Dragon of the Sadness Vol.5

マヌーサ。

闇の中に遥かな白野が浮かび上がる。

子供が巨大な魔物の背に乗って、甲高い笑いを響かせながら低空を滑っていく。

”アクデンさん!もっと早く!もっと早く!”

”むは、ハーゴン。みどもはそれほど飛ぶのがうまくないのだ。うむむ。もう落ちるぞ”

”降りるんですか?”

”落ちる”

一人と一匹はまっすぐ雪溜まりに突っ込んだ。ふわふわと冷たい布団が衝撃を和らげ、どちらも頭といい肩といい真白になりながらも、無事なようすで起き上がると、互いの姿に吹き出した。息が切れるまで呵呵大笑してから、やおら魔物が子供に話しかける。

”なぁハーゴン”

”なぁんですか?”

”その…頼みがあるのだが”

”はいはい”

”ロンダルキアの姫…ヴィ…ヴィルタ様に…お目通り叶わぬものだろうか…”

”え?え?あーもしかしてアクデンさん…”

”いや、その我ら詩をたしなむ者、やはりこの世の美というものは、目にして置かねば”

”アクデンさんにもヴィルタ様がきれいに見えるんですか?”

”うむ…ハーゴンが姫を賛える賦を詠んでくれてから、都でお姿を拝見する栄に浴したのだが…遠方から…何というか…我らデーモン族にはない美しさ、剛さを感じたのだ”

”へぇ…僕とおんなじだぁ…”

”ぬ…ハーゴンもヴィルタ様を?”

童児は鼻をこすって、にやっと照れた表情を浮かべる。

”しょうがないじゃないですか。ロンダルキアの男は…女だってちょっとは…ヴィルタ様に焦がれてるんです。強いし。優しいし。皆を引っ張ってくれるんだ。姫様はきっと、この国から飢えや病を失くして、魔物も人間も一緒に暮らせるようにするんです”

”魔物と人間が…一緒?”

”うん!そしたら、僕また死神族の皆と暮らせる…それにアクデンさんだって…ひょっとしたらヴィルタ様と…”

”ば、馬鹿を言うな…みどもはただ…ただヴィルタ様のお顔を間近で眺められれば…”

”ええー?だってアクデンさんて、族長の息子でしょ?人間でいったら、王子様ってことでしょう?資格あると思うなぁ…”

”こ、こやつめ!からかうのもたいがいにせんか!ぬは、ぬははははは!”

そこで幻は破れた。

奴隷厩舎の廊下の向こうから近付く足音に、少年僧はけだるげに身を起こした。腰に鈍い痛みがある。手探りすると、肛門から尿と子種、腸液が血と混じって溢れていた。遊んでいった男たちは後始末をしていかなかったらしい。

この頃ムーンブルクの大御所が集め始めた流れの戦士どもだ。傭兵は国の財産を大切に扱うといった考えはない。例え相手が月の都の魔法の根幹を成す術士であっても、奴隷である以上は頓着などしなかった。口でするからと懇願したのに、結局後ろを使われた。随分しつこかった。また連中だろうか。

だが鍵を開いて入ってきたのは奴隷の監督だった。首輪をつけた二人の子供を連れている。姉弟。どちらもハーゴンより幼く、疲れがとれずに眠たげだ。昨夜はロンダルキアの元見習い神官と共に尻を並べ、性処理便所の務めを果たしたのだ。ともに処刑された異端、邪教徒―シドーを崇める民―の遺児で、よく遊んだり、雑用を手伝わせたり、読み書きやそのほかの学問を教えたりしてやっている。淫ら事では同輩だ。雄のものを咥えるのを覚えたのは一緒だった。三人で顔を寄せて、恥垢に塗れた肉棒を舐り、白濁を平等に顔に受け、教わった感謝の台詞を合唱したのだ。

「大御所がお呼びだ。そのなりでは御前に出られんからな。始めろ」

でっぷり太ったムーンブルクの男が命じる。

「よしなさい…」

少年僧は弱々しく制したが、弟の方はただちに犬這いになってハーゴンの尻に鼻面を入れ、窄まりに唇を当てて中味を啜り飲み始めた。姉も同じく側へ寄ると、肌についた汚れを舐り取っていく。

ハーゴンは喘ぎながら、幼い仲間の奉仕に身を任せた。二人の舌がかすかにおののき、呪文を形作る。ホイミだ。勉強の成果を、こっそりと年若い師匠に示しているのだ。胸を塞がれながらも、腕を伸ばして、賢い弟子たちの頭を撫でてやる。

「仲の良い事だなぁ奴隷ども。ハーゴン。貴様はこの賤民のちびどもに随分人気があるようだが、ロンダルキアの尻穴というのは餓鬼のものまで惹き付けるのか?」

「…もう…十分です…綺麗になりました…」

少年僧は嘲りを無視して短く告げると、すっと立ち上がってから、静かにベホイミの呪文を唱え、けなげな仲間を癒した。

「監督。この子等には十分な休息と食事を」

「けっ…奴隷の王様気どりか」

「あなたの無能で奴隷が命を落としたら、僕から大御所の耳に入れますよ。傭兵を引き入れて女衒の真似事をする位なら、あの方は大目にみるでしょうが、国の財産を勝手に死なせれば、今の地位も首も失くすと考えた方がいい」

「なにぃっ…」

「お忘れですか。あなたは三人目の監督だ。前の二人がどうなったか考えてみた事はないのですか」

「調子に乗るな!また折檻してやるぞ。めそめそ泣き叫ぶまでな!」

「…それはあなたの自由です。僕は死なないから。だがほかの子はそうじゃない」

ハーゴンは、中年男のしまりのない顔をにらみつけた。虫けら。やろうと思えば、すぐにも灰にできる。だがそれをすれば、すぐにもムーンブルクの魔法騎士団が現れ、奴隷厩舎ごとかまいたちの渦で引き裂いてしまうだろう。少年僧は己の庇護下に入った子供等を守りきる自信がなかった。大御所は恐らくすべて承知しているに違いない。

