「もう恋人ではいられません」
夢お嬢様と向かい合って、まずはそう告げた。
曖昧な態度を取り続けてきた事を詫び、自分は揚羽を愛してしまったと続ける。
さすがに関係を持った事だけは極力遠まわしな言い方をしたが。
「うん…何となくそうなんじゃないかなって思ってたよ。夢って意外と勘が鋭いんだからね」
「許して貰おうなんて思ってません。何発ぶっても結構です」
「そんな事しないよー。責めたり、専属から外したりもしないから。
だって、きっぱりフラれる方がレン君が名前と名字を分け合う二人に分裂して
その片割れがあてがわれたりするより断然いいもん。
色々経験しようとして始めた恋だし、失恋するのもいい経験。
ドロドロの愛想劇で鉈を振るうような狂気キャラが定着するのも嫌だしね、えへへ」
そういって笑う。
ぎこちなく、とても悲しそうに。
やがて、ゆっくりと歩み寄ってきてしがみついてくる。
「夢はね、キューピッドじゃないんだよ…」
顔は胸に押しつけられて表情は見えない。
だが、小刻みに震える夢お嬢様は明らかに泣いている。
「レン君を好きになったのは…揚羽ちゃんと引き合わせる為なんかじゃないのに……」
「……」
「でも……もうどうしようもないなら…せめて…今だけ…このままでいさせてくれる? レン君……」
それでも。残酷極まりないけど。
「…………すいません…お嬢様…」
夢お嬢様の肩に手をかけ、そっと引き剥がす。
「それさえ、もうできません」
心が痛い。
この痛みを失くす方法は簡単だ。
改めて抱き寄せて、抱きしめればいい。
しかし、それは無理だ。
傲慢だなんてわかってるが、他人を気遣って本当の気持ちに嘘をつけるほど俺は人間ができていない。
だから、決して慰めない。お嬢様を傷つけた事実から逃げない為にも。
「そうだよね…ごめんね……短かったけど、今まで幸せをありがとう…レン君……」
この瞬間、俺と夢お嬢様の恋人ごっこは終わった。


校門の前で待つこと数十分。
既に下校時間になり、何人もの生徒がゾロゾロと校舎から出てきている。
学校まで来ている理由は二つ、当然ながら最優先目的は夢お嬢様のお迎えだ。
入院したらしいハンサム野郎の傷がそろそろ治ってもおかしくないので、リベンジに備える護衛として。
まぁ、あれだけ派手にやられたんじゃ可能性は極めて低いが、それでも用心するに越した事はないだろう。
本当はナトセさんにやって貰おうと思ったけど、手の離せない用事で無理だった。
昨晩の別れもあって正直気が引ける。しかし、プライベートで何があろうと仕事は仕事と割り切るしかない。
それに、小十郎にも用があった。
揚羽から既に伝えられてるとしても、ケジメとして俺の口から直接揚羽との事を告げなきゃならない。
しかし、学校に到着しても、いつも必ずといっていいほど待機している小十郎はいなかった。
「よ、上杉の。夢なら、もうすぐ来るぞ」
帰宅する生徒に混ざって出てきた稲村が声をかけてくる。
「なあ、小十郎知らねぇ? もう揚羽と帰っちまったのか?
 結構前から待ってたんだが、こっちの門からは出てこなかったぞ?」
「いや。その、なんつーか…ペケデコの奴、休学したらしいぜ」
「――――何だと!? どういう事だ!? 揚羽が!? 理由はなんだ!?」
「おい、落ち着けって! 俺だって詳しい事ぁわかんねーんだよ」
顔をしかめる稲村の声で、思わず肩を掴んでいた手を離す。
「……悪りぃ」
聞くところによると、どうやら担任の教師がそう言っていたらしい。
休学について様々な理由が頭を駆け巡るが、どれもこれも納得できなかった。
「第一、昨日の今日だぞ……」
「上杉。お前…?」
「レン君!」
振り向くと、そこにいたのは夢お嬢様。
「行ってあげて」
無言で頷き、全速力で駆け出した。

「いいのか? 夢よぉ。お前らに何があったのか、俺だって大体わかっちまったぜ。あいつ、呼び捨てにしてたし」
「フラれた男の子の恋を後押し……健気キャラだよ、えへへ」
それが本心で無いとわかっているからか、圭子は夢の背中をばしっと叩いた。
「よーし、今日は俺のおごりで飲むぞ。酒以外をな。とことん付き合ってやる。ミィも呼ぼうぜ」


九鬼邸に到着するなり、真っ先にインターホンを押した。
『はい』
「すいません、九鬼揚羽さんにお会いしたいんですが」
『揚羽様は誰ともお会いになられません』
「じゃ、じゃあ、小十郎を…」
『同様です。お帰り下さい』
それっきり、返事が返ってくる事は無かった。
「これって門前払いじゃねぇか。どういう事だ…?」
仕事もあるし、結局この日は帰るしかなかった。
そして、俺から報告を受けたお嬢様が電話しても対応は殆ど同じだった(態度はかなり軟化してたらしい)。
何かがおかしい……尚更諦めらんねぇ。

翌日。
「くそっ、離せ! 揚羽か小十郎と話させて欲しいだけなんだ!!」
休憩時間に再び九鬼邸に行くと、待ち構えていた守衛達が有無を言わさず俺を羽交い絞めにしてきた。
ズルズルと引きずって屋敷から遠ざけようとしてくる。
「じゃあ、アンタ達でいい! 揚羽に何があったかだけ教えてくれ!!」
「貴様のせい、とだけ言っておこう」
俺を取り押さえている男の一人が、忌々しげに睨みつけながら呟いた。
「どういう事だ、おい!?」
「話は以上。去ね」
それっきり無言を貫く連中に対して、俺は暴れるように抵抗するしかない。
「おやめ」
いきなり俺も守衛達も、誰もが声の方向を向く。
その先には、杖をついている婆さんがいた。
「ご隠居様!」
途端に、全員俺から手を放して地面に跪く。
『ご隠居』というフレーズとイメージから察するに、つまりこの人は揚羽のばあちゃんか?
そう考えると、確かにどことなく似てるような気がする。
「上杉さん…ですね?」
「え…はい」
「少し、お話しましょうか」


