『 兄妹 』 単行本4巻あたり、もしキャロルがヒッタイトにさらわれたままなら・・・? 1 「いらないわ、薬なんて!もう放って置いてったら!一人にしておいて!」 かすれた声でそう叫ぶとキャロルは激しく咳き込んで枕に突っ伏してしまった。 「ナイルの娘、お静まりあそばして。そのようにお泣きになってはまたお熱があがります。どうかどうかお薬を・・・」 おろおろとムーラが波打つ小さな背中をさすった。小さな背中は驚くほど熱かった。 海岸の宮殿からこのハットウシャの王城に連れ去られてもうどれくらいの時間がたったのか。王子の短剣に受けた傷がまだ完全には治っていないキャロルは慣れない環境故かひどい風邪をひいてしまった。 「医師はこのお薬をお召し上がりになってよくお休み下さいと申しておりました。お喉の痛みも胸の苦しさも取れましょう。さぁ・・・」 ムーラは嫌がるキャロルを無理に引き起こそうとした。 「嫌、嫌、嫌。薬はいらないわ」 「そのようなこと・・・。早くお身体をお治しになりませんと・・・」 「治したからどうなるのっ?エジプトに帰れるの?心配そうな顔なんてしないで。私は治りたくないんだからっ!」 キャロルはそう言うとムーラを思い切り突き飛ばした。ムーラはよろけ、高価な薬湯の入った杯は砕け、中身は床に飛び散った。 (いい気味だわ!) 苦しい息の下で思わずそう思ったキャロルにイズミル王子の怒声が飛んだ。 「ナイルの娘っ!我が儘勝手にもほどがある!」 2 反射的に身をすくめて部屋の入り口を見るキャロル。 王子はつかつかと寝台に近づいてきて、ごく軽くキャロルの頬を打った。 「そなたを心配し気遣う者に理不尽な言葉を浴びせ、困らせるとは何事か。そなたのような身分立場にある者がしてよいことではない。 ムーラに詫びよ。そしてきちんと薬湯を飲むのだ」 キャロルは呆然とイズミル王子を見上げた。打たれた頬が脈打つように熱い。 王子に叱責されるまでもなく、キャロルにだって悪いのは自分だということくらい充分に分かっていた。ムーラは本当に心から心配そうであり、困惑しきっていた。 でも素直になれるはずもない。自分は王子の政略の手駒、慰みもののおもちゃのような存在なのだから。 「嫌です!政略のための人質を死なさないように薬を飲ませるくせに!好き勝手に扱って、あげくに私を撲って謝れだなんて。あ、謝るのはあなたじゃないのっ!私をこんな目に・・・」 最後まで言えずキャロルはまた激しく咳き込んだ。もし最後まで憎まれ口をたたききったら更に激しい王子の叱責が待っていたに違いない。 王子は心配そうにキャロルの背中をさすり、目顔でムーラに新しい薬湯を命じた。 「さ・・・触らないでっ!」 キャロルはようやく咳を呑み込み、激しく王子を睨み据えた。 「放っておいて。私はこのまま死ぬんだから!」 「なにぃ・・・!」 キャロルの我が儘に毅然たる態度を崩さなかった王子だが、鋭い視線と共に投げつけられた激しい言葉に狼狽えの色を隠せなかった。 3 「死んでしまいたい・・・死んだらエジプトに、ママ達の所に帰れるんだから。このまま死なせて。治りたくない。治ってもまた苦しい嫌な毎日が始まるだけじゃないの」 「ナイルの娘、何ということを。そなたは私の大切な娘だ。私が心から望み、妃に迎えたいと思っている娘だ。 死ぬなどと申すでない。ああ、熱が高い。だからそのようなことを・・」 「私は正気よ。お願い、死なせて。殺して。もう苦しいのは嫌。私を短剣で刺したじゃないの。どうして生きろなんて言うの・・・?」 キャロルは熱のために少し喋るのもひどく辛そうだった。王子は愛しい娘をここまで追いつめた自分にひどく嫌悪感を覚えた。 その時、ムーラが薬湯の小鉢を持ってきた。王子は無言で受け取ると苦い中身を口に含んだ。 そしてそのまま、熱で赤く染まったキャロルの顔を上向かせ口移しに薬湯を飲ませた。 「う・・・っ!」 突然のことにキャロルは抗うことも出来ない。そのまま王子の舌で薬湯はキャロルの喉を滑り降りてしまった。 「王・・・・子・・・」 はぁはぁと荒く息をするキャロルを王子はしっかり抱きしめた。大きな手は優しく波立つ背中をさすって少しでも楽に息ができるようにしてやる。 キャロルはすっかり混乱して、身を固くした。 (王子が・・・怒っている。こんなに静かな目をしているときほど怖いのよ、この人は。