『 記憶の恋人 』 1 険しく切立った崖の下にキャロルは横たわっていた。 大きな雨粒が容赦なく叩きつけるように彼女の体を濡らしていた。 金色の髪から鮮血が滲んでは、濡れた地面に流されてゆく。 うつ伏せるように倒れたまま、キャロルは動かなかった。 「姫―!どこにいるのだ・・・返事をいたせ!!」 王子の声が樹々を抜けて響きこだまする。 (・・・一体どこへ行ったというのだ。 早く見つけてやらねば・・・この雨と寒さでは姫の体が持たぬぞ!早く!) 王子は急く心を落ち着けながら、豪雨のせいでぬかるみ崩れそうな山道を進んだ。 兵士達とは戦いの最中、キャロルと二人はぐれてしまった。そしてついにはキャロルとも。 何とかここは独力でキャロルを探し出し、早く体を温め休息させてやらねばなるまい。 一刻も早く! 「これは・・・?」 王子は足元で光る小さな物を拾い上げた。 泥にまみれているが、それは紛れも無くキャロルの耳飾であった。 「まさか・・・?」 王子は山道のすぐ端から深く切り込む崖に目をやった。 道端が崩れた形跡が残っている。 「おお・・・まさか!!」 今にも崩れそうな崖を覗き込んだ王子の目が、その底辺にキャロルが横たわる姿を見つけた。 「姫!!姫、私だ!今すぐ行ってやるぞ」 しかしキャロルからの返答は無い。 太く頑丈な蔓を見つけると、王子は迷いもなく危険な崖壁を降りた。 最悪の事態を想像すると、体の底から嫌な震えが込み上げてくる。 「どうか・・・どうか無事でいてくれ・・・そなたを失くすなど耐えられぬ!」 2 崖下に降り立った王子は、飛びつくようにキャロルのもとへ行くと、腕を取り脈を確かめた。 規則正しく脈打つ命の鼓動が感じられた。 頭に外傷があり出血しているが、他には目立った怪我は無いようだ。 この高さから落ちたにしては奇跡的であった。 王子はキャロルの頬に触れて、彼女の名前を呼んだ。 「う・・・ん」 ゆっくりとキャロルの青い瞳が開く。 「姫!助けに来たぞ。大丈夫か・・・どこか痛むか?」 しかしキャロルは王子を不思議そうに見つめたまま動かない。 まるで見知らぬ人を見るような、恐れの色を潜めた瞳。 「姫?どうした・・・なぜそのように私を見る?」 「あの・・・あなたは・・・誰?」 王子はキャロルの手を取ったまま、しばらく言葉を失っていた。 落ちた衝撃で動転しているのか?それとも・・・? 「何・・・私がわからぬのか?」 王子が身を乗り出すと、キャロルは混乱した様子で頭を振り、後ずさった。 「話は後だ。とりあえず今は安全な場所へ避難いたさねば。歩けるか?」 怯えた目で王子を見ながら、キャロルはふらふらと立ち上がった。 「無理だな。私が抱いて行こう」 王子はキャロルをそっと胸に抱き上げた。 「あっ・・・!いや」 キャロルの体が腕の中で堅くなった。 「心配いたすな。私はそなたを助けに来たのだ。危害を加えたりせぬ。 体が冷え切っている・・・どこか休める場所を探そうぞ」 王子は腕に抱き慣れたはずのキャロルの体が、別人であるかのような不思議な違和感を感じていた。 (信じられぬ・・・私を忘れてしまうなどと。一時的な錯乱か?なら良いが・・・) 3 王子はキャロルを抱えて、崖下の道ならぬ道を歩き続けた。 とりあえずは豪雨が収まるまでどこかで避難し、ヒッタイト軍を探し合流しなければならない。 程なく歩いたところで、王子は雨を凌げそうな洞を見つけた。 キャロルを抱いたまま、洞の中に入り王子は腰を降ろした。 膝の中にキャロルを座らせ、顔と顔を向き合わせた。 傍にいるだけで、こんなに愛しさが込み上げるというのに、馴れ馴れしく触れる事は躊躇われた。 何とか無事に保護できたキャロルに思うままに口付けたい所だが王子は渦巻く感情を飲み込み、つとめて冷静を装った。 「まだ、私が誰だか思い出せぬか?」 「はい」 王子の優しい口調にキャロルも少し警戒を解いたようだ。 「私はイズミルだ。・・・そなたの許婚だ」 青い瞳が驚きで大きく見開かれた。 