鍛冶の炉の燠の如く暗くも熱い眼差しに、相手は恐れを成したのか、一歩後退った。

「ふん。さっさと行け」

「約束して下さい。僕がいないあいだ、この子等を傷つけたりはしない。客もとらせない。食事と休息を十分にとらせると」

「いい加減にしろ!!」

「約束しなければ今あなたを殺す。約束をして破ればあとで殺す」

ハーゴンは手を挙げてベギラマの印を結んだ。果して本当にやるつもりかと、監督は脂汗をかきながら、不吉な呪文の徴を凝視する。

「…わ、分かった。約束する」

「いいでしょう。忘れないで下さいね。万が一にもこの子等に八つ当たりをしたら、蛙に変えたあとで踏み潰して差し上げる。では」

裸身に奴隷術士の長衣を巻きつけると、少年僧はでぶを押し退けるようにして部屋をあとにした。向こうから見えなくなるところまで進んでから、急に震え出す。うまくいったのだ。もっと早くに試せばよかった。

最初の監督は術の心得があり、奴隷を淫らな玩具にするのを好んだが、すぐに病を得て退いた。次の監督は軍上がりで、生半可な脅しは通じなかった。しかし魔法に疎く、難しい調合に取り組むハーゴンをうるさく妨げて台無しにしたために、大御所の怒りを買った。今度のは小遣稼ぎに熱心なほか大した横暴はしないうえ、臆病で愚鈍だ。無能にもかかわらず役人のこねとやらで仕事を得たのだ。

「…人間ども…ムーンブルクの人間ども…これがロトの子孫…」

幼い頃に大神殿で学んだ叙事詩は、どれも空疎なでだらめだった。友の悪魔とともに楽しんだ勇者の冒険譚も英雄の戦勲も、騎士と姫君の恋物語も。

「…変えてやる…必ず…」

胸に渦巻くどす黒い憎悪を宥めるようにそう独りごち、足を早める。世界の歪みの根源たる、ムーンブルクの先王が待つもとへと。


月の都から遠からぬ小さな荘園。玉座を降りた翁の隠棲の地、領地の外れに立つ粗末な小屋に、今日は多くの客が集まっていた。どれも仮面を被り、紋章のない衣を着けているが、言葉使いや身ごなしから貴顕と知れる。

三々五々集まって会話していたが、やがて誰かが空を指さし、驚きの声を上げる。蒼穹の彼方から、真白い翼の竜が翔び足り、矢のように下ってきたのだ。

ざわめく人々を尻目に、巨躯は小屋の前の空き地に舞い降りると、身を屈めて乗り手を降ろした。丈高い青年は顔半分だけを覆う仮面を付け、悠然と周囲を眺め回すと、軽く手を拍つ。

ドラゴンは眩い光を放って縮み、若い女に変わった。一糸まとわぬ姿で、豊満な乳房と満月のような腹、波打つ鴉羽色の髪と漆黒の茂みをさらし、幽玄の縹緻に幼げな怯えと恥らいを宿して、重い胴を揺すりながら、小走りに伴侶の陰に隠れる。

「遅くなった」

ローレシアの王子は、派手な登場が齎した効果に満足しながら、そう呟く。遠巻きにするほかの客の一人一人に畏怖が浮かんでいる。竜を奴隷に仕込んだ男。この世で最も強大な意のままにする存在に、抱いて当然の惧れだ。聖水を断ち、ヴィルタに変身を許す危険を犯したが、見返りは大きかった。

「待っていたよ。若君」

群集が左右に割れて、痩躯の翁が扇を仰ぎながら歩み出てくる。こちらには動揺の色はない。ただ深く皺を刻んだ容貌は面白がるような笑みを浮かべている。

「贈った品々が役に立ったようで何よりだ」

まるで本来は己のすべき仕事を、見所のある若い弟子に任せたといわんばかりの口調。苛立つ若者の回りを、老爺はぐるりと巡り歩く。背後に隠れた娘は視線を避けるように反対側へ逃げていく。

ムーンブルクの大御所は、奴隷の動きをとらえると、急に足を止め、一同に向き直った。

「さてお集まりの諸君。今日は我ら”ロトの同盟”の久しぶりの総会となる。残念ながらこたびも砂漠の地よりの参加はなく、変わらぬ顔ぶれとなった。またこうしてみると、同盟の柱であった勇敢な婦人とその供を失った悲しみが改めて思い出される」

年齢を感じさせぬ張りのある声に、場にいるものの注目が一斉に集まる。あっさりと主導権を奪われた青年は、歯がみしながらも、怪物じみた翁が次に何を述べるのかと待ち構えた。

「これなるは、我らが盟友の死の原因。ロンダルキアの雌竜。僭越にもロトの国々との対等の関係を求め、化外の地より訪れた蛮族の長だ。今日はこの婢が、我らにとってなお危険な存在であるか確かめて頂きたい。ここへ来なさいヴィルタ」

妃を呼び捨てにされた王子は、憤りの言葉を迸らせそうになってから、背にしがみついた伴侶の震えを感じ取り、冷静に戻った。永らく、夫と召し使いの童女のほかに会っていない半竜の娘は、ひどく人見知りをするようになったらしい。

「御大。こいつは臆病でな。大勢の前で披露という訳にはいかぬ」

「ああ。左様か。案ずるな」

老爺は扇を閉じると、青年ごしに娘へと向ける。

「隷属の首輪よ。効果を示せ。瞳に落ちる影、耳を過ぎる風をことごとく織り直し、万人を愛する者となせ」

ローレシアの世継ぎが凝然とする後ろで、伴侶が四肢を強張らせる。

「おいで。ヴィルタ」

ムーンブルクの大御所が再び呼ばうと、ロンダルキアの家畜姫はふらつきながら主人の側を離れた。

「あぁ…あれ?…どうして…たくさんいらっしゃるのですか…おかしいですね…」

間の抜けた反応に、翁はくっくと喉を鳴らすと、若者に話しかけた。

「どうだね若君?差し上げた首輪は、魔法使いが操れば色々な遊びができるのだ。この黒く美しい眼にはもう、男はすべてローレシアの王子に映る。聞こえる声も同じ」

「な…にっ…?」

「つまり若君が自分専用にと仕込んだ奴隷は、実際は男なら誰でも受け容れるようになったのだ。さぁ、愛しい”ローレシアの王子たち”にいつもの口上を述べるがいい。ヴィルタ!」

