『 兄妹 』

21
キャロルはそう長く気を失っていたわけではなかったようだ。
心配そうなイズミル王子がキャロルの口元にお茶の器を当ててくれた。痛みを覚えるほどに乾いた喉を、お茶は心地よく滑っていった。
「すまぬ、ナイルの娘・・・。まさかあのように・・・」
心配そうなはしばみ色の瞳、気遣わしげな声音がキャロルに告げた。先ほど聞かされたことは嘘でも夢でもない、と。
「王子・・・。さっきの話は・・・・本当?アイシスは・・・・」
王子は頷いた。
キャロルは目を見開いたまま、意識の深淵に飛ばされるような心地を味わった。

―キャロル、私はそなたを再び故郷に戻してやることはできぬ!そのような怨みがましい顔をされては目障りじゃ。どこへなと去ね!
―そなたはもはやこの世界でしか生きられぬ。もし私にそなたを元の世界に飛ばす力があったとしても・・・その力をそなたのために使う酔狂はせぬ!

メンフィスへの恋、キャロルへの嫉妬に狂った美女はキャロルに辛く当たった。アイシスの秘術によって古代に引き込まれたキャロルは一縷の望みをアイシスに託していたのだが・・・。
(私はもう・・・帰れない・・・)
今まで敢えて考えぬようにしていた恐ろしい事実がキャロルを押しつぶした。
声も出せず、身動きも叶わず、ただうつろに目を見開くキャロルを王子は強く抱きしめた。
「ナイルの娘、気をしっかり持て!ナイルの娘、しっかりといたさぬかっ!」
王子はキャロルが哀しみと絶望のあまり狂って死ぬのではないかと危惧したのだ。

王子の心配を余所にキャロルは狂いも死にもしなかった。
あの衝撃の日。キャロルは一人にして欲しいと静かに、しかし鬼気迫るまでの気迫で人々に言い、死人のように部屋に籠もった。

22
その間に彼女が何を考え、涙したのかは誰も知らない。翌日の午後遅く、部屋の扉を開いたキャロルは硬質な平静さで自らの心を鎧い、その胸の内を明かさなかった。
「・・・・私は大丈夫・・・」
キャロルはただそう言った。

王子はキャロルにエジプトからの報告書を見せてやっていた。
愛しくも憎たらしい少女に衝撃を与えてやろうとアイシスの死を性急に告げた王子だが、あの日以来、心を殺してしまったように過ごすキャロルに償いをしたい気持ちでいっぱいだった。
本来なら機密である文章をキャロルに見せてやるのも、それがせめてもの詫びだと思うからだった。
そしてどのようなものであれ、真実だけがキャロルの心を癒やし、活力を与えると信じるが故の・・・。
「アイシスは・・・苦しまずに逝ったのね。せめてもの・・・」
キャロルは呟くように言って報告書を王子の手の中に返した。
リビアの暗殺者に狙われたメンフィスを庇って絶命したアイシス。メンフィスは生き延び、皮肉なことに政治的配慮から今度はリビアの王女を娶る羽目になったという。
「可哀想なアイシス。可哀想なメンフィス・・・・。虚しいわ。失ったものが多すぎる」
「ナイルの娘よ・・・」
「アイシスはね、私の姉妹のように優しくしてくれたこともあったのよ。メンフィスのことがなければ、私とアイシスはこの世界でもきっと仲良く過ごせたわ」
イズミル王子は淡々と語る幼いといってもよいような年の娘に、痛々しさを覚えた。
「ナイルの娘・・・。私はそなたに済まなく思う。私はそなたを哀れに思う」
キャロルは、はっとしたように王子を見上げ・・・迸る感情を抑えることも叶わず泣きだした。

