『 祈り 』


31
ミヌーエ将軍は以前とお変わりなく、私の前に堂々と立っていらっしゃる。
表情も厳しいものでなく、むしろ茶目っ気のあるような、朗らかなものだった。
「ありがとうございます、ミヌーエ様。」
「私がそなたに礼を申さぬ非礼はあっても、そなたが私に礼を申す必要はないぞ。
 そなたは私を奇跡を起こして救ったというに、どのような礼をすればよいか見当もつかぬ。」
黒く精悍でありながらも優しい光を宿す瞳は私を見つめている。
その目に見つめられていると、この方が助かってよかったと、今更ながらに喜びがこみ上げてくる。
「・・・・・もう、ここへは参るなと申すからに、さぞかし私は嫌がられていたのだと思っていたのだが・・・・・・。」
その言葉で私の方こそ驚いてしまった。
私がこのお方を嫌がるなんて!どうしてそんな事できようか?
「とんでもありませぬ!あなた様を嫌がっていたわけではありませぬ!
 ・・・・・ただ・・・このように気味の悪い小娘のことなど、お腹立ちの元となるだけございます。
 ですから、もうお見えにならない方がよろしいかと・・・・・。」

頬に大きな手が触れ、ミヌーエ将軍は私の顔を覗き込むように微笑まれた。
「気味の悪い小娘など何処にいる?可憐で自らを挺して人を救おうとする立派な志の少女はおるがな。」
私はただただ驚いて目の前の整ったお顔立ちのミヌーエ様を見つめるばかりだった。
「・・・それにそなたは人と触れ合わぬ生活ゆえ、自分の美しさも知らぬと見える。
 人がそなたを遠巻きに見るのは、そなたの不思議な力とその顔立ちゆえのことであろう。」
私の心の中は混乱していた。
私の顔立ちのことなんて、人が嫌がるのだから、さぞ醜いものだと思っていた。
なのに、ナフテラ様もミヌーエ様もテティ様も、それにキャロルだって、私が醜い事に触れず、お優しくしてくださるのはなんて有り難い事だと思っていたのだ。
「・・・そなたは自分の事を分かっておらぬのだな、おかしなものだ。」
太く温かな指が頬を撫でるのは決して嫌なものでなく、何故だか胸が熱くなった。


32
初めて人に認められたような、不思議な喜びが私の胸を満たす。
でも風がまた囁くのだ、こちらに人が向かっているのだと。
それは私にとっては災いを呼ぶ知らせなのだと。
「ミヌーエ様、どなたかここに参られますわ、お願いでございます、柱の陰にでもお隠れください。
 早くなさって下さいまし。」
「巫女?何事ぞ。」
「お急ぎくださいませ!」
納得しかねるように私の言葉にミヌーエ将軍が従った時、3人の殿方が神殿に参られた。
服装は神官に仕える者の衣を纏っているが、神官の位を持つほどでもないよう。
「何の御用でございましょう?」分かっていても尋ねて確認しなければならない。
「巫女とやら、カプター大神官のお召しである。今宵から明日の婚儀の為の手助けをするようとの仰せである。
 即刻大神殿までお連れするよう言い付かった。」
「否の答弁は不要。とり急ぐようとのお言葉だ。」
そう簡単に諦めるとは思っていなかった。
先ほどはミヌーエ将軍がいらしたから引き下がっただけ。
何と言っても明日はファラオとキャロルの婚儀なのだ、奇跡を起こした巫女が、カプター大神官の司祭の手助けをするだけでさらに名声が轟くとの計算済みなのだろう。


33
「私はこの神殿にお仕えする者でございます、ファラオのお許しも頂いております。
 どうぞお帰りくださいませ。」
私の答えは一つだけ。あのお方の下で神々にお仕えなど出来る筈もない。
「否の返答は不要と申した、嫌がっても力ずくでとの仰せだ。」
一人が私の腕を掴もうと手を伸ばしてきた。
なんということ!そうまでして私を手駒にしたいのか!
そう思った時、突然神殿の中に風が勢いよく吹き、三人の使者は正面から風の呷りを受け後ろへとよろめいた。
風の勢いは凄まじく私との間に距離が広がっていく。
「なんだ!この風は!」
「何故神殿の中に風が!」
「巫女よ!そなたのせいか!」
口々に叫んでいるけれど、徐々に入り口の方へと追いやられている。
風が怒っているの?私に力を貸してくれているようだ。
「お帰りくださいませ、私はこの神殿に仕える者です。カプター様にお仕えは出来ませぬ。」
3人の使者はあっという間に入り口に追いやられてじき姿は見えなくなった。
それに安堵した途端、私の体はもっとずっしりと重くなり、足は萎え、床に倒れそうになったが、
それをさせないように、逞しい腕が体に廻された。


