目の前にいるのは最強の敵。
だからといって憎んではいない。
怨んでもいない。
ただ、邪魔なだけだ。
友であっても、互いに想う者は同じであっても。
『彼女』までの道を阻む壁となるなら、破壊して進むのみ。
こうなった事に後悔はなかった。
「いくぞ……」
ここまでの激闘で傷ついた肉体とは裏腹に、闘志が灼熱する。
温度の上昇に合わせて拳を強く握り締め、力強く敵の名を吼えた。
「小十郎おおおおおおおおおおっ!!!!」


夢お嬢様に頼まれ老人ホームのボランティアに参加して二日目。
頑固なじいさんとは意気投合し、仕事の方も色々と慣れてきた。
そして、今は午後から行われる交流タイムの支度をしている。
参加する人達の椅子やテーブルを並べるのが俺の担当だ。
しかし、一つ迷っている事があった。
あのジイさんも誘うべきか――――。
せっかくの交流会なんだし、できれば俺だけじゃなくて他の人達とも親睦を深めた方が良いと思う。
案外いい人だったから、俺が側についてればみんなともそれなりに打ち解けやすいだろう。
まだ俺にも意地張ってて、昨日の交流タイムには参加してなかったからな。
仲良くなれた以上はこのチャンスを生かして出来る限りの橋渡しをしたい。
でも有難迷惑になっちまったら元も子もないしな。
一応、誰かに相談しておくか。
頼れる職員の人達はじいさんばあさん達の昼飯の世話で食堂に行っている。
小十郎やナトセさんもそっちに回っているので、今ここにいるのは俺を含めて一部のボランティアのみ。
俺の知ってる面子は夢お嬢様と揚羽さんだけだ。
さて、どっちに聞こう?

1:夢お嬢様
2:九鬼揚羽



ここはやはりベテランに意見を伺った方がいいよな。
それに、夢お嬢様に話を持ちかけると怖がっていたし難色を示すかもしれない。
取り敢えず椅子を並べ終え、飾り付けをしている揚羽さんに声をかけた。
「揚羽さん、ちょっとご相談が」
「仔細ない。申してみよ」
自分なりに考えてみた事を説明してみる。
揚羽さんも真剣に聞いてくれた。
「まあ、本人があまりにも嫌がるようなら無理強いはしませんけど。どうですかね?」
「その心遣い、天晴れである。お前は細かい所まで気が回るな」
「そんな大層な事じゃないっすよ。だって勿体ないじゃないですか?
 夢お嬢様もナトセさんも小十郎もあなたもいい人なのに、このままロクに関わらないなんて。
 できればみんなとも仲良くなれた方が、俺とだけ仲良くなるよりずっといいって思っただけです」
「確かに。我としても、なるべく大勢のご老人と心通わせたいからな…よかろう、お前に勧誘を任せる。
 我も陰ながら支援してやるぞ。ご老人はもとより、お前も失望させはせん」
「俺も?」
「『いい人』…なのだろう? 我は」
なんだか少し照れているようだった。
思わず『いい人』という印象に『可愛い』を付け加えようとしちまう。
「それにしてもお前は楽しそうだな。仕事一つやるにしてもそうだが、ご老人と接する際も嬉々としておる」
「俺にはじいちゃんもばあちゃんもいませんから、すげぇ新鮮なんで」
「そうであったか」
「逆に、揚羽さんはおばあちゃんっ娘だと聞きましたが」
「うむ。我にコンペイトウの味を教えてくれたのも祖母様である。フハハハハハハ!!」
誇らしげに笑う。
いい笑顔だ。
「おばあさんのこと、ホントに大好きなんですね」
「当然であろう? だが、よくわかるな」
「俺にとっての鳩ねぇくらい好きなんだってわかります。
 おばあさんのこと話す時、メチャクチャ素敵な顔してますから」
これは、いつぞやみたいなお世辞じゃなくて俺の本心だった。
揚羽さんの顔が微妙に赤くなる。
「………そんな事を申したのはお前が初めてであるぞ」


じいさんがこの施設に来て初参加となった交流タイムは無事に終了した。
フォローしてくれた揚羽さんのおかげだけど、じいさんも他の人達と少しは打ち解けられたかな。
完璧とまではいかないが、夢お嬢様が怖がらなくなっただけでも結構な歩み寄りだと思う。
最後の方になると、揚羽さんも交えてマイナーな時代劇の話で盛り上がっていたくらいだ。
「おい、上杉――――レンよ。お前と我が友夢さえ良ければ、明々後日も介護してみぬか?」
二日目の仕事を終えて帰り支度をしていると、揚羽さんに声をかけられた。
「日曜ですか? でも、このボランティアって明日まででは?」
「我は自主的に訪問しておる。今度は別の養老院だがな。
 お前の働きぶり、とくと見させて貰った。筋は上々。
 何より、お前は不器用だがまっすぐで一生懸命な男だ。どうだ?」
「そうっすね…夢お嬢様に相談してみます」
日曜はデートの予定だったけど、じいさんばあさん達と過ごすのも悪くねぇからな。

