『 ヒッタイトお家騒動編 』


「姫、疲れておらぬか?あまり無理をしてはならぬ。そなたは私の妃なのだから」
イズミル王子は拡げた書類の上にかがみ込むようにしているキャロルにそっと声をかけた。
「あ、王子。大丈夫よ。皆が手伝ってくれるから、私なんて楽なものよ。
・・・王妃様は奥向きのこと全部に目を配っておいでだったのよ」
「そうだな・・・」
イズミル王子はそう言いながら書類を脇にどかして、キャロルのうなじに顔を埋めた。顔には出さないが若者には疲労の色が濃く、キャロルは母親のように優しくその頭を撫でた。
ヒッタイトにこの人ありとうたわれた賢王妃の没後一年。追悼の儀式も一通り終わり、キャロルは亡き王妃に代わり奥向きの細々とした仕事を監督するようになっていた。
イズミル王子も、王妃の没後、急に覇気を失ったように見える父国王を助けてますます多忙な日々を送っていた。
でも、ただそれだけならばイズミル王子もここまで消耗することはなかっただろう。キャロルの雑務も桁外れに煩瑣になることもなかっただろう。本当にヒッタイト王妃が亡くなって、世継ぎの王子を取り巻く環境はがらりと変わってしまった。

「・・・姫、すまぬ。そなたに心配をかけてしまったか?私は大丈夫だ。そんな顔をされてはどうしていいか分からないではないか」
顔をあげた王子は、キャロルに接吻すると軽々と抱き上げ寝台へと運んでいった。
(王子、あなたはそうやって平気なふりをする。何もできない私が口惜しい)
キャロルはただ王子の屈託には気付かない振りをして、ささくれた心を癒してくれる暖かさを求める若者に自分の全てを与えることしかできなかった。
(王子、あなたが少しでも安らぐなら私、あなたが求めるこのを全て与えたいの。あなたが望むなら・・・)


ヒッタイト王妃の病没後一年。ヒッタイト王は魂を抜かれたような状態だった。王妃は王の最愛の妻であり、あの傲慢な王が唯一尊敬するヒッタイトの国母であり、信頼できる参謀であり、同志・相談者だった。
戦巧者であり、外交・内政においてもなかなか巧みな統治者であったヒッタイト王の唯一の弱点もこの王妃が上手く庇い、王は名君として怖れられていた。
だが王妃が亡くなり、弱点を庇い、王の不名誉を種火の内に消し止めてくれた女人がいなくなると、心弱くなっていた国王の心は一気に暴走した。
すなわち女癖の悪さである。
英雄色を好む、を地でいくようなこの王の元にはあちこちから美女が集められていた。王の後宮はヒッタイト史上最大級と言われ、あまたの美女が王の心を得んと日夜しのぎを削っていた。王の愛顧を得ようとする女達の暗闘、陰謀、念願の王の子を産み得た女達の野望。
そんなものが渦巻く後宮が、ぴしりと統制されていたのは偏に賢い王妃の手腕によるものだった。寵姫・側室がその分を越えることがないように、庶子を産んだ女が時期王位を狙ったりせぬように、幼い庶子が陰謀の道具にされることがないように、王妃は心配った。
全くその手腕は見事なもので、浮気性でともすれば女にだらしなくなりがちだったヒッタイト王も全くこの美しく頭の良い王妃には頭が上がらなかった。後宮の女達も王妃を畏れ敬い、分不相応な振る舞いをする不埒な女もいなかった。
だがそれもみな過去の話だ。王妃を亡くし、落胆した王を絡め取ったのはキプロスから献上された美姫サフィエであった。イズミル王子とさして年の変わらぬサフィエは王を籠絡し、その寵を専らにした。
そして今。彼女は王の子を身籠もっており・・・イズミル王子を差し置いてお腹の中の我が子を王とする野望に取り付かれている。


