『 ヒッタイト道中記 』

81
数日後、ルカが王子の用命を果たして王宮へ戻ってきた。
大臣達との会議を終えて政務の間を後にする王子は、ルカの姿を見つけるやいなや口を開いた。
「ルカ!どうであった?例の物は見つかったか?」
「はっ・・・王子のご用命の品は中庭の方に。仰せのままにあい整えました」
「そうか・・・、では昼餉の後にでも姫を連れて参ろうか。
ふふ・・・楽しみであるな。
ともあれご苦労であったな、礼を申すぞ。ルカ」
王子は満足そうな笑みを顔に浮かべてルカにねぎらいの言葉をかけると、急ぎ足でキャロルの許へと向かった。

(ふっ・・・早く姫にあれを見せてやりたい。どのような顔を見せるだろうか?)
王子はキャロルの白い顔に花ひらくように微笑みが浮かぶ様を思い描いた。
彼の胸を痛い程の幸福感で締め付けるその笑顔を。
それを見るためとあらば何でもしてやりたいと心躍らせる自分を、愚かと思えど止められない。
(私は姫を喜ばせてやりたいのか、それとも私自身が喜びを得たいのか?
・・・わからぬ。
ふふ・・・どちらでも良い、なんと愚かな問いであることぞ!
愛を知らぬ賢者であるよりも、愛に溺れる愚者でかまわぬ・・・。
早くそなたの許へ参りたい、姫よ)
切なさを含んだ優しい微笑みが思わず口許にほころんだ。

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しかし恋慕の情を募らせながら足早に庭園を横切る王子の目端にチラリと小さな物影が映った。
琥珀色の瞳が大きく見開かれる。
「ここで何をしておるっ!!」
「きゃあ!!」
人目を忍ぶように物陰をこそこそと歩いていたキャロルは、王子の響く声に驚き飛び上がった。
「おっ・・王子!!」
「まだ部屋を出てはならぬと申したであろうが?!
さては、ムーラの目を盗んで抜け出したな?」
王子の燻すような怒りを感じて、キャロルは逃げ腰になる。
「だってこんなに良いお天気なのに・・・少し外の空気を吸いたかっただけよ」
王子がキャロルを睨みつけながら近づいて来たので、キャロルはとっさに中庭へ通じる廊下を駆け出した。
「待て!待たぬか!なぜ逃げる?!」
「だ・・・だって怖い顔して追いかけて来るんだもの」
王子は腕に抱えていた巻物の束をドサリと石造りの床に捨てるように放り、腕をまくってキャロルを追った。
「ええい、待てと言うに、まだ走ってはならぬ」
反射的に逃げようとするキャロルを、王子は追い詰める。
「きゃあっ!」
廊下と中庭の境目の段差につまづき、キャロルが身体の重心を失ったところを王子の力強い腕が抱きとめた。
「・・・馬鹿者。
これからそなたに中庭を案内してやろうと思っておったと言うに。
そなたの身体が戻れば、いつでも連れ出してやると申したであろう。
私の約束を信じられぬ愚かな姫は、部屋へ閉じ込めて置くべきかな?」
「そんな・・・中庭を見たいわ、王子!」
懇願するキャロルをおもむろに抱き上げる。
「ふん・・・。
私を見て逃げ出すとは・・・何と腹立たしい」
不機嫌そうに言う。
しかしキャロルの身体にまわされた腕は限りなく優しい。
「ごめんなさい・・・だって王子、怒ると怖いんだもの」
(まったく!私の心も知らずに・・・)

