"潮騒よ この声を届けて" "夕凪よ あの人をここに運べ" "夜になり 人も海も眠るころ あの人に会えるから" "波よ 穏やかに いつまでも" 『鬼の棲む島』 1,(全13話) 小さい頃から、ビルに囲まれた街で育ってきた。 大きくなったら亡くなった父親と同じ、サラリーマンになるんだと信じて疑わなかった。 環状線を描く電車で通う会社、平凡な毎日、大きな起伏もなく刻まれる単調な生活のリズム。 …別にそんな生活が嫌になったわけではない。 ただ、見上げた電車の中の広告に、浮かぶ小さな島。あざやかな青い海。 その青に…吸い寄せられるような青に、あっさりと、グレイのスーツを脱ぎ捨てる決心はついた。 島につくと、港で、満面の笑顔の人々に出迎えらて、島の人々の心の暖かさを感じる。 その中で、1人だけ、笑っていない人がいた。 ひとめで印象に残る、眼鏡をかけた、真っ白な白衣の男。 口元に小さな笑みを浮かべているが、目は笑っていない。 男は俺の視線にすぐ気がつき、歩み出ると手を差し出す。 「どうも、この島の診療所で医師をやっているはたけカカシです。よろしく」 「…」 「海野さん?」 「…あ、ああすいません、はじめまして…海野イルカです。でも、…なんで、名前…」 会話に間が開いたのは、男にしては白すぎる肌と、染めたのか、珍しい銀色の髪に見とれていたからだ。 はたけカカシ医師はふっと気の抜けたように笑うと答えた。 「海野さん、ですよね。以前貴方が通っていた病院から、すでお体のことについてお話は伺ってます。 私が、今日から貴方の主治医です」 「…そうでしたか!よろしくおねがいします」 握手を交わす頭上で、みゃあみゃあとカモメが鳴く。 白い入道雲が、水平線を、どこまでも続いている。 はたけカカシとのはじめての出会いは、そんな夏の初めの頃だった。 会社に辞表を提出してから早三ヶ月年…ようやく引越しも、色々諸々の手続きも終えて、憧れの青い海に囲まれた島へ越してきた。 本土から95キロ北に離れた所。 豊かな自然を持つ、小さな港のある海の孤島。 この島は群をなしていて、その中でも一番大きい島が俺の住むこととなった島。その名を"沖ノ島"という。 真っ白なランニングシャツと、水着みたいな青い短パン、黒い長靴を履いて、自分よりも一回りも二回りも歳の離れたおじさんたちに連れられて、小さな漁船に乗せられて、漁の仕方を教わる。 網のかけ方はこうだ、竿を振り方はこうだ、魚の多く獲れる隆盛期はいつだ、この島のどこが穴場か。 都会から来た若者がそんなに珍しいかと尋ねたくなるほど生き生きと説明する漁師たちに、みっちり仕込まれて、夕暮れになるころにはへとへとになって港に下ろされる。 バケツを片手に、数匹の魚の絡まった大きな網を引きずりつつ、新しい我が家に向かう。 今日教わったことを口のなかでぶつぶつと呟きながら、ほころんでゆく顔を止められない。 クーラーの効いた会社での単調な仕事に比べて、なんとやりがいがあるんだろう。 生きた物に触れられる喜び、確かな生きているという実感。 大変だけど、明日からが楽しみで仕方ない。 俺のように、脱サラしてカントリーライフに憧れる人々は実は結構多い。 都会のごみごみとした生活にうんざりして、田舎の生活に夢を見るのだ。 「おい、そこの若いの」 しわがれた声。 海沿いの道をぽつんと1人歩いていて、背後から声をかけられて、俺のことだろうと思い振り返ると、年輪のように皺の刻まれた小さな老婆が杖を持って立っていた。 「なんですか?」 襤褸のような着物を着て、杖を掴む、そのいでたちは、まるで、仙人のようだ。 