結局、デートを取りやめて老人ホームに夢お嬢様と一緒に行った。
「風変わりなデートだと思えば悪くはなかったでしょう?」
「ううん、悪くないどころか楽しかったよー」
一日限りの奉仕活動を終えて、二人で帰路を行く。
少々遠出だったので、夢お嬢様でさえ今まで通った事のない繁華街を歩いていた。
「でもさ、アゲハちゃんとよく喋ってたね」
言われてみればそんな気がする。
「揚羽さんは今日行った老人ホームも常連でしたから」
しかし、次第に会話の内容が仕事以外の事にシフトしていったのも事実。
他愛ない話だったが、楽しくなかったかと言われれば答えはノーだ。
一応、夢お嬢様には伏せておこう。
「それはわかってるけど…この前以上に胸がチクチクしたよ」

「ん? あれは……」
路地裏から出てきた所で、二人を目撃した男がいた。
そのまま離れた街角からこっそり見つめ、耳を澄まして様子を伺っている。
錬と夢の姿が見えなくなった後も、その場に佇んで思考を巡らせているようだった。
やがて携帯電話を手に取り、どこかの番号を呼び出す。
「ああ、リューヤ君。ハンサムな俺だよ」


今日から夢お嬢様は新学期。
始業式だけだから早めに迎えに行き、久遠寺邸まで一緒に帰る。
そんな単純な仕事の筈だった。
しかし……。
帰り道の途中、物騒な軍団が待ち構えていた。
中心人物は夢お嬢様たちの元・合コン相手。
よりにもよって夢お嬢様に麻薬を勧めやがったから叩きのめした男だ。
「やあ、この前はどーも……謎のナイトさん」
「!!」
バレてやがる!?
上着を顔に巻きつけて素顔を隠していたのに、何故だ!?
取り敢えず、知らん顔決め込んで誤魔化してやろう。
「はて? どちら様でしょうか?」
「とぼけんな。ハンサムな俺の頭脳は推理力も最高なんだよ」
「ジャンキーのクセしてよく言うぜ」
「ほら、ボロだした」
俺の馬鹿野郎!
「……何でわかった?」
「昨日見かけた、前の合コン相手とそれにベッタリな執事。
 あのふざけた変質者と背も声も似てるし、ピーンと来たんだよねぇ。
 よく見たら、いつだったかハンサムな俺の誘いを断った弟君だしな。シスコン発言も一致する」
なるほど。どっかで見たと思ってたが、七浜に来たばかりの頃鳩ねぇナンパしやがった奴か。
「ま、別に人違いでもそっちの子と合コンの続きしようと思ってね、みんなで」
それを合図に30人あまりが動く。
素手の奴もいるが、大多数は金属バットを持っていた。
「お嬢様、お逃げください」
「レ、レン君」
「主の剣となり盾となるのが執事ですから…走って!!」
俺の声と共に夢お嬢様が駆け出す。
勿論、連中の何人か追いかけようとしたが。
「おおっ!? 追いつけねー!」
夢お嬢様の足を知らないからだ、マヌケ共め。


「ま、いーや。ハンサムな俺は前向きだからな…正体知った以上、本命はてめぇだ」
殺気を帯びたハンサム野郎の一声で手下その1が殴りかかってくる。
ダメージが最小限になるようにしてわざと喰らってやった。
これで正当防衛成立だ。
「肘打ち! 裏拳! 正拳! とぉりゃああああっ!!」
手下その1を皮切りに、手当たり次第にブチのめしていく。
しかし一人ひとりは弱いとはいえ、これだけの数を相手にするのはやっぱりキツい。
「ほら、一気に攻めろ。お前らリューヤ君のお墨付きなんだろ? 相手は一人だぞ」
背後から不意打ちしようとした奴を足払いした時だった。
他の二人が同時に縦と横から同時に振ってくる。
縦一閃のバットは咄嗟に腕を出してガードしたが、腹の方は防ぎきれなかった。
「ぐっ!!」
悶絶して息が詰まり、動きも一瞬停止する。
間髪入れず、今度はガラ空きになった顔面を殴られた。
「うおおっ!!」
拳が頬にめりこむ中、殴り返して何とかぶっ飛ばす。
が、次の瞬間には後ろにいた連中が金属バットを足に叩きつけてきた。
体勢が崩れた瞬間、前から顔を蹴り上げられる。
「ぐほ…っ」
口から血を流しながら地面を転がった。
手をついて立ち上がろうとするが、ダメージは思ったよりでかい。
足に力が入らなかった。
それを見抜いたらしく、周りの金属バットを持った連中がじりじりと寄って来る。
先頭に立つ、さっき殴り返した男が怒りと嘲りの混じったムカつく笑顔で金属バットを振り上げた。
その時――――強い風が吹き、俺を横切る。
それは乱気流だったんだろうか。
少なくても俺にはそう思えた。
男が漫画みたいに、遥か彼方へ吹っ飛んでいったから。
「天が呼ぶ! 地が呼ぶ! 友が呼ぶ! レンを救えと我を呼ぶ!!
 我こそは九鬼揚羽!! 今ここに見参せり!!」
凛とした、力強い名乗りが確かに耳に届く。
威風堂々と仁王立ちする彼女の後姿はいつまでも俺の目に焼きついていた。


