『 夢を継ぐ者 ―記憶の恋人・その後― 』 11 イズミルはジャナを片腕で抱き上げて、再び馬上に跨った。 アナトリアの広大な草原に橙色の夕陽はゆっくりと傾き、音もなく沈んでゆく。 夕暮れの色は不思議と人の心に物悲しさと、遠い時の果てに忘れた懐かしさを思わせる。 馬を駆るイズミルの亜麻色の髪も、ジャナの頬も、鮮やかな夕陽の色に染まっていた。 腕の中でまどろみ始める我が子の黄金に見える髪に顔を寄せれば、暖かい日なたの匂いがした。 愛して守ってやらねばならぬ者。小さく頼りないその存在。 イズミルは幸せであった。 胸が熱くなる程に、幸せであったのだ。 (愛しい子達の未来に幸福あらんと願う事こそ・・・今の私の・・・只ひとつの夢ぞ) 12 その一年の後――― 獰猛さを増すアルゴン王を撃沈すべく、イズミル率いるヒッタイト軍はアッシリアへと旅立とうとしていた。 城の外に集結した王と数万の兵、出兵を見送る臣下の者達、そしてその妻と子供達。 出陣のこの時、ミラはいつも泣き出しそうになるのを抑え、無理に微笑みで夫を戦地に送り出そうとする。 いじらしい妻のその笑顔を見て、イズミルはその時かすかな確信を得たのだ。 狂おしい情熱こそなくとも、これも愛なのかも知れぬ。 長き間、かつて愛した娘に心奪われたままのイズミルを、国王として、夫として、子供達の父として、そして何よりも一人の男として、哀しい顔のひとつも見せずに愛し続けたミラ。 何の代償も求めず、イズミルと彼の子供達に惜しみない愛を注ぎ続けた妻。 イズミルは、ミラの耳元にそっと囁いた。 そなたを妻にして良かった、と――― ミラの瞳に抑えきれぬ涙が浮かぶ。 イズミルは唇で、ほろ苦い塩味のする雫を優しく吸い取り、妻の唇に接吻を与えた。 (私達は・・・本当の夫婦になれるだろうか?十数年の時が過ぎた・・・それでも、今なお私はかの姫を求めている。・・・もっと・・・もっと時が必要なのかも知れぬ。しかし、私はいつかそなたと本当の夫婦になりたい・・・今、心からそう思うのだ) イズミルは口には出さなかった。 しかしミラは、彼の琥珀の瞳が言外に語りかける何かを受け止めていた。 13 イズミルはジェスール王子、アジス王子、そしてジャナ王女に抱擁と頬への接吻を与えた。 「父上・・・必ず御無事で!」 「おとうさま・・・ごぶじで」 イズミルは無言のままに、子供達に向って力強く頷いた。 これまでの何度にもわたる出陣の度、この父は同じように強く帰還を約束し、それを裏切る事など一度としてなく、勇ましい姿で再び王城へ帰ってきたものだ。 イズミルは春の柔らかな風に亜麻色の髪を靡かせて、颯爽とマントの裾を翻し馬に跨った。 「いざ、アッシリアへ向けて出陣――――!!」 雄々しいイズミルの号令を受け、数万の兵は一斉に始動する。 季節は春。色とりどりの花々が咲き乱れ、新緑は燃え立つように美しい。 列なす民が見送る街道の中央を、馬蹄の響きも鮮やかに威風堂々進み行くヒッタイト軍。 その先陣を行く、重い甲冑を纏ったイズミルの逞しい背中。 馬上からイズミルは今一度振り返り、青空にそびえる王城を仰ぎ見た。 ―――そして、それは彼の最後の雄姿となった。 14 シリア砂漠――― 砂漠の白い砂の上でイズミルは、頭上で煌々と輝く白銀の月を見ていた。 仰向けに横たわった彼の全身から流出する血潮を、砂が吸ってゆく。 イズミルの体は徐々にその温かさを失いつつあった。 見渡せば、砂漠一面には傷ついて倒れ伏すヒッタイト兵士達。 イズミルを守ろうと、戦い抜き、命尽きた兵士達。 