ベニから妊娠3ヶ月を告げられて早一日。
森羅様たちはわざわざ各々のスケジュールを変更してまで祝いの宴を開いてくれた。
ベニへの負担を気遣ってか、出前を大量に頼んでの豪華絢爛などんちゃん騒ぎ。
本当に感謝してもしきれない。
まあ、たくさん注文したのはナトセさんの存在が大きいんだけど。
「麗羅(れいら)にしろ」
「は?」
「レイラ…とは?」
俺とベニが森羅様に呼ばれるまま傍に行ったら、いきなりそう告げられた。
「名前だ、名前。子供の名前だ。私の誇り高き名を一文字やろう」
「ねぇ」
「甘いわね、姉さん。それは原則的に女の子限定の名前よ。レン、ベニ、有希(ゆき)にしなさい。これなら男女どちらにも使えるわ」
「ねぇ」
「私がこの名と決めたんだぞ? 生まれてくる子も女の子に決まっている」
「何を訳のわからないことを」
「ねぇ」
「その名は私とミューたんとの子に取っておけばいいさ。さっそく今夜から子作りに励もう、ハァハァ…」
「断固拒否するわ!」
「ねぇってばー」
子供の名前について(妙な方向に発展していった気もするけど)言い合う森羅様とミューさんに、夢お嬢様がバタバタと手足を振って自己主張していた。
「んもう、シンお姉ちゃんもミューお姉ちゃんも聞いてよー。夢は我夢(がむ)か明日夢(あすむ)がいいと思うんだ」
誇らしげに胸を張る夢お嬢様。
「いい名前だとは思うけど、特撮から持ってきたわね」
「引用するのが悪いとは言わないが、できる限り悩んでまごころをこめてつけてやるべきだぞ」
「ガーン!!」
お気の毒に。
「よーし、それじゃあ俺様が祝いの歌を歌ってやるぜ!」
デニーロが拡声器を展開する。
「「やめろー!!」」
以心伝心か、俺とベニは同時に叫んでデニーロにスライディングを放った。


ダブルキックを喰らってデニーロが宙を飛ぶ。そして、やがて落下した。
「な、なにすんだよ!」
「アンタの超音波で、もしものことがあったらどうしてくれんの!!」
お腹に手を当ててベニが怒鳴る。
今のスライディングも十分危険だったんじゃないかと思うが、ベニのことだから大丈夫だろう。
「なにぃ…俺様の歌を馬鹿にすんのか! ベニスのくせに生意気だぞ!」
「うるさい、潰すぞ!」
いがみ合うベニとデニーロ、それを優雅に見物する森羅様、呆れて仲裁する気も失せたミューさん、さっきのショックから一転して妄想に浸っている夢お嬢様。
感慨深げに酒を飲む大佐、悔しい悔しいとすすり泣く鳩ねぇ、床に落とした料理の跡を異様な気迫で拭くハル、夢中で料理を食べ続けるナトセさん。
いつもと変わらない、けどかけがえのない光景を眺めて俺は微笑む。
だけど、これは自分の中の不安を隠す為の微笑みだった。


確かに、ベニと付き合ってから俺は今までいない幸せを味わっている。
あの発作的な悪夢も、もう俺を苦しめることはなかった。
でも、不安が消えない。
確かに子供――――それも、ベニとの子供ができたと知った時は心底嬉しかった。
もし父親になれたら、子供の頃自分がそうして欲しかったようにめいいっぱいの愛情を注ぎたいと思う。
それは本当に、心からの正直な気持ちだ。
だけど、幸せになればなるほど、時間が経つほど、ベニのお腹の中で子供が育っていると思うほど、不安も大きくなっていった。
『親に虐待された子は、その子供にも虐待を行う』
どこかで聞いたそんな連鎖方程式が、否応なしに頭に浮かび続ける。
仕事に集中している時も、忘れているようでどこかに引っかかっていた。
我ながら情けねぇよ。
人生がようやく輝き始めたと思った矢先にこのザマだ。
「くるっくー。気に病んでますねー」
宴会後、廊下の手すりで黄昏てると後ろから鳩ねぇが声をかけてきた。
誰にも見られないように気を配ってたんだけどな。さすが鳩ねぇだぜ。
って、これは関心することじゃないか。
「何をそんなに悩んでるのかバレバレですよ、レンちゃん」