「夢より全て聞いたぞ。己を盾にして主を守り抜くとは大儀であった!」
この短時間で学校まで戻り、また事情を聞いてここまで駆けつけたってのか。
夢お嬢様にしろこの人にしろ、足速すぎ。
「覚悟はよいか? 答えは聞いていないがな。
 我が友夢を脅かしたばかりか、レンを傷つけるとは万死に値する!!」
どれくらい激怒しているのかが生々しく伝わってくる。
声が殺気を帯びていたからだ。
「烏合の衆めが。束になってかかってこい! 身の程を教えてくれるわ!!」
彼女は雄叫びを上げ、敵陣のド真ん中に突入した。
正拳を叩き込み。
肘鉄を突き刺し。
掌底を放ち。
蹴りを炸裂させ。
薙ぎ払うように男達を屠っていく。
信じられないスピードと力。
いつのまにか、まばたきすら忘れるほど見入っていた。
「強い…」
それ以外の表現方法が全く思いつかなかった。
10秒も経たないうちに、ハンサム野郎を除く全員が沈黙する。
「貴様が大将だな!」
狼狽するハンサム野郎を一瞥すると、一歩づつ迫っていく。
「ぼ、ぼ、僕の父さんは議員なんだぞ!」
次の瞬間、揚羽さんは奴の懐に潜り込んで首に手刀を突きつけていた。
「笑止! 政治屋風情に何ができるか見せて貰おうか」
軽く突き飛ばすと、ハンサム野郎はバランスを崩して情けなく尻餅をつく。
「大将が腑抜けでは雑兵もたかが知れる訳だ。これしきでは技の研鑽すらできん」
つまらなそうに呟くと、くるりとこっちを向く。
そのまま悠然と近づいてきて、俺を見下ろした。
「手は貸さぬ。自分で立ってみせろ」
ありがたい叱咤だ。
この人に恥じない為にも、ありったけの力を振り絞って俺は立ち上がった。
だが、その行為は同時にある光景を目撃させる。


揚羽さんの背後で、ハンサム野郎がいつのまにか立ち上がっていた。
その手に握られている、鋭いナイフ。
やべぇ、揚羽さんもまだ気づいていない。
叫んでも間に合わない。
ハンサム野郎は既にナイフを構えて突進してきている。
俺は揚羽さんを押し退け、二人の間に割り込んだ。
そこでようやく揚羽さんも奴に気づく。
だからといって、いくら揚羽さんでももう迎撃はできないだろう。
俺は覚悟を決めた。
しかし――――突然、衝撃が迸った。
弾かれるような感触。
彼女に突き飛ばされたんだと理解するには、よろめくのを終えるまでかかった。
足を踏ん張ると、急いで視線を動かして揚羽さんの姿を確認する。
冷たい光を放つナイフの刃は――――揚羽さんの右手を貫通していた。
「どう…して……」
俺は、ただ呆然と揚羽さんの手を見ていた。
あとからあとから血が流れ落ちていく右手を見続けていた。
「揚羽様あああああああああああああああああああっ!!」
駆けつけた小十郎の絶叫が、放心状態だった俺を呼び覚ます。
「てめえええええええっ!!」
猛然と突進し、ご自慢のハンサム面に渾身の一撃をお見舞いする。
くぐもった悲鳴を漏らしながら、ハンサム野郎は顔を押さえて後退りした。
「逃がさん! 無礼者がっ!!」
右手にナイフが刺さったまま、揚羽さんが超高速で奴に向かって飛び込む。
上段回し蹴りを放ち、そのまま頭に引っ掛けて一気に地面に叩きつけた。
激しい震動と舞い上がる粉塵が収まると、道路に突き刺さった身体がピクピクと痙攣していた。
「揚羽さん!」
「揚羽様っ!」
二人揃って無我夢中で駆け寄る。
「い、いかん! 早く…早く病院に…お連れせねばっ!! 早く、早く!!」
「うろたえるな小十郎ー!!」
強烈な左の一撃を喰らって小十郎が天高く吹っ飛んだ。


大急ぎで病院に駆け込み、すぐさま揚羽さんの手術が始まった。
その間、俺も精密検査や診断を受けたが結果は異常なし。
診察室を出ると、ずっと輸血していたせいか小十郎がソファーでぐったりしていた。
そして、もう一人。
「揚羽……さん…」
「レン。大事なかったか?派手にやられていたようだが」
「すいませんでした!!」
揚羽さんの質問には答えず、俺は真っ先に頭を下げた。
謝ったところで彼女の怪我が治りはしないけど、俺には謝る事しかできない。
「何ゆえお前が頭を下げる?」
「揚羽さんの……手が…」
「これか? たいした傷ではない」
包帯が巻かれた右手をブラブラとさせる。
「…俺を庇ったせいですから。そもそも、あいつらは俺を狙ってきやがったし……」
「お前には何の責もない。むしろ我の方こそお前の邪魔をしたのだぞ?
 我がやりたくてしただけだ。あのような下郎に不覚を取るとは、我もまだまだ未熟である」
「どうして…あの時、逆に俺を庇ったんですか?」
「怪我をしたお前より無傷なお前の方が良いと思っただけの事。
 我はお前をそこそこ買っておるからな」
「揚羽さん……」
「しかし、お前がそこまで気に病んでいるならば…何か一つ見返りを貰う方が良いかもしれんな。
 我の願いを聞け」
「はい…何なりと」
「よくぞ申した! では九鬼財閥に入れ」
「え!?」
「冗談だ。フハハハハハハハハハハハッ!!」
愉快に大笑いする揚羽さん。
通りかかっていた医者やナースや患者が一斉にこっちを見てきた。
「そうだな…次にお前が休暇の際、どこかに我を案内しろ。楽しい所にな。
 お前の自責の念も晴れる上に二人して楽しめる。一石三鳥であろう?」
「…本当にそんなんでいいんですか?」
「その代わり、半端な場所では許さんからな。徹底的に我を楽しませろ」


