『 夢を継ぐ者 ―記憶の恋人・その後― 』 1 エジプト テーベ――― 「そちらの宝玉類はこの衣装箱の中へ仕舞うのです!調度品はそちらへ・・・。早く、早く!もう時間がありませぬ」 女官長ナフテラの荒立った声が王宮の回廊に響いていた。 彼女らしくもない厳しい表情で、キャロル付きであった侍女達に指示を出しながら、ナフテラは深いため息をひとつついた。 何と言う事であろう。 キャロル様を連れ去ったイズミル王子の後を追って兵を挙げられたメンフィス様は、戦の最中、キャロル様をその御体でもって庇い、ご崩御なさったのだと言う。 しかも、その御命を奪ったのは、アイシス様の振るった剣・・・。 そして、キャロル様は混乱のなか、激流にさらわれ消息を絶たれたのだと・・・。 息子であるミヌーエからそれを知らせる書簡を受けた時、ナフテラはあまりの驚愕、失望、そして哀しみで意識が遠のく思いであった。 その場に泣き崩れそうになるのを何とかこうして立っていられるのは、乳母として幼き頃から成長を見つめて来たファラオとその寵姫に対する忠誠心、そして女官長たる自身への重責の所以である。 アイシス女王がファラオの遺体と共に軍を率いて王宮へ戻るのは、もう間もなくであろう。 メンフィス王亡き後、当然の事ながら上下エジプトを司り、絶対的権力を持つのはファラオの唯一の姉であるアイシス女王である。 ナフテラを始めとする女官達は、キャロルの行方の知れぬ今、せめて彼女の思い出が残る品々を女王の手から守ろうとしていた。 他の家臣達も密かに動き始めていた。 その命よりもナイルの娘を殊更に愛した主君の墓に、彼女を偲ぶ品々を共に供えようと、水面下で万事に手を配していたのである。 死して永久の命を得るファラオが、その永遠の時を愛する姫君と共に過ごせるように。 無念の中に散った若く勇猛なファラオの魂を弔わんが為に――― 2 王宮の正面にアイシスの姿が現れると同時に、新たに国の頂に立つ女王となる彼女を数多の兵士や家臣が総勢で迎え出る。 しかし、それぞれの家臣の胸の内には、様々な思いが流れていた。 アイシス女王の君臨を首を長くして待ちかねていた者、忠誠を捧げたメンフィス王とキャロルへの哀惜に暮れる者、煮えきらぬ複雑な思いを胸に巡らす者・・・。 ミヌーエ、ウナスら近衛武官が見守るなか、メンフィスの遺体を載せた棺が運び込まれる。 哀悼の重い空気が煌びやかな宮殿をしめやかに満たしていった。 「キャロルはもはやこの世にはおらぬ・・・キャロルに纏わるものを全て廃棄いたせ!」 それは帰国後、開口一番にアイシスが女王として女官長ならび侍女達に下した命である。 女官長であるナフテラは女王には絶対服従、その命のとおりキャロルの遺品すべてを処分せねばならない。 しかしキャロルが愛用した品の主だったものは、この時すでに家臣達の手によって、女王の目の届かぬ処へ隠し立てされていたのである。 70日の期間をかけてファラオの遺体はミイラとなり、その後、王族の眠る谷へ埋葬される。 喪に服すこれらの日々を、アイシスは神殿に篭り亡きメンフィスへの哀悼と祈りにすべてを捧げていた。 愛するただ一人の弟を失った女王の悲しみは、言葉に尽くせぬものがあった。 ナフテラは思う。 女王もまた、愛に生きる人なのだと。 愛に囚われて生きる、哀しい人なのだと。 3 やがて70日が経ち――― メンフィス王を埋葬する墳墓が完成し、ファラオの魂を永遠に宿すミイラは、生前の姿を模った黄金の人型棺の中に収められ、葬祭殿へと運び込まれた。 カプター大神官の采配をもってして、執り行われるファラオの葬の儀。 