あなたのために



「じゃ、後たのむね鮫島君」
「はい」
先輩が俺に声をかけて休憩室のほうへと入っていく。
夕方の本屋は立ち読みの人が数人いるだけで、なんとも暇な時間だ。
俺はレジに入る前にそっと、今日発売の雑誌の棚から一冊雑誌を抜き取った。
それは、とある音楽雑誌。
そしてこれは、俺とあの人をつなぐ一冊。


−あなたのために−


バンド活動でも何でも、生きていくにはお金がいるもんだ。
アパート近くの本屋でアルバイトを始めたのはもう3ヶ月も前のことだろうか。
バイトをしつつの一人暮らしは大変なことだらけだったけれども、やっとそんな生活にも慣れて
きたように思える。
そして、ある日いつものようにバイトでレジをしていた時その人はやってきた。
俺が気づいたというのが正しいのかもしれない、その人は毎週決まった時間に本を買いに来てい
た。
決まった時間に本を買いに来る人なんてめずらしくもなんともなかったけど、その人が買ってい
く本が俺も読んでる音楽雑誌だったからちょっと興味を引かれた。
眼鏡と帽子が印象的なその人は毎週毎週決まった時間に雑誌を買っていった。
この人も音楽をやるんだろうか、と俺は思った。
それからなんとなく、あの人が来るのが楽しみになった。
俺、こんな性格だからバンド仲間以外の友達いなかったからかな、なんとなく同じ趣味を持って
る人を発見して嬉しかったんだと思う。
毎週毎週、あの人はやってきた。
時には食材の入った買い物袋を手に提げている時もあって、この人も一人暮らしなんだろうかと
思った。
そう思うとまた共通点が増えた気がして少し嬉しくなった。




ある日、あの人がいつも来る時間に来なかったことがあった。
俺はどうしたんだろうと思った。
風邪でも引いたのだろうかと、名前も知らないあの人のことがやけに心配になった。
バイトが終わる時間になってもあの人は来なかった。
俺は少し寂しくなりながらも、自分用の雑誌を買おうと雑誌の棚に向かった。
棚にはもう一冊しか残ってなくて、俺はその最後の一冊を手に取った。
表紙を見るとあの人の顔が浮かぶ。
……あの人だってたまには他の本屋で買うことぐらいあるさ。
何でこんなに寂しいのかわからない。
ただの、本屋の客なはずだ。
俺が勝手に思ってるだけの仲間、ただそれだけだ。
そうやって自分に言い聞かせてレジに向かおうとしたその時、入口のほうから自動ドアが開く音
とあわただしい足音が聞こえた。
そして棚のほうに駆け寄ってきたのは、あの人だった。
あの人は雑誌の棚を見回すと、しょんぼりとした様子で肩を落とした。
それもそのはず、あの人がお目当てにしてるはずの雑誌の最後の一冊は俺の手の中にあるからだ。
あの人は一つため息をつくと、棚から離れようとした。
俺は……気づかないうちにあの人を呼び止めていた。


「……あの」
「はい?」
いつもはカウンター越しだったから、こんなに近くでこの人の顔を見るのは始めてだな、と思った。
俺は、手に持っていた雑誌を差し出していた。
「これですよね、どうぞ」
「え?な、何で知って……」
あの人が顔を上げて俺のことをじっと見た。
そ、そんなにじっと見られると恥ずかしいんだけどな……。
「……あ、もしかしていつもレジにいる……」
「ええ、いつもこの雑誌、買って行きますよね」
あの人が俺のことを覚えていてくれたと思うと、なんとなく嬉しかった。
「俺は別の所ででも買いますから、どうぞ」
俺はもう一度、あの人に向かって雑誌を差し出した。
「で、でも……いいんですか?」
「ええ、お得意さんですし」
その人は戸惑いながらも俺の手から雑誌を受け取ってくれた。
「それじゃ」
俺は、そう言ってあの人に軽く手を振って店を出ようとした。
「あ、待って!」
あの人が俺を呼び止めた。
何だろう、と俺が振り返ると。
「……ありがとう」
極上の笑みっていうのはきっとこういう顔のことを言うんだろう。
あの人は笑顔で俺にお礼を言って、ぺこりと頭を下げた。
「あ、いえ、どういたしまして……」
ああ、この赤面症が憎らしい。
俺は顔が赤くなるのを感じながら、あの人に軽くお辞儀を返して店を出た。
俺の心は楽しみだった雑誌が買えなかったのに、やけに晴れやかだった。



あの人はあれからも毎週、店にきて雑誌を買っていく。
ちょっとだけ変わったのは、あの人が「こんにちは」と挨拶をしてくれるようになったこと。
俺も「どうも」と返して手渡される雑誌をレジに通す。
あれから、俺はそっとバイト始めにあの雑誌を一冊とっておくことにした。
あの人が雑誌を買えたなら、俺が買って行けばいいわけだし。
……あの人は今日も来るだろうか。
今日は、いつものあの雑誌の発売日。
俺は壁にかかっている時計に軽く目をやる。
そろそろかな、と思ったその時自動ドアの開く音がした。
「いらっしゃいませー」
あの人が俺の方を見て軽くお辞儀をする。
そのまま、音楽雑誌の棚の方へと消えていった。


俺は少しだけあの雑誌が売り切れることを願っているんだと思う。
そうしたら、このとっておいた雑誌が差し出せる時がくるから。
名前も知らない、あなたのために。



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