4月15日の日曜日。
七浜駅前に待ち合わせをし、30分前から待っているとやがて揚羽さんがやって来た。
「あれ? 小十郎は?」
「我が帰るまで腕立てをしていろと命じてきた」
「置いてきてしまっていいんですか?」
「構わん。我とお前の二人きりでなければ意味はない」
すまん、小十郎。
取り敢えず、心の中で詫びておいた。
「そんじゃ、取り敢えず行きましょうか」
前もって買っておいた切符を差し出す。
「今日は全て俺が奢りますんで」
「それは我が提言した見返りには含まれておらん。贖罪のつもりか?」
「いえ、男の意地です」
「ぬぅ? ……ならば致し方ないな」
きょとんとした後、フッと笑って切符を受け取ってくれた。

改札口の機械を俺は難なく通過した。
しかし、後続の揚羽さんはゲートが開かず立ち往生している。
「ええい、おのれ…通さぬか無礼者!!」
今にもゲートを破壊して強行突破しかねない。
「揚羽さん、落ち着いてください!」
「下がっておれ! 機械如きが我のゆく道を妨げるとは許さん!!」
「切符は!?」
「勿論持っておるぞ。ほれ、この通り」
「通さなきゃ駄目なんです!」
揚羽さんに指示して、機械に切符を入れさせる。
途端にあっけなくゲートは開いた。
「おお、遂に我が前に平伏したか! フハハハハハハハハハハーッ!!」
衆人環視の中で高らかに笑っちゃって。
「レンよ。この勝利はお前のおかげぞ」
まあ、褒められて嬉しかったからいいけど。
後で聞いたら、やっぱり電車に乗るのは初めてだったらしい。


電車に乗って、およそ30分。
目的地である松笠に到着した。
七浜に来て日の浅い俺が地元の人間を偉そうに案内できる筈がない。
だったら、他の街の方が揚羽さんにとっても新鮮味があるだろうという判断だった。
でも、一応確認しておくか。
「この街に来た事は?」
「ない。だが霧夜の成金娘はもとより、我が宿敵である鉄一族の女も住まう地と聞き及んでおる」
「じゃあ、やっぱり小十郎連れてきた方が良かったんじゃ…」
「今はお前がおるだろう。我の背を預けるにはまだ役不足だが」
「いざとなったら、足引っ張らないくらいには頑張りますけどね」
でも、せっかくの遊楽日和なんだし、願わくばその宿敵と遭遇しない事を祈って。
どんな奴なのか、少し興味あるけどな。
「さて、レンよ。まずはどうするのだ?」
「では…手始めにお昼にしましょうか。何かリクエストは?」
「お前に全て任せよう」
「わかりました」
バックからメモと地図を取り出し、前もってリストアップしておいた店から一番近い店を選ぶ。
ミューさんの手助けもあって下調べはバッチリだ。

駅から歩いてしばらく歩いて、一件の中華料理屋に辿りついた。
「ここが美味いと評判らしいです。あ、因みにここで食べれるのはラーメンと言います」
「ほう、これがかのラ・メーン……って、たわけ! それくらい知っておるわ!」
左手で殴られる。
「ぐはっ!!」
流石に知ってたか。
深窓――――ではないけど、お嬢様だから知らないと思ってたんだが(偏見)。
テレビや漫画みたいにはいかないぜ。
そう思っていると、揚羽さんはフッと笑った。
「されど、この店で食べた事はない。ゆくぞ!」


「おまちどうさまネ」
お団子頭の可愛らしい女の子が、注文した二種類のラーメンを運んでくる。
そこで、ふと思った。
「揚羽さん、利き腕はやはり右手で?」
「いかにも」
しまった。配慮が足りなかった。
利き腕が使えないんじゃ、箸はかなり難しい。
俺はなんて馬鹿なんだ……。
「あの…美味そうですが、店を変えましょうか」
「何故だ?」
「その手では食べにくいかと。すいません……近くに美味いカレー屋もあるとも聞いてますんで、
 そっちならスプーンですくえますし」
「よい。我はここで食べたいのだ、お前が選んだこの店で。それに、気合でどうとでもなる」
確かに、その気になれば左手で何とか食べられるだろうけど、どうしても行儀悪く見えちまう。
やっぱり女の子だし、みっともないのは気になるだろうからなぁ。
……よし。
「揚羽さん、一つ妙案が」
「何だ? 申せ」
言葉で言うよりは実践する方が楽なんだよな、これ。
備え付けの割り箸で揚羽のラーメンを少し挟み、そのまま麺を彼女の口の前まで持って行く。
「どうぞ、お召し上がりを」
「お、お、お、おおおおお前…」
揚羽さんの顔がほんのりと赤に染まる。
正直、俺としてもちょっと恥ずかしいけど。
「執事の十八番ですから…多分」
「そ、そうであるか。では頂くとしよう。だが、お前もちゃんと食うのだぞ」