渋い顔をする守衛達を置き去りにして、近場の公園までおばあさんと赴く。
俺と二人きりにするのをよしとしない忠誠心厚い奴は最後までついてくると言い張ったが、
結局おばあさんには逆らわなかった。
5分ほど歩いた所にある昼下がりの公園は学校帰りの小学生が遊んでいたが、
話を遮るほど邪魔にはならない。
「ここでいいですか?」
「ええ、結構です」
揃ってベンチに腰掛けるなり、急かすようだが本題を切り出した。
「揚羽のおばあさん…ですよね?」
「はい」
揚羽のおばあさん、しかもさっきの連中の態度からかなりの権力者とみて間違いない。
それなら今、揚羽がどうしているのか知らない筈はないだろう。
「初対面なのに、いきなりすいません。揚羽に何があったか、話してくれませんか?
 あ、その前にちゃんと自己紹介しますが…俺は上杉錬と言います」
「ええ、お名前は揚羽から度々伺っておりました。
 あなたが選んだというお花も、大変良い色をしておりましたよ」
「アレですか…お気に召して頂けたなら何よりです。でも、それならご存じでしょう?
 揚羽……さんとは交際してます。つきあい始めたその日を境に会えてませんけど」
最後の部分にもどかしい現状に対する皮肉を込めると、俺は出来る限りの状況説明を始めた。
「昨日、知り合いから突然休学したって聞いたんです。後日また会うと約束はしましたが、
 そんな事は本人からは全く聞いてませんでした。いてもたってもいられなくて会いに来たら、
 見事に門前払い喰らいましたよ。今日も似たようなもんです。それに、さっき言われました。
 『俺のせい』だって。どんな意味かはさっぱり……だからこそ知りたいんです。
 教えて下さい、あいつに何があったのか。一応、あのお屋敷にはいるんでしょう?」
俺の問いに、おばあさんは辛そうに下を向く。
「…たしかに、揚羽は屋敷におります。ですが……もう、あなたには…会えないでしょう…」
「どういう事です!?」
それから、しばらくおばあさんは無言だった。
やがて、瞳を伏せたまま言葉を絞り出す。
心が締めつけられてるような重苦しい呟きを。
聞いた俺の心も愕然とさせる真実を。
「あの子は今……座敷牢におります…」


帰宅早々、祖母の部屋にいた揚羽は大広間に呼び出されるなり異様な雰囲気を感じた。
特別な行事でもないのに親族一同を始めとした九鬼グループの重鎮一同がほぼ勢揃いしていたのだから。
加えて、俯いたまま震える小十郎と狼狽する祖母の姿はただ事でないと推測するに充分すぎる判断材料だ。
「して、何用だ?」
「文字通り、身に覚えが無いとは言わせんぞ!!」
怒号と共に手前に放り投げられたのは、一目で隠し撮りとわかる写真の山々。
あの映画館や花畑を背景に、全て自分と練が映っている。
別荘における赤裸々な写真が無かったのは、せめてもの心遣いか。
「なるほど、悪趣味であるな…しかし、いつぞや映画館で感じた気の一つは合点がいった」
冷静なようだが、内心は神聖な思い出を汚された気分で烈火の如く煮えたぎっていただろう。
「お館様と奥方様の留守中に、しでかしてくれたのう。やってくれたのう」
「格式のある家の者ならいざ知らず、平民…それも、口が裂けても上等とは言えん家柄ではな」
「小十郎! 貴様がついていながら何をしておったのだ!!」
「この役立たずめ!」
「申し訳……ございません…」
ひたすら畳に頭を擦り続け、力無く声を絞り出す小十郎。
「面を上げろ、小十郎。お前がそのような事をする必要は無い。
 そもそも、我は咎められるような真似などしておらぬ」
「どこぞの馬の骨と情を通じたのだぞ!」
「馬の骨ではない。当然ながら調べておろう? その者の名は上杉錬だ」
毅然とした態度に、誰かが心苦しそうに口を開く。
「たしかに、落ち度はその者と最初に逢瀬した時点で警告しなかった我らにある。
 だが、今回の事が世に知れ渡れば九鬼の失墜を目論む者共に恰好の餌を与えるだろう」
「特に霧夜。あの成金共はどれほど卑劣な手を用いてくるか」
「まだ間に合う、上杉とか申す輩とは一切の縁を切れ」
「断る!!」
迷いの無い、高らかな返答。
「……ならば、我らも相応の対応を取らせて頂くより他はない」
「お主の事だ。男の方に手を回そうとすれば、九鬼を捨ててでも我らに牙を剥くのは必至」
「然るに決議を行った。結果、上杉とやらは捨て置くとして、お前自身に心変わりを誘発する」
一斉に沈黙し、やがて誰かが重々しく告げた。
「ご息女を座敷牢へ案内しろ」


呆然とする小十郎を余所に、揚羽は冷然と宣告を聞いていた。
「考えを改めるまで存分に頭を冷やすがいい」
「案ずるな、学校の方の手続きはこちらで済ませておく」
「……許せとは言わん、全ては九鬼グループの為だからな。それでも、すまん」
「凡下と契ったお主の不徳の致す所だ。反省せい」
一同各々の反応にも沈黙を貫く揚羽。
堪りかねた祖母が言葉を発しようとした瞬間にも、先手を打たれる。
「ご隠居様といえども口出しは控えて頂きます」
「これはご息女のみならず、ひいては九鬼全体に関わる問題ゆえ」
その際、祖母に向けられた一同の視線は誰一人として話を聞き入れない事を証明していた。
いくらそれなりの発言力を保持しているとはいえ、こうなるとどうにもできない。
「祖母様」
意にそぐわぬ命令に苦渋の表情を浮かべる数人の女中に囲まれながら、去り際に祖母を振り向き。
「あの地の花、お部屋に活けておきました。我や祖母様、そしてレンの好きな色の花々を。どうぞ御覧あれ」
微笑んだまま、彼女の姿は大広間から消えた。

「そんな事に…」
前に軽い気持ちで『今の時代は身分とか関係ないだろ』と小十郎に言った事がある。
本当のお偉いさんの事情は知らなかったからあんな事が言えたんだろう。
ここまで深い問題に発展するなんて考えもしてなかった。
俺自身が渦中に入って、ようやく実感するなんて…。
「おとなしく捕まってるのは、らしくないようで揚羽らしいと思いますけど……だけど!」
贔屓目なしに脱獄なんてチョロいだろうに、それをしないのはきっとおばあさんを気遣ってるからに違いない。
もしあいつが抜け出したりすれば、真っ先に矛先は残されたおばあさんに向くだろうから。
俺の考えを見抜いたみたいに、おばあさんが応える。
「不甲斐ない私などどうなろうと良いのに…あの子は優しい子なんです」
「生意気でしょうが、あなたと同じくらいわかってるつもりです。
 それで、揚羽は屋敷のどこに………いや、やっぱ聞かないでおきます」
眉をひそめるおばあさんに、うっすらと笑う。
「おばあさんに迷惑かけられませんから。揚羽の配慮に水を差したくないんで」
そう、火の粉が降りかかるのは俺だけでいい。
それは決意を燃やす熱い炎になるから――――。


