『 いつか晴れた日に 』 41Ψ(`▼´)Ψ 王子は早々に執務を切り上げるとキャロルの許に向かった。午後の早い時間である。 キャロルは寝台の上でまだ眠っていた。だが王子がそっと接吻すると目を開け、困ったように曖昧に微笑んだ。 「起きられるか?さぁ、少し何か飲むがよい」 王子は甲斐甲斐しくキャロルの面倒を見た。 「私・・・どれくらい眠っていたのかしら?起きなきゃ。寝過ごしたりして恥ずかしいわ。王妃様のところに伺わないと」 キャロルはわざと普段通りの口調で言った。とはいえ、王子の顔はまともに見られない。 「今日は外に出てはならぬ。そなたは疲れているのだから身体を休めねばならぬ」 王子は少し意地悪い微笑みを浮かべた。 「初めてのことであったのだ。さぞ疲れておろう?私が側についていてやろうほどに・・・」 馴れ馴れしく王子は寝台に滑り込むとキャロルを抱きしめた。一瞬、キャロルは身を固くしたがすぐに王子に抱きついてきた。 「暖かくて気持ちいい・・・。こうして甘えているのは好き」 「ふふ・・・・・」 王子は優しく微笑むと背中をゆっくりと撫でてやった。キャロルはまるで驕慢な子猫のように満足そうに目を閉じてくつろいでいる。そんなキャロルの様子を見守るうちに王子の胸の内に少し意地の悪い気持ちが萌してきた。 (もうこの身は私の妃であるのに、一時の恐ろしさを忘れればまた私を翻弄する小憎たらしい子猫に戻ろうとする! もはや私を翻弄することなど赦さぬぞ。そなたは私のものなのだから) 「気持ちいい、か。そなたがそのように安心しきって身を任せてくれて良かった。・・・・・・昨日のことで嫌われたかと心配だったのだ」 「そんな・・・」 離れようとするキャロルを抱きしめて王子の手つきはキャロルを甘く苛むそれに変わっていった。 「怖がらなくて良い。大丈夫だ、そなたを痛めつけるようなことはもうせぬ。力を抜いて私に全てを任せておれ。何もかも・・・教えてやる。ただそなたは私の言うとおりにしていればよい・・・。抗うな、抗えばまた辛いぞ。さぁ」 キャロルが目を開けたときにはもう次の日の朝日が寝室に差し込んでくる時間だった。 「目覚めたか?」 先に起きて腰布を纏っていた王子は微笑んだ。 「王子、どこかに行ってしまうの?ここに居て」 心細げに、そして甘えたように囁くキャロルのうなじには王子の刻印が色鮮やかだった。 「名残を惜しんでくれるか?これは先々、鍛え甲斐、教え甲斐がある生徒だ。そなたは今しばし休んでおれ。寝室より外に出ることは叶わぬぞ。私が執務より戻るまでおとなしくしておれ」 42 しばらく不例が続き、部屋に籠もっていたキャロルが王子に伴われ人々の前に現れ たのは、デリアが最後に王子と話をしてから4日ほどたってからだろうか。 婚儀間近であるにもかかわらず倒れた姫の容態を巡っては相当姦しい噂が飛び交って いた。自分の娘を王子の側室にと思っていた人々は、ここぞとばかりに身体の弱い 外国生まれ(しかも神の娘なのだから異世界生まれでもある)の王子妃を戴く不安 を語り合った。 後宮の女達もまた好奇の目でキャロルの伏せる王子の宮殿を窺っていた。あわよく ば再び王子の寵をと思って のことである。 デリアは無関心を装って成り行きを見守っていた。だが心のどこかでは、自分が追 い出したのにいつまでたっても仲直りに来ない青年が今度こそ、宿願を果たしたで あろうことが分かっていた。 床上げを済ませたキャロルは国王の謁見の席に王子と共に現れた。美しく装い、ま だ婚儀は挙げていないので国王夫妻、王子からは一段下がった場所に侍立している。 