彼女に食べさせつつ交互に俺も自分のラーメンを食って、何とか食事を終わらせた。
「デコの店も美味であったが、ここも中々のものよ。褒めてつかわす」
「それは恐悦」
「コンペイトウをやろう。共に食おうではないか」
丁度いいデザートになった。


食べ終えてから、俺たちは適当に町を散歩しながら映画館へ移動した。
目当ては『劇場版・大江戸大走査線』。
大昔に放映していた時代劇のリメイク映画らしい。
俺はよく知らないが、揚羽さんの好みにマッチしそうだったからチョイスしてみた。
「見た事ありますか?」
「九鬼の家でな。まこと良きものであった」
いまだ公開中なのに自宅で見れるとは凄いな。
流石は日本有数の大財閥だぜ(この場合はマイナスに働いたけど)。
「じゃあ、別のにしますか? それとも、他の所へ?」
「構わん。我はお前と見たいのだ」
その一言で決定した。
窓口でチケットを買った後、上映までまだ少し時間があるからベンチに座って時間を潰す。
因みに、ちょうど俺達で直後の上映分は売り切れになった。
話題のイケメン俳優が出ているせいか、若い人達にも人気らしい。
「ほう…おお……」
待ってる間、揚羽さんはあっちこっちを物珍しそうにキョロキョロ見回していた。
そういう一挙一動が酷く可愛らしい。
映画のCMが流れるテレビ、ロビーの販売フロアで売られているグッズの山々。
特に、子供が持っているポップコーンに興味を示したみたいなので訊ねてみた。
「揚羽さん。ポップコーンや飲み物は召し上がりますか?」
「食べてみるのも一興。買って参れ。飲み物は煎茶でな」
「ウーロン茶くらいしかないと思いますが……では、ここで少々お待ちを」
揚羽さんをその場に残し、売店へ向かう。
さっきの様子からするとポップコーン食べるのも初めてだな。
今日は『初めてづくし』になりそうで良かった。
そんな事を考えていたら、『次の時間帯にするか』と話し合っていたカップルの片方にぶつかってしまった。
「あ、すいません」
「いえ、こちらこそ失礼しました」
髪を短く揃えた、かなりの美人だ。
あと、シスコンとしての勘だがこの人はブラコンな気がする。
一緒にいる男が恋人というより弟といった感じなのもそのせいか。
互いに頭を下げあって、すぐに擦れ違った。


帰還早々、揚羽さんはさっそくポップコーンを一つ摘まんだ。
「ふむ…何とも味気ない洋菓子である」
感想を述べた途端、訝しむように眉をひそめる。
「どうしました?」
「何やら近くに妙な気を感じるのだ。それも三つ。うち二つは因縁めいておるが…よくわからぬ。
 片方はかなり微弱であるしな。どうもお前と共におるとドーキが邪魔して気を探れん。
 先の下郎の時も、それで殺気を感知し損ねた」
「ドーキ?」
疑問に思ったところで、入場可能を告げるアナウンスがかかった。
「あ、そろそろ時間のようです」
「左様か。では参るぞ」

映画を見終わった後、他にもドブ坂とかを色々回ってから七浜に帰ってきた。
「我は満足したぞ。お前も楽しめたか?」
「充分すぎる程に」
「ならば、行った甲斐があった。では、さらばだ」
立ち去ろうとする揚羽さんを慌てて引き止める。
「送っていきます」
「よい。行きも一人であったからな」
「そういうワケにはいきません。夜は流石に危ないですから」
「我は一人で帰れると申しておるのだぞ」
「九鬼グループの令嬢なんて、俺なんかよりよっぽど高確率で狙われます。
 そりゃあ揚羽さんが強いのは知ってますよ。けど、今は右手が使えません」
「鉄や橘以外の敵など、左手と蹴りで十分だ」
「俺は万が一の可能性も無くしたい。殴られても蹴られても罵られても、絶対送り届けます。
 とにかく、一人じゃ帰しません。それが嫌なら、せめて小十郎を呼んでください」
「強情な奴め」
「意志が強いんですよ」
「フハハハハハハハハハハハハ!!」
いきなり吹きだした。
唖然とする俺に、揚羽さんは小さく微笑む。
「どうした? 我を送り届けるのであろう?」


「ここでよい」
堀にかかる橋の手前で揚羽さんが言った。
橋の先には立派な門があり、『九鬼』という表札が掲げられている。
すげぇ武家屋敷だ。
「いずれまた我が友夢を送迎する際に会えるであろう。ゆえにこの別れに涙はいらぬぞ?」
「泣きませんけどね。今後も宜しくお願いします」
「さらばだ。フハハ!!」
「それでは」
お互いに背を向けて、反対方向に歩き出す。
距離がだんだん遠くなっていくのが正直寂しい。
もう少し長く揚羽さんと一緒にいたかったのかもな。
きっと、彼女の賑やかさに慣れちまったせいだろう。