「……よくわかったね」
「あ、姉をみくびるようになってしまったなんて……そこまでベニちゃんに毒されてしまったんですかー、レンちゃん…」
よよよと泣き始める鳩ねぇを慌てて宥める。
ベニを愛してるけど、鳩ねぇも姉として大事だからな。
「まあ、冗談はさておいて。私はレンちゃんは大丈夫だと信じてますよ。頭でっかちな学者さん達の戯言に当てはまるようなレンちゃんじゃありませんから。その人たちより遥かに頭脳明晰なミューちゃんだってそう断言すると思いますよ」
「うん…だけど、ね」
俺が俺を信じることができない。
怖いんだ、オヤジよりも俺自身が。
こんなことは早く終わらせたい。
だから、ずっと考え抜いてようやく搾り出せた決意を言う。
「明日……ウチに行ってくる」
その言葉に、鳩ねぇが目を見開いた。
「どうすればいいかなんてわかんねぇ……でも、もうあのクソオヤジから逃げたくないんだ。あの野郎をブッ飛ばしてでも何でも、どんな形でもいいからケリつけたいんだ」
わざわざ自分からクモの巣へ飛び込むような行為かもしれない。
あいつと顔を合わせたら、また震えて動けなくなるかもしれない。
それでも、もうあいつの影に怯え続けるのは嫌だ。
いや、俺のこと以上にこれから生まれてくる子供まで巻き込むのが嫌だった。
何も知らずに生まれてくる赤ん坊くらい、何の負い目もなく抱きしめてやりたい。
「お仕事はどうするんです?」
「この後、森羅様に相談してくるよ。ホントはちゃんと休暇を申請したかったんだけど、先延ばしにするみたいで嫌なんだ。このまま何だかんだで理由つけてズルズルと引きずっちまいそうで。そうなってもホッとするのは俺だけで、子供は待ってはくれないから」
「……私も一緒に行きますよ」
優しく微笑んで、俺の肩にもたれ掛かってくる。
この場にいるのは俺だけじゃないと確認させてくれるように、柔らかく手を重ねてくれた。
「ありがと。でも……これは俺が自分一人でやらなくちゃいけない気がするから」
そうしなきゃ、俺は多分――――いや、絶対に前に進めない。
「偉いです、レンちゃん。ご褒美に私も妊娠してあげたいですー」
「いや、それはちょっと…」
残念そうに肩をすくめる鳩ねぇ。


でも、ここだけの話。
実は一瞬魅力を感じてしまった……すまん、ベニよ。
「あのさ、ベニには内緒にしてくれる?」
「いいですよー。さっきも色々とベニちゃんを脅かしちゃいましたから、これ以上余計な心配させるとレンちゃんの赤ちゃんに悪いですからね。ベニちゃん自体はどうでもいいんですけど、共生関係ですから仕方ありません」
「え? 脅かしたって?」
「それはこっちの内緒ですー」


「いきなりだな」
「すいません」
森羅様のお部屋で、俺は何度目か忘れるほど頭を下げた。
「最初に言っておく。明日はかーなーりマズい。もっと前に言えば何とかなったものを……何故そうしなかった? 仕事というのはそう甘いものじゃない。わかっていると思ってたのだがな…」
「本当に…すいません」
「ベニもあの身体だ。だからこそ、あいつの負担を減らした分お前に頑張って貰うつもりだったんだぞ? 何故だ?」
「それは……」
「……訳も言えん、か。ベニはなんと言っていた?」
「いえ、ベニはこのことを知りません。知らせたくないんです」
「なに?」
「お願いします、明日一日だけお休みさせてください!!」
俺の反応がただごとではないと察したんだろう。
凛とした瞳で森羅様がじっと見つめてくる。
思わずたじろぎそうになったけど、でも視線は逸らさない。
「……全く」
しばらく黙っていたが、諦めたように森羅様は溜息をついた。
「仕方ないな。諌めても無駄なくらいお前の決意が固いのは目を見ればわかる。明日一日だけ好きにしろ。理由を聞くなんて真似もしないさ。無論、ベニにも黙っておいてやろう」
「ありがとうございます!!」
最大の感謝をこめて、もう一度深々と頭を下げる。