アッシリアを落城しアルゴン王の首を討ち取り、本国ヒッタイトへ凱旋すべく道のりのシリア砂漠の最西で、ヒッタイト軍は居合わせたガルズ将軍率いるバビロニア軍に包囲された。 そして、ラガシュ王の右腕と呼ばれるこの名高い武将との死闘の果てに、両軍は相討ちとなったのだ。 イズミルの全身を暖かな倦怠感が襲い、抗えぬ睡魔が彼を襲っていた。 不思議なほどに、それは心地よく、体が天に向って浮遊するような感覚であった。 遠のく意識の中で、イズミルは己の半生に思いを馳せる。 ―――幸せだったと思う。 一人の女を強く愛した。己の命よりも深く。炎をも恐れぬほど激しく。 そして、彼女も彼を心から愛した。 これ以上の幸福が何処にあるというのか。 15 胸に浮かぶのは、愛しき者達の姿。 ミラ。 赦して欲しい。妻としての幸せを与えてやれぬまま逝く事を。 しかし、愛していた。 長い月日に育まれたこの穏かな感情も、やはり愛なのだ。 今になってはっきりと分かるこの思いを、伝えてやれなかった事が悔やまれる。 たったの一度たりとも「愛している」とは言ってやれなかった。 許されるものならば、今、その言葉を伝えたい。 ジェスール王子、アジス王子。 今年で御年15と14になる二人の王子は、諸国に怜悧で英明なるとの誉れも高い。 若き日のイズミルを生きて写したような彼らならば、立派に父の遺志を継いでくれるに違いない。 誇るべき息子達に案ずる事など何も無い。 ジャナ王女。 果たせなかった夢を継ぐ、愛しい娘。 まだ幼い彼女を残して逝くのは辛い。 しかし彼女は幸せを手にすると信じている。 必ず、きっと、幸せになれる。いや、幸せになるのだ!その小さな手で幸せを掴むのだ・・・! 16 そして・・・キャロル。 メンフィスを失い嘆き哀しんだ彼女の姿は、後の己の姿となった。 愛する者を失くす事は、底の知れぬ深い哀しみ。 しかし、その後の彼を支えたのは他ならぬキャロルとの思い出であったように思う。 ただキャロルとの儚い思い出に縋るように生きてきた。 なのにあの時イズミルは、キャロルが全霊をあげて愛した男の思い出のすべてを残酷にも奪おうとしたのだ。 (姫・・・赦せよ、今私はそなたの許へ逝く。命尽きても・・・私はそなたに乞うであろう―――赦しと・・・愛を) 死ぬ事は恐ろしくは無かった。 心残りが無いと言えば嘘になる。 それでも死を恐れぬのは、死の先にはかすかな幸せがあるように思えるからだ。 イズミルは目を閉じた。ゆっくりと、静かに眠るように・・・ 夜風は紺碧の空に砂塵を舞い上げて、横たわるイズミルの体の上に白い砂を降らせていた―――― 17 ヒッタイト ハットウシャ―――― 壮絶な最期を遂げたというイズミルの死顔は、思いの他に安らかであった。 死しても尚美しいその骸を、言葉なく見守るミラ妃、ジェスール王子、アジス王子、ジャナ王女。 後ろに黙して侍るムーラ、そしてルカ。 最愛の国王、夫、父、主君を失った者達の瞳には、痛々しい程の哀しみと憔悴の色。 祖国ヒッタイトを守り、国民の為に命を賭して戦った偉大なる王。 獰猛なるアルゴン王を討ち、バビロニアの猛将ガルズを倒し、そして自らも帰らぬ人となった。 棺の前に立ち尽くし哀しみに暮れるミラに、ムーラとルカは二人して跪き頭を下げる。 「王妃様、・・・恐れながら・・・お手討も覚悟の上で申し上げまする!」 「何でしょう、ムーラ・・・ルカ?そなた達が揃ってその様に・・・一体どうしたというのです・・・」 「はい・・・。王妃様のご心痛、重々承知の上でのお願いでございます。