「レン、この前はご苦労だった」
揚羽さんと遊んでから三日後。
夢お嬢様を迎えに学校まで行くと、小十郎と遭遇した。
「いや、こっちこそ。ずっと腕立てしてて大変だったろ?」
「ああ。まだ腕が上がらない…だが、これしきで根はあげていては揚羽様の従者たる資格はないさ。
 いい鍛錬にもなったからな」
「それにしても、揚羽さんは予想以上に世間知らずだったぜ。あ、これ悪口じゃないぞ? 
 純真っつーか、感心してるんだ」
「その通りだ! 揚羽様は汚れ無き天使のような御方! 無垢なる魂の持ち主!!」
「綺麗な心の持ち主ってのは同感だが…その言い方だと俺が揚羽さん染めちまったみたいだな」
「い、いや、そんなつもりではなかったんだが…すまん」
「わかってるって」
「揚羽様も大層満足されておられたぞ。ご帰還なさってから、ずっと嬉々として話されていた。
 あれほどお喜びになられている揚羽様を…俺は…いまだかつて見た事が無い……」
最後の方は、何故か搾り出すように小さな声になっていた。
「…レン、お前は揚羽様を……」
「ん?」
「いや、何でもない。気にしないでくれ」
それっきり、小十郎は何も言わなかった。


まだ少し冷える5月の朝。
俺はわざわざ早起きして、ベニ公の指示のもと料理を作っていた。
『今度我に弁当作って来い』
夢お嬢様を迎えに行った時、そう揚羽さんに言われたのがキッカケ。
『お前の弁当を食べてみたいのだ、我は』
とまで言われると、俄然やる気が出てくるぜ。
……あれ、何でだ?
「こら、ボケっとしてないでかき混ぜんかい」
「やべっ!」
慌てて菜箸でフライパンの中の卵をかき混ぜる。
「ったく……そもそも和食は鳩の得意分野でしょうが」
「鳩ねぇに教えて貰うと甘えが入っちまうからな。
 いいじゃねぇか、俺は料理作れてお前も和食の勉強ができる。
 お互い悪くない取引だろ?」
「そう思ったから協力してやってんのよ。んじゃ、次は鶏肉の番」
「おう」

何とかできあがった料理をランチボックスに詰めて、布で丁寧に包む。
それを持って外に出ると、先に待っていたナトセさんが寄って来た。
「夢のお弁当以外に美味しそうな匂いがするよ、レン君」
「これだけはあげられません!」
「そんなぁ…」
「余ったおかずが台所にありますから、ベニ公に許可貰って食べてください」
「うん、わかったよ!」
物凄いスピードで家へと走っていくナトセさん。
「それ、アゲハちゃんのだよね?」
「はい」
「う〜ん……夢としては複雑だよー」
「お嬢様…」
進展が無いとはいえ、俺は一応ボーイフレンド。
しかも、『ごっこではすまされなくなってきた』と森羅様に釘を刺された。
けど、俺自身は……。


「おはよう、レン! そして我が友夢よ!」
校門に到着すると、待っていた揚羽さんが声をかけてきた。
「お、おはよう…アゲハちゃん」
「おはようございます」
挨拶すると、さっそく包みを差し出す。
「この前言われたとおり、弁当作ってきました。もし良かったらどうぞ」
「おお」
ご飯の上に敷き詰めた鶏肉と卵のそぼろ。栄養バランスを考えたホウレン草のおひたし。
揚羽さんのキャラ的に和食で固めてみた。
洋食も好きという可能性も考えたが、初回だからいいだろう。
勿論、左手で食べれるようにスプーンを添えてある。
「あまり上手くできなかったかもしれませんが…口に合えば幸いです」
「フハハ! 美味しく頂いてやろう」
「レ、レン! 揚羽様の弁当は既に俺が作ってきているんだぞ!?」
「我が話している最中だ、うつけ者がっ!!」
「ぐああああっ! 申し訳ありません、揚羽様ああああああっ!!」
殴られ、謝りながら小十郎は数メートル吹っ飛んでいく。
「案ずるな小十郎、お前の弁当もちゃんと食べてやる。成長途上の我はより多くの栄養を摂取せねばならんのだ」
「あ、ありがたき幸せにございます! 揚羽様っ!!」

「馳走になった」
下校時間になりお嬢様を迎えに行くと、揚羽さんから空っぽになったランチボックスを返される。
「悪くなかったぞ。まだまだ荒削りであったがな」
「まあ、料理始めたばかりですので」
「しかし、我好みの良い味をしておった。今後も精進しろ。また作って…いや、お前の次の休暇はいつだ?」
意味がよくわからないまま、素直に日にちを告げる。
「その日、今度はお前が我に付き合え。その時に作って来い。また食べたいのだ」
「え? 大丈夫だと思いますけど」
味見した限りでは、これまで俺が作った料理で間違いなく最高だった。
でも、そう簡単に唸らせるほど上手くできるなんて最初から思ってなかったし、
もっと頑張ってやるぜ。
……どうしてこんなに張り切ってんだ?