冷静沈着、文武両道、稀にみる優れた若者・・・と様々に称えられる王子イズミル
も後宮の女が企んだ陰謀に気付くのは少々遅すぎた。
調査旅行よ、政務よ、視察よ、との多忙さが重なったせいかもしれない。
女が、後宮に献納されるような女ごときに何ができるかと侮っていたせいかもしれ
ない。自分の正妃キャロルが陰謀や卑劣な策謀と無縁の女であったので、女とはそ
ういうものよと安心していたせいかもしれない。
長い孤独の日々の後やっと得た王子妃キャロルとの幸せな日々に心傲っていたせい
かもしれない。
いずれにせよ、王子が父国王の後宮での不穏な動きに気付いたときにはもう、サフィエ
は4ヶ月の身重であり、その周囲にサフィア派とでもいうべき一派を作り上げ国王を
すっかり籠絡してしまっていた。
王妃が生きていた頃は身籠もった女がいれば、すぐに子供の行く末は決められた。
産まれたのが王女であれば、後宮で育ていつかしかるべき所に降嫁する。格式の高
い神殿の最高巫女になる。王子であれば、早々に信頼できる傅育官の家に預け、
軍人や地方執政官になる教育を受けるか、神官になる準備をする。
つまり、ヒッタイト王の正妃である王妃が産んだイズミル王子の地位は決して脅か
されることはなかったのである。故・王妃の心配りはまさにこの一点に集中されて
いたと言ってよいだろう。自分の子を万人に仰がれる名君に育て上げ、いつか王位
に就けること・・・。ヒッタイト王にも否があるわけがなかった。王もまた、多く
の庶子を蹴散らして今の地位を得たのだから。
しかしサフィエは。
身籠もったのとほぼ同時に「未来の王の生母」たらんという野望に目覚めた。生ま
れるのは男でも女でもいい。ヒッタイトは女でも王位に就けるのだ。
「国王様、どうか生まれてくるあなた様の御子を護ってやって下さいませ」
若い母親の願い事は、徐々に野望の色を濃くして王の理性を曇らせるのだった。


サフィエは夜毎日毎、王に囁いた。
「私が産み参らせる御子をお守り下さい。男でも女でも私の手許で手ずから育てることをお許し下さい。国王様の膝下で育つ幸せを我が子に与えてやりたいのです」
「イズミル王子様が・・・私のことを疎んじておいでのようです。私、あの方が恐ろしいのです。うまくは言えないけれど。どうかこの不安を除いて下さいませ。あの方の異母弟妹を産む私を嫌っておいでなのかしら?」
「生まれてくる子がずっと国王様のお側にいられるようにしてください。すでにお世継ぎがおいでだからって、後から生まれた子がどうして差別されねばなりませんの?同じ王の御子なのに」
王は初めこそサフィエの繰り言を聞き流していた。どのみち子が小さい内は手許に置くのも一興だと思っていたことだし。
だがサフィエの言葉は徐々にその毒を増していった。
「国王様を補佐まいらせるイズミル王子様は最近、変わられました。私をことさらに軽く扱おうとなさるのです。私への侮辱は国王様への侮辱です」
「イズミル様は慢心しておいでなのではありませぬか?何だかそのような言動が目に付きますわ。共同統治者だからって・・・国王様の一臣下にすぎませんのよ」
サフィエとの遊蕩の日々に溺れ、政治への情熱も失せ、怠惰に過ごすのが常になってきていた王の内に疑惑が芽生えはじめた。
小さな疑惑はじき確信に近い警戒心になった。サフィエと彼女を担ぐ大臣の一派はイズミル排斥を目指していたのだ。念の入ったことにサフィエはヒッタイト王に特別な薬酒を常用させていた。
遠い東洋の国からもたらされた粉薬。赤い花からとれるという真白の粉。キャロルならそれを阿片と呼んだだろう。王は徐々に正気を失っていった。


イズミル王子がこの状況の中でただ手をこまねいていたわけがない。彼は今まで以上に政務に精励し、大帝国の安定をはかった。サフィエ派の牽制、いまだ王子に心寄せる臣下の一層の結束。
(何故、今まで気付かなかったのだ。今の私があるのは全て母上のお心遣いの賜物だったのだ。それを・・・我一人の手柄のように思い心傲りしていた。ざまはないな。
いまはただ、王国の安定をはからねばならぬ。私の地位を守ることはすなわち、王国の民を無用の混乱から護ることだ。内乱を引き起こし、外国につけこまれることだけは避けねば・・・!)
そして王子は何よりも大切な物を護らねばならなかった。キャロルである。王子はキャロルを愛したことで自分が大きな弱点を抱え込んだことを自覚していた。
王子に打撃を与え、潰そうと謀る者は正面から斬りこんでくるとは思えない。むしろ、搦め手から・・・抵抗できないキャロルを狙い、かけがえのない王子の宝を滅茶苦茶にする可能性が高いようにも思えるのだ。
王子はキャロルの警護を一層厳しくした。召使いは信用のおける者だけにし、外に出るときは必ず王子が同行できる時に限った。
「姫、窮屈であろうが我慢いたせ。そもそも高貴な女人はあちこち身軽に歩き回ったりはせぬのだ。淑やかに居間に座り、ひなが一日、私だけを恋い焦がれてみぬか?恋歌の女のように」
王子は冗談めかしてキャロルに言い聞かせた。
「何、ずっと籠もっておれとは言わぬ。良い子で居れば私がまた外に連れていってやろう」
王子は優しくキャロルの髪を撫でた。