ああ・・・どうしよう・・・) ついさっきまで死にたい、殺して欲しいと言っていたキャロルは息を潜めて王子の様子を窺うのだった。 4 怯えた目をして自分を見上げるキャロルに王子は落胆した。こんなつもりではなかったのに。 だがすぐにキャロルの瞳から、本気で死を望む人間にしか見られぬ激しい色が消え失せたのに気付き、うすく微笑した。 「薬湯を飲み、早く身体を治せ。よいな」 王子はわざと素っ気なく言うと、キャロルを優しく寝台に横たえ出ていった。 薬はキャロルを眠りの中に連れていった。熱に浮かされた頭の中を様々なものが駆けめぐり、キャロルは泣きながら悪夢から逃れようと徒労を重ねる。 「ママ・・・ママ・・・。兄さん、怖い。帰りたい。ここは嫌・・・」 熱い額に髪の毛を張り付かせ、しゃくり上げながら呟くキャロルをムーラは痛ましげに見守った。 (ママ・・・とは母君のことでありましょう。まだまだ幼い世慣れぬ方らしいし・・・。戦にお怪我、そしてご病気。おかわいそうに・・・) 自分の大切な育て子が、何やら宝物でも扱うように連れ帰った少女。聞けばエジプトの神の娘で、未来を読む賢い娘だと言う。肩には深い傷を負って。 ―貴重な娘だ。大切に扱うように。私が傷をつけたゆえ、しばらくは私は顔を見せぬ方が良いだろう。落ち着いたら報せて欲しい。 そう言って王子は戦後処理に忙殺される協議の間に向かった。ムーラはいつにない育て子の様子を訝りながら少女を看護した。 (王子は本気でこの方を大切に思っておられる。なのにこの方は) ムーラは考え込んだ。キャロルの肩の傷が落ち着くまで本当に王子は病室に顔を出さなかった。そのかわり毎日、こまごまとした見舞いの品が届けられる。 そしてようやく医師がキャロルに起きあがることを許可した日に王子は訪れ、窶れて怯えた少女に詫びた。 一時の激情に溺れ、大切なそなたを傷つけた私を許せ、と。 政治的な野心から少女に興味を持ち、さらい、結果として戦まで起こった。 少女は心閉ざし、自分を弄び、傷まで負わせた男を嫌い抜いているのに、男の方はいつの間にか少女に恋心を抱くようになったというわけだ。 5 (とはいえ、この方が王子を恐れられるのも当然のこと。それがお分かりにならぬ王子でもあるまいに、こたびは周囲のことなどまるでお分かりにならぬかのように一途にこの金髪の方を求められる) ムーラはそっとキャロルのほつれ毛を掻き上げてやった。 王子のことを大切に思うが故に、彼が連れてきたキャロルの世話をするようになったムーラだったが、いつしかこの娘に深く同情するようになっていった。 (15歳か16歳・・・。もし私のあの子が生きていたらこのようにもなっていただろうか。あの子も小さくて色白だった・・・) ムーラはふと、乳母として出仕する直前に亡くした娘を思いだした。生まれてすぐ死ぬためだけに生まれてきたような娘だった。 子が息をしていたほんのほんの短い間、ムーラは娘が愛らしく美しく生い育つ様子を夢想したものだった。 「ああ・・・ああ・・・」 ムーラは、はっとして王子お気に入りの佳人の顔を見やった。 キャロルは眠ったまま、苦しそうに悲しそうに泣いていた。痛々しいその様子にムーラは改めて胸を突かれた。 「しっかりなさいませ、ナイルの娘。夢をご覧になっているのです。お心をしっかりお持ちなさいませ」 ムーラがそっと肩を叩くようにするとキャロルは目を開けた。心細そうに涙に濡れたその顔をムーラは優しく拭いてやった。 「怖い夢でもご覧になりましたか?・・・少しお熱が下がられてお苦しみも和らいだよう。お薬のせいでございますね。良かった。何かお飲みになりますか?」 いきなりキャロルは身を起こしムーラに抱きついた。 「ど・・・どうなさいました?」 「ごめんなさい。さっきはごめんなさい。ひどいこと言ってごめんなさい。 王子に腹を立てていたの。あなたにじゃないの。ごめんなさい。 お願い、そんなに優しくしないで。ひどい恩知らずだって怒って・・・」 6 ひゅうひゅう鳴る喉の奥からようやく絞り出した声でキャロルは嘆願した。 「ごめんなさい・・・。あんなことするつもりじゃなかったのよ。ただ悲しくて腹が立って・・・」 突然、自分の胸の中に飛び込んできた暖かな塊にムーラは不思議な感動を覚えた。最後に王子が抱きついてきてくれたのはいつだっただろう? 「も、もうよろしいのですよ。ほら、そのようにお泣きになってはまた喉が苦しくなりますよ。 