どうか・・・!陛下と御一緒に、これらの品を埋葬頂く事をお許し下さいませ!」 ムーラが手にしていたもの。 それは、イズミルがかつて絵師達に作らせた陶板やレリーフであった。 それらには、彼の心を生涯捉えて離さなかった美しい乙女の姿が描かれている。 「・・・これは、かの・・・ナイルの姫君・・・なのですね?」 18 「・・・さようでございます。ミラ様にお願い申し上げるのはどうかと・・・こんな事を申し上げるべきではないと・・・散々迷った末の進言でございます。ですが、陛下の・・・陛下のせめてもの、お慰めに・・・陛下が生前・・・大切にされていた物でございます・・・どうか、王妃様!このムーラたってのお願いでございます!!」 「王妃様、私からも・・・お願い致します!どうか・・・これらをイズミル様とご一緒に・・・!」 ムーラもルカも、頭を床に擦り付けるように伏して懇願する。 しばらくの間、陶板に描かれたキャロルの姿を無言で眺めていたミラは、顔を上げると静かに、しかしきっぱりと言い切った。 「――――嫌でございます」 「私は・・・知っていました。ずっと陛下のお心の中には、かの姫君がお住まいだった事・・・。でも・・・それでも良かったのです。陛下の目はいつも遠くを、エジプトに続く空の彼方を見つめておられたけれど、私を、子供達を・・・とても大切にして下さった・・・。だから、それで良かった。私には充分に幸せだったのです・・・・・・」 静かに穏やかに語るミラ。 しかし、その瞳に涙が溢れ出した時、彼女は抑えていた感情をも一気に溢れさせた。 19 「けれど・・・!!こうして陛下が亡くなった今、陛下とあの方をご一緒にして差し上げるのは、嫌です!陛下はお亡くなりになって・・・やっと私の許へ・・・家族の許へ戻ってこられたと思いたいのです!生前だけでなく・・・亡くなられた後も、あの方に陛下をお渡しするなんて・・・!それだけは嫌・・・嫌です・・・嫌なのです!!陛下の墳墓に・・・かの姫君を思わせる品を供えるなど・・・絶対に許しませぬ!!」 いかなる時も決して声を荒げる事などなく、いつも柔らかな微笑みを絶やさぬ王妃が、初めて見せた厳しくも激しい貌。 ムーラとルカはもうそれ以上、言葉を続ける事ができなかった。 穏かに優しく、愛という名の見返りさえも求めずに、ただ一心に夫を愛し続けたこの王妃の、これは最後の意地なのだ。 誰もが言葉を失ったように、亡き国王の威厳に満ちた死を見守るなか、幼いジャナ王女がおぼつかぬ足取りで棺に歩み寄った。 「おとうさま・・・おとうさまに宝物をかえしてあげるわね。ジャナが宝物をとってしまったら・・・おとうさまは寂しいでしょ・・・?」 まだ幼い故に、死の意味を正しくは理解できかねるジャナ王女。 しかし、あの頼もしい父は、もはや彼女を抱きしめず、優しい言葉をも語らぬ事を彼女は知っている。 イズミルが遠き路を一人旅立たねばならぬ事も――― その手の中に、かつて父から譲り受けた黄金の宝物を握りしめ、棺の前でつま先だって手を伸ばすが、父の骸にはわずかに届かない。 20 「ジャナ・・・それは・・・?」 ミラ妃の問いかけにジャナは振り返り、小さな手のひらの上の黄金細工の髪飾りを見せた。 「おとうさまが下さったの。・・・そなたは幸せにならねばならぬ・・・って。これを持っていれば・・・姫がそなたを見守ってくれる・・・って。おとうさまの分も・・・姫の分も・・・おかあさまの分も・・・幸せに生きよ・・・って。おとうさまはそう言って・・・泣いていたの・・・・・・。