってはいかが?たまにはそのような他愛ない話もよろしゅうございましょう」 とわずがたりに王子の小さいころの話を始めるムーラ。 「・・・王子はお優しいお方でございます。厳しく、怜悧に恐ろしいほどに御立派にお育ちあそばしましたが、ごくたまにお小さいころそのままの表情ですとか仕草を拝見すると何やら涙が出てまいります」 一通りムーラが話し終えると、キャロルは一人で屋上に出ていった。 4 薄青の空を眺めながらキャロルの心ははるか家族の許にあった。 (帰りたい…。メンフィスのこともイズミル王子のことも皆、いやな夢で明日の朝になれば私のベッドの上であったらどんなにいいかしら?) 物思いは王子の悲鳴のような怒声に破られた。 「姫っ!何をしている?身投げでもいたす気かっ!」 あっと思う間もなくキャロルは枷のような王子の腕に捕らえられていた。 怒りと喪失の予感に震えおののく琥珀色の瞳にキャロルが映る。 「そなたを失うようなことあれば・・・」 (震えている…?) キャロルは驚いた。それは彼女が初めて見る、怯えて、心弱りうろたえを隠そうともしない一人の青年の姿だった。 (何か言わなくては、この人の心を鎮めるために。可哀想にこんなに震えて) だがキャロルが何か言うより早く、王子は彼女を抱き上げて部屋の中に戻っていった。 「ムーラっ!これよりは姫を一人で部屋の外に出すことはまかりならぬ!姫は一人で屋上にいたぞ。何か間違いがあってからでは遅いのだ!」 ひれ伏すムーラ達を下がらせると、戸惑い身を固くするキャロルの膝に王子はぽん、と小さい包みを投げた。 「何…?」 目顔で促されるままキャロルが包みを開けると中には小さい銀の首飾りが入っていた。キャロルが無くした20世紀の形見によく似たそれ。 「これは…」 「思い出せる限り、そなたのものに似せたつもりだ」 ぶっきらぼうに王子が言った。いつもいつもキャロルに話しかけるときはまっすぐにその瞳を覗き込む様にする人が、あらぬ方を見やりながら。 「…女の喜ばせ方など知らない」 そう言うと王子は大股に出ていった。キャロルは初めて味わう感情を胸に黙って立ち尽くしていた。 5 その日の夕食は王子がキャロルの部屋で摂った。食が細いのかそれとも意地を張っているのか、あまりに食べないキャロルに業を煮やしたムーラが王子に告げたのだった。 「もう食べぬのか」 王子は手持ち無沙汰に杯の中の水を舐めているキャロルを見て不機嫌に言った。キャロルの前には料理人が、王子のお気に入りの佳人のために用意した食事が置いてあるのに殆ど減っていない。 王子自身は食べることとは武術の鍛錬や日々の公務で酷使する体と頭脳を維持する手段に過ぎぬことと考え、あまり関心は払わなかった。 しかしキャロルのこととなると何をどれだけ、どのように食べたのかがひどく気にかかった。 「ほとんど食べておらぬ。いつもムーラを困らせているそうではないか」 告げ口をしたことを非難するような不機嫌な表情でムーラを見やったキャロルにさらに王子の小言が飛んだ。 「そのような顔をしてムーラを睨むな!そなたのような子供が逆恨みとは笑止だな」 「逆恨みなんかしていません。あまり欲しくないんです」 小さな身体を精一杯反らして、震えて裏返りそうになる声を必死に抑えて口答えする子供の虚勢に、王子は微笑ましさと憎らしさを同時に感じた。何故、この子供は素直に愛らしく振舞えないのだろう? 「口答えは許さぬ。そなたのためにと召使達が心をこめて用意した食事だ。 そなたが食べねば下々の者達に余計な心遣いと心配を強いることになる。それは人の上に立つ者のすることではない。わがままは許さぬ」 そういうと王子は有無を言わさずキャロルの口に食事を押しつけた。恥ずかしさと悔しさ、そして怒りで真っ赤になりながらもキャロルは王子に従わざるをえない。 (あの飾りのお礼を言おうと思ったのにこれでは…) 屈辱の涙で曇る瞳を必死にしばたきながら、キャロルは胸元に隠すようにかけた首飾りのことを考えていた。 6 夕食が終わった後も王子は部屋に居座った。持ってきた書類や粘土板を脇に置き悠々と政務をこなす。 キャロルは困ったように大柄な青年を盗み見た。 (困ったわ。