「王子ったら・・・」
キャロルは微笑もうと思った。わざとおどけて子供のように口を尖らせて王子に口
答えしようと思った。
でも涙がこぼれてうまくいかない。
キャロルは知っていた。今の王子が置かれた難しい立場を。王妃亡き後、後宮第一
の地位にある彼女はサフィエが未来の王の生母を目指して不気味に蠢動しているこ
とを。
「ごめんなさい・・・私、サフィエを・・・押さえられない・・・」
堪えきれずに零れる大粒の涙。
優しい、キャロルだけに与えられる包み込むような笑みを浮かべて、王子はキャロル
の涙を口づけで拭ってやった。
「ふ・・・。そなたは何も悪くない。全ては私の不明だ。泣いてくれるな、そなたが
泣くと私はどうしてよいか分からぬ」
王子はキャロルの背を撫でて落ち着くまで辛抱強く待ってやった。すすり泣きの声
が低くなったのを見計らって王子は語りだした。表宮殿のことは―政治・経済・
外交など―ある程度、キャロルに語り相談もしてきた王子だが、今日のようにもっと
深い陰謀のような政治の暗部について語るのは初めてだった。
「姫、残念なことだが父上は母上亡き後、変わられた。母上の死と入れ違いのよう
に現れたサフィエがお腹の子を盾に、父上に取り入り・・・私のことを・・・まぁ、
讒言したわけだ。
今の私の立場は非常に難しい。いつ濡れ衣を着せられ、追い落とされるか分からぬ
よ」
「そんな・・・そんな・・・今までの王子の功績はどうなるの?国王様はあなたの
実の父親でしょうっ?」
「ふふ、私とて油断はしておらぬ。今一番、恐ろしいのは私とサフィエの対立から
内乱が起こり、民草が苦しむことだ」


王子は長い長い時間をかけて、これまでのいきさつと未然に防がれたサフィエとその一派の陰謀を明らかにした。淡々と話すその口調に、隠された激しい怒りを感じ、キャロルは鳥肌立った。
「つまりサフィエは私が邪魔なのだ。あの女は自分の子をヒッタイトの王なり女王なりにしたいのだな。
父上は正気を無くされつつある。あの女の傀儡になられるのも時間の問題。しかし今!正面から斬りこんで国家の病根を絶つには、サフィエの影響力はあまりに国の深部に食い込んでいる。今は時期ではないのだ」
キャロルはしばらく無言で王子の顔を見つめていた。
「では・・・では私たちはどうすればいいの?これ以上、事態が悪くならないように、無用の流血を避けるために私たちは何をすればいいの?
私は・・・王子を助けてあげることはできないの?」
「・・・ありがとう」
王子はそっと妃の頬を撫でた。この女はいつも優しい。いつも強い。決して裏切らず、一途に信じ、ついてきてくれる。これ以上、何を望む?最高の味方。
「私はしばらくハットウシャを離れようと思う。ここにいても泥沼のような権力争いに絡め取られ動きがとれなくなるばかりだ。私の存在自体が敵と・・・父上の神経を逆なでし、彼らの悪意と疑念は私の理性を曇らせ、状況は悪化するばかりだろう。
私は共同統治者となる以前はカネシュの執政官であった。かの地は私と縁も深い。カネシュでしばし大人しく時勢を見ようと思うのだ。ま・・・自主的な謹慎かな」
王子の決意のほどはキャロルにもすぐ知れた。
(王子は行ってしまう。だって王子は私だけのただの人じゃないもの。ヒッタイトの世継ぎだもの。私は一人で・・・いつ王子が帰っても良いようにここを守らなきゃ・・・!)
キャロルの頬を大粒の涙が伝う。
「泣くなと申すに。カネシュにはそなたも同行せよ。そなたを守ってやれるのは私しかおらぬ」
8
ヒッタイト王は、世継ぎのカネシュ行きをあっさりと許可した。もともとカネシュは王家の直轄領である。定期的に王族が巡察する必要がある。それに豊かなカネシュ領をサフィエが生まれてくる我が子のためにねだったというのも大きかった。

「ふうっ、空が大きいな。どうだ、姫。久しぶりの外は」
馬上の王子はどこまでも広がる無窮の青空を見上げて晴れ晴れと言った。背後に見えるハットウシャの城壁も今はもう小さい。
王子の馬に同乗するキャロルはにっこり微笑んだ。鬱屈していた王子の心が解放されていく喜びがその胸に伝わる。
(良かったわ・・・。カネシュに発つときは何だか不安で落ち着かない気がしたけれど、杞憂だったのね、きっと。馴染みあるカネシュの土地で王子はすっかり元気になるわ。私もできるだけ王子の力になりたい・・・)
そのキャロルの喜びがまた王子を安心させ、喜ばせた。王子を気遣ってか最近のキャロルは元気がなく萎れていた。