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「私はもう帰れない!帰れないの!怖い、怖い、怖い!誰か助けて!お願い、私、私、もう帰れない!誰にも会えない!」
王子はキャロルが初めて見せる感情の奔流に驚きながら、そっとその小さな身体を自分の胸の中に抱きしめた。
「どうして私が?まだやりたいことがたくさんあるのに!家族にお別れすら言っていない!もう帰ることも叶わず、生涯、戦の元凶となったっていう重荷を背負っていくの?ひどい、ひどい、ひどい!」
病的に痙攣するキャロルを王子はしっかりと抱きしめた。まだまだ子供のキャロルにはもう自分の感情とストレスの奔流を自制することなどできなかった。
「いやあっ!」
王子を突き飛ばして闇雲に窓際に駆け寄ろうとしたキャロル。
王子はかろうじて虚空に飛び出しかけた白い身体を抱きしめ、当て身でしばらくとはいえ安息を与えてやれたのである。
王子はあわてふためくムーラ達を制して自分でキャロルを寝室に運んでいってやった。
「私はどうすればよいのだ、ナイルの娘よ。そなたを見初めて母女神の国から連れてきたのは私だ。故郷に帰る手だてを失ったそなたは、残りの生涯を自分を責めることで過ごすのか・・・?私はそなたをそのような目に遭わせるために我が手許に引き寄せたのではない。そなたを望んだことでそなたを不幸にするのは私の本意ではない」
王子はふうっと重い吐息をついた。
「・・・・・・・・許せよ」

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キャロルが目を開くと、王子のはしばみ色の瞳と目があった。
「ずっと・・・側にいたの?」
「うむ・・・」
「向こうに行って。一人になりたいの」
キャロルはぷいと王子に背中を向けた。先ほど憎い相手に自分の見苦しいところを見せてしまったことが悔しくてたまらない。
「一人にはしてやれぬ、私の話を聞くまではな」
王子は無理矢理、キャロルを抱き起こして自分の方を向かせた。キャロルはかっとなって王子を撲とうとした。
「いい加減にせぬかっ、ナイルの娘!」
王子の一喝にキャロルは思わず縮み上がった。そのままふくれっ面で王子の言う通りにするキャロル。
王子は厳しい顔つきを崩さぬままに言った。
「よいか、ナイルの娘。先だってもそなたに申し聞かせたはずぞ、人の上に立つ身分の者は我が儘勝手は許されぬと。そなたは申したな、戦は自分のせいだと。思い上がりも甚だしい勘違いだ。確かに私がそなたを手許に連れだしたためにエジプトより不興を買ったやもしれぬ。だが、たかが娘一人で戦になどなるものか。ミタムンの事故死、エジプト国内の施政不満を外に逸らすため、若き王の国威発揚行為、シナイ銅山の利権争い・・そのような諸々がこたびの戦の下地だ。私がそなたに見せてやった書類のどこを読んでいたのやら。自分の不幸に酔って客観的に事実を見られぬとは呆れた愚か者よ。私はこのような者に入れ込んだというわけか?」
挑発的に言い募るイズミル。キャロルは最初、呆気にとられたように、そして見る見る怒りと屈辱感で真っ赤になって王子を睨み据えた。
「私は愚か者じゃないわ!私はただ・・・どうしたらいいか分からなくて」
「ふん、では分かるまで考えるのだな」
王子は軽くキャロルの頭に手をのせて部屋から出ていった。