「揚羽様、今お助けします!」
木製の格子の向こうにいる主を救うべく、小十郎は手を牢の出入り口へ伸ばす。
何やら表で騒動があったらしく、注意がそっちに引きつけられたからこそ潜入が可能だった。
「よい、小十郎。これしきの牢獄、出るのは容易いが…そうすれば、祖母様にご迷惑をかける」
「しかし! お館様がお戻りになられるまで身を隠せば…」
「我は逃げも隠れもできんタチだ。それに、父上が戻ってきた所でさして状況は好転しないだろう」
基本的に九鬼グループの人間は忠義に厚く、クーデターなど企てるような者たちではない。
それでも、今回の件に関しては一致団結して当主の鶴の一声すら押さえ込む気だ。
九鬼そのものを揺るがす事態に発展しかねないだけに当然の反応だとも言える。
「揚羽様…っ」
「お前は戻れ。そして、もう来るな。不問に付した意味がなかろう」
「揚羽様!」
「ゆけ! 我の命ぞ!!」
大粒の涙を流しながら走り去っていく小十郎の後ろ姿を見つめた後、フッと笑う。
「考えを改めねば出れぬ…か。ならば、一生出れんな」
幽閉された事は一切悔やんでいない。
もっと過酷な修行を積んできたのだから、これから始まる不自由な生活もたいした事ではないだろう。
唯一、外界に未練があるとすれば錬にもう会えない事だけだ。
そして、それは何よりも辛かった。

九鬼邸までおばあさんを送り届けると、守衛達にジロジロと恨み節全開の眼差しで睨まれた。
揚羽が幽閉された原因は俺のせいでもあるから仕方ないと言えば仕方ないが。
「事情は知ったな? 今度こそ失せろ」
おばあさんに一礼した途端、守衛の一人が言ってくる。
「ああ、帰るぜ。今すぐな…やり残す事さえ済ましたら」
守衛の何人かに付き添われながらおばあさんが屋敷に入ったのを確認し、大きく息を吸う。
そして――――。
「揚羽ああああああああああああああああああああああああっ!!」
喉が枯れそうなくらい、それどころか未だかつて出した事が無いほど大声で叫ぶ。
慌てて俺を取り押さえる連中なんかお構いなしに。
「三日だけ待ってろ! 必ず…絶対に…何があっても…助け出す!!」
この声が届くように願いながら――――俺の心を支配する『主』への誓いを吼え続ける。


座敷牢という一定の空間内で行える修行は限られている。
軽いスクワットや腕立て、そして精神統一を目的とする瞑想などだ。
この時も、揚羽は瞼を閉じて孤独な暗闇に意識を投じていた――――つもりだった。
しかし、そうはならなかった。
容姿は月並みで教養もない。
血気盛んで無鉄砲。
自分よりはるかに弱い未熟者。
けれど、不器用に温かく笑いかけてくる。
幸せをくれる。
いつしか心に染み入っていた、かけがえのない相手――――。
その姿が延々と脳裏に浮かび続ける。
普段の揚羽なら易々と無我の境地に到達できただろう。
なのに、どうしてそうなったのか――――声が聞こえたからに他ならない。
「レン…」
虚空に手を伸ばし、そっと握る。
別れ際に重ねた彼の手の温もりを確かめるように……。

夜の久遠寺邸で、いつにも増して緊迫しながら大佐と向かい合う。
「くれぐれも本気で頼むぜ」
「そう頼まなくても、今の私はスペシャルに気が立っている。夢お嬢様とお前の件でな。
 私が首を挟む事ではないし、お前を恨むのも筋違い……それでも腹に据えかねる」
「逆にありがたいよ。手加減無用じゃなきゃ、意味がねぇんだ」
本気の大佐とやり合おうなんて無茶なのは承知の上だ。
それでも、三日間という短期間で可能な限り俺自身を磨くにはそうするしか手がなかった。
本当ならもっと時間をかけて特訓し、徐々に力を付けていくべきだろう。
いきなり強くなろうとしても無理があるなんてわかっちゃいる。
だが、俺はこれ以上揚羽を籠の中に閉じこめたくない。
「生半可な覚悟はしてねぇんだ。行くぜ、大佐!」
「では…命を捨ててかかってこい、小僧!」
死闘の中に修行がある。
何度倒れたって、立ち上がって力をつけてみせるさ。
だから、あと少しだけ辛抱しててくれ。


三日後。
ハルのお墨付きが得られるくらい部屋を丁寧に清掃し、
ようやく着慣れてきた執事服をできる限り綺麗に畳んでベッドに置く。
「色々あったな…」
久遠寺に来てから始まった、騒々しくも賑やかで楽しい『本物の人生』を思い出しながら。
名残惜しく、執事服にそっと手紙――――辞表を添える。
今から俺のする事は久遠寺には何の関係も無い。

窓から抜け出す練の後姿はしっかりと目撃されていた。
その視線の持ち主――――美鳩は、窓の向こうの練へ手を伸ばす。
すると、夜の大気で冷却されたガラスのひんやりとした感触が手に広がる。
伸ばしても伸ばしても届かない、絶望的なまでに遠い数メートル。
これが巣立っていく弟との距離なのか。
自分の全てが遠ざかっていく事がわかっていたのに、ただ見送ることしかできなかった。
いや、何か一つくらいできる筈だと信じたかった。

月下の九鬼邸は厳重な警備体制が敷かれていた。
襲撃とも取れる予告があったのだから、ある意味当然である。
しかし、一向に練は現れなかった。
普通ならそれに越したことはないのだが、九鬼で働く人間たちは武闘派揃い。
血沸き肉踊る戦いを望む者ばかりであった。
だから、本当の所は残念がっていたのかもしれない。
「あの者、臆したか」
正門前の橋を警備している男がつまらなそうに漏らす。
「いいや、全然」
気配と声を感じた男は、日頃の鍛錬の成果か条件反射で後方に向かって拳を放つ。
「ぶおっ!」
吹っ飛んだのは男の方だった。
堀に転落し、激しい水しぶきがあがる。
その音に反応し、瞬時に他の守衛も駆けつけてきた。
一斉に集結した彼らが揃って楽しげに笑みを浮かべたのは、待ち望んでいた敵の到来ゆえに。
「前もって言っといたのに。最初から総動員しとけよ……俺をナメんな」


雄叫びをあげながら、敵陣のド真ん中へ一直線に暴れ込む。
この前の遠足のおかげで体力はついてる。最初から全開でも息切れはしない。
「玉砕覚悟か、貴様!」
「そんな覚悟はしてねぇ!」
加えてこの三日間、大佐に何度も何度も挑んだ。
それこそ、本当に死に物狂いで。
失神しまくった甲斐はあったと見ていいだろう。
少なくても、ハンサム野郎の時みたいなヘマは犯さねぇ。
俺自身の力量はそんな単純に上がっちゃいないが、目は肥えてる。
「大佐に比べりゃ、遅いし弱い!!」
繰り出される攻撃の山々に対処し、次々に蹴散らしていく。
勿論、向こうだってプロフェッショナルだし、手痛い反撃を喰らう事も少なくない。
それでも、さすがは武人の一族。部下の教育が行き届いてるぜ。
武士道に乗っ取って一対一を基本とし、武器も無しなのがありがたい。
少しでも蓄積するダメージは軽くしたいからな。
だからといって、手っ取り早く終わらせる為に急所を攻めたりはしねぇ。
たしかに実戦なら四の五の言ってられないから、どこ攻撃しようと自由だし、やられた方が甘い。
この街へ着たばかりの頃は俺も大佐との闘いで股間を狙ったっけ。
だが、今は違う。
いつだって正々堂々としてる揚羽に顔向けできないような真似してたまるか!!
「人の恋路を邪魔する奴は、馬に…いや、馬はいないけどな。とにかく、邪魔すんな!」

