『 糸 』 1 イズミルはふと心許なさに覚ました。腕の中で眠っているはずの妃の姿がない。 灯火は消えているのに、部屋の中は、ほの明るかった。 イズミルはそっと起き上がり、寝台を抜け出した。 妃は、隣の部屋にいた。開け放った鎧戸から青い月の光が差し込んで、ひたひたと部屋中を満たしている。 (妃よ…。) 窓辺に座って月を眺める妃は美しかった。黄金の髪は月の光に濡れ、肌は内側から輝くように白く浮かび上がり、まるで海から上がったばかりの人魚のようだ。 妃は何をするでもなく、ただぼんやりと月を眺めているかのように見えた。 イズミルは、その凄絶な美しさにしばしの間、見とれていた。だが、なんの前触れもなくふとした不安が影のように心に差し込んだ。あるいは、それはこれから起こる別離への不安か。 イズミルはその不安を拭い去るために、彼女を寝台へ連れ戻そうと動いた。 しかし、声を掛けようとした瞬間、妃の低い歌声がイズミルの耳に届いた。イズミルは再び、柱の影に息を潜め、その歌声に耳を澄ませた。 (恋の歌…。) 2 妃の国の歌だろうか、そのもの悲しい旋律と、明らかに別れを歌った歌詞は、イズミルの心に先程の不安以上の暗い影を落とした。 (妃は、幸せではないのかもしれない。) バビロニアとの戦の最中、エジプトのファラオ、メンフィスが何者かに毒殺され、一人残った年若い王妃。それがイズミルの妃、キャロルだった。 かねてより心を寄せていたエジプトの王妃の身は、エジプトに加勢する見返りとして得た。婚儀を挙げてまだ数ヶ月とはいえ、夜毎イズミルの身体の下で見せる彼女の媚態は、イズミルに、その心までも得たと思わせていた。 あの笑顔は、上辺だけのものだったのか。心の中には、冷たい石を抱えたまま、夜毎私に身を任せていたのか…? イズミルは、飛び出して行って、キャロルを揺さぶり問い正したい衝動と、見てはいけないものを見てしまったような後ろめたさの間でしばらくためらい、結局、声をかけぬまま、自分一人で寝台に戻った。 3 「妃よ、そなたと共にエジプトへ入る予定であったが、私は急遽、アランヤ征伐に出なければならなくなった。 そなた一人を行かせるのは気がかりだが、エジプトの情勢を思うと、そなたをいつまでもヒッタイトへ留めてはおけぬ。」 3日後、イズミルは旅支度を整えるキャロルに言った。 あの夜以来、イズミルはキャロルをまともに見る事ができない。 「イズミル王子、私は大丈夫よ。でも、なるべく早くエジプトへ来てね。」 キャロルは、そんなイズミルの気持ちを知ってか知らずか、甘える様に腕を絡めながらささやいた。 メンフィス亡き後、エジプトの王位は、王妃であるキャロルと結婚したものが継ぐ。しかし、イズミルはファラオの座にはつかなかった。 メンフィスに寄せるエジプト国民の忠誠心を思えば、いま無理にヒッタイトと併合すれば反発が怖い。王妃がエジプトを支配し、ヒッタイトはエジプトの後ろ盾という立場を取る方が得策だ。ゆくゆくは、ヒッタイトの血を引いたファラオが誕生するにしても。 キャロルは、しばらくの間ヒッタイトに滞在し、王子との婚儀を済ませた後、エジプトへ戻るのである。 「そなた…気をつけて行け。」 イズミルは目を伏せて、キャロルの出発を見送った。 4 キャロルの帰還は、エジプト国民の熱狂的な喜びの声に迎えられた。 実質はヒッタイトが政治の実権を握っているにせよ、いま表立ってファラオの座がヒッタイト人に占められていないのは、救いだった。イムホテップをはじめとするエジプトの高官達もキャロルの帰還に安堵し、王宮は久々に華やかな宴に沸き立った。 キャロルは宴の途中で疲れを理由に中座し、そのまま自室には帰らずかつてのメンフィスと自分の居室の扉をそっと開いた。この部屋の中でメンフィスが最後を迎えて以来、ずっと締め切られたままだった。 キャロルは、メンフィスのいない王宮に戻る事が恐ろしかった。この部屋に再び入る事が恐ろしくてたまらなかった。 しかし今、思いのほか冷静だった。 キャロルは、黄金の装身具を次々に取り払いながら、寝台に身を投げかけた。 (メンフィス、私、帰ってきたわ。エジプトを守るためとはいえ、ヒッタイトの王子妃となった私の事を、あなたはなんと思っているの?) キャロルは、今は亡き愛する人に問いかけた。この部屋にも、どこにも、もうメンフィスはいない。その気配も、匂いさえも残ってはいない。シーツはただ、長い間放って置かれた部屋の埃っぽさを感じさせるだけだった。 キャロルは、寝台に身を預けたまま、物思いに耽った。 3ヶ月後には、イズミルはアランヤ征伐を終え、このエジプトへやってくる。 イズミルのテーベ入城は、ヒッタイトによる本格的なエジプト支配の始まりを意味していた。 