25
「考えよ」
王子はキャロルに命じた。そして言葉を続けた。
「私も考えよう。どうしたら・・・戦で荒廃した者の哀しみを癒してやれるのか。もし償えるのであれば、どうすればよいのか」
怪訝そうに見上げた青い瞳に王子は答えた。
「為政者とは、人の上に立つ者とはそういうのものだ。全てを背負い、受け止め、しかしその重みに打ちひしがれることなく頭を上げて前を見据えるのだ。己が支配し、責任を持つ民のためにな」
「・・・・高貴なるがゆえの・・・義務・・・・?」
王子はふと頬を緩めた。
「そうだな。そなたはそれに耐えられるか?」
「私が?」
「耐えられるだけの器量の持ち主なれば私はそなたが考える手伝いをしてやろう。そなたが考える材料をやろう。そなたが知りたいことは全て教えてやる。我が国のこと、エジプトのこと、こたびの戦の戦後処理こと」
キャロルはまっすぐ王子を見つめ返した。真摯な強い視線に王子は思わずたじろぎを覚えた。
「・・・・・・・分かったわ。私は王族でも何でもない普通の娘よ。でも皆に私を神の娘と思わせて犠牲を強いたことを忘れてはいけない。私は・・・償いたい。出来るかしら?いえ、やらなくては」
キャロルは初めて自分の力で運命に逆らい、その波に逆らってどことも知れぬ岸辺に向かって泳ぎたい、と思った。

キャロルは王子の宮殿の一角に大切に隠され守られていた。
来る日も来る日も王子の与えてくれる書物や報告書を耽読し、公務を終えた王子が教師となって彼女を教えた。
ただ教えるだけではない。絶えず問いかけ、意見を述べさせ・・・・・。
そんな日々が長く続いた。学僧のような生活はキャロルの心に不思議な平安をもたらした。

26
「王子、キャロル様のお勉強はいつまでお続けになりますの?若い姫君なのにあのようなお暮らしぶり。ご自身をお責めになって、静かに祈りに書物に明け暮れを送られる。王子が下された禄もご自分にはお使いにならず民のために使われます。エジプトへも送りたいと仰せなのですよ。王子のなさることでございますゆえ、何か特別のご意図がとは思いますが、あれではキャロル様があまりにお可愛そうで痛ましくて・・・」
「もう一年近くになるな」
王子は穏やかにムーラに答えた。
「私はずっとあのナイルの娘を見ていた。様々な事を教えた。私の妃となる娘を、いや姫を教え導くのはなかなか興深いことであった」
「まぁ、では!」
「かの姫を娶る」
王子は当然のように宣言した。
「だが・・・肝心の姫は我に靡いてはおらぬ。まぁ、しばらくは妹のように扱うとするかな」
そう言った王子の顔はずいぶんと寂しそうであった。

「姫。元気か?」
キャロルの部屋に入ってきた王子は、くいっと金色の髪を掴んだ。
キャロルは驚いたように王子を見て、続いてうっすらと微笑んだ。王子を狂喜させるその笑み。
静かな日々がキャロルを変えた。自分の運命を、古代世界の全てを闇雲に厭い、手負いの獣のように牙を剥き、人々に唸っていた少女は落ち着きと静かさを取り戻していた。
王子に与えられたものとはいえ、自分の禄で人々のために償いが少しなりともできることも救いとなった。
優しい諦観の笑みを浮かべる金髪の賢い娘を慕う民人は多かった。彼女は気づかぬうちに人々の尊敬と信頼を得ていったのである。

27
「いつも宮殿の中では退屈であろう。これより忍びで市中に出るがそなたにも同道を命じる」
王子はそう言うとキャロルにぽいとフード付きのマントを投げ渡した。キャロルは是非もなく王子と共に真昼の光目映いハットウシャ市街へと出ていった。