どうしてか分からないけど・・・とてもかなしそうに泣いていたの・・・」 穢れの無い琥珀の瞳に、透き通った涙の粒が浮かんだ。 「あいする人を自分でさがして・・・幸せに・・・なれ・・・って」 ミラは泣きじゃくり出した娘を胸に抱き上げて、その涙を優しく指先で拭ってやる。 そして、その小さな手の中にある黄金の髪飾りを手に取り、じっと見つめた。 「これは・・・この黄金細工は・・・エジプトのものですね・・・?」 ルカはそれに見覚えがあった。 あの豪雨の日にナイルの姫君をエジプトの野営地から攫った時、彼女の黄金の髪に煌いていたものだ。 「はい・・・」 ミラは、娘の小さな手のひらにそれを戻し、上から両手でそっと包み込んだ。 「―――これは、あなたがお持ちなさい・・・ジャナ。生涯・・・大切にするのです・・・。お父様が・・・あなたの幸せを願って下さったのでしょう・・・?」 目尻を手の甲で拭いながら、頷くジャナ。 ミラは棺の脇でひざまずいて、冷たくなったイズミルの手を取り、そっと自分の頬にあてた。 そして深く息を吸いこみ、祈るように目を閉じる。 やがて、ひと筋の涙が頬に緩やかな線を描いて落ちた。 21 「ムーラ、先ほどの品を・・・」 「・・・はい?」 思わず聞き返すムーラの瞳に映るのは、優しげに微笑む王妃の穏かな顔。 涙に濡れた王妃の瞳・・・そこには夫への強く一途な愛だけがあった。 「先ほどの品々を陛下の棺の中へ収めて差し上げて下さいな。―――陛下のために」 「ミラ様!!」 「王妃様・・・!あ、有り難く存じます・・・」 彼の骸の周囲には溢れかえるような花で埋められ、その傍らにはキャロルの姿を描いた陶板やレリーフが収められた。 その安らかなイズミルの死顔は、まるで微笑んでいるようにさえ見えた――― 度重なる諸外国の攻撃から祖国を守り抜き、軍事や政のみならず、教育や福祉、芸術にまで及ぶ広い分野において、その優れた手腕でヒッタイトを支え続けた名君イズミル王の葬儀は荘厳かつ盛大であった。 国のそこかしこで、英雄の死を悼み、功績を讃え、涙する民の祈りが聞こえる。 偉大なる国王の心に安らぎあれ その魂よ、安らかに眠れ―――― 22 イズミル王の没後、第一王子であるジェスール王子が即位 その後もエジプト・バビロニアとヒッタイトは、度重なる抗争を繰り返す アイシス女王が毒盃に倒れた後も、抗争は熾烈さを増した しかし、この数十年にわたる長く激しい戦乱に幕を引いたのは ラガシュ王とアイシス女王の嫡出の王子であるメンフィスU世と イズミル王の第一王女であるジャナ王女の婚姻であった 王族の婚姻は、政略によるものが殆んどであったこの時代 それは、珍しくも互いに強く望み望まれての婚姻であった 前王にも勝る賢帝として、その名を後世に残したジェスール王のヒッタイト メンフィスU世とジャナ王妃の統治下となったエジプト・バビロニア それらの国々は、長きにわたる彼らの治世において平和であったと言う 23 かくて―――― その家臣や親族により手厚く葬られた二人の王の墓とナイルの娘の遺品は、遥か三千年の時を経て、オスディミール博士・ブラウン教授らの手により発掘されるまで、一切の盗掘や天災から免れ、奇跡的に全形をとどめたのである。 イズミル王の墳墓からは、彼が子供達へ宛てて記したと見られる石版も出土している。 繊細かつ力強い彼の筆致は、こう語っている。 ―――夢を継ぎ、夢を紡ぐ者 希望の岸辺に立ちて、哀なる魂を救わんとす 何れの日にか、その愛を以て世を成さしめよ――― ―終― |