『 ヒッタイトお家騒動編 』

21
夜は長く冷たく、哀しみと心細さにキャロルは声のない涙を流した。
気丈に振る舞わねばと思いながらも、幽霊でも出そうな憂いの館の闇は少女の心を蝕む。
(王子・・・王子・・・。あなただけは無事でいて下さい。神様、どうか私たちを・・・ヒッタイトをお守り下さい。どうかどうか・・・王子をお守り下さい)
窓から蒼い月の光が射し込む。壁のシミがここで死んでいった女人の姿に見え、風の声はすすり泣きにも思える。虫でもいるのだろうか?カサカサとほのかな音がする。
哀しい思いの中で死んでいった人々は、キャロルを新しい仲間と思っているのであろうか?
(大丈夫・・・大丈夫・・・。泣いてはダメ。怖がってはダメ。強い心でいなくてはダメ。王子が助けに来てくれるまでは・・・私がハットウシャでの王子の名代なのだから)
それでも溢れる涙は押さえ難く、キャロルの押さえた嗚咽は一晩中、途切れることはなかった。

憂いの館でキャロルは一体何日を過ごしたことになるのだろう?
人々から幽鬼の住処よ、忌まわしい場所よと怖れられている場所に幽閉されているキャロルの身は皮肉なことにハットウシャに着いてから最も安全であった。
館の周辺はルカがそれとなく守っていてくれるらしいことが気配から分かる。
食事や身の回りの品はひどく不足したが、それでも気丈なムーラが何とか手配してキャロルに届くようにしてくれた。キャロルに味方した人々は王の逆鱗に触れ、ひどく辛い状況に追い込まれていた。
キャロルは知らされなかったが、すでに狂った国王と王子の戦は避けられない状況であったのだ。
何も分からない状況の中、やつれ疲れ果てたキャロルはただただ祈ることしかできなかった。
どうか王子が無事であるように、と。

22
「明後日にはハットウシャに入る・・・」
商人のような頭巾を深くかぶって顔を隠した王子は厳しい表情で地図を見つめた。
街道を外れた夜の灌木林。王子は自らが率いる主力軍を信頼する将軍に託し、自分は少数の精鋭と共にハットウシャへ向かって先行した。
どのみち、国王軍との衝突は避けられない。そうなれば敵味方の損害は計り知れないだろう。王子は自軍の大部分を囮とし、自らはハットウシャに潜入する覚悟だった。
自分だけが知っている通路を通り、王宮の奥深く入り込み国王と対決し・・・おそらくは亡き者とし、失われた秩序と正義を取り戻す。国王さえいなくなれば、そして王子が王宮にすでに入っていると知れば求心力を失った国王軍はなし崩しに王子の元に下るであろう。
そして・・・キャロルを救い出す。
(姫よ、姫。愛しいそなた。どうか無事でいてくれ。どれほど恐ろしく思っておろう。ルカがいるから安心ではあるが・・・憂いの館のような忌まわしき恐ろしい場所にたとえ僅かの間なりともそなたを置いておかねばならぬとは!)

夜明けの直前に星が流れた。あれは何の象徴であろうかと囁き交わす兵士達。王子は力強く言った。
「あれこそは古き力の凋落の印ぞ!落ちたる星の次には新しき星が輝く!さぁ、参ろうではないか!我らが勝利のために!」
イズミル王子の言葉に兵士は歓声で応えた。そして王子の一行は昇る朝日の中、出発する。士気は高く、皆が勝利を信じていた。
しかし。
しかし、ただ一人イズミル王子だけは落ちる星に何とも言えない不吉な予感を感じて、体がしんしんと冷えていくような心地がするのであった。
夜空に輝いていた金色の星。それは何故か王ではない別の人物を予感させて・・・。

23
「ええい!憎きイズミルめがっ!実の父に向かって反旗を翻しおるとはっ!」
狂気に陥った国王は獣のように吠えた。王子軍はその行程で確実に数を増やしながらハットウシャに向かってくる。
側室にうつつを抜かし、臣下国民が深く尊敬するイズミル王子を廃そうとした王の横暴ぶりは知れ渡っていて、国王軍は早々にハットウシャ籠城を強いられていた。
「おのれ・・・おのれっ!だがイズミル!お前の思うとおりにはさせぬぞ。我が手の内にはまだ・・・ナイルの姫がある。この上なき人質じゃ。
わしの子を孕ませ・・・そのまま王子の目の前で殺してくれるわっ!
誰かある?これから姫の許に参る!」
「ええっ?国王様、おやめくださいませ!王子妃様、いえ、あのナイルの女神の娘は反逆者でございますぞ!憂いの館は忌むべき場所。戦という大事を前にして国王様があのような汚れた場所においでになってはなりませぬ」
「ええいっ!うぬは黙っておれい!」
王は大臣を斬り捨てると、広間を突っ切って後宮の端にある憂いの館を目指した。獣欲と嗜虐的で残虐な心が相俟って、
もはや王は人ではなかった。