ヴィルタは恥ずかしげに微笑むと、太腿を大きく開いて腰を落とし、踵に尻を載せるようにして体を支えた。十指で蜜の滲んだ花弁を広げ、群集に惜しげもなく曝しながら、付き出た腹と左右に重く垂れた乳房を揺らし、喜々として啼いた。

「竜便器のヴィルタでございましゅっ!卑しいロンダルキアの裏切り者、醜い孕み女ではございましゅが、腹の子ともども可愛がってくださいましぇぇっ!!!」

翁は、訓練が住んで戻ってきた愛犬を撫でるかの如く、身重の奴隷の髪をくしゃくしゃにすると、”ロトの同盟”の参加者に問いかけた。

「いかがかな」

「おやおや…かつて我が宮廷を訪れた賢しらな姫の正体が、かように下品な孕み豚だったとは…このようなけだものが外交を求めたなどと、王室への侮辱ですな」

文官らしき痩せぎすの中年が、興奮の余り掠れがちの声で囁く。すると傍らの騎士らしき壮漢が憤懣に耐えぬというようすで口を挟んだ。

「この屑女のために、わしの息子はあたら…姫様までが…許せぬ!家畜一匹のためにあれほどの騎士が命を落とすとは!」

「何という淫らでだらしのない胸よ。雌牛の乳の出をよくする薬で膨らませたとか?」

「さもありなん。見よ。前も後ろもあのように広げて、一体いつも何を咥えこんでいるのやら」

「所詮ロンダルキアは下賤の血。生来の蛇婬であろうよ」

男たちは嘲り、罵りながらも、欲望にぎらつく眼差しを注ぎ、距離を詰めていく。

老爺は扇を頬に当てると、今にも暴れ狂わんばかりの青年を窺った。

「皆はこの不埒者への罰を望んでいる。よろしいかな、若君」

「ふざ…」

「かの誇り高き婦人…あの方の落命なければ、かくも激しい復讐の念は湧かなかったであろうな。あれは返す返すも悲しむべき”過ち”であった。違うかな?」

「っ…!!!」

「しかし今日ですべての怨は解ける。因には果、罪には贖いがなされる。試練を経れば、晴れて同盟はまったき結束を取り戻すのだ」

帳消しにしよう。娘の死を。そう申し出ているのだった。ムーンブルクの大御所は。さもなければ報復は、実際に手を汚した者と、その一族に向かうとも暗示していた。

ローレシアの王子は焦躁に駆られ、妃を眺めやった。人垣のあいだに覗く玲瓏の面立ちは、無数の”夫”を前にしてうっとりと安らいでいる。左右の乳首は期待に尖って、白い液を滲ませ、下腹の茂みはいつもの如く歓びのつゆに塗れていた。

青年は歯がみする。本当に愛しているなら、同じ姿形でも、ほかの男と真の主人を見分けられるはずだ。裏切ったのは、裏切るのは、こちらが先ではない。淫らな妻こそがいけないのだ。それに、ただ一度だけだ。自由を贖える。二人はずっと一緒に暮らせるのだ。あの陰険な太后とても、実家の兄が命じれば、ロンダルキアの王女を、世継ぎの妃と認めざるを得ないだろう。

「分かっ…た…」

「ほほう。存外ものわかりのいい。ヴィルタ!夫はお前に罰を望んでいる。仕度をせい」

「はいっ!だめな竜便器の汚まんごとぉっ、けちゅをぉ、壊れるまで姦してくだしゃいっ!!ヴィルタはじょうぶだからぁ、何本突っ込まれても治りましゅぅっ♪おっぱいもぉっ!脇もぉっ!髪の毛もぉっ!ぜんぶ、ぜぇぇんぶでご奉仕しましゅっ♪ボテ腹も好きなだけ使ってくだしゃいっ!」

口上が終わると、しばらくのあいだ、しわぶき一つない静けさが下りる。

やがて巨躯の騎士が雄叫びに近い喚声を上げると、ほかも次々に和し、ムーンブルクの貴顕はそろって獲物に殺到した。

気高い血筋など、蛮虐をなすにあたっていささかの歯止めにもならなかった。いずれも月の都でも有数の旧家、名門であろうが、粗野な傭兵と変わらぬ振る舞いをした。奴隷の顔や胸、大事な赤子を宿した腹さえも殴り、踏みつけ、咬みつき、爪を立てて掻き毟り、髪を引き抜き、謝罪を強い、暴行を請わせ、穴という穴を犯し抜いた。白磁の皮膚は、みるみるうちに赤い蚯蚓腫れや蒼い痣に覆われていく。

狂宴を前に、ローレシアの世継ぎは彫像と化したかの如く立ち尽くしていた。早鐘を打つ心臓を千もの見えない刃が刻んでいる。だが求められるがままに与えた許可を、取り戻すにはもう遅かった。

「子供が流れてくれれば、太后は喜ぶだろうな」

ムーンブルクの大御所がぼそりと呟くのへ、隣国の太子は剣のような眼差しを返した。

「そう睨むな若君。案じなくても、あれは頑丈だ。軍馬と番わせたところで、腹の命を零しはすまい…ところで子が生まれたら、母の方は下げ渡してもらえるかな?」

「な…」

「ロンダルキア種をそちらだけで独り占めするというのもおかしかろう。私も連れ合いを亡くして久しい。あれを娶ってもよいと考えている。すでに職務を退いた身だ。ローレシアの世継ぎのように周りの反対もなかろうしな」

「断る…」

ロトの直系は辛うじて答えを搾り出した。武器が手元にあれば斬りかかっていたところだ。齢長けてなお凄まじい魔法の司は、余裕綽々といった風情で扇を仰ぐ。

「ドラゴンの血には若返りや長寿の力もあると聞く。私はあれから血を絞りながら、静かに暮らすつもりだ。まず百年ほどはな。子供も何人かはもうけねばならんな。娘が身罷ってから、国の陰の業をなすものがいない…いや一人いるか…」

「ヴィルタは…俺の妃だ…」

「もう売ったではないか。まぁよい。返事は急がん。いずれ宮廷の針の莚に耐えられなくなったら、いつでも下げ渡したまえ」

怪物の眼差しに耐え切れなくなったローレシアの世継ぎは、震えながらかたえを向くと、彼方にぽつんと長身の青年が一人、竜肉の正餐に加わっていないのを認めた。

仮面のために表情は分からないが、素振りは不快な催しに付き合わされたという風で、凌辱の興奮を共有していないのは明らかだった。つかつかと翁と王子に歩み寄ると、忌わしげに吐き捨てる。