「ただし、当分は休みなしだぞ。いいな?」
「はい!」
何度もお辞儀尾をして、部屋を出て行く。
森羅様、本当にありがとうございます。
あとは、ベニに勘づかれないように仕度をするだけだ。


「やれやれ。似た者同士、悩みごとも最終的には一緒……か。頑張れよ、レン」
パンダのヌイグルミを弄くりながら、ベッドの上で森羅は静かに呟いた。


夜明け前。
早起きが習慣になってるベニよりも先に目を覚まして、彼女を起こさないように気をつけながら着替える。
それでも、部屋を出る際にベニの頬にキスすることだけは欠かさない。
始発電車に飛び乗って七浜から東京へ、東京からさらに乗り換えて数時間。
そしてようやく、俺は生まれ育った町へ着いた。
特に懐かしいとは思わない。
記憶に残るような良い思い出がないからだろうか。
あったとしても、それを上回る数の嫌な思い出があるからだろうか。
そんな事を考えながら家への道を歩いていく。
たまにかつてのご近所さんとすれ違うが、大抵は俺を見て驚いたような困ったような微妙な表情を浮かべていた。
まあ、無理もねぇか。
「……変わってねぇな」
前にそびえるのは、もう何があっても戻れないと思っていた家。
外観は飛び出した頃とあまり変化はないようだ。
ただ、少し寂れたような気もする。
ドアノブに手をかけて回すと、鍵は開いていた。
いるのか、あいつ。
そうでなくちゃ、来た意味がないんだけどな。
意を決して、中へと進んだ。


雨戸を締め切っているから真昼間だっていうのに薄暗い。
コンビニ弁当のパックやその他諸々のゴミがあちこちに放置され、残飯には蝿がたかっている。
どれだけ生活能力ないんだ、あの野郎。
下手すると、俺と鳩ねぇが出て行ってから一度も掃除してないのかもしれない。
もしハルが見たら全身全霊で掃除に取り掛かるぞ。
執事としてのクセか汚れ具合をチェックするように各部屋を回っていき、居間を覗きこんだ時だった。
「……ん…」
低くくぐもった呻きが耳に流れてきて、居間の片隅でもぞもぞと何かが蠢いた。
「ん…あぁ……テメェ……」
誰の声かなんて、消去法でわかった。
この家に住むのは一人しかいないから。
「テメェ………レン……か?」
あと少しでも気を緩めていたら、間違いなく目眩を起こしいていただろう。
正直、怖かった。
こいつが怖いんじゃない。
また恐怖で動けなくなることが怖かった。
もしそうなったら、ここに来た意味がなくなっちまう。
俺は、あの地獄のような生活に逆戻りする為に帰ってきたんじゃないんだ。
「ああ、そうだよ。オヤジ」
返事と同時に、忌々しい諸悪の根源を目を凝らして睨む。
そして、愕然とした。
思い出は時間が経つにつれて美化されるというが、俺の場合も当てはまるんだろうか。
尊い記憶でもないのに、目の前のクソオヤジは俺の憶えている姿より貧弱だった。
髪はボサボサで、何日も洗っちゃいないだろう。
顔も土気色で瞳は濁りきっていた。
頬も痩せこけている。
「ようやく戻ってきやがったか……随分と久しぶりだなぁ。嬉しいぜぇ、レンよぉ…このクズ息子が…」
酒の飲みすぎのせいで声も掠れていた。
これが本当に俺をずっと苦しめ続けたクソオヤジなんだろうか。
だとしたら……俺がアホみたいだぜ。