不届き者が無謀にも乗り込んできたと報告を受けてから、祖母は和室で次なる報告を待ち詫びた。
使用人たちが大騒ぎしている様子からすると、あの少年は相当奮戦しているらしい。
胸の中で口には出せない安堵が渦を巻く。
「ご隠居様、宜しいでしょうか?」
ふと障子戸の裏から声がし、入室を許すと青年が入ってくる。
「これを…この騒動が収まるまでに私が引き取りに来なければ、お読み下さい」
跪き、硬い表情で封筒を手渡すと、彼は『失礼します』と言って部屋を後にする。
直後、何の文字も書かれていない真っ白な封筒に見入っていると、女中が慌てて駆け込んできた。
普段なら絶対に行うであろう部屋に入る際に許可を得る事さえ失念するほど、困惑した様子で。
「ご、ご隠居様、このような状況ですがお電話です! 責任者を出してくれと…それが、その……相手が…」


交戦しながら門を突破し、屋敷の中になだれ込む。
「であえ! であえ!」
「こやつを討ち取れ!!」
揚羽と見た映画さながらの号令で、屋内に待機していた守衛や使用人がぞろぞろと現れて向かってくる。
片っ端から叩きのめしていき、大広間に場を移す頃には傷だらけだった。
一人一人が強い上に数も圧倒的に多ければ当然だろう。
何より、女中達まで参戦してきたおかげで想定以上のダメージを喰らっちまった。
女には攻撃しない。
好き放題にやられても、無抵抗の一点張りを貫く。
それを差し引いても、男性陣と遜色ないくらい強かった。
結局、振り払うように全力で前進するしかなかった。
鳩ねぇの教えという以上に、もうこれは俺の生き方だから。
そのせいで不利になったとしても、生き方を曲げるなんてできねぇ。
もっとも、それを見抜いたのか途中から女中達はかかってこなかった。
侵入者はあくまで正々堂々と返り討ちにする気らしい。
ここの連中も、結構味なトコあるじゃねぇか。
その心意気に感謝し、男衆相手に存分に暴れさせて貰おう。
「揚羽はどこにいる?」
ある程度片づけた後、適当な男の胸ぐらを掴み上げる。
「お上がお取り決めになられた事だ…答えんぞ」
「いい忠誠心だな。元執事として感心するぜ」
こいつの口を割らせるのは無理だ。
そう確信して手を離すと、あっけなく倒れた。
「じゃあ、アンタらも望み薄か?」
身構えている守衛達に視線を戻し、立ち上がって歩み寄る。
「ま、それならそれでいいけどな。手当たり次第に部屋を調べてくだけだ」
「知りたいなら、俺から聞き出せ」
後ろからの声に引かれるように振り返った。
そこにいたのは――――。
「小十郎!?」
いつもの執事服じゃなく、珍しい私服姿で静かに俺を見据えていた。
果てしなく力強い眼差しで。


「お前、今まで何やってたんだ?」
わずかに注意が逸れた瞬間、守衛の一人が飛びかかろうとしてくる。
「ち――――っ!」
「待て!!」
奴の動きを止めたのは、俺の拳じゃなくて小十郎の声だった。
「手出しは無用! この男は俺が倒す!!」
「小十郎、お前…」
よくあるパターンは洗脳されてるとかだが、そりゃないな。
こいつはそんなヤワな精神はしてねぇ。
敵に回ったフリして助けようとしてくれてるなんて事もないだろう。
挑んでくる以上は一切の妥協が無い本気だ。
「…俺は全員ぶちのめしても揚羽を助ける。お前はそんな俺を止めるんだな? そう決めたんだな?」
「その通り」
「だったら、俺も…お前を倒して進む。恨みっこなしだぜ?」
「恨む事など何もない。お互い、選んだ道が違っただけだ。そして、それがぶつかるだけの事」
「そうだな」
「既にお前は手負いの身。完全に対等とはいかないが…いいな?」
「こんくらい、別に関係ねぇよ。どんなにダメージ喰らってても、真剣勝負の言い訳になりゃしねぇ。
 それに、揚羽だったら傷だらけになっても勝利を掴むまで戦い続ける。だったら、俺もだ」
「それでこそ倒すに値する」
一定の距離まで歩み寄り、そこから臨戦態勢を構える。
迷いなんて無い。
敵対してくる理由なんて考えるだけ無駄だ。
だったら、その分の集中力を闘いに使う。
どんなに感動的な思惑があったとしても、立ちはだかってくるなら闘うのみ。
それが俺なりの覚悟と決意、小十郎に対する最大限の敬意。
「いくぜ……」
「いくぞ……」
拳を強く握りしめ、互いに構える。
それが合図になった。
「小十郎おおおおおおおおおおっ!!」
「レェェェェェェェェェェェェン!!」


空気を突き破る重い一撃が交錯する。
俺の拳は小十郎の顔面に、小十郎の拳は俺の顔面に、それぞれ炸裂した。
オープニングヒットは完全なる引き分け。
「「くっ!」」
同時に後ろへ飛び、一気に距離を開く。
そして、再び打ち合うべくダッシュした。
「タイガーバルカン!!」
残像が残るほどの速度で繰り出された無数のパンチが俺の全身に打ちつけられる。
「そら、そら、そら、そら、そりゃあっ!!」
普通ならこういう乱打は軽めの手打ちになるのに、一発一発に見事に腰が入ってるとはさすがだ。
それでも、退きはしねぇぞ。
いくらでも打ってこい。
あくまでも前に出てやる。
至近距離まで正面突破あるのみだ!
「うおおおおおっ!!」
喰らいながら突き進み、強引に喉元へ詰め寄り、下から右のアッパーを思いきり突き上げる。
顔面すれすれで小十郎はよけやがった。
しかし、身体が伸びきり、連打も止んだ所で――――肝臓めがけて左拳をねじ込む。
「ぐはあっ」
「どうだ!!」
鍛え抜かれた腹筋は固く、まるで岩を殴ったような感触だった。
正直、俺もメチャクチャ痛ぇ。
だが、こいつに勝利できれば拳が潰れようと一向に構わない。
そんなのを怯えてたら、揚羽のもとへは辿り着けないんだよ!!
隙が生まれると判断したのか、小十郎が離れる。
それを待っていた。
振りかぶるようにして腕ごと右拳を顔面に叩きつける。
弾かれ、後ずさりする小十郎。
少しだろうと体勢を立て直す時間は与えねぇ。
間を置かず飛び上がり、顎と腹めがけて二連蹴りを放つ。
両方とも命中し吹っ飛んだものの、手応えは案外薄い。
ヒットの瞬間、的をずらされたか。