「父上。私は妹の命を奪った者を確かめられるというから参ったのです。この醜悪な騒ぎは我慢ならない」

「ここで左様に呼ぶな。兎も角お前は慣れねばならんぞ。こうしたものにな」

「結構!私が統べる国にこのような穢れは無用です。あなたからさっさと玩具を取り上げておくべきだった」

「ほう…やってみるか」

老爺が低く尋ね返すと、息子はかすかにたじろいだ。

「…失礼する。ここには居たくない…それから…君を軽蔑するぞ…こんな穢れに関るとは」

ムーンブルクの現王シメオンは、友へと叩きつけるように言い置くと、踵を返して立ち去っていった。父たる先王はやれやれと頭を振ってからまた、叢がる雄のあいだであえかに舞う雌を楽しげに鑑賞した。

「息子は潔癖でな。娘が裏の仕事を一手に担っていたためか…先が危ぶまれる…ところで、私があの家畜を手元で飼いたいというのは別に理由があってな。まだ推測に過ぎぬのだが、ロンダルキアの血とロトの血、特にムーンブルクのそれが混じると、魔力に天稟を持つ子供が生まれるように思うのだ…ふむ…」

軍馬の掛け合わせの話でもするかのように弁を振るってから、翁は扇を閉じて、背後に控えた侍従へ合図を送る。

ローレシアの世継ぎは、まるで考えの読めぬ年寄りから顔を背けると、鬱勃として妻が寝取られるようすを眺めいった。だしぬけに視界の隅へ別の裸身が入ってきた。小鳥のようの細い手足に、肋の浮いた胸、整ってはいるが暗い澱の沈んだ容貌に、双眸だけがぎらついている。血の気の薄い唇は激情におののいていた。

「…ヴィルタ…さま…?」

軋んだ声。顔見知りか。王子はすぐに、ロンダルキアから妃の供をしてきたという見習い神官の話を思い起こした。奴隷として使われていたはずだが、どうして引きずり出してきたのだろう。

老爺は扇を振り翳して、よく通る喉で告げた。

「おのおのがた!楽しみはまたあとで。久しぶりの主従の対面をお許し願いたい」

飢えた狼のごとくにがっついていた男たちが、ずたぼろになった獲物を離して素直に退く。ムーンブルクの大御所の一声は、どんな昂ぶりでも鎮めるらしい。

裸身の少年は周りに押しやられながら、もう一人の犠牲のもとへ辿り着いた。娘は精液の池に埋れ、白眼を剥き、舌を出して、痙攣している。広がった秘裂、尻穴、尿道からさえ子種が溢れていた。憧れの人の惨めな姿を前に、幼い双眸は大きく見開かれ、口からはひび割れた慟哭が溢れる。

「ああ…あああああああ!!貴様ら!!!貴様らぁあああああっ!!!!!アクデンも…ヴィルタ様も殺めたと…これはぁっ!!!」

「そうともハーゴン。お前の調合した毒薬は悪魔を仕留めた。だが雌竜には使われなかったのだ。とはいえ蒸留した聖水のお陰ですっかり従順になったろう?お前がこれまで作ってきたのは、仲間を破滅させるための品なのだ」

ハーゴンは翁を振り返って歯を剥いた。

「ぎ…貴様ぁ…貴様こそが!人間より、魔物よりおぞましい!よくも!よくもこんな真似を!」

ムーンブルクの大御所は驚いたようすで、扇で口元を隠した。

「おや折れぬのか。予想外だが喜ばしい。やはり…二つの血を混ぜれば興味深い結果が得られるな」

少年は両腕を掲げて絶叫した。

「万雷もて来れ破壊の神!我が敵の悉くを打ち砕け!イオ…」

「ほかの奴隷はどうする」

落ち着いた問いかけに、必殺の呪文は中途で凍りついた。老爺は頷くと、手の持つ小物で齢のために肉の落ちた肩を叩いた。

「そう。憤怒に駆られても冷静さを失わぬ。人の上に立つものはそうでなくてはならぬ。邪教徒の子供百人の命はそなたの行い如何にかかっているのだ」

「…ぅぁっ……」

「いずれにせよ。お前が詠唱を終えるまでにマホトーンがかかるのだぞ。考えてもみよ。お前に魔法を教えたのはムーンブルク。お前の術はすべてにおいて我らに及ばぬ」

「殺してやるっ…ムーンブルクの者は!鏖にしてやる!!」

翁は、初歩の間違いをしでかした弟子に呆れる師匠のように首を振った。

「下らぬな。殺戮は何も生まぬ。支配し、屈従させねば真の勝利とはいえぬ…月の都を征服したいか?掌中に収めてみるか?よいぞ。試みてみよ。シメオンには所詮、光の側しか治められぬ。闇の側を抑える主がいるのだ。王は一人では完璧ではない。実と影、陰と陽。骨牌札の両面。世界を統べるのであれば半分ずつ。これが正しい形だ」

「やめろっ!!僕を染めようとするな!!人間め!人間め!」

周囲は、まるで呪文にかかったように、あるいは芝居の山場を迎えた観客のように凪いでいる。ただローレシアの世継ぎだけは、無気味な言葉の闘いに違和感を覚えていた。これは何の茶番だ。己や妃とどんな係りがある。いつのまに、こんな蜘蛛の巣に捕われたのだと。

「もう分かっているはずだ。お前は私から多くを学んだ。今も学び続けている。万が一、私が死のうとも、お前の中で私は生き続けるのだ」

「黙れ!僕はお前の傀儡にはならない…」

「傀儡?違うな。後継者だ。世界を一つにする崇高な使命のな。お前も、そこな若君も、愚かな家畜の腹にいる子も、すべて同じ目的のために動くのだ。我が網はムーンブルクにも、ローレシアにも、ロンダルキアにも及んだ。ふむ…まだあの砂漠の王家だけには届いておらぬが…あれはもはやさほど重要でない。傍流に過ぎぬ…大した波風も立てぬだろう」