並み居る人々もキャロルの美しさに改めて目を奪われた。キャロルは元々派手やか な美貌の持ち主ではない。露に濡れた小さな花のような優雅な姿。内気な性格のせ いもあるだろうが、髪や瞳の色が変わっているという以外ぱっと目を奪われるよう な華やかな色香漂う容姿ではないのだ。 ところが病み上がりのキャロルは何やら内側から輝くような、しっとりとした美し さが添うている。まろやかな魅力。小さいが香り高い白い花のような風情。 43 その変わり様にデリアですら息を呑んだ。 その日の夕刻、彼女は執務を終え、宮殿に戻る若者に自分から声をかけた。 「ご機嫌よう、王子。姫君・・・いえお妃様のご回復、重畳ですわ」 「デリアか。・・・久しいな」 王子は微笑んで答えた。穏やかな笑みだった。 愛する女がいて、その心を手にしながら、それを手の中で珍しい玩具のように弄ん で笑っていた青年。女が焦らされ、涙を流して悶えているのを面白げに観察し、デ リアに話して聞かせた青年イズミル。 寡黙で近づきがたい雰囲気の若者が、ごく親しく思っている女にだけ見せる魅力的 な微笑み。 「そなたにはお見通しというわけか?ふ、さぞ面白く思っているのだろうな」 デリアはもうその微笑みが自分だけのものではないと悟った。 「とんでもない。おめでたいことですわ。あのお可愛らしい姫君を虐めて楽しんで いるあなたは・・・こう申しては何ですけれどお父君にそっくりで空恐ろしいほど でした。 でも今はお妃に夢中であられるのね。お妃様のご不例の間はずいぶん執務も早くに 終わらされたそうで。お早いお戻りは何のため?ただ・・・ご病床のお妃を優しく 見舞っておいでなだけだったのかしら?姫君はこの4日でずいぶん女らしく、生来 の可憐さに何とも言えない色香が加わりましたわね」 44 デリアは露骨に当てこすって見せた。部屋に籠もって恋人同士、飽きもせず何をしていたのかというわけである。 「きついな。まぁ・・・・・たまには愚行に溺れるのも面白かろう。ふふ・・・笑うか?骨抜きになった情けない男を?」 王子ははデリアだけが知っていたあの悪魔的な魅力を湛えた微笑を浮かべた。 「私はそなたにも惹かれている・・・。長いつきあいは伊達ではないな。こんな不実な男は嫌いか?」 デリアはくすっと笑った。共犯者じみた笑み。何とも艶めかしく、それでいて油断できない強かさを湛えた微笑。 「嬉しいことを言ってくださるのね、私の王子様、私の教え子さん。でも悪ぶるのはおやめなさい。あなたは不器用な方よ、色恋に関してはね。認めたくないかも知れないけれど、あなたはもう奥方様に首っ丈。他のどんな女にも勝ち目はありません。 ・・・私、他の女の下で居るのは嫌ですわ。他の女と競うのは良いけれど、あなたの姫君相手では競うまでもなく最初から負けなのは明らかですもの。 見くびらないで。二番手として、犬みたいに振り返ってくれそうもないご主人の背中を見ているのは真っ平。私はそんな安い女ではないし、あなたもそんな下卑た真似をするような方じゃないでしょう」 一気にデリアはまくし立てた。後宮で生きると、誰よりも輝いて決してみじめに生きたりはしないと決心した寵姫の、それは矜持であった。 45 王子は片眉を上げて微笑した。天晴れな女に対する、それは敬意であった。 「私の負けだ、デリア。・・・やはりそなたは見事な女だな」 「今更、何をおっしゃるの」 「私はそなたには勝てぬな」 「私にも・・・それからナイルの姫君にも勝てませんわよ。言ったでしょう?恋は相手を先により深く好きになったほうの負け」 王子は声をたてて笑った。