『 出逢い 』 31 だが。 王子はキャロルへの愛に溺れきるには、あまりに理性的であった。 このままアイシスの、メンフィスの―エジプト帝国の―メンツを潰してはヒッタイトは結局、割高な代償を支払わされるだろう。 心を殺し、為政者の冷徹な仮面を被り・・・王子はエジプト側が提示した条件を呑んだ。無論、できる限り有利な条件を搾り取ってからのことだ。 エジプト「王女」キャロルはヒッタイトに莫大な婚資と共にヒッタイトに嫁ぐ。 エジプトが独占していた交易路はヒッタイトに譲られる。また交易に関する関税についての主導権はヒッタイトが握る。 ミタムン王女はメンフィスの第一王妃、すなわち正妃・皇后となる。生まれた子供は王位継承の最優先権を持つ。 女王アイシスはメンフィス王の「妃」の呼称も格式も得られない。彼女は典礼に従って異母弟と「結婚」するがそれは「白い結婚」―実質を伴わない形ばかりの結婚―である。彼女は生涯「王姉」である。 今回の不祥事の決着は一応、ついた。 しかし肝心のキャロルは未だ生死の境を彷徨っている。自ら死を選んでからもう5日が過ぎようとしていた・・・。 「・・・お兄さま、お妃の具合はいかがですの?」 ある夜、ミタムン王女は兄王子の滞在する宮殿を訪れた。兄の想い人は蒼白な顔をして寝台に横たわり、それを見守る王子も心痛で窶れて見える。 いつも凛々しく、感情を表に出さず冷静沈着な兄しか知らぬ王女にとって驚くべき変わり様だった。 「まだ気付かぬ。水だけはやっと・・・飲ませてはいるが衰弱が激しい。もう5日にもなる。もし・・・万一・・・」 「お兄さま!そのようなお気弱なことを!お疲れなのですわ、少しお休みなさいませ。このままではお兄さまが参ってしまう。お兄さまがお倒れになったからといって姫が目覚めるわけではないでしょう?」 32 ミタムンはことさらに厳しく言うと、そのまま居座って外のことを兄に話してやった。 メンフィスは政務に復帰しているがキャロルの自殺未遂がよほど堪えたのか、奥宮殿に戻れば茫然自失であること。だがキャロルのことは一言も口にはしない。 アイシスはそんなメンフィスを必死に支えている。特に政務の面では。だがメンフィスはアイシスを疎んじて決して二人きりにはなろうとはしない。 「でもメンフィス様は私とはかろうじて会話をなさいます。ふふ、努めてさりげない風を装いながらね・・・。 私はあの方をお慰めして・・・早く元のメンフィス様にお戻り戴きたいの。きっとあの方を私に夢中にさせてみせるわ。そしてきっと和子をあげてみせる!」 気丈な妹の言葉に、王子は僅かに微笑んだ。 「頼もしいな・・・。さぁ、そろそろ下がれ。夜も更けた。異国での婚儀の準備で多忙であろう。そなたに何かあれば心配だ」 「・・・嘘ばっかり。姫のことで手一杯なのに。お優しいのね。 ・・・でもお気遣い、嬉しいわ」 「姫・・・」 常夜灯が愛しい娘の寝姿を照らし出す。生と死の間を彷徨うその容(かんばせ)は健康なときとはまた異なる儚さと凄絶さを併せ持つこの世ならぬ美しさを湛えていた。 「姫。どうか私を置いて逝かないでくれ・・・。そなたを愛していると・・・真実愛しているとまだ・・・告げていないではないか」 すぐ手の届く場所にいるのに。 もう誰憚ることなく妃として愛することができるのに。 金髪の娘は死の翼に半ば覆われて横たわっている。蒼白な顔。首筋の赤い輪の禍々しい色鮮やかさ。冷たい身体。 「神よ・・・」 王子は恋をして・・・その代償に何物にも動じない超人的な心の強さを失った。本人は気付いても居ないだろう。しかし今の王子はあまりにも脆かった。 王子はそっと冷たい恋人の頬を撫でた。 今、ヒッタイトはエジプトに対して非常に有利な立場にある。しかしその代償はあまりにも高価であった。もし、全てはキャロルの死と引き替えに得られるのもであったなら・・・? 「そなたがいてくれなくては全ては無意味だ」 33 キャロルは泣きながら暗い道を歩いていた。 (ここはどこ?ママ?兄さん?皆、どこにいるの?どうして私は一人なの?) 不意に足元が溶けるように揺れて、彼女は冥く深い冷たい淵に沈み込んでいった。 (いやっ!誰か助けて!怖い、怖い、沈むわ、息ができないっ!) その時。 (こちらだ・・・。こちらへ参れ) 暖かく大きな手が差し伸べられる。懐かしいその手の力強さ。沈み込むキャロルを軽々と光り目映い地上に引き上げてくれる。 (さぁ、大丈夫だ。