「おい…美鳩はどうした?」
「…鳩ねぇはいねぇよ」
そう答えたら、手元にあった缶ビールの空き缶を投げつけてきやがった。
昔の俺ならここで震え上がってマトモに喰らっていただろう。
だが、今は違う。
蚊を叩き落とす要領で弾き飛ばす。
軌道を逸らされた空き缶が、何度か床を跳ねて止まった。
それが試合開始のゴング代わりにでもなったのか、オヤジが飛びかかってくる。
この家にいた時みたいに殴ってくる。
だけど――――まるでスローモーションだ。
大佐との闘いで俺が強くなったと自惚れていいのか、それとも不摂生のツケが回って親父が弱くなっただけなのか。
できれば、前者がいいけどな。
余裕で払い退けると、続けざまに第二撃が迫っていた。
それすら顔を逸らせて回避する。
距離だけ見れば紙一重、拳の風圧が頬を掠めた。
でも、避け方は完璧だ。そんな遅いパンチ、当たる訳がねぇ。
何だよ、これならスタンガンを突きつけた時のハルの方が速かったぞ。
「この親不孝者がっ!」
タイミング的に避けられないとわかった拳は右手で掴み取る。
大した事ねぇな、大佐の攻撃の方が何億倍も痛ぇ。
「この…この……この…クソガキ……っ!!」
次々と繰り出してきても全部避けて空振りにさせる。
そうしていると、だんだんとスピードが落ちてきた。
もう息切れしてやがる、ミューさんより体力ないんじゃねぇか。
「ちっ……このっ!!」
息も絶え絶えに蹴りを繰り出してくる。
必死だな。いや、気迫が散漫になっているのが見て取れた。
心のどこかで命中させる事はもう諦めているらしい。
ハングリーさにも欠けてるぜ、ナトセさんを見習えよ。
でも、せっかくだから期待に応えてやるか。


蹴りを受け止めて押し返してやる。
「カスがあああああああっ!!」
反動でぐらつきながら殺気を孕んだ眼光をぶつけてくる。
昔はあんなに恐ろしかったのに、森羅様の迫力に比べたら笑っちまうぜ。
「ゴミがっ!! てめぇも美鳩も俺の為だけに生きてりゃいいんだよ!」
随分と自分勝手なこと言ってくれんな。
でも可愛いワガママだ、デニーロの足元にも及ばねぇ。
「言っとくけどな…俺はテメェの為に戻ってきたんじゃねぇよ!」
一気に間合いに入り込み、産まれた時からずっと蓄積してきた怒りをこめて力任せに腹部にパンチをねじ込んだ。
「ぐおおぉっ!!」
鈍い音と共に、オヤジの身体は吹っ飛んで壁に激突した。
そのままズルズルと床に崩れ落ちる。
「……ちっ」
拳に殴った感触が残ってる。
目の前で悶絶し、這いつくばる親父の姿。
ある意味、夢にも等しかった光景なのに――――何故か、虚しい上に哀しかった。
「…ホントならこんなもんじゃ済まさねぇ、済ましたくねぇけど……ま、こんなもんか。体調不良な野郎をいたぶる趣味はないからな」
「はっ、よく…言う……ぜ……」
ヨロヨロと上半身を起こして、俺を睨みつけてくる。
「弱りきった……俺を痛めつける為に…戻ってきたって訳か」
「それもいいかもな。けど、違ぇよ」
「じゃあ…何しにきやがった?」
「………子供ができた。鳩ねぇにじゃないぞ、惚れた女に俺の子供ができたんだ」
珍しく押し黙るオヤジ。
かと思ったら、いきなり天井を仰いで意味ありげに薄く笑いやがる。
鼓膜を直接撫でられるような感じがして、酷く耳障りだった。
「へぇ…おめでとう……とでも言って欲しくて帰ってきたのか?」
「勘違いすんな、吹っ切りたかっただけだ。テメェが散々可愛がってくれたおかげでイマイチ子育てに自信持てなくて困ってんだよ、いい迷惑だぜ」
「いや、心から祝福してやるよ。おめでとよ、レン……」
「!?」