寡黙で冷徹と評される若者のそれとは思えぬほど豪快で楽しげな笑い声だった。つられてデリアも甲高い作り声ではない、本当に楽しげな笑い声をあげた。 今までのわだかまりが全て空に溶けてゆく・・・。 デリアは言った。暖かい誠実な声で。 「イズミル王子様、でも今まで通り私の大事な友人で居て下さるなら嬉しいですわ。私とあなたは何というか・・・馬が合います。後宮だとか王宮だとか・・・狭い気詰まりな場所で気の合う友人を持っているのは心強いことですわ。 友人なら・・・私はあのナイルの姫君を謀(たばか)っていると気が咎めることもありません」 「ほう・・・?」 「あの方を傷つけたくないのよ。これは本気よ。あの方がつまらない聖女様だったら虫酸が走るほど嫌だけれど、あのお姫様はちゃんと自分というものを持っているもの。それに下卑た想像を巡らせて陰謀に精出す方でもないみたい。気性の良い方、ちゃんとした人間ですもの」 デリアは王子の手を握った。 「さ、私は行かなくては。あなたをお友達と思ってよろしい?」 「そなたは得難い友人だ。妻は男なら大概娶る。だが心許せる友を持てる男は意外に少ない」 二人の男女はにっこりと笑みを交わして静かにすれ違った。それぞれの居場所に。 46 イズミル王子とキャロルの婚儀は荘厳に挙行された。神殿での儀式、披露のための宴。 疲れ果てたキャロルがようやく下がることを許されたのはもう真夜中に近いような時間だった。 「姫君、お疲れでございましょう。さぁ、お飲物を差し上げましょう。王子が姫君にと特別に調製をお命じになられたものです」 ムーラが差し出した杯にはとろりとした黄金色の飲み物が入っていた。甘い良い香り。キャロルは一気にそれを干した。暖かく甘い液体が心地よく喉を滑り降りていく。 「何が入っているのかしら?お酒みたいだけれど苦くもないし・・・」 有り体に言えばそれは興奮作用のある媚薬であるのだが、勿論ムーラは微笑むばかりで何も教えない。 「じきに王子も参られます。私はこれで・・・」 静かにムーラは下がっていった。寝台の上に一人残されたキャロルは不思議に身体が火照るのを感じた。初めて結ばれて以来、王子はキャロルの身体を気遣ってか指一本触れない。 (早く・・・王子・・・) やがて。扉が開き王子の大きな体躯が現れた。腕を差し伸べ、王子に羞じらいがちに微笑むキャロル。王子はにっこり笑ってキャロルを抱きしめた。 「嬉しいな、そなたがそのように微笑んでくれるとはな」 キャロルは子猫のように王子の肌に鼻をすりつけて甘えた。 47 (ほほう・・・。私が遣わした薬酒は飲んだらしいな。効果のほどはまだ気付いてはおらぬか。あれは・・・良く効く。どのような夜になるか楽しみだな) 「疲れたであろう?」 王子は囁きかけた。腕の中に抱きしめた身体は熱く火照り、甘く匂い立つ。 「・・・さぁ、私がそなたを護ってやる。明日からは忙しいぞ。体を休めよ」 王子はそういうとわざと目を瞑り、寝入ったふりをした。 (ふふ・・・。私も酷い男だな。しかし焦らしてやりたいのだ、この娘を。昼間は大切に傅き護ってもやろう。でも夜は私の望むままに、仕えさせたい) 「王子・・・?眠ってしまった・・・の?」 キャロルが耳元に囁きかけた。目は冴え、身体は妙に熱く切ない。本能的に彼女は悟っていた。自分が王子を待ちこがれているのだと。それなのに王子は。 キャロルはそっと王子に身体を押しつけた。眠らなくてはと思いながら、頭の芯は冴えわたり、疲れたはずの身体すら眠りを拒否する。 「王子・・・大好き・・・」 不意に王子が目を開けた。 