「行ってらっしゃいませ、揚羽様!」
楽しげに出かけていく揚羽とは裏腹に、見送る小十郎の表情は冴えない。
主君は自分にとっての全てだ。
彼女の幸せを心から願っている。
だが、いざそうなると自分は邪魔にしかならない。
そんなジレンマが彼を苛んでいた。
「揚羽様が幸福ならば……俺は不幸でいい」
心を押しつぶすような低い声で、彼は己に言い聞かせる。
一歩間違えれば自分の存在を崩壊させかねない危険な考えを必死で打ち消す為に。
そうだ、今は余計な事を考えている場合じゃない。
ここ最近、上の者達が妙にざわついている。
その理由について、心当たりはありすぎた。

「レン、もう来ておったか」
リュックサックを抱いて公園のベンチに座っていると、揚羽さんが現れた。
そこで、ふと気づく。
彼女の右手に包帯がない。
思わず、その手を取ってまじまじと見つめる。
「お、お、お前…」
「……傷、残らなかったんですね」
「む? この通りである」
手の甲にも掌にも傷跡はない。
白い手は陶器のように滑らかだった(マメはあるけど)。
治療した名医と脅威の治癒力に感謝を。
「良かった……ホント良かった…」
「我はそこらの軟弱な女と違って、傷くらい何とも思わぬが……お前がそう思うなら良しとしよう」
顔を緩ませたかと思うと、いきなりハッとして。
「い、いつまで握っておる! たわけ!!」
「ぐおっ!」
復活を遂げた右手で殴られた。
「と…ところで今日はどちらへ?」
「やがてわかる。走ってゆくぞ! ついて参れ!!」


竹やぶを抜けて東屋に着くなり、疲れ果てた俺はどっと倒れこんだ。
「これしきでへばるとはヤワな奴め」
「そ…そ……そう…言われても・・・・」
だって、ミサイル並みのスピードで爆走するし。
豆粒くらいの後姿に喰らいついていくだけで限界だった。
対して、揚羽さんは呼吸一つ乱れず涼しい顔をしている。
「…ここ、どこなんですか?」
一体どれくらい時間が経ったんだろう。
どういうルートで来たのかもはっきりとは憶えていない。
七浜どころか、もう別の県なんじゃねぇか?
「我お気に入りの場所だ。我の許しなくして、誰であろうと立ち入る事はできぬ。
 もし侵入すれば末代まで制裁を下してやるわ! フハハハハハハ!!」
つまり、揚羽さんの私有地って事か――――って、違う。俺は現在地を知りたかったんだ。
「時にレン。弁当は持ってきておろう?」
「言うに及ばず」
やっとこさ起き上がり、リュックサックから重箱を取り出して広げる。
今回は実験的に色々作ってきた。
「まずは我が味見をしてやろう」
箸で適当におかずを摘み上げ、口へ運ぶ揚羽さん。
「やはりまだまだだ。しかし、着実に腕を上げている」
「頑張りましたから。そう言って頂けて嬉しいです」
「どれ、口を開けい」
「はい?」
「我の命であるぞ、早くせんか」
揚羽さんに命じられるまま、口を開いた。
直後、ブロッコリーの塩茹でを口にそっと放り込まれる。
「どうだ? 先のラーメン屋における我の気分が味わえるであろう? フハハハ!!」
「揚羽さんの気分と言われましても…」
俺自身は幸せな気分なんだけどさ。


食後に恒例のコンペイトウを貰って食べると、体力が全回復した。
「糖が回った! 力が沸いた!」
そうなると、疲れ果てていた時は目に入らなかった景色に気づく。
東屋の周辺はどこまでも続く一面の花畑。
色とりどりの蝶がひらひらと乱舞している。
草の香りも風の音も澄みきっていて清々しい。
「退屈ではないか?」
「そんな事、思いもしませんよ。揚羽さんがいればどこだって楽しいですから」
急に揚羽さんの顔が赤らむ。
「空気も美味いし、何より綺麗です」
「夏はもっと美しいぞ。花もさらに咲き乱れおる。この領域内に別荘を設けた程だ」
「そりゃあ是非とも見てみたいですね」
この風景は都会では味わえないだろう。おまけに、夏場はこれ以上ときた。
到着するまでは確かに大変だったが、あの苦労も惜しいもんじゃない。
そうは言っても、車で来た方が遥かに楽なんだが。
「そもそもは祖母様の土地でな。我は高校入学祝いとして譲り受けたに過ぎん。
 幼き頃、祖母様に連れられ初めて訪れた日の感激は今でも鮮明である。
 ただ、祖母様もお年のせいであまり外出できなくなってしまってな…恐らく、もうここには来れぬであろう」
花畑を一望する顔に浮かんでいたのは、初めて見る悲しげな表情だった。
「だから今日は花を摘みに来た。配下の者に命じるのは容易いが、我自身の手で摘み取り、
 我自身の手で祖母様に渡さねば気が済まん。だが、お前は許す。手伝え」
「その…俺なんかが手伝ってもいいんですか?」
「構わん。我が愛するお前ならば」
さりげなく言われた――――。
思わず口籠る俺に、揚羽さんは続ける。
「お前と我が友夢がまがりなりにも恋人同士だという事は承知しておる。
 ただ、これは揺ぎない我の本心だ。
 正直に申せば、我はお前を夢から奪いたいとさえ思っている。
 それが裏切りであろうと、たとえ夢とあいまみえる事になろうとも」
力強い眼差しが彼女の決意を物語っていた。
「心の中に閉うには溢れすぎる想いだからな」
その言葉で理解する。俺が答えを出すのを求めているんだと……。