どうせロクな意味で言ったんじゃないだろう。
わかりきってんだよ、そんなの。
だけど……心の奥底に嬉しがってる自分がいた。
この家に帰ってきたのも、本当はこいつの言うとおり祝福されたかったからなのかもしれない。
「女だろうと男だろうと、きっと憎たらしいほどテメェにそっくりだろうからなぁ」
「……?」
「てめぇのガキ、きっと母親を殺しちまうぜぇ? なんたってテメェの血ぃ引いてんだからな……親子二代で親殺し……く…くく……」
俺のせいじゃない。
俺のせいじゃないんだ。
仕方なかったんだ、母体が持たなくて。
他人に言い聞かせるようにして自分を無理矢理納得させても、罪悪感は消えなかった。
間違いなく一生背負い続けなきゃならない十字架。
今でも俺は母さんという代償に見合う存在なのかわからない。
「せいぜい悲しみな。俺と同じ苦しみ、ゆっくりじっくり味わえ。神様ってのは実に公平だよなぁ。俺だけかと思ってたら、ちゃんとお前にも貧乏クジ用意してくれてたなんてよぉ……」
何かが、弾けた。
身体が熱くなっていく。
堰き止めていた感情が噴出する。
止められねぇ。
気がついた時には、腕を伸ばしてオヤジの胸倉を掴み上げていた。
「だからどうした」
「ガキがぁ…離せ」
「最初から覚悟してんだよ、あいつに先立たれる事なんか」
「なにぃ……?」
「正直、アンタの気持ちもわかんねぇ訳じゃねぇ……いや、ついこの前まではわかんなかった。それ以上にわかりたくもなかったよ」
あいつが、大切になるまでは。
「惚れた相手が死んじまうなんて、それも二回も。そりゃあ悲しかったよな? つらかったよな? 苦しかったよな? 寂しかったよな? けどな、俺はテメェじゃねぇ!! 俺は被害者面も八つ当たりも責めもしねぇ。誰にだってな!」
「偉そうに…ダボがっ」
「不幸面しやがって、甘えんじゃねぇ。いい年して悲劇の主人公気取りやがって」


「どうとでも言ってな……どうせテメェもそうなるんだ、血の繋がった俺の息子だからなぁ」
「いや、なんねぇよ。言っただろ、最初から覚悟の上だって。俺はあいつより長生きしなきゃいけねぇからな」
「はっ…どんな理屈だ?」
吐き捨てるように嘲笑いやがって。
それが引き金になった。
服を握る手の力が一層強まる。
「俺が先に死んじまったら、ベニが悲しむだろうが!! だから俺はあいつより1秒でも長く生きてやる! 死ぬ訳にいかねぇんだよ!!」
生まれてから今まで誰にも、ましてオヤジ相手になんて想像さえできなかった大声で叫ぶ。
知らない人間の名前出されて訳わかんねぇだろ。
いいさ、これは俺が俺に言いたくて言ってるんだから。
もう一度、確かめる為に。
俺は母さんと等価なのかはわからないけど、だからこそ。
全てを賭けて、ベニと子供を幸せにしたい――――。
癪だけど、この覚悟はテメェのおかげだぜ。
ずっとずっと、一番大事な人が死んじまったら残された奴がどんだけつらいか見せつけられてきたから。
だから、もしその時が来て。
泣き叫んで、みっともなく喚き散らして、頭が真っ白になって、気が狂いそうになっても。
それでも、ベニを悲しませる事だけはしないで済むなら構わない。
「…それに、あいつを泣かせちまったら大佐に殴られるしな」
これはただの冗談。
でも、それが言えるほど俺の心にのしかかっていた何か重いものが少しづつ軽くなっていく。
この家の空気は澱んでいるのに、妙に清々しい気分だった。
気分が軽くなったついでに胸倉を掴んでいた手を離すと、オヤジは無気力に膝を着く。
「どうせ憶えてねぇだろうが………子供の頃キャッチボールしてくれた時、俺は嬉しかったよ。テメェの単なる気まぐれだったとしても、あの時間がいつまでも続けばいい……終わってもまた来て欲しい………本気でそう願ってた」
何でだろうな。
自分でも不思議なくらい、いつのまにか喋り始めていた。
忘れることで否定していた本心を。
「……」
「多分……今だって思ってる」