「ムーラ様!国王様がナイルの姫君の御許に向かっておいででございます!」
侍女から報せを受けたムーラは、見張りの兵士を突き飛ばすようにして軟禁されていた居室から飛び出た。
「何故です?憂いの館は限られた世話係の奴隷しか近づかぬはず。あのような場所に王が・・・!ルカはどこです?
ルカに知らせよ、姫君をお守り申せと!」
ムーラに合流した人々は、一散に憂いの館目指す。そこは正気の人間であれば近づきたがらぬ場所。幽霊話や呪いだのといった話には事欠かない。死を忌む古代人にとっては、そこは何よりも近づきたがらない場所であったのに。
だからこそ、今回、キャロルの避難場所に選ばれたというのに。

24
国王が薬物中毒者とも思えぬ速さでルカの守る憂いの館の前に到着したのと、ムーラ達がやって来たのはほとんど同時であった。
「ムーラ、何用かっ!そなたらには謹慎を命じておいたぞ!」
「こ、国王様。恐れながらこちらにおわす御方様は尊いご身分の姫君。どうかどうか、手前勝手なご無体はおよしあそばせ」
国王の前に無言で立ちふさがるルカ。その手には短剣が握られている。
「おのれ・・・おのれ、貴様ら皆殺しにしてくれるわっ!召使い風情がイズミルめと結託してわしを愚弄するか。衛兵、何をぼっとしておるか、こやつらを皆、殺せ!わしとナイルの姫の婚礼の祝儀じゃ・・・。
わっはっはっはっはっは・・・・・」
その時、扉が開いて蒼白な顔をしたキャロルが姿を現した。
「おやめ・・・おやめくださいませ、国王様・・・!もうこれ以上、誰かが傷つくのは嫌です。お望みのことにはできる限り・・・添うようにいたしましょう。だからもう・・・」
「姫・・・か。そのような所に隠れたりして困ったおなごじゃ。早く来い。そなたはわしのものになるのじゃ・・・」
国王はにやりと嫌らしい笑みを浮かべて手を差し伸べた。抗しがたい力に引っ張られるように王に近づくキャロル。
「姫君っ、おやめくださいませ!ルカ、姫君はご乱心じゃ。早くお止め申せ」
ムーラの悲痛な叫びにキャロルは優しい微笑で応えた。多くの人々を魅了してやまなかったその微笑み。透き通るようなあえかな美しさ。
キャロルは足を止め、王に問うた。
「・・・何故、私を望まれます?何故、王子をお憎みになります?強大な父王、優れた世継ぎの息子、かつてはあれほどにヒッタイトの令名をとどろかせておいででしたのに」
王はしばらくキャロルに見とれていたが、やがて吠えるように叫んだ。
「わしはずっとずっと、そなたが欲しかったのじゃ!それなのに・・・それなのに王子はわしの望みを無視した!わしは欲しいものは手に入れる主義じゃ!そなたを奪ってイズミルに吠え面かかせてやるっ!
なんじゃ、その顔は?!わしを軽蔑するのか?お前がいなければ、わしとて狂いはしなかった、おまえの美しさが全ての元凶じゃ!お前さえ来なければ、今日という日の運命は変わったであろうよ、エジプトの魔女め!」

25
(王子っ・・・・!)
毅然と王を見つめ返しながら、キャロルは心の中で愛しい人の名前を絶叫した。
(王子、助けて・・・)

(姫っ?!)
王子は鋭いキャロルの悲鳴を聞いたように思ってあたりを見回した。商人のなりをした王子の一行はすでにハットウシャ市内に潜入していた。
(姫に何かあった!姫が私を呼んでいる!)
王子は従う兵士らに言った。
「これより宮殿に向かう!計画は変更だ。何やら・・・恐ろしき予感がする」
「し、しかし王子!今はまだ明るすぎまする。衛兵の交代時間まで待った方が」
「よい!私だけが知る通路がある。そこより入れば中庭の隅に出る!そこから油貯蔵庫に火を放て!」
王子は代々の王族しか知らされていない秘密の通路に兵士らを導いた。
(姫よ、姫!あの悲鳴は何だ?すぐに行ってやる。どうか無事であれよ・・!)