こういう人がいるのが田舎なんだな、やっぱり都会とは一味も二味も違うな、とぼんやり納得していると、老人は海の方角を顎でしゃくった。 「アレを見ろ」 振り返ると、島の沖合いに、巨大な黄土色の岩のような島が目に飛び込んできた。 夕日に照らされて、赤く輝く岩には、白い注連縄が風に揺られている。 「岩…?」 「あそこには、今でも鬼が住んでおる」 「おに…?」 なじみのない言葉に思わず顔をしかめる。 「そう」 老人が、ぎょろついた目を俺に向ける。 「鬼じゃ」 「まさか…」 思わず笑って、老人の言葉の、言いようのない薄ら寒さを吹き飛ばそうとする。 「わしが嘘を言ってるとでもいうのか? 人を喰う鬼で、悪さがすぎて、名のある法師に封印されて、あそこで今でも眠っておる。 しかし、それは恐ろしい力を持つ鬼だったで、いつ封印はとけてもおかしくない。 島の古いもんはいまでも皆恐れちょる」 「あはは……おばあちゃん、からかうのはよしてくださいよ…」 「近寄るでない」 「…!」 「あそこに、近寄ってはならん」 有無を言わせない声に、体が固まった。 島について早々、俺のために歓迎会が開かれた。 本当のところ、島のためにとか、住人のためにとか、そんなだいそれたこともしていないのに、豪勢にもてなされても、気が引けて仕方なかったが、これからの人つきあいといものもある。 漁から帰ってきて、疲れた体を引きずるように参加したが、島の人たちはそんなことをお構いなしに「あれを飲め」「これを喰え」と 海鮮料理や強い酒をぐいぐいとおしつけてくる。 いりません、飲めません、とも言えず、杯を重ねていると次第に気持ち悪くなってくる。 ―――いけない。飲みすぎだ。 見上げれば、どこぞのオヤジが鼻に箸をさして腹踊りをしている。それに、顔を赤くして、笑いあう島の人々。 俺のことなんかもう目に入っていない。ただの宴会のようになっている。 もしかして、みんな、俺の歓迎会と称して、ただ、騒ぎたかっただけなんじゃ…ぐるぐると回る視界の中で、そんな風に悪態づく。 「楽しんでるかい」 そう言って、突然背中を強く叩かれた。 「痛っ!」 「あはは、すまないねェ!でもそれくらいで痛がってたらこの島の男なんかやってられないよ!」 涙目で振り返ると、島長の綱手が豪快に笑って、一升瓶をぐいっと呷っているところだった。 綱手は皆から『綱手姫』と呼ばれ、慕われうやまれている。 とにかく大きな胸と金髪の目立つ綺麗な女性だが、これでもう50歳を越えているという。 …とても信じられない話だが。 俺はたたずまいを正し、綱手姫に向き合う。 「俺のためにこんなに盛大に祝ってくださって…ありがとうございます」 「いいんだよ。みんな好きでやってることだからね。 この島には、若い男が少なすぎるんだよ。 あんたみたいに、都会が嫌で来てくれる若い男なんて本当に珍しくて、貴重なんだ。 期待してるよ――――」 「もったいないお言葉…」 「あー、もう!かしこまらないどくれ!都会のサラリーマンってみんなそうなのかい? 私はそんな風に堅苦しくされるのが一番苦手なんだよ。 それより、お前、なんか元気ないね、疲れたかい」 「…」 俺は手の中の湯のみに揺れる酒をじっと見つめた。 少し迷ってから、口を開く。 「この島の…沖合いにある、黄土色の岩なんですが…」 「……ああ、『御鬼嶽』(おんきたけ)のことか」 綱手は俺の言葉にすぐにピンときたようだ。 「『御鬼嶽』?」 おどろおどろしい名前に、背筋が寒くなる。 「そう呼ばれている。…鬼が住んでいるっていう伝説のある洞窟だ。