「……」
「……酒やめて真面目に働いて暴力グセ直してせ。ま、望み薄だけどな。でも、何年かかってでもそれができたんなら……」
心の底に押し込んでいた想いをすらすら出せた今ならわかる。
きっと、今日来たのは祝福されたい以上にこの一言を伝えたかったからだろう。
「いつか孫の顔くらい拝ませてやる」
それだけ言って、クソオヤジに背を向けた。
今度こそ本当に今生の別れになるのか、それともまた会う事になるのか。
背中越しに俺を罵倒していたのか、ただ呆然としていたのかもわからない。
でも、今はもうどうでもいいや。
つけたかったケジメは、ちゃんとつけられた気がするから――――。


駅に到着した俺は我が目を疑った。
何故だ。
ありえない。
ベニがどうしてここにいるんだよ。
最初は気分爽快になりすぎてハイになってしまったんじゃないかと思ったが、どうも幻覚ではないらしい。
幻覚なんぞがベニをここまでリアルに再現できるかっての。
しかし逆に、それが目の前の彼女は紛れもなく本物なんだと俺に思い知らせた。
「お前…」
何を言っていいかわからず、取り敢えず漠然とした言葉を口から出す。
それさえ遮るように、ベニが駆け寄ってく――――。
「このドアホーっ!!」
って、いきなり脳天にチョップかましてきやがった。
しかも、かなり本気で。
「アタシにも内緒で何やってんの!」
「お前、何でここに!?」
「鳩を問い詰めたら自白(ゲロ)したのよ。あとは森羅様にお許し貰って追っかけてきた訳」
「馬鹿な!? 鳩ねぇが口を割るなんて…」
「アタシをなめんな! ここ最近なんか一人でウジウジ悩み抱え込んでたと思ったら、黙って勝手にコソコソ動き回って。そんなの雅じゃないでしょ!!」


「だけど」
「鳩にだけ相談しといてアタシは蚊帳の外にしやがって!」
「……ヤキモチ?」
次の瞬間、今度は頭突きが飛んできた。
「うぐっ」
「電車の中じゃキモいメガネザルがコナかけてきて、そいつの連れのぎゃあぎゃあやかましいチビにはケンカ売られるし、散々だったわ!」
「おい、ちょっと待て…どこの馬鹿野郎がお前にコナかけやがった!? ブッ飛ばしてやる!!」
「いや、もういないし。どこのどいつかもわかんねーけど」
騒々しい、それでいて和やかな4人組の一人だったとベニは言った。
本人には分不相応な高級食材の名で呼ばれていたとも。
「でも、それもこれも元はといえば全部アンタのせいでしょ!!」
怒鳴るや否や、ベニは勢いよく突進してくる。
タックルか。
確かに悪いのは俺だし、甘んじて受け入れよう。
そう覚悟した俺の予想を裏切り、衝撃はなかった。
ベニはただ、俺の胸に身体と体重を預けてくる。
彼女の淡い唇から声が漏れた。
「……心配したんだからね」
「!!」
目を伏せ、深く息を吐いて。
その華奢な身体をそっと、だけど強く抱き寄せる。
体温も、吐息も、ベニの全てがこれだけ愛しいと感じた瞬間は今までなかった。
「ごめん……ありがとな」
東京行きの電車の中、俺はベニに全てを語った。
母親が自分を産んだせいで死んだ事も。
オヤジと喧嘩などした事はなく、いつも一方的に痛めつけられてきたのだと。
見栄を張って周りに嘘をついても、家では怯えながら生きてきたその空しい半生を告げた。
最後に、嘘ついたことを謝ったら。
「イチイチ赦すようなことでもないでしょ。ま、どっかの馬鹿がアンタのこと嘘つきって責めに来てもアタシが追っ払ってやるから安心しなさい」
そう言って、彼女は笑った。


