『 初恋物語 』 1 「私をお召しと伺いましたが…アイシス女王様」 商人イミルと名乗る男は恭しくエジプト王の姉、アイシスの前に平伏した。 ここは、エジプト王メンフィスの姉、アイシス女王の宮殿の私室。 室内にはアイシスとイミルの他にはアイシスの忠実なる侍女アリ以外に誰も居ない事など、イミルは承知していたのだが。 「人払いしてある故、そのような態度を取らずともよいのです。イズミル王子。」 アイシスは父ネフェルマアト王の治世の頃より、愛する弟メンフィスのために、そしてエジプトの安定のために各国の情報を集めていた。 父王が身罷り、メンフィスが即位してからも実質的な外交はアイシスの根回しによるところが大きい。 だが、他国への外聞上、アイシスは形式的な下エジプトの女王と、神殿の最高司祭という立場で弟王の政治に関わっているのみ、ということになっている。 そしてその立場さえ最近は危うくなっている。 大神官のカプターが政治的な影響力を以ってその地位を確固たるものにしようと、神殿からアイシスを排除しよう、と画策しているのだ。 2 メンフィスが王に即位した祝賀の際に、ヒッタイトのミタムン王女−イズミル王子の妹−がヒッタイト王の名代としてエジプトを訪れたのだが、メンフィスはこの美しい王女にかなり心を動かされたようであった。 弟のメンフィスを愛する以上にエジプトの将来を案じる女王アイシスは、ヒッタイトとの友好を考えればこの賢き王女を妃に迎えるのも悪くない、と考えていた。 当然、自分が正妃になる前提の上で、の話。 しかし、自分の影響力のない国から妃を迎えることを良しとしないカプター大神官の一派によって、ミタムン王女は避けられない事故死に見せかけて殺されてしまった。 真相を知るアイシスは、立場上、カプターの犯行を公にすることも出来ずにいた。 カプター大神官はアイシスを排除するための次なる策として、ナイルの女神ハピの娘を、メンフィスの妃にしようとしているらしいのだ。 3 ナイルの姫−そう呼ばれる少女はアイシスの庇護下にあった。 アイシスには全く記憶にないのだが、アイシス自身がこの国に連れてきたのだとナイルの姫は語った。 「私を帰して!元の世界に戻して!」と泣き叫ぶ少女を前にアイシスはどうしてやることもできなかった。 「アイシスは弟さんを探す旅の途中だと言っていたわ。 でも身体が弱っていて、家で療養するうちに私たちは仲良くなったのよ。 まるで本当のお姉さんのように優しくしてくれて、エジプトのことも沢山教えてくれたわ。 ”そなたのことを見れば我が弟は、もしやそなたに恋してしまうかもしれぬ”と笑っていたわ。」 4 アイシスは大神官の作った呪詛板によってその力を封印され、弟さんと一緒に葬られてしまったのだけれども、王家の墓の発掘作業で呪詛板が壊れてしまったの。 その発掘されたファラオの墓がアイシスの弟さんのものだったのよ。 呪詛板を作った大神官の名前はカプターだと。」 続けてキャロルは大粒の涙を流しながら訴えた。 「でも…パパの会社が発掘作業の出資をしていたと知って…アイシスはパパを殺して私を古代に連れてきてしまったの。 ライアン兄さんが呪詛板の復元をしてしまったから、もうここには居られない…って言って。」 5 「ちょっと待て。そなたの話は訳が分からぬ。パパとは誰ぞ。何の為にわたくしがそなたをエジプトに連れてくる必要があったのだ。」 「アイシスの弟さんはコブラに咬まれて死んだのだろう、と調査結果がでたのよ! それでアイシスはパパ、私のお父さんにも同じ苦しみを与えてやると言ってコブラで殺してしまったの…その時一緒に咬まれた私は運良く助かって、ライアン兄さんがコブラの毒に効く薬を持たせてくれた。 アイシスはその薬が必要だったから私をここに連れてきたのよ!」 アイシスにとってあまりにも馬鹿げた話であり、このような異国の少女など打ち捨ててしまってもかまわなかったのだが、この少女の持っていた小さな白い粒がコブラに咬まれ死の床にあった弟を救ってくれた時から、すべての事情が変わったのだ。 6 メンフィスの御世になってから頭角を現してきたまだ若い護衛兵の隊長ウナスなどは仕方ないとしても、かつて自分に心を寄せていたミヌーエ将軍、王宮の女官を束ねるナフテラ女官長、エジプトの知恵と言われる宰相イムホテップまでもが、ナイルの姫をエジプト王妃に、とメンフィスの歓心を買うべく進言しているそうだ。 