34
「無茶をする、何故私に追い払わせなかったのだ?」
身体を支える逞しい腕の安心感に、私は安堵して体を預ける事ができるその心地よさが嬉しかった。
瞼を開けるのも辛いと感じたけれど、今は私を気遣うこのお顔を見ていたくて懸命に目を開いた。
「・・・カプター様は執念深いお方です、あなた様が私を庇えば、この後どのような差障りがあるやもしれませぬ。
 私ならばその心配は必要ありませぬ。」
そうだ、私はもう何も恐れるものはないのだ、どうしてこんな事を思うのかもわからない。
でも心の底からそう思えたのだ、自分でも不思議なほどそれは当然であって、今は何の恐ろしさも不安も感じなかった。
それよりもこのお方が無事であられる事のほうがずっと大切で、なんとしてもお守りしたいと思う心の方が強かった。

「何故に私を守る?私はそれに値するほどの礼を知らぬ。どうすればよい?」
大きなお手が私の額に触れ髪を撫でつける、黒い瞳には目を逸らせない何かあった。
「あなた様は沢山の人に必要とされる大事なお方です、礼なんて、私の方こそしなければなりませぬ。
 あなた様のご親切にいつも感謝しております。」
「・・・だがそなたはいつも倒れるほどに無理をする、誰か守る者が必要だと思うが。
 では、そなたが巫女を辞する時には、私の下へ参るが良い、妻として大切に扱おうぞ。」
思いもよらない言葉に私は驚いてミヌーエ様を見返した。
私を妻に?この私を?親にも見捨てられたこの私を?
驚く一方で嬉しく思う、けれどもそれを冷たく見つめるもう一人の私がいる。
私は努めて静かに答えを返した。
「・・・いかに世辞に疎い巫女でもお戯れは分かりますわ、ミヌーエ様」


35
「私は真面目に申したつもりなのだが・・・。
 そなたには命を救われ、この腕も切り落とさずに済んだのだ。
 幸い私は妻帯しておらぬ、命の恩人を娶るのはおかしくはなかろう。」
そう仰るお顔は柔らかな微笑みで、そのお言葉が真実なのかどうかは判断しかねた。
「・・・ではお礼を申し上げなければなりませぬ、そのお申し出は嬉しゅうございますわ。
 でも私は神々に仕える巫女で、誰のものでもなく、そうなってはならないのです。
 ・・・嬉しゅうございますわ、本当に。」
なんて魅惑的に響く言葉なのだろう!
巫女である自分を捨ててこのお方の妻になるなんて!
禁忌を犯す誘いはどれほど残酷なまでに魅惑的なのだろうか。
でも私は気味の悪い小娘であって、誰もが遠巻きに見るだけの者。
そして人々から離れていなければ暮らしていかれない定めなのだ。

「・・・断わるとは思うておった、だが、覚えておくがよい、いつか巫女を辞する時には必ず私に申すように。」
ほんの少し落胆されたような笑みが私の胸に何かを呼び起こす。
私は起こしてくださる腕を頼りに何とか半身を起こした。
「もう、お体の具合はよろしいのですか?腕は痛まれませぬか?」
私の問に面食らったような表情をミヌーエ様はされたけれども、穏やかな笑みでお答えになった。
「心配はいらぬ、まだ左腕が少々痺れるようだがじき治る。」

ではこれが最初で最後の私の望みだ、このお方に私が持てる力を差し上げよう・・・・・。
両手を伸ばしてミヌーエ様の頬を包むようにしてから、私は唇を重ねて息を吹き込んだ。
重い体が一息ごとに更に重く感じる、手の力が抜けて私の両腕はだらりと垂れ下がった。
もう息が吹き込めない、と瞼も重くなり唇を離そうとした。
でも唇は離れなかった、いつの間にか後頭部に大きな手が当てられ支えており、
もう片方の腕はしっかりと背中に廻され抱き寄せられていた。