わずかな滞空時間を終え着地した瞬間、一直線に飛び込んできた小十郎の拳が鳩尾に穿たれた。
「がはっ!」
否応なしに呼吸が止まる。
意志に逆らって身体が動かなくなる。
マズい! ヤバい!
「ガラ空きだ!」
連打が次々に叩き込まれ、顔が右に左に弾かれる。
顔面だけに執着せず、無防備になった他の急所狙いも織り交ぜる事を忘れていない。
これ以上もらい続けるのは駄目だ、何としてでも防ぐか反撃しねぇと。
動け、動け!!
言う事を聞かない全身を叱咤する。
指先がかすかに動いた。
ようやくかよ、遅いぜ。
即座に、重く感じる腕を上げて顔を防御する。
その瞬間、腹部へ強烈な蹴りが突き刺さった。
「げ…はあ…っ」
口から血を吐いたまま吹っ飛ばされる。
無様に何度も畳の上を横転し、身体は止まった。
呻きながら手をついて身体を起こすが、深呼吸してる暇は無い。
もう小十郎は突進してきている。
軋む身体を一気に立ち上げる。
それでも、小十郎が到着する方が早かった。
対抗策を講じる間もなく、強打を浴びせられる。
脳天が横に揺らされ、足下がふらつく。
だが、せっかく立ち上がったんだ。また倒れてたまるか。
よろめきそうになるのを踏ん張り、そのまま反動をつけて打ち返す。
豪快に命中し、小十郎は大きく崩れ落ちた。
しかし――――。
「ブロウクンソニック!!」
間一髪でそれをかいくぐるが、わずかにかすっただけで右頬が小さく切れて血が飛び散った。
そんな体勢からこれだけのパンチを繰り出すのかよ。
「つくづく…見上げるぜ!!」


まだ小十郎は不安定な体勢である事に変わりない。
その事実を逆手にとって、殴って間合いを取り、ミドルの蹴りを放つ。
しかし、小十郎は身体を回転させながら直撃をかわして逆にハイキックを繰りだしてきた。
後ろに下がって威力を殺そうとしたが、それよりも先に身体が地面に叩きつけられる。
「……っ!!」
間髪入れず、かかと落としが振り下ろされる。
もう横に転がって避ける時間すらない。
俺は仰向け状態のまま咄嗟に足払いをかけた。
片足の軸だけで立っていた小十郎は、あっけなく体勢を崩して背中から落ちる。
同時に跳ね起き、落下途中の小十郎めがけて殴りかかる。
だが、転倒してる最中も闘志は消えちゃいなかった。
後方宙返りを利用して鋭い縦一閃の蹴りが放たれる。
予測できなかった反撃はモロに直撃した。
「ぐああああああっ!!」
空気を切り裂き、大きな放物線を描きながら吹っ飛ばされた。
何度もバウンドしながらまたしても畳を転がりつつ、無我夢中で起き上がる
敵として闘っている以上、わざわざ立ち上がるのを小十郎が親切に待っててくれる筈がない。
小十郎は既に助走をつけて跳躍していた。
「はああああっ!!」
飛び蹴り――――違う、ただの蹴りじゃない。
連続蹴りだ。
腕を上げて頭のガードを固めた瞬間に凄まじいキックが叩き込まれていく。
小十郎の身体が着地するまでブロックし続けるしかない。
しかし、どれも的確に急所を突いてくるキックだ。
このままじゃ、ガードがこじあけられるのが先。
覚悟を決めてガードを解く。
そうした瞬間にも、鋭い蹴りが何発も着弾した。
「うおおおおっ!」
ダメージを堪え、直撃した蹴りを掴む。
方向までイチイチ考えてられない。
遠心力を利用し、闇雲に放り投げた。
小十郎の身体は障子戸に激突し、それをぶち破る。


「はぁ…はぁ……」
小十郎との距離はかなり開いたが、今は追撃する余裕がない。
呼吸を整えつつ、うっとうしい口元の血を腕で拭う。
「わかっちゃいたが、タフな奴だ」
「お前も…残像を見抜けなかった頃のお前ではないようだ」
お互い、自然と笑みが浮かぶ。
「だが…その強さ、俺は否定する…否定しなければならん!」
再び、猛然と突進してくる。
迎撃しようと放ったパンチがクリーンヒットするが。
「そうしなければ、俺が俺でいられない!!」
怯まず、すぐさま殴り返してきやがった。
「従者として何より優先しなければならない主の幸せを、俺は願わなかった!!」
右拳同士が正面から激突し、身動きができないほど膠着状態に陥る。
「思ってしまった! 望んでしまった!」
だが、均衡はそれほど長く続かなかった。
「いっそお前と揚羽様が引き裂かれてしまえば良いと!!」
いつしか、俺の方が押し負け始める。
揚羽に一日中腕立てをやらされていただけあって、さすがに腕力は小十郎の方が上か。
「…そうなれば…俺はこれからも揚羽様のおそばにいられる!!」
だったら別の手だと、胸を狙って左膝を振り上げるが、それをさらに膝で防がれた。
「情けなく、愚劣な考えだったと自覚しているさ…だが、それでも…それでも俺はっ!!」
残された左手を繰り出そうとした瞬間、倒れるように飛び込んできた小十郎の頭が顔面に炸裂する。
「想いが報われなくても構わん! そのような身分でない事は百も承知!
 だが…この血も、この拳も、命さえも揚羽様のもの……揚羽様のものにしかなれないんだ!!」
強烈な衝撃によろめき、大きくのけぞる。
「あの方に仕えられなくなれば、俺はどう生きればいい! 俺の人生は揚羽様と共にあったんだ!!」
当たると上体が反り返るほどの強打が容赦なく叩き込まれていく。
「俺から…揚羽様を……奪わないでくれ…」
反撃のチャンスを見逃さないようにしていた為、否応なく目に入った。
小十郎の泣きそうなツラが。
別に戸惑ったりとか、気を取られたりはしていない。
それでも、右フックが絶妙の角度で俺のこめかみを完璧に打ち抜いた。


「ぐ……あ…」
視界がぼやけていく。
足下がふらつく。
冗談じゃねぇ、倒れるもんか。
倒れるな!
立ってろ! 
手を出せよ! 
反撃しろ!
こんな時に寝る訳にはいかねぇんだ! まだ小十郎は倒れちゃいないだろ!!
……駄目か。
見るもの全てが黒に染まって気が遠のいていく。
だが、諦めるかよ。
これで終わりだとしても、やられるとしても、立ち続けてやる。
膝は着かねぇ、絶対に。
最後の悪あがきだとしても、これだけは貫き通してやる。
意識が…振動に飲まれて……途切れようと………。