「エジプトの魔女、男を狂わせる毒婦め!そうだ、そなたさえいなければ、イズミルもわしに楯突くような真似はしなかった!多くの人間がわしの剣に倒れることもなかった、サフィエのようなつまらぬ女に入れあげることもなかった!
全てはそなたのせいだっ!そなたが我が国を乱したのだ、皆もきっとそう思っている・・・。そのような女は・・・!」
じりっじりっと王は近づいてくる。キャロルは蒼白な顔をして王の言葉を反芻していた。
オマエサエ イナケレバ・・・オマエサエ イナケレバ・・・!

26
(ああ・・・私の怖れていた言葉・・・。20世紀からこの世界に飛ばされた異分子の私がいつもいつも怖れていた言葉)
ムーラ達が自分に逃げよ!と悲鳴のように叫ぶ言葉も耳に入らず、キャロルは王の泥眼を凝視した。醜い狂人。忌まわしい獣。だが同時に容赦なき裁判官。
王は一瞬にして、キャロルがいつも戦き、王子の腕の中で忘れようとしていた不安に対する判決を下した。
――お前の存在そのものが世の理(ことわり)を破壊したのだ。お前さえいなければ多くの男が運命を狂わせることもなかっただろうし、愚かな争いに傷つき死ぬようなこともなかっただろう。お前さえいなければ!!!――
(私がいなければ・・・いなくなれば・・・全ては元通りなの?王子は死なずにすむの?お父様と争わずにすむの?もうこれ以上、誰も傷つかないの?死ななくて良いの?)
キャロルの視線は王の瞳を外れ、憂いの館の側にある小さな、しかし深い井戸に向けられた。
それは人一人がようやく通れるほどの口径しかない井戸だった。いつも冷たく湿った冷気が立ち上ってくるその井戸。あまりに深く底を浚うことはもとより、水を汲み上げることもできない。黄泉に繋がっているなどとも言われていた。
(どうすればいいの?私はどうすればいいの?私は王子に望まれてこの世界に生きることを決めたわ。良い王子妃になろうって努力したわ。そう・・・全ては異分子の私がこの世界全体にしえた謝罪の印・・・。
私がこの世界に居ること自体が罪ではないかといつも思っていた。でも考えることを禁じていた。どうすればいいか分からなかったんですもの・・・)

「姫?どうした?何を考えているっ!」
王の苛立たしげな罵声が飛んだ。キャロルに味方する人々も、少数の王の護衛も薄い夜明け前の光の中で繰り広げられる光景に気圧されて動けない。

27
キャロルは不思議に恐怖心が失せているのを感じた。
一瞬といってもいいほどのごく短い時間のうちにキャロルは驚くほど多くのことを考え、思い・・・そして決断した。
(今はもう分かるわ。何も遅くはない。私にできること。王子のために・・・王子のヒッタイトのためにできること)
キャロルは静かで優雅な足取りで歩き出した。その気品故か、国王は手出しもできぬまま彼女の姿を目だけで追う。
キャロルは井戸の側に立った。
「姫君っ!なりませぬっ!」
ムーラの悲鳴が響きわたった。
ルカは殆ど何も考えぬうちに走り出した。女主人の言葉が頭の中に渦巻く。
(私一人だけのことですむことなら、いつだって私はこの身をヒッタイトに捧げます)
「姫君!お待ちを!」
その瞬間。
どーんという天地を揺るがす凄まじい音がして、空が赤く染まった。
「何事だっ!地震か、雷か、火事か・・・っ!」
「あ、あの方向・・・油貯蔵庫?!何故?」
「お、王子の奇襲っ?」
兵士が口々に叫ぶ。王の顔は醜く歪み,目は爛々と光った。全ては終わりだ!
いや、違う!まだナイルの姫は手中にある!裏切り者の王子に罰を与えることはできる!
「姫っ、こちらに来いっ!何もかも終わりだ!叩き殺してやる、王子への見せしめだ!」
「いいえ・・・」
キャロルは静かに首を振った。赤く染まる空の下、静謐に満ちたその顔。