「それならば証拠を見たいものだな。そなたを・・・見たい。どうなっているのか」 王子の指が夜着の前紐を解いて滑り落とした。キャロルは王子が目顔で促すまま、自分の下腹を指で押し開いた。 王子は散々、楽しんだ後ようやくキャロルの乾きを癒してやった。キャロルが望む以上に・・・。 48 次の日の朝。 王子は眠り足りない様子のキャロルを優しく湯に入れ、召使い達を下がらせた居間の長椅子の上で食事を与えた。 「目が覚めぬか?困ったな、今日は謁見などで昨日以上に多忙な日であるのに。体を休めよと申したのに、夜更かしをいたすから・・・」 王子はさも面白そうに言った。キャロルは真っ赤になり小さな声で反論した。 「だって・・・王子が。王子だって・・・」 「私は日頃から鍛えている。そなたとは違うぞ」 やがて食事を終えたキャロルはムーラ達に手伝われて美しい王子妃の衣装に着替えた。この日のためにと王子自らが調製させた衣装は、簡素な形ながら心砕いて染め上げられた薄薔薇色の絹が複雑な襞を形作る上品な物だった。王子が贈った高い身分を表す宝飾品も目映い。 「本当にお美しゅうございますこと!」 最後に冠をかぶせながらムーラが感に堪えないように言った。王子は満足げに微笑んだ。これまで仮初めの情けをかけた女に物を贈ってやったことはあった。だがここまで深い満足感を与えてくれた女はいなかった。 「ふむ。なかなか似合うな。選んだ甲斐があったというものだ」 王子はそう言って手ずから耳飾りをつけてやった。母王妃から、王子の妃になる女性にと贈られていた紅玉とラピスラズリを組み合わせた耳飾りがキャロルの桜貝のような耳朶で揺れた。 「よく映える」 王子は言ってからキャロルにだけ聞こえる声で付け加えた。 「邪魔な衣装がなければ、そなたの白い肌に紅玉が映える様がもっと美しかろう。今宵、私のために見せてみるように」 49 王子に伴われたキャロルは後宮の女達から挨拶を受けた。どの女も綺羅を競い、新しい王子妃を値踏みしていた。ヒッタイト王は息子には寛大であったから、王の寵姫であり王子の情人であった女も少なくなかったのだ。 最初に挨拶をしたのは後宮で王妃に次ぐ地位にある第一の寵姫デリアであった。豪華に装い、女王のような気品と踊り子のようなあだっぽい艶めかしさを併せ持った女性はまっすぐにキャロルを見つめた。 キャロルもまた臆せずにデリアの黒曜石の瞳を見つめかえした。 同じ男性を愛し、一人の女は男を人生をともにするかけがえのない夫として得た。もう一人の女は男を生涯最良の友として得た。得難い男性を手にした二人の女性。 キャロルの胸には王子とデリアがおそらくは深い仲であるのだろうという確信があった。自分が知らない絆が二人の間にはあるのだと聡明な彼女は分かっていた。 (でも・・・そのことについては私・・・何も言うまい。いくら夫婦でも探ってはいけないことはあるわ。それに・・・デリアは私に誠実だった。親切だった。何か探ればきっと私、大事なものを失ってしまうわ) デリアもまた感無量でキャロルの青い瞳を見つめた。もし後宮で生きるのでなければ、もし同じ男性を愛したのでなければ、あるいはこの年下の少女と友達になっていたかもしれないという思いが胸を去来する。 (でもまぁ・・・この方になら王子を渡してもいい。私の愛した王子を・・・一番大事な友人を幸せにできるのはこの姫しかいないことくらい分かりますとも) 二人の女性は暖かな笑みを浮かべ、心を込めて挨拶を交わした。 窓の外の空の明るさ。ヒッタイトの王宮は幸せなざわめきに満ちていた。 終わり |