いつまで居るつもりなのかしら…?) そんなキャロルの居心地の悪さや面白そうに二人を眺める召使の視線など、王子は露ほども気にならないらしい。 キャロルはこの時、初めてまじまじと王子を観察する機会に恵まれたことになる。 美しいと言っても良いほどに整った顔立ちには冷徹傲慢と紙一重の威厳、知性と強い意思の色が宿り、近寄りがたい雰囲気を醸している。 長い睫に半ば覆われた猛禽類の金茶色の瞳、まっすぐで高い鼻梁、意思的でありながら何やら艶めかしさすら感じさせる唇。 だが同時に穏やかで、どこか優しげにさえ見える顔立ちである。 (眉目秀麗っていうのはこういう人をさして言う言葉ね。でもこれは血の通わない冷たい人の顔。感情なんてない、人間らしさのかけらもない意地悪い人の顔) 「・…どうした?そのように私の顔をじろじろと」 王子の言葉にキャロルは我に返った。 「な、何でもありません。ただ王子はいつまでここに居るのかと」 無礼な物言いをムーラが窘めるより先に王子が皮肉っぽく答えた。 「いつまでとは?」 「こ、ここは私の部屋です。そろそろ休みたいのです。だからどうか王子はご自分のお部屋にお帰りください」 「ふふん」 王子は読みかけていた巻物を脇に置いた。 「ここもまた私の部屋だ。私の宮殿の中の一室をそなたに貸し与えているだけの話でな。私としてはキリの良いところまで仕事を片付けてしまいたい。そなたが休みたいのであれば…ムーラ、姫の寝支度を整えてやれ」 「なっ…!何ですって?私は休みたいのです、一人で!私…人が居ては眠れません!」 7 可愛げの欠片も無いその言葉を聞いて、王子は本気でこの子供に腹を立てた。 「ムーラ、姫は人が居ては落ち着かぬそうだ。そなたら下がっておれ。寝支度くらいは自分ででも出来ようよ。私はもう少し片付けねばならぬ書類があるゆえ、ここに居よう」 そう言うと王子はまた目を書類の上に落とした。もう周囲の雑音に煩わされたくないという無言の圧力に負けてムーラ達は下がって行った。 後に残されたキャロルは呆然と王子を見つめた。 (こんな人と二人きりだなんて嫌!何て、何て意地の悪い人なの!私が嫌がるのを楽しんでいるんだわ。何が政務よっ、馬鹿にして!) キャロルは精一杯の威厳を保って部屋を出て行こうとした。 「どこに行く?」 「ここでなければどこでも!あなたは好きに書類を読んだり書き物をしたりすればいいのだわ!」 「何を言っている?ここはそなたの部屋だろう?こんな夜更けにどこに行くというのだ。眠いのだろう?そのようにいたせ」 仕事を中断された王子は不機嫌に寝台のほうを指し示した。 「馬鹿っ!」 キャロルは力任せにクッションを王子に投げつけた。よけ損じた王子は最初、呆然としていたが驚きはすぐに怒りに変わった。 王子は立ちあがるとキャロルを乱暴に抱き上げ、寝台に投げ落とした。 「眠る前のぐずりにしては度が過ぎる!」 もともと政務の邪魔をされるのは嫌いだった。眠りたければ勝手に眠れと言ってあるのに、それをこの子供は。 王子が乱暴にキャロルの身体を揺さぶった拍子に胸元が少しはだけ、王子が贈った首飾りが転がり出た。 (姫はこの飾りを身につけていてくれた…!) 王子の怒りと腹立ちは一瞬にして消えうせた。自分でもよく分からぬうちに王子はキャロルをしっかりと抱きしめていた。 8 「初めて私が贈った品をその身につけたな」 王子はキャロルの耳朶に囁きかけた。仕事を中断させられた苛立ちは消えうせ、自分でも驚くほど暖かな感情が湧き上がってきた。 (そなたを深く愛しているのであろう家族との思い出の品を、腹立ち紛れに叩き壊した私を許してくれるか?) 王子がキャロルにすぐさまロケットの替わりの品を贈ったのは不器用な詫びの行為。 (泣かないでくれ、私を嫌いにならないでくれ、私から離れようとなどするな。そなたは私のものだ) だが王子の素直な言葉は決してキャロルに聞こえることはない。 「やっ・・・嫌だっ・・・・!変なことしないでっ!大嫌いっ!」 「痛っ!」 王子は引っかかれて血の滲む頬を押さえながらキャロルから離れた。急速に初恋にのぼせ上がる頭が冷えて、目の前で泣きながら怯えている少女の顔が見えてくる。 (また・・・泣かせた・・・・か) 王子は小さく吐息をつくとわざとそっけない口調で言った。 