「貴様は…何なんだ…」

「私はお前だ。お前が私になるのだ。ヴィルタ!こやつを大人にしてやれ」

孕み女は朦朧としたまま起き上がると、少年を白濁に引きずり込んだ。

「ヴィ…ヴィルタさ…」

「あは…今度は小さくなってしまわれたのですか…でも私はあなたのもの…あなただけのものですから…」

年端もいかぬ友の上で、膨らんだ腹を左右に踊らせながら、ロンダルキアの王女は重たげに上下する胸を掴んで、恍惚と揉みしだく。乳蜜が噴水のように見習い神官にかかる。闇の洗礼を受けながら、あどけなさの残る唇は旧主の名前を呼び、絶望と忌まわしい至福に咽んだ。

ローレシアの王子は、すべてをただ見守っていた。


しばらくしてムーンブルクの先王は没した。怪物を殺したのは剣でも魔法でもなく、病だった。風邪をこじらせて肺炎になり、さらに性質の悪い何かに罹かって、山ほどの癒しの業を受けたにも関らず儚くなった。あれほど長寿を望みながら、床についてからついにローレシアの摂政から竜の血はもたらされないままだった。しかし死に顔は満足げであったという。

国を挙げての葬儀が行われたが、シメオンは奴隷の殉死をとり止め、土器を以て替えた。また穏やかなサマルトリアの範に倣って、邪教徒や罪人であっても家畜の如くに扱うのは慎むべしとの布令を出した。

最も、すぐに徹底された訳ではない。先王の遺産である魔法の学舎は、便利な実験材料をそう容易くは手離さなかった。そもそも、シドーを崇める化外を解き放ったところで、どこに行き場がある。良民との諍いの種になるだけではないかというのが理屈だった。

奴隷のハーゴンに外界の騒ぎをどこ吹く風と受け流した。討つべき仇を失っても、さほどの感興を表さなかった。相も変わらず上つ方が命じる魔薬の調合と聖水の蒸留に勤しんだ。

急速に背が伸びていたが、肉はあまりつかなかった。蒼褪めて骨ばった外見はもはや、女の代わりに犯す悦びを与えず、便器に使われもしなくなった。そもそもシメオンが実権を握るようになってから、風紀の乱れは厳しく取り締まられたから、厩舎の子供等が娼婦の務めをする機会もほとんどなくなっていた。

ロンダルキア生まれの若者はいつものように暗い室内で、捕えられてきた魔物の息の根を止める作業を進めていた。

”やめとくれ!やめとくれ!あんたはあたしたちの言葉が通じるんだろ?お願いだよ!助けとくれ!あたしの腹には子供がいるんだ!”

わめく山ねずみの上に掌をかざすと、短く呪文を唱える。

「ザラキ」

すぐに懇願は聞こえなくなった。逃げ場のない魔物を苦しませずに屠るのは慈悲だった。もう何千匹絞めたか分からない。腹を裂いて胎児を取り出すと、すり鉢で擦ったあと、布に入れて絞り、触媒で体液を精製して、ぎあまんの器に加える。てきぱきとした、無駄のない仕事ぶりだった。できあがった薬を小瓶に移すと、仕上がり品を保存しておく卓に、先に用意を済ませていた小箱と並べて置く。

部屋の隅にある紐を引くと、すぐに少年と少女が現れる。二人ともハーゴンとは対照的に朗らかで、血色のよい容貌だった。

「ハーゴン様?」

「小瓶をローレシアの摂政殿下の使いに、小箱を太后殿下の使いに。間違えないように」

「小瓶を摂政の使い、小箱を太后の使いに、ですね。俺は瓶を持ってくから、姉さんは箱を頼むよ」

「分かった…あのハーゴン様」

「何です」

「少しお休みになって。目の下すごいくま。簡単な調合なら私たちでもできますから」

「ああ。いやいい。いきなさい」

二人の弟子が姿を消すと、若者は椅子に腰かけた。まだ当分は、年下の仲間に魔物殺しをさせるつもりはなかった。命を奪う行為は心を荒ませる、いずれは避けられないとしても、もう少し強く、鈍く、無感動になれるまでは、穏やかな術を学んでいて欲しかったのだ。

「くく…」

つまらぬ配慮に我ながら嘲りの笑みが漏れる。やがてシドーの民の生き残りを修羅へ引きずり込もうと決めているのに、馬鹿げたおためごかしだった。

「ヴィルタ様…アクデン…もう少しです…もう少ししたら…」

殺す前に魔物から聞き出した噂で、ロンダルキア王と妃が身罷ったのを知った。傷心のためか。あるいはムーンブルクの大御所が死の前に放った毒の罠にかかったか、真相は判然としない。だがどちらも同じだ。ロンダルキアは流行り病で人がばたばたと死に、元首を失った国民は教団の貧弱な施療と指導のもとで辛うじて命をつないでいるという。竜の守りを欠き、結束を失えば、いずれデビル族か一角獣族か、デーモン族の襲撃を受けるに違いない。

ロトの同盟はどうなったのだろうか。中心人物の一方は逝き、一方は袂を分かった。ローレシアとムーンブルクの蜜月は終わった。サマルトリアは蚊帳の外だ。しばらくのあいだ、ロンダルキアの征服はないだろう。だが、いずれまた大御所やかつてのローレシア王子のような野心家が現れる。もはや王なき雪国は、竜の血を引く奴隷の狩場と化すだろう。

「ふざけるな…」

止めるつもりだった。策はあった。信仰を利用するのだ。奴隷として暮らしているうち、意外に邪教徒と呼ばれる人々が多いと分かった。ラダトームから広まったルビスの教えが正統とされ、破壊と再生の神が悪とされる流れはまだ完全には定まっていない。各地には隠れ里があった。サマルトリアでは異端を厳しく取り締まる法がないため、幾つかの村で公然とラーミアを祀っているという。神鳥の血を引くと称する豪族さえ居るとか。また南海の孤島にはシドーを崇める神官の棲む地下洞窟があるとも。ロンダルキアにしても、考えてみればそうしたまつろわぬ民の一つなのだ。

「…作ってやる。ムーンブルクに対抗し得る術士の軍勢を。ローレシアの騎士団に匹敵する魔物の大部隊を…そしてロトの子孫を皆殺し…いや屈服させてやる…ヴィルタ様が味わったよりもっと惨めな境遇に…」