もう勝手に離れてはならぬぞ。一緒にいれば大丈夫だ。私が守ってやろう、ずっとずっと) 逆光の中ででも、声の主が微笑んでいるのが分かる。キャロルは目映さに思わず閉じてしまった目を必死に見開いて、その人の姿を捕らえようとする。その人の名を呼ぼうとする。 キャロルを助けてくれたその人は・・・。 「う・・・」 意識を取り戻したキャロルの唇から漏れたのは溜め息混じりのうめき声だった。喉がひどく痛み、声が出ないのだ。目も霞み、焦点が瞬時には合わない。 だが。 「姫っ!」 夢の中でキャロルを助けてくれた人が・・・イズミル王子が・・・喜びに顔を輝かせ,彼女を抱きしめた。 「気付いたのかっ!気付いてくれたのか・・・。ああ・・・神よ・・・感謝します。そなたを失わなくて・・・良かった・・・」 キャロルの頬に熱い涙が伝わった。王子が・・・泣いているのだ。 「お・・・じ」 囁くようにキャロルは言った。自分は生きているのだ、しかも王子の腕の中にいる。目眩く喜び。信じられないような。 ああ、今こそ伝えなくてはならない。大事なことを。早く・・・。 キャロルは力無く頭を動かし、愛しい人の顔を見ようとした。王子もすぐに彼女の意図を悟り、頭を支え見つめ合う。 「す・・・き・・・」 死の淵から生還したばかりの弱った体にはその一語を口にするだけでも大変な労力だった。キャロルは疲れ果てて目を伏せた。 だがその声は確実に王子の耳に届き、この青年の心に生涯忘れられない大きな喜びをもたらしたのだった。 34 「姫、船室に入れ。風が冷たくなってきたぞ」 イズミル王子は黄昏の風に髪をなぶらせながら、じっと遠ざかっていくエジプトの岸辺を見つめているキャロルに声をかけた。 「母の許を離れるのは寂しいか・・・?」 背後からそっと細いキャロルの身体を抱きしめながら王子は問うた。 テーベの王宮を辞してからナイルを下り、イズミル王子とその妃キャロルを乗せた御用船はやっと地中海に出た。後はひたすら風を追い、ヒッタイトを目指すのみだ。 (色々なことがあった・・・。こたびの事件は後々、我が治世に・・・そして我と並び立つメンフィスの治世に大きな影を落とすやもしれぬ。 しかし姫は我が腕の中にあり、私は誰憚ることなく姫を愛することができる!) 大いなる満足感を噛みしめながら恋しい娘の顔をのぞき込んだ王子は、白い頬に流れる涙に驚き、同時に腹立ちを感じた。乱暴に細い肩を掴み揺さぶる王子。 「どうした?何故、泣く?」 (私がいるのに泣くのは何故だ?まさか・・・まさか・・・メンフィスが恋しくて・・・) 初恋の相手がすなわち永遠の伴侶となった幸福な青年は、ストレートに嫉妬の情や、恋の不安を口にするにはあまりに大人であった。 相手の幼さを思いやって、黙って見守ってやるのが大人である自分の務めであると強く自分に言い聞かせている王子は、内心の焦燥や不安を怒りの形でしか表せない。 王子の言葉の強い調子に驚いたキャロル。 「ごめんなさい・・・。怒らないで?もう・・・家族に会うこともないと思うと・・・。 せめて発つ前に会いたかった。あなたとの結婚を・・・祝福して欲しかった・・・。それなのに・・・王子は・・・怒る・・・」 話すうちに感情が高ぶってきたのだろう。涙が滂沱と流れ、身体を震わせてキャロルは泣きじゃくった。 「すまぬ・・・。怒ってなどいない。ただ、そなたが泣くから・・・嫁ぐのがそんなに嫌なのかと・・・」 狼狽えた王子は、面白そうな周囲の人々の視線の中、キャロルを船室に抱いていった。 35 「落ち着いたか・・・?」 黄昏の残照も消えた船室は灯火に照らし出されている。 王子の胸に子供のようにもたれ掛かりながら、キャロルはこくんと頷いた。 「済まなかったな。そうだ、そなたはずっと家族を恋しがっていた。それを私が忘れていたな。許せよ」 泣きじゃくるキャロルの言葉の端々から、ようやく嫉妬の蔓草より解放された王子はいつもの余裕ある優しさを取り戻していた。 王子はキャロルの顔を綺麗に拭いてやり、冷たい水の杯を唇にあてがってやった。そして食の細いキャロルの口に小さくちぎったパンを押し込んでやる。 「ありがとう・・・。でももういいの。そんなに優しくしないで。かえって恥ずかしくて・・・」 キャロルは頬を赤らめて王子を押しやる仕草をした。その幼く愛らしくも、無意識の媚態に彩られた様子が、王子の心を熱くした。 唐突に。 王子はキャロルの額に接吻した。 