カプター大神官はその動きに乗じて神殿のすべてを自分の配下に収めるために、アイシス女王を排除しようとしている。 アイシスとて、この英知ある女神の娘が自分と共にメンフィスの妃になることは好ましいことだ、と真剣に考えていた。 エジプトに富をもたらす女神の娘を我が弟に… というよりも、ずっと自分の手元に繋ぎ止めておきたい。 カプター大神官の一派にキャロルを奪われ利用されるようなことがあってはならぬ。 しかし、今はキャロルを他の誰かに委ねる以外に手段はなくなってしまったのだ。 (急がねばならぬ。メンフィスがキャロルを汚してしまう前に。) 7 「ミタムン王女の件ですが…」 アイシスは先ほどまで恭しい態度を取っていた商人イミルが、イズミル王子の素顔に戻るのを見ながら言った。 「ようやく話してくれる気になったか、アイシス女王。」 アイシスはイズミル王子のこの落ち着き払った態度が苦手であった。 アイシスが他の国の王や王子と面会する時、−その多くは下エジプト配下のなんの飾り気もない砦の一室で−アイシスの魅力を存分に発揮することができた。 しかし、ヒッタイトの王子だけはアイシスの意のままにすることが叶わなかった。 アイシスとてメンフィス以外の男に肌を許すのは単に政治のためであるから、願ったり叶ったりではあったが、自分のすべてを見透かすかのようなこの男だけは苦手であった。 ミタムン王女の訪問と共に送り込まれた間者、ルカという少年を篭絡しようとしたが、これもまた主人に似た堅物でアイシスの裸体を見ても動揺した素振りさえ見せなかった。仕方がないのでイズミル王子の希望通り、この少年をナイルの姫の従者にした。 8 しかし、今は苦手だの嫌いだの言っている場合ではない。 ナイルの姫を王妃に、という動きが民衆の間でも高まってきたのだ。カプター大神官が各地の神殿にひそかに手を回したのだろう。 そのような国内の動きとは関係なくメンフィス自身がナイルの姫の神秘性を興じる段階から、もう一歩、いやそれ以上に踏み込んだ状況になってしまったのだ。 「ミタムン王女はカプター大神官の一味によって殺害されたのです。 わたくしはそれを阻止できませんでした。 どのような償いもミタムン王女の命に代えられるものではありませんが… このことはメンフィスは与り知らぬ事。どうかそれだけは知っておいて下さい。」 長い沈黙が流れた。 アイシスが恐る恐る伏せた目を上げると、イズミル王子は妹の死を悼んで瞑目していた。「お願いいたしまする…メンフィスは真相を知りませぬ。」 9 「カプター大神官が、ナイルの姫をエジプト王妃にするべく画策しているとか。」 イズミル王子はアイシスの顔色を窺いながら言った。 「な、なぜそのようなことまで存じているのです?」 「他国の王女が、ただエジプトに遊びに来ていただけとでもお思いか?」 アイシスは取り戻せない大切な何かを思い出すように悲しげに目を伏せながら言った。 「そうです。ミタムン王女は美しいだけでなくて、賢く怜悧で世の道理を良く知っておられた。 この人と一緒であれば共にメンフィスを支えながらエジプトの繁栄を願えると。」 「では、やはりカプター大神官が。」 アイシスは目を瞑ることでイズミルに答えた。 「しかし、ナイルの姫をメンフィスの妃の一人とすることにアイシス女王も異存はなさそうだとミタムンの文にはあった。もしやナイルの姫を亡き者にしたいと心変わりなさったのか?」 「そんなことまでミタムン王女は…?やはり並大抵の人ではなかったのですね。」 「ミタムン亡き後は、ルカがおるゆえ。」 イズミル王子は妹の死を嘆く兄の顔から、すぐさまいつもの為政者の表情に戻り、エジプト女王の次の言葉を促した。 10 アイシスは確かにナイルの姫−その名をキャロルと言う− キャロルの処遇をどうしたものかと悩むうちに、その言葉どおりに愛する弟の命を救ってもらう大事件が起こり、一緒に弟を死の床から救った。 頼り無げな少女のどこにこの英知と勇気とそして他者に対する優しさが潜んでいるのか、すぐにアイシスはキャロルという少女に夢中になった。 そして、女性の自分でさえこの少女に心動かされるというのに、自分と同じ血の流れる弟はきっと男としてこの少女を愛するに違いない。 そうすれば一緒に弟を支えながらキャロルを保護してやれば良い。 キャロルの語るとおり、自分がキャロルの父を殺めたのであれば、このエジプトでファラオの妃にしてやることがキャロルに対する償いになるであろう、 とアイシスは考えていたのだ。 |