扉が敲かれる。二人の弟子が用を済ませて戻ってきたらしい。ハーゴンは手で頬を挟んでこすり、凶相を和らげる。

「お入り」

許しを得た姉弟は部屋に入ると、落ち着かぬげにあちこちに視線を遊ばせる。そわそわしたようすを訝しんだ若い師匠は、小首を傾げて尋ねた。

「どうしたのです」

「それがその…」

「ハーゴン様にお客が…」

「今日はもう調合はできないと伝えて下さい」

「いえ。そうではなくて…」

「その…」

少年と少女の足のあいだを、小さな影がすり抜けてくる。襞飾りのたっぷりついた、人形のような衣装をまとった童女だ。くりくり動く目で奴隷術士の爪先から頂辺までを観察すると、幼なげな声で尋ねた

「あなたが幻じゅつつかいのハーゴン?」

妙な呼び名だ。そういえば毎年、冬至に奴隷仲間を幻遊びで愉しませる際には、よく平民の子供も紛れていた。ちび同士の噂で広まったのだろう。実際のところマヌーサは得意だから、的外れではない。

「…おや…お嬢様は?」

「わたくし、マリアというの」

どこかで聞いたな。ハーゴンはあくびをこらえて立ち上がった。子供か。ムーンブルクの血を引く輩はどれも地獄に堕としてやるつもりだが、子供はどうすべきかまだ決心がつかなかった。

童女は若者の仄暗い考えなどつゆ知らず、こまっしゃくれたおしゃべりをする。

「ジョゼフが、わたくしのともだちのジョゼフが、どれいのふゆまつりにもぐりこんで、幻あそびをみたわ。ジョゼフはどこにでも、もぐりこむの!ずるいの!いけないのに、おしろのおくまではいってくるの。でも幻あそびって、すごくたのしいって」

とても小さいのに並外れて聡明な子だ。内に潜む魔力も高い。顔立ちもよくみれば、ムーンブルク王家の特徴が窺えた。

「わたくし、ジョゼフにてつだってもらって、すごくずるをして、こっそりここまできたの。どきどきした。おねがいですから、幻あそびをみせてください」

ぺこりと頭を下げる。ハーゴンは不覚にも吹き出してしまいそうだった。

「ええ。いいですよ。なにが見たいのですか」

「とおくのけしきをみせてください。いったことのない、とおいくにのけしき」

「分かりました」

マヌーサを唱えて、一番得意な幻を呼び出す。


雪の原。ずっと歩き続けた荒れ野。死神族の育ての親恋しさに、神殿から逃げ出したあげく道に迷って、偶然会ったアークデーモンのばかでかい掌に手を握られて。風が舞い上げる白い華、はるかに狩りをするサイクロプスの雄叫び。

”みどもはアクデンという。お主は”

”はー…ごん”

”ふむ。もしや死神族の養い子というのはお主か”

風景に入れるつもりのなかった子供と魔物が浮かび上がる。小さな方はべそをかきながら、大きな方から腕をもぎはなそうとしていた。

”待て待て。ハーゴン。家まで送ってやろう。確か今はロンダルキアの大神殿に預けられたのだな。死神族の長も思慮深い事よ。どうだ。みどもはものしりだろうが”

”う…う…”

”なんだ。もしや死神族のところへ行こうとしたのか?あれはみな魂魄だけの者ども故、お主をうまく育てられぬとみて人間のあいだへ預けたのよ”

”やだぁ…”

”うーむ…仕方ない…では死神族のところへ送ってやろう”

”ほんとう…ですか?”

”ああ、デーモン族の騎士に二言はないぞ…む…しかし残念だな…”

”え?”

思わず問い返す子供に、魔物は頭を掻いて告げる。

”人間と近付きになりたかったのだが…このままでは死神族の知り合いができそうだ”

”…人間の知り合い?どうして?”

”人間の詩に興味があるのだ。ほれ。勇者ロトが竜王を倒し、ローラ姫を取り戻すとか”

”うん知ってます!最初のロトは魔王ゾーマを倒すんです!それから…それから…でもみんな、人間が魔物を退治する話ばっかりですよ?”

”おう構わんとも。本当のところは、魔物が人間をやっつける方が多いのだからな。詩の中だけでも人間にいい目を見せてやるさ…神殿で習ったのか?”

”うん…でも…”

”まぁ死神族に詩はないからな…いや相済まぬ。それ、背中に乗るか?その方が早いぞ”

”待って…歩いて…いきます”

童児は考え込むようすで、アークデーモンを眺めてから、ややあって語句を継いだ。

”あのね。やっぱり神殿に行きます”

”ぬ。みどもが余計な事を言ったからか”

”ううん。違います。死神族はずっと待っててくれるから。僕まず神殿のじいさま、ばあさまからもっと詩を教わる。それから帰って死神族に教えます。そしたら死神族にも詩があるでしょ”

”むぅ…うむ…まぁそうかな”

”アクデンさんにも教えてあげますね”

”おお!本当か!済まんな!”

”うん…行きましょう”

大小の影が歩き始める。雪はしんしんと降って、鉤爪のついた足と、靴の作る跡を次第に消していく。やがて景色は白く霞んでいった。


マヌーサが終わると、ハーゴンは我に返り、秘めた記憶を覗いた三人を鋭く一瞥した。姉弟はただぼんやりしているようだったが、マリアは泣いていた。ぽろぽろと宝石のような涙をこぼして。揺籃に眠る赤ん坊とそう変わらない年の子供に、どうしてそこまで複雑な情動があるのか、若者は驚きを隠せなかった。

「マリア様?どうされました」

「わぁ…わかりません…でも…でも…」

「悲しいのですか?」

「うん…かな…しい…かなしいの。あのハーゴンがかなしいの。かなしい。かなしい。かなしい…」

「さぁ、涙を拭いて。あれは幻なのです。全部偽りなのですよ」

「そうなの?あのハーゴンはいないの?」

「もういません。どこにも。行きなさい。お父様に見つかる前に部屋へ帰るんです」

「はい…」

「二人とも、マリア様を送ってゆきなさい」

部屋からほかの者を追い払うと、術士はもの思いに沈んだ。あの子供もいずれ大きくなる。シメオンの妹のように、恐ろしい戦士に育たぬとも限らない。情けなどかけてはならない。かけたところで反撃にあって殺されるのがおちだ。次に会う時は強く育っているよう祈ろう。破滅させ、闇の淵へと引きずり込むのにふさわしいほど。