その笑顔の眩しい事といったら……。
お前を好きになって、本当に良かったよ。


空に一番星が光る頃、ようやく久遠寺邸の前まで辿りついたら門の所が何やら騒がしかった。
森羅様・ミューさん・夢お嬢様・大佐・鳩ねぇ・ナトセさん・ハル・デニーロの面々。
うわ、見事なまでに全員集合してる。
土壇場の休日申請、しかも森羅様専属である二人ともだ。
いつぞやみたいなお仕置き、覚悟しなきゃな。
子供に万が一があるといけないから、お仕置きは俺が全て引き受けよう。
別に鞭打ちされたい訳じゃないよ? ホントだよ?
「なーに考えてんの。ほれ、行くよ」
ベニが背中を軽く叩く。
ホント、心強い奴だよ。
「すいませんでした!!」
「申し訳ありませんでした、森羅様!!」
まず真っ先に、二人揃って森羅様に頭を下げた。
「まあ、私が許可を出したし仕方ない。だが、レン・ベニ。二度目は無いぞ」
森羅様が厳しい言葉を投げてくる。
ワガママ言ってすいませんでした、この埋め合わせは必ず。
「しかし…何があったかは知らんが、わずか一日でいい面構えになったな小僧」
大佐はヒゲを整えてダンディに決めていた。
色々すっきりしたし、今度こそアンタを越えてやるさ。
「『お片づけ』は済んだようで何よりですー、レンちゃん」
鳩ねぇが微笑んできた。
ありがとう、今までも。これからも。
「でも……姉の前でいちゃつくのはあまり関心しませんねー。そろそろ鳩も鷹に変異する頃合です」
笑顔の裏から漂っている、凍りつくような殺気。
慌てて心当たりを探してみると、いつの間にかベニと腕を組んでいた。
お咎めなしに安堵したせいだろう。


「少しは場所をわきまえて欲しいわね」
ミューさんは呆れているが問題なし。
いいじゃないですか、これが愛です。
「全く、盛りのついたガキどもめ。始末に負えないぜ」
デニーロが悪態をつく。
お前にだけは言われたくないんだが。
「でも、これはこれで濃いよね。いいなぁ…夢も、夢もいつかバカップルなって濃く……えへへ…」
夢お嬢様が羨望の眼差しで見つめてきた。
あんまりトリップしない方が宜しいかと。
「大丈夫、夢もいつか良い人に巡り逢えるよ!」
ナトセさんはそんな夢お嬢様を励ましていた。
微笑ましいけど、お腹鳴ってますよ。
「う、う、ううう……まだまだ傷は癒えませんー…」
何故かハルは泣いていた。
どうしたんだ、お前。
「さて、お前達。二人も戻ってきたし、そろそろ夕食にしよう。ナトセもそろそろ限界のようだからな」
森羅様の一声でみんなが家へ向かい始める。
子犬のようにはしゃぐナトセさんは、気持ちが先走って早足になっていた。
「ごはん何かな? 楽しみだなー、早く食べたいなー♪」
「ベニちゃんが身勝手にも職場放棄したので、私が自慢の胡麻豆腐や甘鯛の笹巻きを作りましたー」
「おいコラ鳩!」
「次の機会はすぐ来ますから」
「もう来ねぇよ!」
「(無視)その時はおこわ風炊き込みご飯にしますねー」
そう聞いた途端、デニーロが鳩ねぇに近寄って何やら囁いた。
「なあ、美鳩。炊飯器の奴、あんまり酷使しないでくれよ? 薹が立ったら俺様の守備範囲外に……」
「こらぁ、デニーロ!」
「うわぁぁ、地獄耳すぎるぜー!!」
トコトコと、しかし本人は至って全速力で逃げてるつもりのデニーロをミューさんが追いかけていく。
この調子だと、一番着はデニーロになりそうだ。


そんなに急ぐ必要も無いし、俺はゆっくりと行こう。
ベニと手を繋いだまま、一歩づつ玄関へ進んでいく。
「ただいま」
ふいに、ポツリとこぼれ出た小さな言葉。
それを耳にしたのは隣のベニだけだった。
ベニは最初はきょとんとしていたが、すぐに微笑む。
「ん、おかえり」
誰よりも何よりも大切な奴の声と笑顔が、改めて実感させてくれた。
帰ってきたんだと――――。