「立ち往生とは見事。だが、ここまでか…ならば、これが引導だ!! 地に落とし、敗北を決定づける!!」
小十郎全身全霊の一撃が意識を手放した錬に迫る。


目の前に広がるのはどこまでも広がる暗闇。
俺一人しかいない、孤独な世界。
違う、俺だけじゃない。真っ暗でもない。
どこからか溢れてきた光が俺を徐々に照らしていく。
ふと上を見上げると、眩しい人影があった。
森羅様でも、ミューさんでも、鳩ねぇでも、ベニ公でも、ナトセさんでも、そして夢お嬢様でもない。
太陽のような――――いや、それ以上の輝きを放つ少女。
誰だ?
俺を待ってるのか? そこに行くまで。
じゃあ、こんなトコで道草食ってられないよな。
お前が待ってるなら…お前が俺を……お前が……お前………お前は――――。


「揚羽ああああああああああああああああああっ!!!!」
「何っ!?」
明るくなった視界に真っ先に飛び込んできたのは、攻撃を変更しようとする小十郎だった。
しかし、全ての力を注ぎ込んだ拳はもう引っ込められない。
紙一重でかわすと同時に前傾姿勢で全体重を乗せたジョルトカウンターを爆発させる!!
「があああああああああああああああああああああっ!!」
自分の勢いを倍返しにされた上で、轟音と共に吹っ飛ぶ小十郎。
時間をかけて何とか起き上がるものの、その表情は愕然としていた。
「意識は…完全に刈り取った筈……あれを喰らって蘇る……だと!?」
「…昇る太陽が……俺を…引き上げるんだよ、何度でも!!」
「太陽…? 揚羽様の事か……ふっ、奇しくも揚羽様も同じ事を…申されていたぞ。
 だが、それは揚羽様という存在にすがっているに過ぎん! 俺と同じでは越え進む事など無理の一言!!」
「すがってるのかどうか、見せてやる!!」
「見せて…貰おうかぁ!!」
小十郎が猛然と迫り、拳が頬に直撃する。しかし、カウンターのダメージはまだ健在らしく踏み込みは浅かった。
耐え抜いて側頭部を蹴り返す。
小十郎は倒れるが、その反動で俺自身も弾かれてふらつく。
即座に、膝を着いたまま放つ小十郎の拳が食い込んだ。
「ぐうう…っ」
歯を食いしばり、顔面に拳を振り下ろす。
床に叩き伏せられた小十郎に向かって飛び乗り、膝を腹に突き刺した。
「がはああああっ!!」
マウントポジションを維持したまま拳を振り上げると、首筋に手刀が打ち込まれて力任せに払い落とされた。
それでも攻撃しようと、小十郎に向かって頭を振る。
お互いに不安定な体勢からの頭突きが激突した。
互いに弾き飛ばされ、そして同時に起き上がるなり一気に駆け出す。
「「これで……終わりだっ!!」」
数瞬早く、小十郎の拳が俺に炸裂する。
だが、これしきじゃ怯まない。こんなんで止まらない。
俺の全てをかけて、拳を前に突き出す。
届け……届け! こいつの先にいる揚羽まで!!
俺の拳は――――今度こそ小十郎を地に沈めた。


小十郎はもう立ち上がらなかった。
いや、立ち上がれなかった。
荒い息を吐きながら、小十郎を見下ろして問いかける。
「意識はあるだろ? 揚羽は…どこにいる?」
「………北側の…土蔵の……地下だ」
大の字に倒れたまま、呟くように小十郎が言う。
「そうか」
言いたい事は色々あるが、どんな形であっても勝者が敗者に不必要な言葉をかけるべきじゃない。
小十郎だって、そんな事は望んじゃいないだろう。
「俺はもう行く…じゃあな」
それだけ言って、背を向けた。
途端に、今まで傍観していた守衛や使用人達が立ちはだかる。
「わざわざ話が終わるまで待っててくれるなんて、九鬼の皆さんは漢揃いだぜ」
小十郎との激戦で消耗してるから簡単に倒せると思ってんだろうな。
けどよ、そうはいかねぇ。そうはならねぇ。
たしかに満身創痍でズタボロ極まりない状態だ。
少しでも気を抜けば、その途端に倒れそうになる。
だが、絶対に力尽きたりはしない。
敵がどれだけいようと戦い続けてやる。
ここで俺がやられたら、小十郎が一撃一撃に込めていた想いまで無意味になるから。
「何より、揚羽を待たせてるんだ…道を開けろ。でなきゃ、倒していく」
おぼつかない足取りで、しかし力強く向かっていく。
一歩づつ間合いが狭まるのに伴い、連中は冷や汗を浮かべた。
気圧されているのか一向にかかってこない。
「小十郎ほどの覚悟も強さも無いなら、何もせずにじっとしてろ!!」

一方、小十郎は仰向けのまま呆然と天井を眺めていた。
その視線は力無く、まるで抜け殻のように。
付近で繰り広げられている喧騒も、今はもう全てがどうでもいい別世界の出来事にしか思えない。
「…これで……もう空っぽだ………」
微動だにしないまま、静かに涙を流す。
男泣きだった。


土蔵の中に進み、階段を降りきると江戸時代(?)の遺物らしき牢獄に出くわす。
そこに、確かなあいつがいた。
「俺、ようやく参上……やっと…会えたな、揚羽」
「お前という男は……本当に…」
最後に別れてから一週間も経ってないのに、何年も離れていたような気がする。
もっとも、離ればなれも悪い事ばかりじゃない。
また会えた時の喜びが何千倍にもなるから。
「そんじゃ…さっそくだけど、出すぞ。嫌がっても連れ出すからな」
檻は部外者の侵入なんて考えてもいなかったのか、外側からなら簡単に開けられる代物だった。
開けた格子を潜り抜け、中に入る。
「俺が勝手に出すだけだから、おばあさんに迷惑はかからねぇ」
おばあさんには幽閉された事情しか聞いちゃいない。
揚羽のいる場所だって自力で小十郎から聞き出したんだ。
口を滑らせたのが発端とか言われても、何とか誤魔化せるだろう。
「これほどの無茶を敢行し、成し遂げるとは…」
「頑張ったぜ。二度と会えないなんてごめんだからな」
「それに比べ、我は弱いな。祖母様の事があるとはいえ、お前と自由を諦めてしまうとは。
 不甲斐なく、情けない…お前が、それほどまでに傷だらけになったというのに――――」
それ以上言葉を紡げないように、引き寄せて強く抱きしめる。
「俺たち二人なら、どんな問題だって突破できる……そう言ったのはお前だ。だから、訂正しろ。
お偉方にむざむざ従っちまったのは、お前が弱いんじゃなく、俺がそばにいなかったからだ。
お前は強い…ただ、俺と一緒ならもっと強くなれる。何にだって負けない程度にな」
「レン……」
「小十郎から少しだけ聞いた。お前は太陽なんだろ? なら、沈んでも俺が押し上げてみせる。
いや、太陽止まりにはさせないさ。この世の全ての頂点に……恩を仇で返すような言い方するけど、
森羅万象の頂点にだって君臨できるくらい支え続ける……こんな台詞、ちょっと寒いか?」
苦笑する俺に対し、揚羽は真顔で首を横に振る。
「寒くなどあるものか。いつだってそうだ…お前の言葉が、声が、存在が……全てが、我の心に火を灯す」
揚羽の瞳と、背中に回された手に力がこもる。
「もう離さぬぞ」
「離れる気なんてないさ」