夢お嬢様から提案された時、断っていれば良かったのだろうか。
本当に愛していない相手とは、形だけとはいえ恋人同士になれないと。
そうすれば、夢お嬢様だって傷つかずに済んだかもしれない。
待て、よく考えろ。
何でもう夢お嬢様が傷つくと確信してる?
このまま夢お嬢様と付き合うなら何の問題もない筈だろ?
どうして関係破綻が前提になってるんだ?
それはきっと。
間違いなく。
――――俺の心が既に決まっているからだ。
手を怪我させた罪悪感がそうさせてるのでも、告白されてその気になってるのでもない。
強さと気高さと豪快さと優しさと可愛らしさと笑顔。
彼女の全てに、いつのまにか惹かれていた……。
「揚羽さん」
彼女の瞳をまっすぐに見つめて。
「俺だって好きだ」
いざ面と向かって言ってみると、やっぱり恥ずかしいというか照れるというか。
ただ、それ以上に情けなかった。
「ようやく気づけた。多分…かなり前から気になってたと思う。
 でも、キッカケ貰わなきゃ自分の気持ちさえ自覚できねぇなんて…」
うつむく俺の頬に、揚羽の手が伸びて触れる。
「全くだ、この愚鈍め…それに、この我が見初めた男ならばもっと熱い告白をしろ。
 今のは淡白すぎる。今度は我の魂が熱く燃え盛るほどにな」
随分と無茶を言ってくれるぜ。
貧しいボキャブラリーを必死に活用して、思いつく限りの愛の言葉を叫ぶ。
「俺はお前に出逢う為に生まれてきた!」
「出逢っただけで満足するな! その程度か!」
「この魂は、お前への愛と共にあり!!」
「当然である! まだ足りん!」
「お前が好きだっ!! お前が欲しいっ!! 揚羽あああああああああああっ!!!!」
「我もだ」
聞き返す隙もなく、俺は揚羽に唇を塞がれた。


キスの雨が降る。
体重が圧しかかる。
腕と指が絡まる。
汗が混じる。
身体が跳ねる。
声が迸る。
甘い痛みが拡がる。
快感が押し寄せる。
心が溶ける。
全てが一つになる――――。

花畑からそれほど離れていない別荘。
別荘といっても久遠寺邸よりもでかい屋敷だ。
普段は無人だが定期的に管理人が掃除しているらしく、ゴミ一つ落ちてない。
「強く…」
「ん?」
「強くなれたであろうか? 我も、お前も」
隣に横たわる揚羽が訊いてきた。
畳の上に敷かれた布団の中は真夏みたいに暑い。
お互いの体温のせいだろう、抱き合っているから。
「我に房中術の心得は無いが、どうかと思ってな」
「こんなお手軽な方法で強くなれるなら、誰も苦労しないだろ」
「なるほど、確かに。まあ、少なくてもお前が力をくれる事に相違ない」
柔らかく微笑みながら、さらに揚羽が身体を寄せてくる。
「我はしばし眠る。このままでいろ。目覚めたら花を摘むぞ。
 祖母様と我、そしてお前の好きな色の花をそれぞれ…たくさんな」
そう言って、揚羽は眠りにつく。
「ああ、たくさん摘もう」
美しく穏やかな寝顔を崩さないよう、俺はそっと彼女の髪を撫でた。

心地よい眠りと甘い充実感が揚羽の勘を鈍らせていたのか。
外の竹やぶで、何者かが蠢いていた事に二人は気づかなかった。


すっかり日が暮れた頃、ようやく九鬼邸の前に到着した。
案の定、俺は肩で息をしてるような状態だ。
「またしてもか。鍛練が足りぬ証拠だ」
「いや、大丈夫……今度は…もう少しマシになってる筈だから…」
これだけ運動(色んな)すれば体力つくだろう。
その前に、明日の筋肉痛と疲労がちょっと心配だ。
鳩ねぇにマッサージして貰おう……ちゃんとケジメをつけてから。
夢お嬢様にも全て打ち明けなきゃならない。
どれだけ傷つけちまうだろう。
それでも、自分の気持ちに嘘はつけねぇ。
「後日、久遠寺家に出向くぞ。お前を正式に引き抜く為にな」
「……そうだな…」
夢お嬢様を裏切っても、そのまま久遠寺で働くなんて虫のいい事は考えちゃいない。
森羅様・ミューさん・大佐・鳩ねぇ・ナトセさん・ベニ公・デニーロ・ハル。そして、夢お嬢様。
みんな俺にとってかけがえのない家族だ。
「それでも後悔はしない」
「我もだ」
俺の左手と揚羽の右手が重なり、指と指がしっかりと絡まる。
「我にお前がついているように、お前にも我がついている。
 我ら二人のこの手なら、いかなる問題も突破できよう
「お前が言うと、ホントにそう思えてくるよ」
「事実であるぞ。フハハハ!」
ひとしきり笑った後、静かに唇が重なりあう。
長い長いキス。
「では、またな!」
「ああ!」
最後に強く握り合った手も、やがて離れた。
今度は寂しくなんかない。
これは、また会うまでの一時的な別れなんだから。

しかし、次の日もその次の日も。
揚羽と小十郎に会う事は無かった――――。


(作者・名無しさん[2007/09/17])


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