ハットウシャの街は活気に溢れ、人々の表情も明るかった。
「徐々に国内は復興してきておるな。市場に並ぶ品々の種類と質の多さを見てみよ。・・・ほら、あそこに見えるのがそなたの禄で建てた傷病兵や寡婦達のための建物だ。ふふっ、戦の後にあのようなものが、かほど役立つとは思わなかった」
王子の褒め言葉にキャロルはほんのりと頬を染めた。この男性が世辞など言わない性格だということはもう知っていたので、こんな一言がとても嬉しい。
「他の地方都市は?農村だとかも。は、働き手が激減している・・・とか。前の戦で・・・」
「ふん、政治の授業をしているわけではないのに。せっかく息抜きに連れてきてやったのに生真面目な生徒だ」
王子は笑ってキャロルを引き寄せた。その暖かい腕の中が嬉しくてキャロルはされるままにしておいた。
「お二人さん、仲のいいことで!」
若い商人がすれ違いざまに忍び姿のふたりに声をかけた。
キャロルは、はっとして王子を見上げた。
王子は・・・王子は優しく暖かい眼差しでキャロルを見ていた。
キャロルは初めて自分の肩を抱く王子の手の温かさに気づく心地がした。初めて人間らしい暖かみを湛えた王子の瞳に気づく心地がした。
王子もまたキャロルの青い瞳の中に初めて萌した光に気づいていた。困ったような甘えるような、初々しい少女の瞳。
その時。肩にいっぱいの荷を負った行商人がキャロルにぶつかり、フードが取れてしまった。
「ナイルの姫君だ!」
市場は喧噪に包まれた。そして人々のあげる声はキャロルが驚いたことにとても好意的なものだったのだ。
人々はてんでに叫びながら異国の優しい神の娘に触れ、好意を伝えようと躍起になった。

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「・・・・疲れた。でも嬉しかった・・・。ありがとう、王子」
キャロルは王子の差し出す茶器を受け取りながら頬を染めて言った。
「何故、私に礼など?私は何もしておらぬ。民がそなたを押しつぶしはしないかと気が気でなかっただけだ」
お忍びで出かけていった市場で、キャロルのことが知れてしまってずいぶんと騒ぎは大きくなってしまった。結局、王子は王宮差し回しの兵の力を借りてキャロルを連れ帰らねばならなかった。
それでなくても精神的に張りつめて不安定なキャロルを王子は心配したが、それは杞憂だった。
民の素朴な声や妙に繕ったりしない直截な好意は、キャロルにとっては自分の犯した「罪」―戦の元凶となって多くの命を失わせてしまった―への癒しとなった。
「私・・・少しは、ほんのほんの少しは償えているかもしれないって・・・思っても良いのかしら?」
キャロルはまっすぐに王子を見つめた。そこには闇雲に罪を恐れ、理不尽な運命に嘆き苦しむ萎縮した少女はいなかった。
初めて王子が出会ったときの意志と生気溢れる青い瞳・・・・・。
王子はキャロルの独り言のような問いには答えずに、ただ白い手をぎゅっと握りしめた。自分を見つめる青い瞳に映る自分自身を嬉しく見返しながら。
「私は・・・私はこれからも償っていくことを許されるのかしら?私が古代に来たばかりに戦が起こって・・・もう私は生きていてはいけないと思ったの。沢山の人が私を信じて死んでいったのに何故生きていけるのって。でも死んでしまうのも無責任に逃げることのように思えた」
「そなたは・・・自害を考えていたのかっ!」
キャロルは穏やかに首を横に振った。
「今はもう考えていないわ。どうしていいか分からなかった時に王子が色々なことを教えてくれたわ。辛くても逃げないでいることができたのは、王子のおかげ」
キャロルは少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「ずっと言わなきゃって思っていたの。・・・・王子、ありがとう。私が自棄になっていたときも、泣いていたときも、ずっと・・・居てくれてありがとう。兄さんみたいに・・・居てくれてありがとう」