笑顔のまま、揚羽をひょいと抱きかかえる。
「レ、レン…お、お、お、お前……」
「お前が自力で出ちゃ元も子もねぇからな。それとも、これより背負った方がいいか?」
「お、降ろ……すでないぞ」
「は?」
「よしてはならぬと言っておるのだ!」
頬を染める揚羽に容赦なく殴られる。
トドメ刺す気かよ、おい。
まぁ、怒ってなんかいない事はお見通しだけど。
「わかったよ…やめない。それで、ここ出たらどうする? このまま駆け落ちと洒落込むか? 
 お前と一緒なら、俺は追っ手と戦い続ける日々さえ望むところだぜ」
「たわけ。左様な事、思っておらぬだろう?」
「やっぱ、バレてるか…勿論、思いは同じだ」
俺達の恋、お偉方に認めさせてやる。
反対意見なんて真正面から捻じ伏せて。
できるさ、俺と揚羽の二人なら。
「…ならば戦うぞ。共に最後まで!」
「その為に俺はいる」

揚羽を抱きかかえたまま土蔵を出ると、その前には傷だらけの守衛や使用人が大集結していた。
牢から出した以上戦う理由はもうなくなったが、それでも向かってくるならとことんまで相手になってやる。
一旦、揚羽を降ろして構えを取ると、何故か全員フっと笑った。
「…少なくても、我々よりは骨があるようだ」
守衛の一人がそう言うなり、女中が救急箱を携えて寄ってくる。
これが、少年漫画的・拳を交えた者同士の絆って奴か?
「いや……俺より先に小十郎を頼む。それとも、もう手当てしたのか?」
俺の問いに何故かみんな口ごもった。
「私が説明します」
その声に慌てて使用人と守衛が左右に分かれると、間からおばあさんがゆっくり歩いて姿を見せる。
「祖母様!」
「小十郎から預かったものです。まずは、これを…」
顔を綻ばす揚羽に白い紙が手渡された。


誠に突然ながら、只今を持ちましてお暇を取らせて頂きたく存じます。
突然の申し出、誠に申し訳ありません。
つきましては、後任として一名推薦したい者がおります。
この手紙が読まれるようでしたら、恐らくその男は九鬼の守衛を悉く打ち倒し、私さえ倒しているでしょう。
実力的には充分かと思います。何より、揚羽様を最優先に考える男です。
確かに九鬼に対して狼藉を働いた事は否定できませんが、それも全て揚羽様への想いによるもの。
裏を返せば、それ程までに揚羽様を絶対としているに他なりません。
まだ血気盛んで荒削り、向こう見ずな所はありますが、必ずや揚羽様を支えられるでしょう。
その者の名は、上杉練。何卒、ご一考ください。
PS・揚羽様。あなた様に仕え生きてきた我が人生、光栄無比でございました。
  いつでも、どこにいようと……あなた様の幸せを祈りはしません。
  祈る必要がないからです。
  もう、ずっとレンがいるから――――。

「あいつ……」
「あの阿呆……」
小十郎を含めた精鋭を倒して揚羽を助け出せれば、強さを証明する恰好のデモンストレーションになる。
途中で力尽きても、結局はそこまでの男だったという結論になるだけだ。
どっちにしても、俺が揚羽に相応しい奴かどうかは見極められる。
そういうシナリオだったのか……。
「…小十郎は?」
「どこにも…いません」
おばあさんから、あまりにも予想通りの答えが返ってくる。
俺と闘った後、何も言わずそのまま行方をくらましたらしい。
私服姿だったのも、いつでも出ていける為だったんだろう。
「我のものである分際で…我の許し無く、何を勝手な事を…」
そう言いつつ、怒りとは別の理由で手紙を持つ手が小刻みに震えている。
「別れ際は笑うものだ……しかし………」
手紙を胸に掻き抱いて目を伏せる揚羽の頬を、一筋の涙が伝う。
初めて見た、彼女の涙。
たった一枚の紙きれを、今まで泣く姿なんて想像もできなかった揚羽の涙が濡らし続ける。
嗚咽する彼女を暖めるように、俺はそっと自分の身を被せた。


「上杉さん」
おばあさんに呼ばれ、揚羽を抱きしめたまま顔を上げる。
「お姉さんからご連絡を頂きました。ここに来る前、久遠寺をお辞めになったと」
「鳩ねぇから…?」
おばあさんは静かに頷く。
「あなたが暴れようと一切関係ないので、くれぐれも久遠寺に抗議などしないように…と、仰っていました」
鳩ねぇ……ごめん。
迷惑かけたくなくて何も言わず黙って出ていったのに、それでも結局はフォローさせちまって。
多分、礼を言っても『姉の愛の一環ですー』だといって笑うだろうけれど。
本当に、心からありがとう。
「あなたさえ良ければ…小十郎の願いを聞き入れては貰えませんか?」
「俺が……小十郎の後釜に…」
「腕利きの守衛が軒並み倒された事実を前にすれば、重鎮たちもあなたの強さを認めざるを得ないでしょう」
元々、移籍する予定だったとはいえ、恋人救出と就職活動がいっぺんに成立するとは思わなかった。
だが、戸惑わないし迷わない。
既に答えは決まっている。
「俺は…九鬼に仕える気はありません」
腕の中の揚羽をより強く抱きしめ、続ける。
「ただ、揚羽なら。揚羽に仕えられるなら、願ってもない事です」
忠誠を誓うのは九鬼じゃない、揚羽だ。
揚羽だけの専属として、揚羽にどこまでも付き従う。
たとえ名目上の扱いが九鬼の一員になろうと、体制に取り込まれる気はさらさらない。
俺と揚羽の仲は認めさせるが、それでも納得できずにいつかまた揚羽を幽閉するような事を企んだら。
主と従者の身分違いを理由に俺と揚羽を引き裂くような真似をしたら。
その時は遠慮なく立ち向かってやる。
俺を揚羽の従者にするというのは、そういう事だ。
そう断言してやる。まだ見ぬお偉方の前で。
「だから、お受けします」
受け継いでやる。
託されてやる。
背負ってやる。
小十郎、お前の想いを残らず全て……。