「・・・すまぬ。驚かせたか。・・・・・・小さい子供のあしらいには慣れておらぬのだ。とにかく眠いのならば早く眠れ。私は仕事があるゆえ・・・」 優しく頭を撫でる大きな手を乱暴に振り払ってキャロルは叫んだ。 「優しくなんてしないでっ!腹が立って惨めだわ!怒ればいいじゃないの?牢屋に入れればいいじゃないの。あなたに怪我をさせたんですもの。あなたの邪魔をしたんですもの。あなたの・・・」 「姫・・・!もう休め。そなたは疲れているのだ。ほら手が暖かい」 「眠くないのっ!王子がいるなら私も眠らないっ!」 王子は大きく溜息をついた。愛らしく憎たらしい駄々っ子! 「好きにいたせ。だが邪魔をするではないぞ。そなたの我侭で国の政務が滞っては大事だ」 そういうと王子はまた書類に戻っていった。だが集中するのは苦痛でしかなく目の端は常にキャロルを注視していた。 9 どれくらいの時間が過ぎただろう。 キャロルは書見する王子を横目に泣きもせず、眠りもせず、ただ座った自分の指先を見つめていた。 現代に居るときと同じようにきれいで滑らかな手。しなやかな指と薔薇色の爪。それは王子が快適で贅沢な生活を与えてくれるからだ。 (王子は私をどうしたいのかしら?私をどういうふうに利用するつもりなの?分からないのは嫌。怖い) だがそう考える先から何気ない、あるいは不器用な王子の気遣いが思い出された。 無神経な視線や噂から守るように気遣ってくれる若者。たまに外出するときはいつも一緒だ。 彼女付きの召使達はしつけも行き届き、キャロルに気まずい思いをさせることなどない。望むものはすぐに届けられる。 そして何よりも。 (王子は私が本当に嫌がることは何もしない。・・・そう、おもちゃのように抱くこともしない。指一本触れない) これまで古代世界でキャロルが出会った男達は皆、彼女を無理やりに抱こうとした。そのおぞましい感触の記憶は今でもキャロルを苦しめる。だが王子は違った。 これまで会った誰よりも恐ろしく油断ならないと思うけれど、どこか彼は違った。 (私はこれからどうなるの?) 「ナイルの姫?何を考えている?退屈なのか?」 キャロルが答えるより先に、彼女の膝に巻物が抛ってよこされた。 「諸国の風土などが書いてある。まぁ、そなたには面白かろう。眠れぬならそれを読んでおれ」 (また・・・私のほうを見もしないで・・・) キャロルは恐る恐る巻物に触れた。そして王子の様子を窺う様にしながら読み出したが、じきに読み物に引き込まれまわりのことなど忘れてしまった。 10 キリのいい所まで仕事を終えた王子は目を上げてキャロルのほうを見た。キャロルは王子が与えた巻物を夢中になって読みふけっている。 王子が自分のほうを見つめているのも気づかないようだ。長い睫で縁取られた瞳、よく分からない語でもあったのか声はないものの、確かめて読むように小さく動かされる唇。無意識に掻き揚げる柔らかな金髪。 (退屈して眠ってしまうかと思っていたがな。姫は書物が好きなのか?) ようやく思い人の好むものを探り当てた王子は満足の笑みを浮かべた。 きまじめな表情を浮かべて、小柄すぎる身体には少し大きくも見える巻物を大切に扱う少女は、王子が今まで知らなかった新鮮な一面を見せていた。 (愛らしい…な) 王子はなおもキャロルを驚かせぬように気遣いながら、観察していた。こみ上げてくる幸せな気持ち。 (女を見てこのような気持ちにさせられるとはな。いや。まだ女にすらなってはおらぬ私に靡こうともしない子供だというに。…私はもうこの子供を手放せぬ。この私が!あのような小さな姫を!) 自分の心の変化に嬉しい驚きと戸惑いを感じながら、王子は小さくあくびをした。心の温かみというのは全身に回るものなのだろうか? やがて。 王子は長椅子に凭れかかって眠ってしまった……。 (王子?) ふと気がつけば室内はあまりに静かだった。諸国風土記に読みふけっている間にどれくらいの時間が経ったのだろう? ふと長椅子に目をやれば、そこには一人の青年が安らかに憩っていた。 (やだ、私ったら!王子は…眠っているの…?) キャロルは恐る恐るイズミル王子の傍に寄った。造詣の神の寵児は静かに安心しきった表情で眠っていた。 (まぁ・…。こんなふうに眠るなんて…) |