「嘘・・・私達・・・その・・・恋人同士なの?」 「ああ、そうだな。 そなたは私の最愛の娘、そして将来の私の妻。 ふふ・・・そなたとて、私を慕い愛してくれておったと言うに・・・それも忘れてしまったか」 キャロルの頬が真っ赤に染まり、彼女は頬を両手で覆って隠すとうつむいてしまった。 王子はわざと自分がヒッタイトの王子である事は告げなかった。 とりあえず彼女の状態が落ち着くまでは、ただの恋人であろうと決めたこれ以上混乱させたくなかったからだ。 「しかし何という事だ。 こんなに簡単にそなたに忘れられてしまうとは・・・何とも情けない」 「ご、ごめんなさい。私・・・駄目。何もわからない、あなたの事も自分の事も。 どうしたらいいの・・・どうしたら」 「いや、そなたを責めたつもりは無い。 そのうちに嫌でも思い出す」 腕の中で不安そうに震えるキャロルを王子は優しく抱きしめた。 「寒いか?」 キャロルは素直に頷いた。 「濡れた衣は脱いだほうが良いのだが・・・参ったな。 今のそなたは私の前で肌など晒したくはなかろうからな」 4 キャロルは着ている衣を見下ろしたが、たしかに濡れて汚れている。 外気の寒さが濡れた布を通して、ひしひしと伝わってくるようだった。 思わず身震いが走り、小さなクシャミをした。 でも、この男性の前で―彼は許婚だと言うけれど―衣を脱ぐなんてキャロルにはとてもできない。 キャロルが躊躇いを見せると、彼は小さく頷き仕方が無いな、という風に笑った。 「このままでは風邪をひく。 まずは何か燃えそうな物を集めて、火を焚くことが先決だな」 王子は言うなり立ち上がると、洞の中に舞い込んだ枯葉や枝を集めて手早く火をおこした。 キャロルは自分の冷たい体を両腕で擦り暖めながら、彼の姿を改めてじっと目で追った。 とても・・・美しい男だと思った。 キャロルに話しかける口調や彼女に触れる腕は限りなく優しかったが、端整な顔立ちは一見冷たくも見え、精悍で逞しさを漂わす風貌にはどこか危険な香りを孕んでいる。 イズミルと、許婚だと名乗るこの男を信用して良いのかどうか、それすらもキャロルには判断できない。 彼は振り向いて言った。 「さあ、火の近くに参れ」 キャロルはおずおずと歩み、彼から少し離れた場所に座った。 火の暖かさにホッとした瞬間、またクシャミが出て今度はなかなか止まらなかった。 王子はキャロルにそっと近づき、肩を抱き寄せた。 「やはり駄目だ。体が冷え切っている。 衣を脱いで乾かした方が良い」 「で、でも」 「安心いたせ。何もそなたが恐れるような事はしない。 それに私もいつまでもこんな濡れた衣を着ておれぬ・・・」 ぎゅっと手を硬く握り締めて、キャロルは気重に頷いた。 「・・・わかったわ。でも、後ろを向いていて」 5 二人は背を向けたまま着ている物を脱ぐと、濡れた衣を広げて、火に近い壁に掛けた。 キャロルは火の前に座り、王子に背を向けて体を隠すように膝を抱いて丸まっていた。 火に照らされて、白い肌がほんのりと桜色に色づいていた。 王子は彼女の隣に腰を降ろし、なるべくその肌に目をやらぬように気を配り体を寄り添わせた。 「きゃっ!!」 キャロルは驚いて飛び上がったが、その拍子に彼の膝の中に座り込む姿勢を取ってしまった。 「慌てるな。 そなたが恥ずかしいのは分っておるが、離れていては体が冷えるだけだ。 私の体から暖を取らねば本当に持たぬぞ」 王子の膝の間に座り込み、胸に顔を埋めるような体勢の今、もはや体を動かす事はできなかった。 少しでも離れれば裸の体が露になってしまう。 心ならずも、キャロルは彼の胸にぴったりと身を寄せるしか他になかった。 広い胸と逞しい両腕がキャロルを包み込んで、彼の体温をキャロルの肌へ直に伝えた。 「いい子だ・・・」 王子は落ち着いた低い声で囁くように言って彼女を抱きしめたが、その内心は全く冷静さを失い始めていた。 キャロルの柔らかい胸が、滑らかな肌が、いや彼女の存在そのものが王子を熱くさせるのだ。 キャロルも、とても平静ではいられなかった。