29
いつもの自制や冷静さはどこにいったのか。
気がつけばイズミル王子は初めて自分に心から微笑みかけ、優しい言葉を口にした少女の身体を激しく掻き抱いていた。
「お・・・王・・・子?」
苦しげに顔を上げたキャロルの唇はいきなり王子に奪われた。
「どれほど私が苦しんだと思うのだっ!」
王子の声は少し掠れていた。
「そなたが苦しみ、嘆くのをただ見ているしかなかった私の苦しみを思っても見よ!決してそなた一人のせいではない戦に心痛め、私が欲し守るが故にそなたがより苦しむのをただ見ているしかなかった私の心を!私が初めて愛しいと思ったそなたが、私故に生涯、嘆き苦しみ、死者達への祈りに生きるしかないのかと思ったとき私は・・・私はっ・・・!」
今までずっと冷然とキャロルを見守り、時に意地の悪い言葉で無気力になりがちな少女の心を煽り立ててきた男の、それが真の心であった。
キャロルは呆然と、初めて見る王子の感情に溺れた姿を見守った。
(・・・・ひょっとして・・・・)
不意にある予感がキャロルの中に萌した。その予感はあっという間に大きく膨れ上がり、キャロルの頬を赤く染めた。
(ひょっとして・・・・王子は・・・・私のことを・・・・?ああ、まさか!そんなことってあるかしら? 自惚れが過ぎるわ、思い上がりも甚だしいわよ、キャロル!王子はただ私のことを珍しがって・・・それに私を刺したじゃないの!それに・・それに・・・)
「あの・・王子。どうか落ち着いて。どうしたの?ねえ・・・」
「どうして、などと問うか、この期に及んでこの不調法者は!」
王子は吼えるように言った。

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自分よりはるかに年下の少女相手に、初恋に目の眩んだ少年のような真似はすまいと思っていたがイシュタルは意地が悪かった。
王子はおそらく生まれて初めてプライドを捨てて、胸の内を相手にさらけ出すという真似をする羽目になった。
「私は言わなかったか?そなたを愛していると。私が愛しいと思っているそなたが初めて私に心から微笑みかけ、感謝の言葉を口にした。兄のようだと!兄! 惚れた女から兄呼ばわりとはとんだ間抜けだ。私はそなたにとっては男ではないのか?よいか、よく聞くがいい。私はそなたを愛しいと思っている。そなたを欲しいと思っている!」
(私は・・・愛されている・・・?こんなに激しく?こんなに、こんなふうに言われたの初めて・・・・)
キャロルは全身を薔薇色に染めた。
自分がたった今、好意と感謝を伝えた相手から激しく求められた嬉しさとこれは何かの間違いではないだろうかという思いが交錯する。
不意に王子を映していた青の瞳が逸らされた。
「私は・・・私は・・・そんなこと急に言われても・・・分からない。だって私は・・・エジプトが欲しいから、私にそんなこと言うの?私の色形が珍しいからそんなこと言うの?よ、予言ができるっていう噂をあなたも信じているの?私はねえ、ただの娘よ・・・」
「愚か者めが!」
王子が優しく撫でるようにキャロルの頬を叩き、心にも無い言葉を際限もなく紡ぐ嘘つきな唇を閉じさせた。
「私はそなたが泣き、拗ね、怒るところを見た。そなたが学び、思慮深く言葉を紡ぐのを知っている。この一年間、ずっとずっとそなたをただ見ていた。利用するつもりならば、弄ぶだけのつもりなら誰が辛抱強くつき合ったりするものか。・・・よいか、二度とは申さぬ。私はそなたがそなたであるがゆえに欲しいのだ。姿形や地位身分など、どうでもよい。私が欲するのはまさに、ただの娘たるそなたなのだから」