もう見たのか? さては海野…島の連中に、なんか吹き込まれたかい?」 困ったような、嘲るような、複雑な笑みを浮かべる綱手に、今日出会った老婆の話をする。 「ああ、こまったねえ、千代婆さんにも、すっかり耄碌しちまって…。 あんな伝説…根も葉もない噂に決まってるだろ」 「じゃあ…」 俺はほっとしてくい、と杯を呷る。 「当然だ。大方、おっかない顔をして迫ってきて、お前も肝をつぶした節だろう? あの婆さん、旅行客を見ると、必ず声をかけてその話をして怯えさせるからたまったもんじゃないよ」 「ですよね。鬼なんているわけないし…」 「…ああ。…この島に残る、古い昔話でな。 平安より前の世、魑魅魍魎が跋扈していた頃…まだ仏の法がこの島に届かないには、人を喰らう鬼がいた。 鬼は島の民をさらってきては、あの洞窟で、生き血をすすり、そこで生活していた。 鬼は老人や男よりも、若くて清らかな乙女を好んでな…島の住人はたいそう困っていたそうだ。 それを聞きつけた名のある僧侶が、己の命と引き換えに、一年かけて、鬼をあの洞窟に封印することに成功した。 ―――あの岩にかかっていた注連縄を見ただろう?あれが封印の証だ。 島の人々は、鬼が封印されてからも、その存在を恐れ、年に一度、その魂を静めるために祭りを開く…。 それがいつの間にか秋の収穫祭もかねるようになって島をあげての祭りになった…という話だ。 ああ、そういえば、そろそろ祭りの季節だねぇ…」 綱手は話をしながら、遠い目をして酒を呷った。 「祭りの終焉には、清らかな乙女が、顔を覆い真っ白な着物を着て、1人で、手製の船をこいで、沖合いの洞窟に向かう。 そこには、小さな社があって、そこで、祈りをささげて、戻ってくる。 もちろん、そこには鬼なんて姿形もない。 噂では、流浪の坊さんがこの島に仏教を根付かせるために広げた伝説だともいう…どちらにせよ、ただの伝説には変わらない。 若い連中はもう全然信じていないし、祭りの儀式もダサいと言って参加したがらん。 この伝説にこだわってるのは島の古くからの連中ばかりで、いまだに島の古くからある行事や、縁起担ぎにかたくなにこだわっている。 そういう古い体質が、現在、若者を寄せつけないようにしてるのかもしれんな…」 そう締めくくると、綱手はまずそうに酒を飲み干した。 「シズネ!おい!シズネ!」 「はい〜!」 奥から黒い着物を着た女性がのれんをくぐってでてきた。 その気の抜けた声に、重たい空気が霧散する。 黒髪が可憐で、にこにこと笑っているが、どことなく幸の薄い、儚げな印象も感じさせる女性だ。 彼女は綱手の世話役兼秘書のようなことをやっている。 酒を片手に呼びつけた綱手を見るなり、あ、という顔をしてきりりと眉を吊り上げる。 「もう、またこんなに飲んで…! 綱手様、明日は本土で会議に出席する予定があるっていうのに…」 「うるさいねえ、細かいことなんて気にしていたら皺が増えるよ。それよりもっと酒をもって来て頂戴。 まだ飲み足りないよ」 「まだ飲むつもりですか?駄目です!」 「ケチだねェ…そんなに怒ってるから老けるんだよ」 「あぎゃー!気にしていることを!酷い!綱手様!」 綱手とシズネの会話も、そのへんの酔っ払いと変わらなくなってきて、俺はまた進められるまま酒を飲む。 鬼のことも、明日のことを考える余裕もなく、島の生活は進んでいく。 頭にあるのは、早く新しいこの生活に慣れて、自分なりの田舎生活を楽しむことばかりだった。 (2005/9/8:) NEXT |
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