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王子に手を引かれて、中庭に足を踏み入れると新緑と土の匂いが胸に深く染み渡った。
「まぁ・・・とてもきれいだわ」
「そなたに・・・見せたいものがある」
東寄りの一角には緑の生垣で囲まれた小さな庭園に王子は足を踏み入れた。
樹木の緑が壁を織りなし、その安らかな空間を外界から隔てている。
爽やかな初夏を祝うように、小さな白い花が足元で揺れていた。
見上げれば、日差しをやさしく遮る枝葉の合間には青い空が見える。
まるで小さな楽園であった。
「ここの木陰は書物を読むのに良い。
・・・誰も邪魔をせぬ。
今までは私だけの場所であったが、これからはそなたと私の場所だな」
低いささやく声で言いながら、王子はキャロルを降ろしてやった。
眼前には風に葉を揺らめかせる若い樹があった。
思わず王子を振り返る。
「王子・・・これは?」
「そなたの為に」
満足そうに王子は頷いた。
「そなたが臥せっている間、ルカにこの樹を探させておったのだ。
つい先ほどここに植わったばかりぞ」
キャロルは白い腕を伸ばし、その枝先に実る橙色の果実に触れた。
「いつだったか、随分とそれを懐かしんでいたな。
そなたの生家に杏の樹があった・・・そう申しておったな」
キャロルの碧い瞳が王子をしっかりと捉える。
杏の果実をのせた小さな掌を、王子は自分の大きな両手でそっと包んだ。
「私はそなたさえいれば、孤独など微塵にも感じぬ。
しかしそなたにとって、ここは故郷から程遠い見知らぬ地。
私と共に暮らせども時に寂しくなる事も、そなたの母や兄弟が思い偲ばれる事もあろう。
・・・少しでもそなたの寂しさを紛わす事ができればな」

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「・・・王子」
瞳に浮かんだ涙がじわりと睫毛を濡らし始めた。
「悲しむ涙は見たくないが・・・このような涙ならば悪くない」
王子はいつもそうしてやるように、唇で涙を拭い去った。
キャロルは今までにない胸の熱さを感じて、思わず王子の広い胸に縋った。
「ありがとう・・・王子。ほんとうに・・・嬉しいわ」
「それは何よりであるな」
「ずっと覚えていてくれたのね・・・。
冷たく当たった事もあったのに、王子はずっとわたしを気遣ってくれていたんだわ。
わたしはそれに気づかずに・・・いいえ、本当は気づいていたのかも。
ごめんなさい・・・ひどい事も言ったわね」
王子はクスリと笑う。
「謝るべきは私のほうでは?
やみくもにそなたを求めて、随分と恐れさせた」
温かい腕の重みを感じながら、キャロルは首を横に振った。
「・・・わたし、罰が当たるかもしれないわ」
「何故そなたに?」
優しくささやく王子の問いに、キャロルはゆっくりと瞼を伏せた。
「・・・幸せすぎて」
「ならば、私も同罪。共に罪を受けようぞ」
心の中が温かいもので満たされてゆくのを王子は感じていた。
――身体がキャロルを求める熱い渇望とはまた異なる何か。
心の底の乾きを癒したいと願う切な欲望――それが今、穏やかに満たされてゆく。

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「そなたを離したくない・・・永遠に。
私から決して離れるな・・・例え何があろうと!
私の妃は・・・私の妻はこの生涯かけてそなた一人だ」
キャロルはその悲願にも似た問いには何も答えず、顔を上げて王子を見つめた。
白い手が伸びて王子の両頬を優しく捉える。
「・・・姫?」
琥珀色の瞳に碧い瞳が映り込む。
キャロルの柔らかな唇が王子の唇を覆った。
それは初めてキャロルのほうから与えられた口づけであった。
あまりの心地よさに王子は目を閉じ、キャロルの好きなままにさせてやった。
やがて王子の腕がキャロルの身体を優しく押し倒すその時まで、キャロルの口づけは続いた。
ふりそそぐ木洩れ日だけが睦みあうふたりを見ていた。
時が止まったような静かな午後のひと時であった。

―――その後、このアナトリアの雄大な大地はキャロルの故郷となった。
いつの世も、愛する人と共に暮らすその地こそが永遠の故郷となるのである―――

―The End―

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