あなた様はお疲れなのです。今はお身体をお治し遊ばせ。全てはそれからでございます」 胸が熱くなるような懐かしい喜びと、職務に忠実であろうとする心の板挟みになりながらムーラはぎこちない口調で言った。 「さ、このムーラがおつきいたしております。・・・・そのようなお顔をなさいますな。王子は参られませぬ」 心底ほっとした顔つきでまた目を瞑ったキャロルに少し呆れながらムーラは育つことなく逝った娘が舞い降りてきたような心地がした。 ムーラはうっすらと涙ぐみながらキャロルの寝顔を見守っていた。 「あなた様のお気持ちはよく分かります。でもあなた様を思う王子のお気持ちもよく分かるのです。 ・・・・あなた様が、王子の望まれるままにお側に上がられればよろしいのに。せめて王子があなた様を刺しさえしなかったらねえ」 「ほう、ナイルの娘はそなたに詫びたのか。そうか。いくら病で苦しみ自棄になっていたとはいえ、あのような暴言は上に立つ者に許されぬことゆえな」 ムーラの報告に王子は頬をゆるめた。 「娘がそなたに懐いたのであれば、それはそれで良いことだ。少しずつこの国に慣れていけば良い」 7 キャロルは少しずつ回復していった。頑なな彼女の心をほぐしたのはムーラの心遣いだった。 遠い昔、娘を亡くし、そのままヒッタイトの世継ぎの王子の忠実な乳母として生きてきたムーラは頼る人とていない異国で萎縮し、途方に暮れている少女に亡き娘の幻を見たのであろうか。 寝苦しい病の床でうなされ泣きむせんだ少女の細い身体を抱きしめたときからムーラの中で何かが変わった。封印して忘れてしまおうと思っていた「娘を持つ平凡で穏和な母」の部分が目覚めたのだ。 身分高い貴種の娘、異国で屈辱的な立場にある娘、それが召使いに過ぎないムーラに対し自分の非を認め謝罪したのだ。 「さ、召し上がられませ。口当たりが良いものですよ」 ムーラはそう言って寝台の上に起きあがったキャロルに盆を見せた。鳥肉のスープの煮こごりや果物、ヨーグルトといったものが並んでいる。 「ありがとう、ムーラ・・・」 キャロルは知らされていないがこういった手間のかかった病人食は全て王子の直接の指示によるものだった。 「でもこんなにしてもらっては・・・」 ようやく起きあがることを許されたキャロルは心底戸惑ったように言った。 「治ったって・・・その後は?私、どうなるの?」 「キャロル様」 ムーラは金髪の少女を名前で呼んだ。病の床の徒然に二人は身の上などをどちらからともなく話しだし、不思議な絆で結ばれるようになっていった。 キャロルが自分の名前をムーラに教え、その名で呼んで欲しいと頼んだのは無意識にムーラの中に母の優しさをかぎ取ったせいだった。 「自棄はいけないと言っているではありませんか。とにかく身体をお治しなさいませ。身体が弱っていると心まで弱くなって故ない幻に翻弄され、物狂おしく悩むものですよ」 「・・・・・」 「考えてもご覧遊ばせ。ただの捕虜、人質にここまでの治療を受けさせたりするものですか。利用価値がある限りは生かしておくからとおっしゃいますか? 恐れながら政治的な事柄については‘かけがえのないこと’などまずありませぬ。必ず代替案があるのです。あなた様とてそうでございます」 8 ムーラの言葉にびくっと震えたキャロル。 「お心の波が静まり、落ち着いて物事を考えられるようになられるまでに早く回復なされませ。 あなた様は政治の駒としてここにあられるのではありません。あなた様は私が大切にお守りし、お仕えすべき方」 「・・・・分からないわ。分かるように言ってちょうだい、ムーラ。 私は家族の所に帰りたいの。ねえ、帰りたいのよ。幾度も言ったでしょう?」 ムーラは優しくキャロルの頬を撫でた。昔、柔らかな頬の少年だったイズミルにしたように。 「キャロル様。あなた様のお幸せはここにもあるかもしれませぬ。あなた様はいつか大人におなりになる。いつまでも母上の膝下にまつわるお子であってはなりませぬ」 キャロルはムーラに寄せていた心が急速に離れ、冷えていくような心地だった。 風邪も治り、落ち着きかけていたキャロルだったが今度は肩に受けた傷が嫌な熱を持ち、膿みはじめた。 「お身体が弱っておいでなのでしょう。お薬を差し上げまするが・・・」 医師は難しい顔で言った。生きる気力のない患者を治療するのは難しい。 