響き渡る遥かな潮騒。
それに負けない軽快な音が、七浜公園に木霊した。
「いい球投げるじゃねえか、よしもういっちょ! へっへへ、今度は取れるかな?」
天高く投げられたボールが、極端な放物線を描いて落下する。
幼い子供はそれを捕ろうと慌てて駆け出す。
しかし間に合わず、それどころか勢いがあまって激しく横転してしまった。
「やべぇ、大丈夫か!?」
父親が慌てて駆け寄ろうとする。
だが、それまで傍で見物していた母親が制止した。
父親に代わって我が子へ歩み寄り、しゃがみこんで視線を同じ高さに合わせる。
その際、怪我がないか確認する事も忘れない。
「痛い? つらい? もうやめる?」
痛みに顔を歪ませているものの、子供は首を何度も横に振った。
「上等!」
母親はニッと笑い、子の髪をくしゃくしゃと撫でる。
「まだまだねー、相手のレベルちゃんと考慮しないと。ほら、ちょっち貸してみ」
「あいよ」
母親が父親からグローブとボールを受け取り、子供と距離を取った。
「フライってのは……こうすんの!」


母親が放った球は、絶妙な速度と角度で子供が掲げたグローブに収まった。
間髪入れず、子供がそれを一生懸命投げ返す。
コントロールはまだまだ未熟で無茶苦茶な軌道だったが、母親はそれを難なくキャッチする。
「腕、落ちてねぇな」
「はん、あったりまえでしょ。オラ、もういっちょ行くよー!」
両親それぞれが交代しつつキャッチボールの応酬は続く。
転ぶ事もしばしばではあったが、それでも根をあげずに頑張る息子をキャッチボールが終わった瞬間に両親は抱きしめた。
汗と汚れをタオルで拭った後は、芝生に広げたシートの上で三人寄り添いながらの昼食タイム。
「母さん、昔草野球チームに入ってたからな」
食事の最中も母の野球の腕前に感心し続ける息子に父親が言った。
「まだ現役いけるわよ。アンタがもうちょっと大きくなったらソフトボールにでも入ろうかしらね。アンタもアタシ達の息子だけあってけっこー筋いいから、これからもビシバシ鍛えてやるわよ。覚悟いい?」
「おいおい、本人の意志を尊重せにゃならんだろ」
「アタシとアンタの子よ? 野球好きに決まってんじゃない」
自家製ピザソースを薄塗りしたサンドウィッチを子供の口に運びながら、母親が笑って言った。
子供も料理の美味しさと褒められた嬉しさが混ざり合い、朗らかに笑う。
「無邪気に笑ってんなぁ。意味わかってんのかね?」
「まあ、無理強いするつもりなんて勿論ないわよ」
「誰よりもわかってるよ、お前はそんな事しない」
母親の頬が彼女の名前どおり朱に染まる。
そんな様子が相変わらず可笑しく、そして愛しい。
「野球が好きでも嫌いでも、どうにでもなるさ……これからも、ずっと一緒だからな」
「そうね、レン」
自分達を優しく包み込むように通り過ぎる心地よい潮風を味わいながら、錬はそっと静かに目を閉じた。
七浜に来てから今日までの日々を、心の中で反芻する。
姉と共に大道芸で生計を立て、未有を助けた事が縁となり久遠寺家に拾われた事を。
森羅の専属従者となり、朱子と常に諍いを繰り返した事を。
罰ゲームで彼女と共に大佐のナルシスト本を売りさばく羽目になった事を。
彼女と行った野球観戦が白熱して楽しかった事を。
山の中で彼女の優しさを知った事を。


大佐に彼女の過酷な幼少時代を聞いた事を。
彼女の誕生日に結ばれた事を。
そして、家族になった事を。
愛する人たちと共に過ごし、これからも歩んでいくに違いない燦然たる軌跡を――――。
「おーい、眠いんか?」
眠りの淵から自分を引き上げる声に、錬は瞼を開けた。
「ああ、いい天気だしな」
「そんじゃ、みんなで昼寝したら帰ろうか」

「我が家へ」


(作者・名無しさん[2007/08/19])


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