王子の胸中には、出発の挨拶をしにいった折りの父王の顔が去来する。
弛緩しきった初老の男。それがヒッタイト王だった。目の周りには隈ができ、しなびた手は側に侍らせたサフィエをさぐっている。
(父上は変わられた・・・。私がもっとサフィエの動きに早く気付いていればここまで父上は心弱りされなかったのであろうか)
息子の感傷を、だがヒッタイト王はあっさりとうち砕いた。酔眼で息子を見やり、王は傲慢な口調でカネシュへの出発と勤務精励を命じた。カネシュはじき生まれるサフィエの子の領地となるのだからと。
格式高いカネシュ領が一庶子のものとされる・・・!代々の世継ぎの監督領であったのに!青ざめるイズミル王子。驕慢に微笑むサフィエ。
(・・・父上は・・・私の知る強大な父上はもうおられぬ。私がしっかりせねば。私がしっかりせねばヒッタイトは滅びる!)

イズミル王子はカネシュに続く空を見上げた。自分は逃げるのではない。カネシュで時期を待ち、王者として都に君臨する日のためにハットウシャを離れるのだ、と胸に呟きながら。


カネシュでの日々は穏やかに流れていった。
かつてこの地の執政官であったイズミル王子には人望があり、自ずと人々は公明正大な為政者である王子の許に集うようになった。
そしてイズミルの妃であるキャロルも人々から暖かく迎え入れられた。
(皆が私を大切にしてくれるのは、私が王子の妃だからだわ。皆が王子を尊敬するが故に私のことも慕ってくれる。ありがたいこと)
キャロルはこんなふうに思っていたが、厳正・公正さゆえに畏れられ、尊敬される王子の側に、優しく暖かなキャロルがいるだけで皆は安らぐような気がするのだった。彼女は王子を助けて人々の暮らしに目を配り、困っている人々には自分の倉庫から施しをするだけの度量もあった。
王子もキャロルも不必要に目立つような真似は慎重に避けていた。ハットウシャから付き従ってきた人々の中にはサフィエ派の息のかかった者もいた。彼らは独自の報告をハットウシャに送っていた。
だが彼らも、下手に王子を陥れるような讒言はできなかった。王子の振るまいが申し分ないものであるのは無論のこと、彼らの同行者―王子に心寄せる人々―の無言の牽制が頸城(くびき)となったのだ。
サフィエが寵姫としてにわかに台頭してきたとはいえ、長年、人々の尊敬を一身に受けてきた世継ぎの王子の権威は生半可なことでは崩れない。
王子と、王子を快く思わない人々は相互に監視しながら日々を過ごしているようなものだ。

10
とはいえ、王子とキャロルの時間は久しぶりに穏やかに流れていっていた。
政務が終われば二人は僅かばかりの従者と共にあちこちに出かけた。それは市井の雑踏であったり、
郊外の森であったりした。森の中には小さな滝と泉があった。二人は人払いをして清涼な水と戯れた。
「ハットウシャを離れてもう・・・3ヶ月になるか」
浅い滝壺で、逞しい背中を水に打たせながら王子は呟いた。口には出さなかったが、そろそろ次の決断を
下さねばならない時が迫ってきているのだ。
すなわち、サフィエの出産。国王はサフィエに溺れ、最近は政務も大宰相に任せきりだという。大宰相が
王子の師であり、また王子派の筆頭大貴族だというのが今はありがたい限りだ。
「王子・・・」
浅い泉でゆっくりと身体を伸ばしていたキャロルがそっと起きあがり、厳しく強ばった王子の頬に優しく触れた。
二人きりの気安さで何も纏っていないキャロルは日差しの中で水の精のようにも見える。
「次が・・・始まるのね」
キャロルも愚かではない。このカネシュでの平和が仮初めのものだと弁えている。ハットウシャに残してきた女官は定期的にキャロルに奥向きでの事柄を報告してきていた。
サフィエは後宮での実権を握るつもりでいるが、どう考えても実務向きの頭の持ち主ではないのでヘマを繰り返し、人々の失笑を買っていること。サフィエのヒステリックで強権的なやり方で傷つく者が多いことなど・・・。
だが彼女は王の権威を嵩に着ているので、女官ごときには手出しができない。
「そうだ・・・。じき王の新しい子が生まれるであろう。それまでに我らはまたハットウシャに戻る。
だが案ずるな。私がそなたを守ってやる。そなたはずっと私の側に控えておれ」
浅い泉の中でキャロルを慈しみながら王子は囁いた。キャロルは飛沫に涙を紛らわせながら王子に縋った。
そして。
カネシュの宮殿に帰った二人を待っていたのは王の使いだった。
「王子妃様には至急にハットウシャにお戻り下さいますよう」

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