エジプトの独立を守ろうと思うなら、イズミルのテーベ入城までに、何らかの手を打たなければならない。 酒の酔いのせいか、イズミルのことを思うと身体が熱く火照るが、心はそんな自分に警鐘を鳴らしている。 キャロルとメンフィスとの間には、子がいなかった。 子がいれば、その子にエジプトの王位を継がせようと、自分ももっと強い気持ちでいられたかもしれない。謀略に明け暮れることさえいとわずに。 5 メンフィスに愛され、こんな未来が来るとも知らず各国をさ迷い、メンフィスを翻弄し続けた自分。せっかく授かった子も生まれる事は無かった。 キャロルの脳裏に、メンフィスの最後の言葉が鮮やかに蘇る。 (メンフィス、メンフィス、死なないで、私をおいて逝ってはいや…!) (キャロル、すまぬ…。そなたを愛している。我がエジプトを、愛するそなたの…手に…託す…。) メンフィスは、危機に直面するたび、キャロルをおいては逝かないと言っていた。 だが、いざ死が避けられないものとなった時、彼は、キャロルにエジプトを託した。 決して、自分について来いとも、母のもとへ帰れとも言ってくれなかった。 キャロルは、それが恨めしい。共に死んでくれと言われれば、迷うことなく従った。 アイシスのようにメンフィスの後を追った方が、どれほど幸せだったろうか。 そうすれば、ふたりは今、はるか天界のどこかで抱き合って、この地上を見下ろしていただろう。 しかし、愛する人の最後の望みが、生きて、エジプトを守ることだったとき、どうして、後を追うことができよう? 「メンフィス、私はあなたに謝りたい。やはり、私には無理。エジプトのためだけに生きて行くなんて、人を愛することもなく、国のために生きるなんて出来ない…。」 熱い涙が頬をつたう。 「メンフィス…わたし、わたしは、イズミル王子の…。」 これ以上は言葉にならない、否、言葉にしてはいけない思い。 ここは、言うなれば彼の腕の中。それ以上口にするのは、あまりに不謹慎過ぎるような気がして、キャロルは言葉を飲みこんだ。 「もうだれも、愛してはいけないの?」 答えが欲しいわけではない。答えなんてわかっている。だけど、仕方ないではないか。 生身の体は、心だけでは生きられない。 キャロルは、メンフィスの声を聞きたいと、心から思った。 6 その頃、アランヤ征伐は、当初の短期決戦という見込みと異なり、持久戦に発展していた。 イズミルは、後方の天幕の中で作戦を練っていた。これ以上時間がかかれば、ヒッタイト軍は糧食が尽き、撤退を余儀なくされる。アランヤは、篭城を決めこんで時間切れを待つ構えだ。 しかし、イズミルの思いは、ともすれば戦場を離れ、ひとりエジプトに居る彼の妃のもとへ飛ぶ。 (キャロル…我が妃よ、そなたの本心が知りたい。ああ、でも…もし、そなたがいまだにメンフィスのことを想い、私との結婚は政略に過ぎないのであれば、どうしたら…?) イズミルは、悶々と同じ自問自答を繰り返していた。 (私ともあろうものが、これでは、全く…) 恋する男とは、なんと無様なものか。イズミルは、自嘲的な笑みをもらした。だが、正直、妃の事が気にかかってこのままでは戦はおろか夜も眠れない。 イズミルは腹心の部下、ルカを呼び、エジプトへ行くよう命じた。 ルカは一礼すると、風のように天幕を飛び出して行った。 7 あくる日、キャロルは一人、メンフィスの墓所に向かった。供も連れず外出するのは無謀という他なかったが、とにかくキャロルは、メンフィスのもっと傍へ行きたかった。 キャロルは、メンフィスの墓所で数時間を過ごし、夕刻一人で王宮へと急いだ。 長く伸びた影が、不安を掻き立てる。誰かにつけられている…? キャロルが気づいた時は遅く、怪しい人影が、行く手を遮った。埃にまみれた貧しい身なり、しかし、がっしりとした体つき。男たちは、メンフィスの墓からずっとキャロルの後を付けていたようだ。 無頼の男達に取り囲まれて、キャロルは、自分がどれほど危険な状況にあるかということにやっと思い至った。 男たちはじりじりとキャロルに詰め寄ってくる。風の巻き上げる汗の匂いがたまらない不快感を催す。 「な…!何の用です?」 キャロルの精一杯の虚勢も、男たちにはまるで通じない。 「ふふふ、威勢のいいお姫さまだぜ。」 (メンフィス!イズミル王子!だれか、助けて…!) キャロルの身体に、男たちの手がかかろうという、その刹那、 「待てい!指一本でも触れれば、そなたら誰一人として生かしてはおかぬぞ!」 厳しい声とともに、長身の影がひらりとキャロルと男たちの間に割って入った。 (メンフィス…!) 黒ずくめのその男は、剣舞のような優雅な身の動きで、たちまちのうちに賊を切り倒していく。 キャロルはその姿にメンフィスを重ねながら、意識を手放した。 