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「・・・・・急すぎるわ。急にそんなこと言われても分からない・・・」
やっとキャロルは言った。
(愛されている・・・。私は愛されている・・・無条件に、私が私だからっていうただそれだけの理由で。・・・・・嬉しい・・・・!)
自分を引き寄せた王子の腕から逃れることはできなかった。いつもいつも張りつめて、侮られまい、嘲笑われまいとしていた緊張が溶けていく・・・・。
だがキャロルはなおも抗った。
「私は・・・・・・戦を・・・・呼んでしまった。沢山の人が死んだわ。それなのに私だけ・・・・。だめ」
それは王子の告白に答えたも同然の言葉だった。王子はキャロルの肩に両手を置き、言った。
「そうだ、そなたは多くの者に責任を負う立場にあるのだ。それゆえ常に自身を律し強くあらねばならぬ。あの戦は決してそなた一人のせいで起こったのではない。だが戦がそなたの負い目であるのなら生涯かけて償えばよいのだ。民が平和に幸せに生きられるように。私がいつも側にいて手伝ってやろう。そなたの重荷を共に持ってやろう」
「王子・・・・本当に・・・・?」
「私もまた、多くの民に責任を持つ立場。一人では孤独で、荷は時に重すぎる。・・・・二人であればきっと全てはもっとうまくいく。私が側にいてやろう。寂しくないように、泣かずにすむように。だから・・・そなたも私の側に居てくれないか?いや、居て欲しい!」
不意に王子はキャロルの足許に跪いた。
「ナイルの娘、キャロル。どうか私の妻になって欲しい。私は御身の心をこそ欲する」
すきま風が灯火を揺らした。明かりは揺れる、キャロルの心のように。
「・・・・・・はい。私を・・・こんな私を、ただ私だっていうそれだけの理由で・・・そこまで言ってもらえるなら・・・私は・・・・嬉しい」
王子は立ち上がって、キャロルに口づけた。

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「キャロル様、よろしいですか?今日よりはイズミル王子のお妃におなり遊ばしたのですから、きちんと‘お妃様’らしくお仕え遊ばしませ。いつまでもお兄さまに甘える妹ではいけませぬ。今宵も我が儘を遊ばさず、ただただ王子のお望みのまま、素直になさいますよう・・・」
婚儀を終えたキャロルを夜衣に着替えさせながら、ムーラは母親のように細々と注意を与えていた。
(早いこと・・・。ひどい風邪で苦しんでふせっておいでだった方がもうお輿入れ。娘のようにもお見上げ申していた方が、私の大切な王子の御許に)
涙ぐむムーラの目元をそっとキャロルの夜衣の袖が拭った。
「まぁ、申しわけありませぬ。私といたしましたことが・・・!このお喜びの夜のお衣装に涙など縁起でもない!」
「いいの、ムーラ。これは私のママの涙と同じよ。ありがとう、ムーラ。本当にありがとう。私、ハットウシャに来てから本当に色々あったけれど・・・やっと居場所が見つかったの。ムーラは私の本当のママみたい。ムーラが居てくれたから私、どうにかこうにかやってこられたと思うの」
率直な少女の言葉がムーラを感激させた。だが古参の乳母は殊更、淡々と言葉を返した。
「まぁまぁ。キャロル様は王子がおられて、辛抱強く導いて下さったから今日のこの日をお迎えになられたのです。お忘れになってはいけませぬよ。今日よりは王子があなた様の一の人です。どうかお幸せに・・・」
その時、扉が開いて王子が花嫁を迎えに来た。
キャロルは大切に王子に抱きかかえられて新床に消えていったのである・・。

33
「エジプトでは兄妹でも婚儀を挙げられると聞いた。そなたが私を兄とも慕ってくれていたのは・・・ひょっとしてそういう含みもあったのであろうか?」
自分が女にしたばかりの華奢な身体を弄ぶように触りながら王子は馴れ馴れしく問うた。
「ち、違うわよ! 私はあのときはただ王子が優しくて、安心できる相手に思えて・・・それで・・・・。に、兄さんとはこんなことしないっ!」
王子はくすりと笑った。全く先ほどまで王子の体の下で初めての快楽と痛みに涙していた乙女とは思えない子供っぽさ。
「そうかそうか。それを聞いて安堵いたしたぞ。よいか、姫。これより先、そなたがこのようなことをしてよい相手は私だけぞ。私だけがそなたを愛し、様々なことをこの身体に・・・・教えてやれるのだ」
キャロルは答えるかわりに、王子の肌に口づけた。

王子とキャロルは生涯睦まじく、多くの子を為し、国を繁栄に導き、中興の祖を称せられたという。
キャロルは全てを失ってただ一人、古代世界に引き込まれたが・・・だが失ったもの全てを補ってあまりあるものを手に入れたのである。

終わり

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