それまでキャロルの病室を避けていた王子がやって来たのは医師が下がっていった直後だった。 「ムーラ、ナイルの娘の様子は?」 「は、はい。それが・・・あの、何やら治られることを恐れて・・・拒んでおいでのような・・・」 王子は苦い顔でムーラを下がらせた。 「王子・・・。あの・・・キャロル様をどうか気遣って差し上げて下さいませ。あの方はまだ小さな子供なのです。母親を恋しがる子供の心をどうか・・・」 王子は内心、金髪の娘を自分も知らなかった「キャロル」の名前で呼び、心底心配そうなムーラに驚きつつ、頷いた。 9 不愉快に熱っぽい額にひんやりした手が当てられるのを感じてキャロルは目を開けた。 はしばみ色の静かな瞳が憂わしげに自分を見下ろしていた。 嫌、来ないで、大嫌い。 そんな言葉を叫びたかったが薬のせいなのか熱のせいなのか声は出ない。キャロルは熱に潤んだ瞳で静かに王子を見返した。 「起こしてしまったか・・・。すまぬ」 王子は静かに言って冷たい水の入った杯をキャロルの唇にあてがってやった。 「私の・・・刺した傷がひどくなったと聞いたのだ」 キャロルは無言だった。 憎たらしい相手の顔を見たら、ああも言ってやろう、こうも罵ってやろうと思っていたのに、目の前の男の後悔と自己嫌悪に倦み疲れた顔を見ると同情心すら萌してくる。 (一体、王子はどうしたというの?何を企んでいるの?あの・・・エジプトで初めて会ったときのように優しいふりをして騙すの?) ともすれば焦点が揺らぎそうになる青い瞳。その瞳に映るのは初めて王子に会った日の幻。 エジプトの市場の喧噪の中で初めて出会った青年イミル。彼は無遠慮に旅のことを聞きたがるキャロルを面白そうに見ていた。 王宮の庭に忍び込んできて、請われるままに旅の話をしてくれたイミル。 誰も本気にしてくれなかったキャロルの話を黙って聞いてくれたイミル。 家族を恋しがって泣き出してしまったキャロルの頭をそっと撫でてくれた大きな優しい手。 ヒッタイト王子イズミルの正体を明かし、キャロルをさらった時、キャロルは恐ろしいと思いながらも心のどこかで彼をメンフィスから救い出してくれた人間と見ていなかっただろうか? そんなキャロルを嘲笑うかのように彼女を痛めつけ、恐ろしがらせたイズミル。だが折々に見せる優しさ。 キャロルを混乱させる青年の二面性。恐ろしい、優しい、分からない・・・。 「私がそなたを傷つけ苦しめたのだな。許せよ・・・」 「え・・・」 「許せぬだろうな。そなたの目。疑わしげで厭わしげで・・・。 だが許しを請わせて欲しいのだ。そして生きよ。激しい炎のような娘よ。 私はそなたを・・・」 キャロルは夢でも見ているのだろうかと訝りつつ、眠りの中に落ちていった。 10 (夢じゃなかった・・・) キャロルの枕元には芳香を放つ高価な薬草が置かれていた。 常夜灯の中で見た静かな瞳、隠しようもない悔いを滲ませた低い声、贖罪の言葉。自分の額に当てられた大きな手。 その大きな手は、自分に短剣を投げつけた手と同じ・・・。 「まぁ、王子がこのようなことまでなさるとは!」 キャロルの様子を見に来たムーラは薬草を見て、驚きの声をあげた。 「ああ、ごめんあそばせね、キャロル様。これは王宮の薬草園で大切に育てられている薬草なのですよ。王家の方々だけがお使いになれる薬草。それはよく効くのです。・・・・王子が夜更けにあなたの所に参られたのは知っていますか?」 「ええ・・・。夢かと思ったわ。良い匂いがして眠ってしまったけれど、これの匂いだったのね・・・」 ムーラは優しく微笑むと、てきぱきと薬草を煎じる支度を始めた。彼女の自慢の育て子の気遣いが嬉しく誇らしかったのだ。 「ねえ、ムーラ。その薬湯、私が飲むの?」 唐突にキャロルが尋ねた。その声にはいつだったか薬を飲むのを嫌がった折りに見せた癇性さが滲んでいる。 「どうして王子はこんなことをしたのかしら? 私に怪我をさせたのは王子よ。偶然の事故なんかじゃない、狙い定めて短剣を投げつけたわ。わざとよ! それなのに今度はお見舞いに薬草? 一体どういうことなの? 分からないわ。分からないのにそんなもの貰いたくない!欲しくないわ。気味の悪い!」 ここまで言ってキャロルは、はっと口を噤んだ。ムーラが悲しそうな顔をしていたのだ。王子は大嫌いだった。だがムーラはキャロルにとって母のような存在。 「ご・・・ごめんなさい。言い過ぎたわ。あなたに怒ったって仕方ないわね」 |