高位神官達の唱える厳粛な祈祷が、葬祭殿の澄み切った冷ややかな空気の中に流れてゆく。 そして、ファラオの棺は地下深くの玄室へと納められる。 ファラオの棺と共に埋葬される神像や家財道具、宝物等、数々の副葬品の中に、キャロルの遺品を集めて収めた厨子や衣装箱も、アイシス女王の目を巧みに逃れ納められていた。 そして、玄室の壁を覆う壁画の一部は二重に細工され、表の壁画の後ろには、メンフィスとキャロルの婚儀に向けて描かれた壁画が隠されていた。 結局は、献上される事なく、未完のまま王墓の壁の中に納められた壁画。 それはまるで、愛し合いながらもついぞ添い遂げる事叶わなかった二人の運命を物語っているかのようであった。 最後まで棺の上で泣き崩れ、離れようとしないアイシス女王に、ナフテラは優しく語りかける。 「アイシス様・・・どうか、この花束をメンフィス様に・・・王宮の庭に咲いた・・・蓮の花でございます。メンフィス様が幼少の頃から親しまれ・・・メンフィス様と共に育った花でございます。さぞ、懐かしんで下さる事でしょう・・・」 ナフテラの腕の中には、たおやかに咲く蓮の花束があった。 涙に曇るアイシスの瞳には、もはや暗い業火は影をひそめ、ただ痛ましいまでの哀しみに揺れていた。 「おお・・・ナフテラ・・・柩の中へ入れてやっておくれ・・・」 「はい・・・・・・」 ナフテラは花束をメンフィスの人型棺の脇へ捧げた。 神官がパピルスに記された葬送文を読み上げる。 王の眠りを永久に守る護符が人型棺の胸の上に置かれた。 4 アイシスの後ろに控えて、黙して祈りを捧げるのはメンフィス王へ忠誠を尽くした高官や家臣達。 イムホテップ、ミヌーエ、ウナスの顔ぶれもそこにあった。 ナフテラは列の端に立ち、メンフィスへの祈りを心の中で唱えた。 (メンフィス様・・・あの蓮の花はキャロル様が丹誠されて愛でられた奥庭のものでございます。せめて、キャロル様の代わりにと・・・お傍にお供え致しました・・・。どうか、安らかにお眠り下さいませ。行方の知れぬキャロル様をお守り下さいませ。エジプトへ再びお戻し下さいませ・・・どうか!) そして、王墓と外界を隔たる重い石の扉は、永遠の決別を意味する軋んだ音を立てて閉じられた。 『王の眠りを妨ぐるものに 死の翼ふれるべし』 今ここに封印される――― 5 砂漠の果てに沈み行く雄大な落陽を見詰めながら、ウナス、ミヌーエの二人はナイル河岸に立ち尽くす。 「あのメンフィス様が亡くなられたなど・・・今も信じられませぬ!メンフィス様は・・・ヒッタイト奇襲の直前に私に言われました。キャロル様を・・・やっと・・・やっと、妃にしたのだと・・・・・・とても嬉しそうに・・・輝かしい笑顔で、そう言われたのです!私は・・・あの時のメンフィス様のお顔が忘れられませぬ!―――眩しい程に輝いていたメンフィス様のお顔が!!」 ウナスはそう言って男泣きした。 「ならば、キャロル様が御懐妊されている可能性もある・・・!何としてもお探しして、お戻り頂かねば。わが母なるエジプトへ・・・再び!!我らの忠心は永久にあのお二人にあるのだ!」 ミヌーエは強い語調で語った。 メンフィスとキャロルの忠実なる臣下達は、ファラオ亡き後もキャロルの行方を捜し、彼女の帰りを待った。 アイシス女王の政権下に従事しながらも、女王がバビロニアのラガシュ王を夫に迎えた後も、その帰りを待った。 来る日も来る日も・・・ただ待ち続けたのだ―――― 6 ヒッタイト ハットウシャ――― 戴冠の儀を済ませ、名実ともにヒッタイトの国王となったイズミル。 