36
熱く柔らかな唇が押し付けられ、軽く啄ばむような動きに私は驚愕した。
このようなつもりじゃなかったのに!
でもその唇の動きは驚きはしたけれども、私を怖がらせまいとするような優しさもあって、私に恐怖心を抱かせなかった。
でもこれ以上はいけない、と脳裏に響く言葉におやめになるよう言葉を出そうとすると、柔らかな唇は頬に押し当てられ、ミヌーエ様の頬に私の頬を擦り合わせるかのごとく、きつく抱きしめられた。
「・・・そなたの身体からはいつも花の香りがする、そなたの口付けはいつも芳しく、口付けの度に、私の体内に芳しい息が私の力を駆り立てるようだ。
 なんと不思議な口付けだろう、ハプト。」

感嘆したようなミヌーエ様の口調に、私は腕の痺れがとれたことを知り、よかったと思った。
鍛えられた見事な大きな身体のうちに抱きしめられたのは初めてで、それは巫女にあるまじき行為だと分かっていた。
それでも肌の熱さが私を怖がらせる事はなく、この上ない安堵感と嬉しさの交じり合った感情が私を支配した。
「だがな、ハプト、このようなことは恋人や夫婦でするものなのだ。ましてやそなたから誘うような真似は今後してはならぬ。」
私の顔を見下ろしながら、微笑まれ私をからかうような、また諭すような物言いに、私もなんとか言葉を返そうとした。
「・・・そのようなつもりで、したわけではありませぬ。ただ・・・あなた様の腕を楽にして差し上げたかったのです。」
私の言葉にただミヌーエ様は困ったように微笑まれただけだった。
「では私以外の者とはしてはならぬ、よいな、ハプト。」
そのお言葉の意味は図りかねた、けれでも私はもう他の誰とも口付けする事はないと分かっていた。
巫女としてではない、ただの女人としての口付けは、先ほどのただ一度であろうと・・・・・。
だから私は頷いたのだ。「はい。」と。


37
私は渾身の力を振り絞って、常と変わらないように立った。
なんとかミヌーエ様がこの神殿を出られるまでは、これ以上無様な真似は見せたくなかった。
風が囁いて、日が暮れる事を告げた。
別れの時が来たのだと、心のどこかで声がしたように思えた。
「もうじき日が暮れますわ、お戻りにならなければ。」
「ああ、そうだな、まだ明日の婚儀の用がある。」
「ファラオもお待ちでいらっしゃいますわ、ミヌーエ様」
その言葉にミヌーエ様は頷かれ、そっと私の頬に手を伸ばして触れた。
私を見下ろされたお顔はとても武人とは思えないほど、柔らかな優しさを持っていた。

「・・・また参る、そなたに会いに。」
「はい、お待ちしております、ミヌーエ様」
それは私が初めてつく嘘だと思う。最初で最後の嘘。
もうお会いできない、と私の胸の中に叫ぶ声がする。それは胸が苦しくなるほど辛い響きを持っていた。
でも目の前の穏やかな笑みを壊したくなかった。だから申し上げたのだ。
「今宵から祈りに入りますわ、ファラオのために、キャロルのために、ナフテラ様のために、テティ様のためにも、このエジプトのために・・・・・。
 そして、あなた様の御武運のために。」
「・・・無理をするな、婚儀を終えられたらまた参る。」
温かな指が離れ、しっかりした足取りでミヌーエ様は宮殿にお戻りになられた。
もう見る事のないお姿を、私は最後まで目で追い、倒れないように耐えた。
どうぞ、お許し下さい、嘘をついたことを、ミヌーエ様・・・・・。


38
重くだるい体を引きずるようにして、私は祈りのための準備を始めた。
婚儀の為の祈りだ。
祭壇に聖水や供物を捧げ、香を焚く。
息を切らしながら用意を終える頃には、じき夜が明けると風が教えてくれた頃だった。
こうして祭壇の前で祈っていても、ファラオが狩の儀式に向かわれたのがわかる。
今日は新しい王妃の誕生なのだ、黄金の髪とナイルのような青い瞳の美しい王妃が。
なんと喜ばしい日なのだろう。