「お世話になりました。鳩ねぇの事、宜しくお願いします」
晴れ渡った雲一つない青空の下、久遠寺邸の前でみんなに深々と頭を下げる。
「達者でな」
「身体に気をつけて。たまには連絡しなさい」
「頑張ってこいよー」
「腕が上がったと思ったら会いに来い。まだまだだという事を教えてやる」
「小娘とのハードな生活に嫌気が差したら、すぐに帰ってくるんですよー。癒してあげますから」
「元気でね。美味しいものがあったら、送ってくれると嬉しいな…」
みんな、笑って口々に別れを告げてくる。
もっとも、ハルだけは泣いて俺にしがみついているが。
「ううう…行かないで下さいよぉ、レン兄ぃ…」
「ハル、男には行かねばならん時があるんだ。俺の場合は、それが今なんだよ」
そう言った途端、ベニ公が吐き捨てるように言った。
「リッチな方に鞍替えとはいい根性してるわね、この恩知らずな裏切り者が」
「悪いとは思ってる。けど、後悔はしてねぇ」
「…バーカ、嘘よ。ま、死なない程度に元気でいなさい」
「ありがとな」
お互い、口元に微笑が浮かぶ。
これで一通り挨拶を済ませ、改めて最後の一人と向かい合った。
「レン君」
「お嬢様…」
散々シュミレートしたのに、やっぱり何を言っていいのか言葉に詰まる。
そんな俺に、夢お嬢様は柔らかく微笑んできた。
「……アゲハちゃんと幸せになってね。手が届かないって思い知らされるくらい。
 でないと、夢…いつまでたってもレン君以外の男の子、好きになれないよ」
この言葉を言うのに、微笑むのに、どれだけ勇気を振り絞っているんだろうか。
いずれにせよ、自分も勇気を示さなきゃならない。あなたに負けないように――――。
「約束します」
微笑んでしっかりと頷く。
「じゃあ、行ってきます!」
俺はバッグを担いで歩き出した。
さよなら…俺の家族。


久遠寺邸から少し離れた所に揚羽は佇んでいた。
「別れは済んだか?」
「ああ。笑ってきたぜ。俺も……あいつと同じ事しちまってたからな。だから、今度はちゃんとしてきた」
「そうか。それでよい…あのような別れ、我は好かんからな」
あれ以来、小十郎の行方は全く掴めなかった。
ずっと気にはなっている。
だが、揚羽も俺も無理に探し出そうとする気にはなれなかった。
それでも不忠者と非難する連中が九鬼の情報網を駆使して捜索したが、結局は無駄に終わっている。
恐らく、もう二度と会う事はないだろう。
「……あいつという代償を支払った事、お前に悔やませはしない」
「悔やみなどするものか。手に入れただけで…そばにいるだけで……我は満たされる。
 さすれば、後は共に進むだけだ。お前と我、二人ではるか高みを目指して邁進するのみ」
あの後、一同を招集しての議論は丸一日かかった。
一応、仲は認めさせたと言っていいだろう。
わからず屋で頑固者なお偉方を粘り強く説得し、最後には説き伏せた。
心から認めてくれた奴もいれば、苦々しく渋い顔してる奴もいたが。
国際電話で話した限り、揚羽の両親はどっちかっていうと前者だった。
後で揚羽から聞いたが、やはり最初は相当反対してたらしい。
しかし、最終的には娘の男を選ぶ眼力を信じたようだ。
使用人や守衛の連中も話してみれば案外気の合いそうな奴らばかりで、おばあさんは言うに及ばず。
俺達の味方は決して少なくない。
もっとも、味方なんていなくたって構わないけどな。
揚羽だけいれば俺には充分すぎる。
「では、そろそろ参るか。我らが旅路、決して容易くはないぞ。覚悟はできておろうな?」
「何を今更。お前の赴く所、どこまでもお供する」
「ふっ…ならば、如何様な相手が待ち受けていようと恐るるに足りん」
これから始まるのは、武者修行の旅。
『既に休学中の身。わざわざ取り消すのも面倒であるからな、丁度良い機会だ』
そう言って揚羽は決定した。
だったら、俺はその意志に従うまでだ。
「我ら出立の時だ! ついて参れ!!」
「了解、我が主の御意のままに!」


武者修行の旅は数年に及び、あれから随分と渡り歩いた。
日本全国は勿論の事、サハラ砂漠からからギアナ高地まで。
そして、今いるのは『世界の中心』と言われているオーストラリアのエアーズロック。
対峙してるのは、九鬼にとっての宿敵らしい二人組だ(どっかで見たような気がする)。
「フハハハハッ!! 何たる僥倖! 宿命! 数奇! このような地で鉄と相まみえる事になろうとはな!!」
「それは私の台詞だ。先祖の雌雄、今こそ決してやる!!」
俺と揚羽は戦る気満々だったが、向こうは臨戦態勢の女を男が制止している。
「やめよう、乙女さん。アンタ達もさ。会った事も無い御先祖の因縁引きずるなんてさすがに下らないって」
「いや、主の敵は俺の敵なんで。下らないとは思わねぇな」
「腑抜けの極みめ。そのような男を愛するなど、貴様も同類。似合いの番いであるな」
「レオ、因縁云々はもう大した事ではなくなった…お前を侮辱した事が何より許せん!」
「別にいいよ、俺の事はどう言われたって…俺としてもかなり我慢ならない部分があるけどさ」
そう言うなり、男は俺を見て身構える。
「究極の非常時…それも、その人の為以外の理由で女の人に本気で手はあげないからな。
 代わりに、アンタの相手になってやるよ。そっちの人は乙女さんの凄さをその身をもって知ってくれ」
「ほう? 少しはマシな眼ができるではないか。気を抜くな、レン。
だいぶ薄れているようだが、その男とて鉄の血族。何より……お前によく似た強き瞳をしている」
「お前は自分の方に専念しろ。大丈夫、九鬼揚羽の従者は敗れたりしない」
とは言ったものの、男女ともに一筋縄ではいきそうにないな。
特に男の方。
支えになってるこいつがいる限り、そう簡単に女は倒れそうにない。
きっと今まで戦ってきたどの相手よりも強敵だろう。
だが、揚羽は負けねぇぞ。
揚羽にだって俺がいる。俺がついてる。
必ず守り抜き、共に闘い続ける。
誰が相手だろうと、道がどんなに険しくても。
去っていったアイツ。微笑んでいたあの人。
それら全てに報い応える為にも……何より、お前自身の為に。
どこまでも高く羽ばたいていこう、二人で。
「ゆくぞ! レン!!」
「飛ぶぞ、揚羽!!」
太陽? そんなものさえ越えるほどに――――。


蒼穹と紺碧の海に彩られた白い浜辺を一人の青年が歩いていく。
海風が吹くと、どこからか一匹のアゲハ蝶がひらひらと舞ってきた。
そっと指を伸ばすが、止まろうとはしない。
彼の周りを何度か旋回し、やがて離れていく。
青年は微笑んだ。
淋しそうに、哀しげに、切なそうに、そしてどこか穏やかに。
飛翔する様を、万感の想いと共に見つめ続けていた。
「舞い上がれ…どこまでも……」
そして、また歩き出す。
信じきっているかのように行方は見届けない。
アゲハ蝶は、輝く太陽へ向かって真っ直ぐに飛んでいった。


(作者・名無しさん[2007/11/23])


※前 きみあるSS「胡蝶は日輪に飛ぶ(前編)


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