キャロルを包み込む男らしい体が色々な想いを掻き立てる。 彼とどのような関係にあったのだろう? こんな風に抱き合った事はあるのだろうか? 愛し合った事は? でも聞くに聞けない。 6 二人の間には息が詰まるような濃密で気まずい空気があった。 先に沈黙を破ったのは王子のほうだった。 何か言わなければ、そのまま押し倒してどうにかしてしまいそうだったからだ。 「ずっと黙っているのだな。 私が・・・怖いのか?」 キャロルは王子の深い琥珀の瞳を見上げた。 何と答えて良いのか当惑してしまう。 「そんな、怖いだなんて・・・でも、すごく・・・緊張しているわ」 さっきから心臓の鼓動がどんどん速さを増してくる。 (この人は平気なのかしら・・・?) 「そうか・・・。それなら良い。 そなたに恐れられたくはないからな」 王子はキャロルの背に回した腕に力を込めて彼女の柔らかな体を改めて抱きしめた。 彼の滑らかなオリーブ色の肌に体が密着した。 そして驚いた事に、彼の胸から伝わる鼓動はキャロルのそれよりももっと早く力強かった! 「そなたを愛している。 今そう言えば、そなたを戸惑わせるだけなのかも知れぬが・・・言わずにはおれぬ」 王子の言う通り、彼の言葉でキャロルの心は激しく揺れていた。 苦しさを押し殺すような彼の声は胸の奥に深く突き刺さるようで、気づかぬうちに涙が頬を濡らしていた。 「ごめんなさい・・・どうして思い出せないのかしら。 わたしあなたの事を思い出したい・・・わたしがどれ程あなたを好きだったのか思い出したい」 王子の指先がキャロルの目尻の涙をそっと拭った。 彼の仕草のひとつひとつには、キャロルへのあふれ出るような愛情が感じられた。 7 「私達はヒッタイトへと向かって旅をしていたのだ。 ヒッタイトへ着けば、そなたは私の花嫁になると私に誓ってくれた。 私はそなたが何に増しても愛しかったし、そなたも私に懐いて・・・私から離れようとはしなかった。 いつでも私の傍にいたがった・・・寝る時でさえな」 琥珀色の瞳が甘やかに煌き、キャロルを捉えて離さない。 胸が痛い程に高鳴った。 「あ・・・あの、わたし達って・・・その・・・もう」 頬を染めてうろたえる様子が可愛いくて、王子はクスリと笑った。 「そうだ。婚儀はまだでも、そなたはもう私のものだった。 この髪も肌も・・・そなたの体のすべては私のものだ。 私が触れておらぬところなど無い。 だから、私の前で恥じ入る必要など無いのだぞ」 不思議な感じだった。目の前がくらくらと翳むような気がする。 彼の事を、自分達の事をもっと知りたいとキャロルは渇望した。 「わたし達はどこで出会ったの?」 「・・・エジプトだ」 「わたし達はエジプトに住んでいたのね?」 「いや・・・私は違う。私はヒッタイトの人間だ。 エジプトに旅をしていて・・・そう、そしてそなたと出会った」 「エジプト!エジプト・・・エジプト」 彼女の唇が意味も無く、かの地の名前を繰り返す。 「わたしはエジプトで何をしていたの? エジプトでどんな風に出会ったのかしら?」 王子の顔が不意に険しくなった。 「もう、この話は終わりだ! 何もかも一度に思い出そうとするのは無理があるぞ」 王子は突然に傲慢な態度でキャロルの質問を打ち切った。 端整な横顔には怒りの表情が浮かんでいる。 「イ・・・イズミル?」 8 質問したい事が山ほどあったが、とても今の彼にはこれ以上詮索できそうになかった。 彼の回りには張り詰めた空気が漂っていて、眉根を寄せたまま険しい表情を崩さない。 (どうして? エジプトの事となると急に怒ったみたいに・・・。エジプトで何かあったの?) キャロルはもう一度彼の名を口に出して呼んでみた。 「イズミル・・・」 なぜだろう・・・?彼をこう呼ぶ時、唇に引っかかる微妙な違和感があった。 王子はふと我に返ったように、再び暖かい微笑みを彼女に向けた。 「すまぬ・・・色々と考える事があってな。 すべてを思い出すのはそなたにとって辛い事かもしれぬ・・・そう思ったのだ。 