キャロル、あなたがファラオとこのエジプトに君臨する限り、我がエジプトは繁栄するでしょう。
ファラオの卓越した統治力とあなたの優しい心と英知が我がエジプトを守るでしょう。
キャロル、あなたに出会えた事が私の運命を変えたのか、それとも会う運命だったのかはわからない。
でも私は出会えた事を心から嬉しく思う。
あなたに出会うまで、私の生活は何の望みもなく、嬉しさや喜びなどという感情とも無縁だと思っていた。
ただ目の前にあるものを冷めた目で見ていたに過ぎない、与えられるものに満足を見出して、それ以上には何も望んではならないのだと思っていた。
だから微笑んだり笑ったりすることもなかったの。
でもあなたと会えて私の中にもそんな感情があると分かった事も嬉しい事だった。
あなたと出会えた事で私の生活が急に色鮮やかに感じられたの。
それまでは生き生きと茂る木々を見ても、そう思った事はなかったのに。


39
ああ、婚儀が始まる。
風よ、風よ、もし願いを聞き届けてくれるなら、ファラオとキャロルに花弁を降り注いでおくれ・・・・・。
何の礼も言えなかったキャロルへの最後の礼なの、お願い・・・・・。
風が囁く、婚儀の様子を、黄金の煌く衣装のお二方、どれほど見事な婚儀だったかを。
民が歓声を上げて祝うところへ、風が花弁を降り注ぐその美しい様子が、私の脳裏に映る。
なんてきれいな光景なんだろう!
風よ、ありがとう、もう何も思い残す事はない。

私の体はいつの間にか祭壇の前に倒れていた、ひんやりした床が肌に心地よかった。
このエジプトでは死した後もいつか魂が戻って蘇る為に、死んだ身体はミイラにする。
でも私にはこの身体は間違って生まれてきたように思うのだ。
本当の私は風で大地や空を駆け巡っていたのに、間違えて身体を持って生まれてしまったように、
この身体はいつも重かったように思える。
だからもうこの身体を脱ぎ捨てる時が来て、私は生まれる前に還るような、奇妙な懐かしさを感じている。
そう、還る、この言葉が一番しっくりするのだと思う。
風に還るのか、生まれる前に還るのか、どちらかに違いない。


40
この世での生は短かったけれど、還る前になんて美しいところにいたのだろうと分かってよかった。
草木も山々も豊富な水を立てるナイルも、何処もかしこもみな美しいと思う。
このように思えるのもキャロル、あなたと出会えたからだわ。
ナフテラ様、テティ様、ご親切にして下さってありがとうございます。

ミヌーエ様、巫女として私は失格なのでしょう、
あなた様のご無事を、ご武運を祈ってしまう私は、誰の者でもないはずの巫女としてはならないのですから。
私は自分が幸福と思ったことはありませんでしたけど、あなた様が私を妻にと望んでくださったあの時、私をその腕に抱きしめてくださった時、確かに私は幸福だったと思えるのです。
それが巫女にあるまじき行為だったとしても。
お待ちしていると嘘を申し上げてしまったこと、どうぞお許しくださいませ。
これからもあなた様のご武運を祈りますわ・・・・・。

ああ、もう還る時が来たのだ、と風が囁いている・・・・・。
私は嬉しい、この世界がこんなにも美しいものだとわかって・・・。
さあ、還ろう、風が導く先へ・・・・・。


41
夜半、祝賀の宴の手伝いを終えたテティが神殿で既に事切れた巫女の姿を見つけ、ひっそりとミヌーエ将軍に知らせた。
薄暗い神殿の中、巫女と呼ばれた少女ハプトの顔は穏やかな笑みを浮かべたまま床に横たわっていた。
テティはミヌーエ将軍が自分の目を憚らず巫女の身体を抱きしめて悲痛にその名を呼ぶのを見た。
そしてミヌーエ将軍が巫女に口付けた途端、巫女の身体は塵となって散っていたのをその目で見たのだ。
腕に残る衣を抱きしめた男と、それを見る女官は人知れず死んでいった少女を思い涙にくれたのである。

若く猛々しいファラオと黄金の髪と青い瞳を持つ優美な王妃を戴くエジプトは繁栄した。
ファラオの傍らに立つ、雨風を味方につけたような戦略を行う「不敗の将軍」と呼ばれた男と共に。

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