8 メンフィスの墓所から帰る途中賊に襲われたキャロルを、危機一髪救ったのは、ミヌーエだった。 ミヌーエは、剣をぬぐい鞘に収めると、乱れる息もそのままに、キャロルの傍に駆け寄った。 「キャロル様…?」 気を失ったままのキャロルを抱き起こす。ミヌーエは気付け薬をキャロルの口元に寄せるが、無論、気を失ったキャロルが飲み下せるはずはない。 (仕方ない。) ミヌーエは自らの口に薬を含むと、キャロルに口付けた。 重ねられたふたりの唇の間を、苦い薬が甘く伝う。 とろり、と薬がキャロルの口中に入ったのを見て、ミヌーエは軽く揺さぶった。 「キャロルさま…ご無事で…。」 キャロルは、混乱した瞳で見上げていた。しばしの沈黙のあと、やっと、 「…ミヌーエ将軍…どうしてここへ?」 ミヌーエは、メンフィスの最後を共に看取り、その最後の戦いを共に戦った戦友。 ミヌーエに再び会うことは、あの混乱を二人が生き延び、メンフィスのいない今も生きているという現実と向き合うこと。 だから、ミヌーエが西の国境警備の任に着き、テーベを離れたと聞かされた時、キャロルはほっとしたような、物足りないような思いを味わったのだった。 そのミヌーエが、いま、目の前にいる。 呆然とするキャロルの思いを知ってか知らずか、ミヌーエは彼女の手をとり、懐かしそうにその指に口付けた。 「戻ってまいりました。キャロル様。貴方を、お守りするために。」 ミヌーエは片膝を付き、座り込んだままのキャロルを見つめて言った。 9 「ミヌーエ、まあ、そなた…!」 「ミヌーエ将軍!キャロル様!」 ナフテラとティティ、その他大勢の女官達の驚きの声に迎えられて、キャロルとミヌーエは王宮に戻った。 もちろんキャロルはひとりで抜け出したことをナフテラに涙ながらに諭され、キャロルの外出に気づかなかったティティはこってりと絞られた。 「まあまあ、母上、おしのびはキャロル様の十八番ではありませんか。 ティティばかりを責めてはかわいそうです。それに、このようなこともあろうかと、私が付いていたのですから、いいではありませんか。」 ミヌーエが見かねたように、割って入る。 「ミヌーエ…そなたが、その様なことを言うなんて…。そもそも、いつからテーベへ帰っていたのです?国境警備の任はどうしたのです?」 ミヌーエらしくない、結局無事だったのだからいいではないか、といういいかげんな取り成しに、ナフテラは呆れて顔をまじまじとみつめた。ティティまで、さっきまで泣いていた事を忘れて、信じられないという顔つきでミヌーエを見ている。 ミヌーエはそんなふたりの様子に、微苦笑を浮かべて言った。 「テーベには、3ヶ月前からおりました。」 「3ヶ月前といえば、戦が終わった時。それでは、そなた西の国境には全く行っていないのですか。そなた…このことは、イムホテップ様はご存知なのですか?キャロル様は?!」 命令に背いたのではないかと心配して矢継ぎ早に質問する母に、ミヌーエは言った。 「西の国境は、私の代わりにネケト隊長に行っていただきました。私は、休暇をいただいていたのです。このことは、イムホテップ宰相はもちろんご存知です。キャロル様はご存知ありませんでしたが、一兵士の休暇など、いちいちご相談するまでもないでしょう、ヒッタイトの許しを得る必要など。」 10 一兵士の休暇などではない。ミヌーエを国境警備という任に命じたのは、ヒッタイトの思惑である。口実をつくってメンフィスの片腕であり、有能な武人でもあるミヌーエをテーベから追い払うのがねらいである。許しを得る必要どころか、ヒッタイト側がこの事を知れば、今度こそ危険人物として殺されてしまうだろう。 ナフテラは、厭味たっぷりに『ヒッタイト』を強調する息子に、呆れるのをとおり越して、言葉につまってしまう。 (こんなことが公になれば命はないというのに、なんと大胆な。私の息子ミヌーエは、このような男だったかしら…。) 幼少の時から忠誠を捧げてきたメンフィス王の死が、ミヌーエを変えた事は明らかだった。 (何か考えがあって、ミヌーエはテーベに残ったのですね。それは、やはり…) 聡明なナフテラは、確信しながらも口には出さなかった。メンフィスの腹心の部下、誇り高きエジプト人、豪腕の武人、これだけ考え合わせれば、自ずと答えは浮かんでくる。ミヌーエは、母の表情にその思考を読み取った。 一方、ティティは懐かしいミヌーエの出現を素直に喜んでいた。 以前は、見た目はいいが堅物で融通のきかない男だったミヌーエ将軍が、何だかちょっとさばけた好い男風になっているが、余計うれしい。 キャロルもエジプトに帰ってきたし、先程ルカの姿も見かけた。かつてのような楽しい日々が、きっとまたやってくる。 ティティはそんな楽しい予感に心を弾ませていた。 |