亜麻色の長い髪に戴く、燦然と輝ける王の冠。 しかし、彼の琥珀の瞳には悔やんでも悔やみきれぬ自責の念が暗い影を落としていた。 (何故、あの時・・・姫を抱く腕を緩めてしまったのか―――!) 彼の手の平の上に転がる、黄金の髪飾り。 今となっては、小さなそれだけが彼に残されたキャロルの唯一の名残であった。 イズミルは絵師を呼びつけては、陶板やレリーフに胸に残る愛しい娘の姿を描かせた。 それを見ては深い物思いに耽り、溜息をつく。 思い出の中にしか喜びを見出せない・・・そんな日々であった。 エジプトへ続く遥かな空を見上げ、イズミルは物思う。 アイシス女王よ―― そなたもメンフィス王に秘薬を飲ませたと申したな。 されど、秘薬を用いてまでも愛する者の心を欲した我々は、結局はそれらを失う事となったのだ。 愚かな事ぞ・・・ 所詮、妖しなどで人の心は手に入れられぬのだ。 それでもなおキャロルへの深い思慕を断ち切れぬイズミルは、度々エジプトへ自から軍を引き連れてはナイル川流域を一帯捜索させた。 しかしキャロルの姿どころか、彼女の消息さえ何も掴めぬまま、時だけが過ぎてゆく――― 7 イズミルは以前から皇太后の推薦であったミラを正妃として娶る事となる。 もはやイズミルにとって、婚儀など政の一部でしかなかった。 国を司る者の責務として、次の世をになう世継を残さねばなるまい。ただ、それだけだ。 大人しく従順で美しく、王妃としての資質にも申し分のないミラ。 ひとえにイズミルを愛し、キャロルを失った彼の深い傷を癒そうと心の限りを尽くす彼女を、イズミルは健気で、そして愛しいとさえ思う。 しかし・・・それが愛なのかと問われれば、イズミルには答えようがなかった。 ただ、あの炎のように身を焦がす狂おしいまでの情熱が、そこには存在しない事だけが明らかであった。 二人は穏かで平和な夫婦であった。 程なくして世継の王子が誕生する。 イズミルに良く似た、利発そうな琥珀の瞳の王子。 世継の王子である彼はジェスール王子と名づけられた。 翌年にはもう一人の王子が産まれ、第二王子はアジス王子と名を受けた。 ヒッタイトは戦渦の真っ只中にあった。 同盟を破り、前国王を殺害に至らしめたアッシリアとの度々に渡り繰り返される激しい攻防。 更にその頃、バビロニアとエジプトの両国はラガシュ王とアイシス女王の政略婚による事実上の同盟を結んでいた。 野心に燃えるラガシュ王はエジプトという富める大国を得て、ますますその勢力を伸ばそうとしていた。 そして、軍事強国であるヒッタイトをもその手中に収めんと、狙いを定めていたのだ。 イズミルはまさに戦いの中に生きていた。 日々の緊迫した状況は、むしろ彼にとっては救いだったのかも知れない。 ともすればかの姫を想い悔恨に駆られる彼を、哀しむ暇も無いほど多忙にさせ、そして敵国への怒りは沈みがちな彼の血を熱く沸き立たせた。 しかし、そんなイズミルに本当の意味での救いが現れたのは、彼がキャロルを失ってより十年が過ぎようかという頃であった――― 8 イズミルとミラは三人目の子を授かったのだ。 三番目の和子は王女であった。 面差しはイズミルに・・・というより叔母にあたるミタムンに似て、愛くるしく美しい子であった。 そして、何よりイズミルを喜ばせたのは、陽射しを受けると黄金に見える彼女の淡い茶色の巻き毛。 長く笑う事を忘れ、憂いと翳りに満ちてていたイズミルの顔に温かな笑顔が戻った。 何故か・・・イズミルは彼女の琥珀色の瞳の中に、キャロルと同じ『何か』を見るのであった。 それは何なのだろう、とイズミルは考える。 