私とそなたはただ平和に過ごしてきた訳ではない。色々な事がありすぎた」 憂いのある瞳を伏せるようにして彼は言った。 「ともかくヒッタイト領へ入るまでは一時たりとも気を抜けぬ。 今はそなたを動揺させたくない。 いつかすべて話そう・・・しかし信じて欲しい。 私は女神イシュタルの名にかけて、そなたを愛している」 キャロルの青い瞳は不安げに揺れていた。 「何だか、わたしの過去を聞くのが怖くなってきたわ」 「案ずるな・・・何があっても私が護ってやる」 泣き出しそうなキャロルの頬に手を沿えて、顔をあげさせた。 王子はキャロルが不安や心細さを感じた時、いつもその唇に優しい接吻を与えていた。 そうすれば、いとも簡単に彼女を落ち着かせてやる事ができた。 ――しかし今はどうだろう?彼女は見覚えない男の接吻を拒絶するかもしれない。 王子は少し迷ったが、唇をそっとキャロルに重ね合わせ軽く吸った。 不安をよそに、キャロルはおとなしく目を閉じて接吻を受け入れた。 そして唇が離れると、かすかな声で呟いた。 「・・・あなたを信じてみるわ」 9 陽が落ちてもまだ雨は轟々と降り続けていた。 体が温まると徐々に眠気がキャロルを包み込んでいく。 王子の腕の中で彼の心音に耳を澄ましているうちに、ついに深い眠りに落ちてしまった。 王子は胸に顔を埋めて眠るキャロルを見守りながら、髪や頬に口付けた。 (何にしても無事でいてくれて良かった。 私を思い出せぬと言うのなら、もう一度私に惚れさせてみせよう。 辛い事は忘れてしまえば良い・・・エジプトもメンフィスも、何もかも) ――キャロルは灼熱の砂漠に一人立っていた。 遠方で白い馬に乗った若い男が叫んでいる。 「キャロル――!!どこにいるのだ」 その男は渾身の声を張り上げて、キャロルを呼んでいる。 黒く長い髪には豪華な黄金の冠。強い陽射しを反射して煌びやかに輝いている。 男の顔は強い光の影になってはっきりとは見えなかった。 なのに、彼の力強い瞳が真っ直ぐにキャロルを見つめているのがわかる。 突然、目の前は真っ暗になった。 地下牢のような陰気な湿った空気。 黒い髪の美貌の女が立っていた。エジプトの壁画から抜け出たような女王のような女。 しかし女の黒い瞳は憎悪の色に染まり、その両手がキャロルの細い首を締め上げる。 「お前のような罪人は生かしてはおけぬ。死んで罪を贖え!」 キャロルの目の前に夜の砂漠が広がった。砂漠を渡るキャラバン。 キャロルはその一隊の中にいて、駱駝の上で揺られていた。 背後の男が彼女の体をいたわるように抱き寄せている。琥珀色の瞳。亜麻色の長い髪。 「姫・・・そなたを私の妃に。愛している。未来永劫に私の妃はそなた唯一人だ」 キャロルはその男をこう呼んだ。 「・・・王子」 10 キャロルは目を覚ました。 「目覚めたか?随分とうなされていたぞ・・・悪い夢でも見たのか?」 心配してキャロルの顔を覗き込む彼を、瞬きも忘れて見つめた。 「わたし・・・わたし、あなたを『王子』って呼んでいた。 そしてあなたは私を『姫』・・・って。 そういえば、最初あなたは私を姫と呼んでいたわ! 何なの?王子って、姫って・・・私達は一体」 王子は仕方なく頷いた。 「いかにも・・・私はヒッタイトの王子、イズミルだ」 「お・・・おうじ?」 そう、王子だ!彼を『王子』と呼ぶのに彼女の唇はとても慣れていた。 「わたしは・・・?」 「そなたは、ナイルの姫。 エジプトの女神の娘と呼ばれていた」 キャロルの想像を遥かに超えた現実に、気持ちが激しく撹乱した。 王子はキャロルを守るように抱きしめた。 「・・・落ち着け。思い出したのはそれだけか?」 「黒い髪の男の人が・・・私を呼んでいた!! 胸が苦しくなるくらい悲痛な声だったの」 王子は眉をひそめた。 「それから?」 「そして・・・綺麗な・・・とても綺麗な女の人が・・・」 その先を思い出してキャロルは震えた。 「わたしを・・・わたしを罪人だと・・・死んで贖え・・・そう言ったわ!」 |