28
キャロルは軽やかに井戸の縁に登った。冷たい風が吹き上げて彼女の髪を弄ぶ。
「国王様、終わりではありません。手遅れではありません。やりなおせますとも。何もかも。王子とあなた様は和解なさいませ。争いの種は今、消えます。
・・・許して下さい。私の存在故に狂った諸々の存在に許しを請わせて下さい。
愛していたのです。この世界を。だから私の存在故の歪みのことは考えたくなかった。愛していたのです。この世界の人々を。許して下さい。私は消えます。そうすればきっと秩序は取り戻せます。父と子の理も回復します。
愛していたのです・・・王子を・・・王子のいるこの世界を・・・。
愛して・・・でもどうしたらいいのか分からなくて・・・」
キャロルはそこまで言うと、腰が抜けたようにへたりこむ人々に優しく微笑みかけた。
「王子に伝えて下さいね、愛していますって。哀しまないでって。また逢えるもの。寂しくないわ」
そういうと・・・キャロルは何の迷いもなく・・・井戸に身を投じた。
狭い狭い深い深い井戸。落下の風が彼女を無限の奈落へと誘う。
底知れぬこの井戸の彼方にあるのは・・・。
朝日が、彼女が消えた井戸に目映い光を送った。忌まわしい井戸はまるで神の祝福を受けているかのように

短い決戦。長い混乱。悲しみ。絶望。新たな王を喜ぶ人々。失われた命を嘆く途切れることのない潮のような声。
イズミル王子は父国王を廃位し、王位に昇った。王は自分の犯した罪の重さに戦き完全に正気を失った。
その王に独断で毒を盛ったのは神殿の高位神官。神の娘を自害に追い込んだ人間が生きながらえては、国全体が禍を被るであろうと考えて・・・。
神官は何の咎めも受けなかった。
国の秩序は素早く回復され、イズミル王はヒッタイト中興の祖と称えられた。
(だが・・・私は姫を・・・一番大切な姫を守れなかった。私を守るために逝った彼女。もっともっと生きて・・・人生を楽しむことができたであろうに)
だがイズミルは悲しみに自失することはなかった。人から聞いたキャロル最期の言葉が彼の理性をかろうじてこの世に止めていた。

29
(愛しているわ、哀しまないで。また逢えるのよ・・・)
老いたイズミルはあの井戸の側にただずんだ。それが日課であったから。
結局、というか当然というべきかキャロルの遺体は見つからなかった。どんなに長い縄を落としてみても、先端が底に触れる気配すらなかった。
キャロルが逝った夜明け、井戸は朝日に照らされ輝いていたとムーラは涙ながらに言った。とてもとても美しく金色に輝いていた、と。

イズミルは思う。
きっとこの井戸は母親の胎道そのものだったのだと。キャロルは胎道をするりと滑り降りていったのだと。
朝日が金色に井戸を染めた瞬間、キャロルはきっとどこか別の母親の許に生まれ変わった、と彼には妙な確信があった。
それはあるいは母女神の許であったのだろうか?それとも・・・人間の娘として、当たり前の人間の娘として生まれなおしただろうか?
神の娘よと賞賛されることを嫌がるような素振りさえ見せていたキャロル。
(そうだな・・・きっとそなたは当たり前の人間の娘として生まれ変わったのだ。そして何時の日か、当たり前の娘として私の前に現れてくれ。どのような姿形をしていても私にはそなただと分かるから・・・)
王は井戸を優しく撫でた。義務として側室を召しだし、王家のために子を生ませたが彼は生涯、キャロルだけしか愛さなかった。
「姫・・・愛している・・・」

「ライアン、ロディ。見て、今日からあなた達の妹になるキャロルですよ。可愛がってやってね・・・」
リード夫妻は二人の息子に1才になったばかりの女の子を紹介した。兄弟の従姉妹であった幼女は両親を失い、今日から妹になる。
キャロルは嬉しそうに喉をならしてライアンに手を差し伸べた。
(ずっとずっとあなたに会いたかったの!大好きよ!大好き!)
ライアンはにっこり笑って赤ん坊を母親から抱き取った。
「ずっと会いたかったよ。今日からはずっとずっと一緒だからね・・・」
キャロルは笑ってライアンの唇に自分の口を押しつけた。

(王子、ほら、私たちまた逢えたわ)
(姫、今日よりはもう離れぬ。よいな)

終わり

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