しかし、答えは見つからない。 その愛らしい王女はジャナと名づけられた。 ジャナ王女誕生から更に4年の時が過ぎる――― 三人の子供を可愛がる子煩悩な良き父イズミルであったが、殊更このジャナ王女に関しては、まさに目の中に入れても痛くは無いという有様であった。 忙しい戦の合間を縫って、暇を見つけては城に戻り、まわりの者を呆れさせる程に可愛がった。 ある日の夕暮れ、ジャナを連れて馬で草原へ繰り出したイズミルは、木の根に足を取られて動けない子ウサギを見つけた。 助けてやって欲しいと哀願するジャナに、イズミルは優しく微笑み、子ウサギを助けてやった。 イズミルは傷ついた子ウサギを腕に抱き、ジャナに見せてやった。 ジャナは恐る恐る小さな手を伸ばす。 「・・・こわい・・・かみつかない?おとうさま」 「大丈夫だ。・・・そなたが恐れれば、これも落ち着かぬぞ。大丈夫だ。噛み付いたりはせぬ」 「わぁ・・・かわいい」 「・・・・!・・・・」 9 イズミルは我が子の顔を食い入るように見つめた。 子ウサギの頭を撫でながら可憐な笑顔を見せるジャナと、キャロルの笑顔が鮮やかに重なったからだ。 エジプト王宮の庭で子猫の頭を撫でながら・・・かつてキャロルも同じように微笑んで見せたではないか! (そうだ・・・この笑顔が似ているのだ!この穢れのない澄み切った瞳が・・・似ているのだ!!) キャロルの面影が怒涛のように胸に押し寄せる。 イズミルはどうしようも無い程胸が熱くなるのを止められず、思わずジャナの小さな体を抱きしめた。 「おとうさま・・・?どうしたの?ウサギが逃げちゃう・・・」 しかし、イズミルはジャナを抱いたまま身動きもしない。 ジャナは無邪気な瞳で、彼女のそれと同じ色の父親の瞳をじっと見つめる。 きつく閉じられたイズミルの瞳の淵には透明の雫が滲んでいた。 「おとうさま・・・泣いているの・・・?」 「・・・・・・・・・」 幼い娘の背を抱く、イズミルの大きな手は細かに震えていた。 「おとうさま・・・泣かないで・・・どうしたの・・・?」 イズミルは娘の柔らかな頬に自分の濡れた頬をすり寄せ、小さな背中を愛しげに撫で下ろす。 10 「そなたは幸せに生きよ・・・!! いつかそなたを愛し、そなたも愛しいと思える男に出会うであろう・・・。 その時は、愛するが故の哀しみを背負うことなく・・・幸せに生きるのだ! 私の分も・・・姫の分も・・・そなたの母の分も、そなたは幸せに愛の中に生きよ! 必ず・・・必ず、幸せになるのだ! そなたはヒッタイトの王女として生を受けた。 しかし、その運命に流されてはならぬ・・・翻弄されてはならぬ! 決して国の政などに利用される事なく、自ら愛する男を探すのだ! そして互いを心から愛せ・・・! 幸せはそなたが求めるのだ・・・良いか?・・・己の手で幸せを掴むのだ!!」 幼いジャナにその真意が伝わるはずもなかったが、魂の叫びにも似たイズミルの言葉は彼女の心に深く響いて染みこんだ。 彼女は父の眦に浮かぶ哀しげな涙を、小さな指先で拭おうとする。 イズミルは娘のいじらしい仕草に柔らかな微笑みを浮かべ、懐から黄金の髪飾りを出した。 そして、それを娘の手のひらにそっと落とす。 夕日の光を浴びて、鮮やかな金色に光るそれを、ジャナは嬉しそうに眺める。 「わぁ・・・きれい。これ、なぁに?」 「それを、そなたに・・・やろう。・・・決して失くしてはならぬ。大切に懐に仕舞っておくのだ。そなたの幸せを、かの姫も見守ってくれるであろう・・・」 「おとうさまの宝物なの?」 「・・・そうだ」 |