いつのまにか握り締めていた拳を、ゆっくり開く。随分と緊張していたらしい。どっと疲労が襲ってくる。早く寝床に入って、次の仕事に備えるべきだ。ここを脱出する日も近い。気持ちを切り替えねば。

だがハーゴンの脳裏には、先ほどの童女の涙が焼きついて離れなかった。


「みづきのこはんに ぎんのふね…」

「ははうえ。ははうえ」

覚えたての単語を口にして、男の子が母の胸へすがる。手がそっと黒髪を撫でる。

「なぁにズィータ」

「ははうえ!」

しっかり親の体にしがみついて、何故か勝ち誇ったようすの幼児。一つきりの言葉を繰り返すので、賢いのかそうでないのかよく分からない。ヴィルタは微笑んで、汗ばんだ額に口付けてから、そっと床へ降ろしてやる。息子はまた何故か転がっていきながらきゃっきゃと笑う。

ローレシア摂政の妻は、優しい眼差しでその姿を追ってから、不意に面を上げた。部屋の扉の向こうで言い争う声がしたのだ。

「困ります。摂政殿下からは、太后殿下の使いを取り次ぐなと命じられています」

「何を言う。いつも殿下から竜の血を贈っていただく返礼をするまでだ。さあ」

「兎に角、男の方はヴィルタ様に会わせられません」

「ほう。あの癲狂が男とみれば誰にでも股を開くというのは真か…」

「あの御方を何と心得るのです!ローレシア摂政の妃にあらせられる」

「奴隷に過ぎぬ。竜の血を絞るためのな。その奴隷に太后殿下がかほどの厚意を示しているというのに。ええい。どかぬなら、兵を連れてくるぞ。何人もの男を部屋へ入れれば、あの奴隷めはどのように振る舞うのかな?」

「っ…分かりました…品物だけ…」

「よし…」

目に帯を巻いた娘が小箱を運んでくると、ヴィルタは怪訝そうに受け取った。

「あの方の声がしたように思ったのだけれど」

「いいえ違います。ほかの男です。穢らわしい…隙あらばヴィルタ様に近付こうと…呪いを知っているのです…」

「呪い?…おかしな事をいうのね。あなたは疲れているのですよ。少しここで休んでいきなさい。坊やもあなたがいると喜ぶわ」

盲の娘は頭を振ると、足もとにじゃれかかってきたズィータをそっと離して、母のもとへ行くよう促した。

「私は…外にいてヴィルタ様をお守りしなくては…男は信用ならないし、ほかの女は太后の息がかかっているのですから」

「大丈夫よ。そんなに気を張らなくても」

「いいえ。私だけです。ここでヴィルタ様の味方は」

ヴィルタは相好を崩し、片手で小箱を弄びながら、もう片方の指で召し使いの髪を梳る。

「どうしてそんなによくしてくれるの?」

「あの夜、辻斬りに襲われた私を庇って下さった恩は忘れません…それに私…卑しい乞食…ルビスよりラーミアを崇める流浪の民なのに…優しくして下さったのはヴィルタ様だけです」

「ラーミアを崇めて何が悪いの?ルビス様と同じように偉大なのよ。おかしな子」

「ヴィルタ様はロ…遠い国の方…信仰によって人が踏み付けにされない土地からいらっしゃったのですもの…」

「誰も信仰で人を踏み付けにしたりはしないわ。そんなの馬鹿げているもの。ところでこの小箱はなにかしらね」

妃が尋ねかけるのへ、小間使いは鋭く応じた。

「捨ててしまわれますよう。あの恐ろしいムーンブルクの妖婆の贈物など」

「ああ太后様の…いいえ。開けてみましょう。あの方の祖母様です。恐ろしくはありません」

盲の娘が止めるまもなく、ヴィルタは箱を開く。

蓋を開いたとたん、輝く雪の結晶が虚空に吹き出し、天井を白く凍り付かせた。みるみる氷柱が伸びると、金管楽器のような響きをさせ、声を形作った。

”卑しき僕のハーゴン。幾星霜をけみし、ここに不忠の詫びを申し上げます。ヴィルタ様を救う術もなく徒に月日を過ごしました。ようやくローレシアの太后の企てを利用して言葉を届られます。あの媼はヴィルタ様を弑するつもりです。竜の血は御子より採ればよいと考えているのです。お逃げ下さいませ。ロンダルキアにもはや王はおりませぬ。姫のお帰りなくば、幾千幾万の民が飢えと病のうち進むべき道も分からず死するでしょう。このハーゴンは修羅の道を参ります。我らを侮った下界のロトの血筋はすべて暗黒の渦に陥れましょう。復讐はお任せ下さい。ヴィルタ様は御子と故郷へ疾く。我が魔力を以てムーンブルクの先王の施したる呪いを解かせ給え!シャナク!!”

銀の首輪に霜が張り、粉々に弾け飛ぶ。

ロンダルキアの世継ぎは、黄金の竜眼を見開くと、人ならぬ咆哮を放った。両の腕で頭を抑えると、封じられていた記憶が奔流となって戻ってくる。

「ぐ…ぅぅうう…アクデン…ハーゴン…父上…母上…ああ私…私…こんなにも…何と言う…何と言う…裏切りを…」

「ヴィルタ様…ヴィルタ様…?」

ヴィルタは首をもたげると、召し使いを静かに見つめた。

「…永いあいだよくしてくれました…あなたへの恩は忘れません…でも教えましょう…あなたの視力を奪ったのは私の夫。あのロトの子孫なのです」

「ぇ…」

「私はたまたま血に怯えて止めたに過ぎません。ほかにも何人もの犠牲が出たのに。ただあの方の狂気の戯れを目にしたというだけで…私は…傍観していた…」

「ヴィルタ様…」

「分かっています。ムーンブルクの人形繰り師が、あの方の一挙一動を縛っていたのは。可哀想な方…あがけばあがくほど、思惑にはまって。シメオン様も、妹君も、すべてが計略の道具だった…権力とはそれほど素晴らしいというの…」

「あのお方は亡くなったのでは…」

「ええ。でもハーゴンが…ずっとあの方の影にいたのでしょう…変わってしまった…あれほど優しい子が…アクデン…ごめんなさい…私が二人を下界に連れてこなければ…こんなに愚かで無邪気でなければ…」