「これはそなたの母女神より託されし祝福。母女神に代わり私が与える」 次に王子はキャロルの涙で薄紅に染まった瞼に接吻した。 「これはそなたの兄より託されし祝福。そなたの兄に代わり私が与える」 王子はキャロルの頬に、鼻筋に次々に優しい接吻を与えていった。 キャロルが失った家族に友になりかわり。これからは自分がキャロルの家族とも友ともなろうとの決意を託して。 そして最後に。 王子はじっとキャロルを見つめ、万感の思いを込めて薔薇の唇に接吻した。 「これはそなたの夫たる私が贈る心の証。未来永劫、そなたは私の最愛なる妃。そなたが私の許に来るために失った全ての物を贖い・・・それ以上の物を与え幸せにする我が心の証・・・」 (王子・・・!) キャロルは深い感動に満たされ、また新たな涙を零した。 (ママ・・・兄さん。私、幸せになるわ。私は・・・この人に相応しい存在になってきっとこの人の愛に応えて見せます。 ママ、兄さん。私は大丈夫よ・・・) 「愛しています。世界で一番あなたが好きです」 キャロルはぎこちなく王子に接吻を返すのだった。 36 暖かな灯火が婚儀を終えたばかりの男女の寝台を照らし出していた。 寝台の上には典礼に従って上質の毛布一枚で全身をくるまれたキャロルが座して、夫君イズミルの喜びの視線に身を震わせていた。 王子のしなやかな指が毛布の上に結ばれた紐を弄ぶようにした。 「姫、そなたは今宵、我が妻に・・・娘から女になる。この紐を解き・・・そなたを愛することを許してくれるか?」 キャロルは灯火の元でもそれと分かるほどに赤くなりながら、そっと頷いた。 暖かな繭のような毛布に包まれているのに、何だか王子の視線だけで丸裸に剥かれているような、そんな感じがして思わず彼女は身を震わせた。 「怖がらなくてよい。恥ずかしいか?」 王子はそう言うとさらりと自分の寛衣を脱ぎ捨てた。彫刻のような逞しく整った体が露わになる。 キャロルは驚いて目の前の体を見つめた。生身の男性の裸身を見るのは初めてだった。しかもその体は熱い欲望に満ち、自分に重なる体。 王子は、好奇心と羞恥に満ちて自分から視線を外せないでいるキャロルの幼さに苦笑すると、彼女の毛布を取り去ってしまった。 「あ・・・」 隠そうとする腕をやんわりと留めると王子は待ちわびた白い身体に覆い被さった。 「いや・・・」 「大丈夫だ。何も恐ろしくはないから。そなたとて私を待っていてくれたはずだ。・・・私がそなたを待ち望んだように」 王子はかすれたような声でキャロルを求めた。 37 王子は男の本性を剥きだしにして、今まで堪えて大切に見守ってきた娘を愛おしんだ。 羞じらい声も出せずにがくがくと震えて王子の愛撫を受け止めるキャロルの身体を解そうと根気よく様々に試み・・・キャロルが初めての悦びにかすれた悲鳴をあげ、痙攣しながら蜜を吹き零し、寝台のシーツにシミを作る様を愛でた。 「そなたを心ゆくまで愛したい・・・。さぁ・・・身体を楽にいたせよ。そのように頑なになられては・・・困ってしまう。」 「大丈夫だ、そなたの身体は私を受け入れられるようになっているから。分かるか?そなた自身が私を迎え入れる準備をしている様子が。ここだ。」 「あ・・・ああ。姫・・・私だけの・・・愛しい花嫁」 キャロルは王子の逞しい体に必死に縋り、自分を押し流そうとする激しい波に逆らおうと儚い抗いを試みるのだった。 翌朝。 王子は傍らに眠るキャロルを見て幸せな微笑みを漏らした。 初めて出会った時から惹かれていた娘。初めての夜を終え、娘への愛おしさはいや増すばかりだった。これまでは一度、征服してしまった女には急に興味を失ってしまうのが常であったのに。 「う・・・ん」 寝返りを打ったキャロルを素早く王子は腕の中に抱き取った。 「え・・・?」 目覚めたキャロルはぼんやりと新婚の夫を眺め、やがて真っ赤になって逃れようとした。その初々しい羞じらいに満ちた取り乱し方が王子には好ましくてたまらない。 「姫、もはやそなたは私の許から逃れることは叶わぬぞ。そなたは永遠に私のものなのだから」 勝者の余裕の笑みを浮かべながら王子は囁く。 でも彼は知らない。初めて出逢ったその時から、より深く、激しく恋をしていたのは自分のほうなのだと。 恋はより深く惹かれ、相手を愛するようになったほうの負けなのだと。 小柄で儚げな様子をした恋の勝者は優しく微笑んで、青年の頬に接吻するのだった。それは永遠の囚われ人の刻印・・・。 終 |