盲の娘は、主君の懊悩に打たれながらも、不安そうなズィータの息遣いに気付くと、素早く側へ寄った。

「大丈夫です。殿下の母上は昔の悲しい事を思い出されているだけです」

「ははうえ!」

子供は駆けて行って母の腰に飛びついた。ぐりぐり頭を押し付けてから、挑むように上目遣いをする。慰めているつもりなのだろう。ヴィルタはやっと表情に落ち着きを取り戻した。

「ズィータ」

「ははうえ。ははうえ」

「分かっていますよ。私が取り乱したら、心配するわね。母はもう平気。坊やが居るもの」

母子が抱き合う衣擦れを聞いて、召し使いは意を決したかの如く進言した。

「竜となってズィータ様とお逃げ下さい。ハーゴンという方は存じませんが、先ほどの伝言は当を得ています。ここは蠍の巣。ヴィルタ様がいらっしゃるべきではありません。私が外で番をしている限り、ほかの者は気づかないでしょう。夜に摂政殿下が執務から御下がりになるまでは時間を稼げます」

「…しかし…あなたどうなります。あなた一人ならズィータとともに…」

「いけません!足手まといになります!」

「…また、忠実な家臣を見捨てろというのですか?」

「いいえ!私もあとからロンダルキアに参ります!盲いた娘なら、お妃様に抜け出られたのを咎められたとて、せいぜい城を放り出されるだけ…きっと…参りますわ…ラーミアの民の助けを借りて…」

「分かりました…」

ヴィルタは頷いた。己はこうやって他のものの犠牲の上にしか生きられないのだ。

「ズィータ。いらっしゃい」

息子を抱き上げて、部屋の戸口をくぐる。螺旋階段を登って、本城へと続く回廊の間を走り抜け、さらに上へ上へと向かう。途中幾度も休まねばならなかった。日々の採血による疲れのためばかりではない。忌まわしい婬欲の発作だった。胸から乳が噴き、秘裂から愛液が滝のように落ちる。主人の愛撫を求めて奴隷の躯が王女の心に逆らった。だがどうにか二百余段を踏むと、物見台に出る。

風が吹きすぎていく。眼下にははるか、森と草原が広がっていた。美しい国だ。ロンダルキアより、気候はずっと穏やかで、土地も肥えて、人々の暮らしも豊かだろう。何故、持てる物でよしとしないのだろう。

考えている暇はない。

「ズィータ。今から私は大きな竜の姿に変わります。でも怖がらないで。どんな姿でも私はお前の母です。決してお前を傷つけたりはしません。竜に変わったら、一緒にお空を飛びましょう」

「ははうえ!」

分かった、という意味だと受け取る。

「では少し離れていてね」

息子を置いて、塁壁に上がると、指で印形を結ぶ。

「ドラゴラ…」

また発作が始まる。へたへたと座り込んで、指で股間をまさぐってしまう。ズィータに見られていると分かっていても止められなかった。夫のもとから離れようなどと、妻として許される訳がない。沢山罰を戴かなくては。想像するだけで蕩けそうな快感が体の芯を熱する。けれど。

「駄目だ…」

ここでズィータを育てる訳にはいかない。権力と陰謀が支配する宮廷では、息子は心を凍てつかせ、父そっくりの大人になってしまうだろう。愛が何かも知らないままに力ずくで求め、壊してしまうだろう。余りに我が強すぎる故に破局すら認めず、相手の存在を押し潰すまで襲いかかる、哀れな狂獣に成り果てる。

「させない…この子をそんな風には…」

時間は刻々と過ぎていく。忠義の娘が稼いでくれる時間が。配膳係、掃除役、警備、太后の密偵。誰がやってくるだろう。どれほど余裕があるというのか。もたついてはいられない。

「ドラゴラム…!」

白竜が塔の頂に顕現する。太古の血が脈打ち、劣情は飛翔への興奮に取って代わられる。

”さあズィータ”

前肢を差し延べると、童児は怯えて退いた。

”ズィータ…私が分かるでしょう…?”

「…ぅ…ぁ…はは…うえ?」

”そうです。私ですズィータ”

「ははうえ!」

”ズィータ。おいでなさい”

小さな体がまた弾丸のように走って、竜の指のあいだに収まる。例によって得意げな表情。これは自分が母に愛されているのだという確信なのだ。ややあって逞しい後肢が石の縁を蹴って、巨躯は虚空へと滑り出る。

”いきましょう。私たちのロンダルキアへ…”

「ヴィルタ!!!!!!」

塔の下方から声がする。荒い息遣いとともに、ローレシアの摂政が階段を登って現れた。片手には抜き身の剣、もう片手には盲の娘の腕を捕らえている。駆け足に物見台の端へ行くと、塁壁へ飛び乗り、連れを軽々と引っ張り上げる。人質のつもりか、召し使いを側につけたまま、恐れげもなく壁の端までにじり寄って、空中の妻を見上げる。

「ヴィルタ…」

”…ああ…どうして…あなたが…”

「太后が贈り物をしたというのを聞きつけてな…どこへ行くつもりだ」

”故郷へ帰るのです…”

「俺の側を離れるのは許さんと言ったはずだ」

呪縛から醒めた有翼のドラゴンに、もはやちっぽけな人間の強がりなど虚しいだけだった。

”あなたを愛していました。乱暴な愛し方だとしても、愛されて幸せでした”

「ではここにいろ!」

”できません。分からないのですか。愛していても取り返しのつかないものはあるのです”

「取り返しのつかないものなどない!!俺は…俺はお前を正妃にする!あの婆は今日死ぬ!父とて俺を止められん。お前はローレシアの妃だ。望むならロンダルキアの女王でもある」

”そうではないのです…可哀想な方…”

「なぜだ。お前はやはりあの悪魔を…」

”私が男として愛したのはあなた一人です”

「では何が不満だ!」

”ああ…やはり…私はあなたに相応しくなかった…嘆きの竜では…ローレシアの王子には…どんな人があなたのような男を変えられるのでしょうか。その心に温かいものを通わせられるのでしょうか…”

「お前が必要なのだ!ヴィルタ!!!」

だが竜王の末裔は答えず、純白の翼を羽搏かせて大気を打つと、宙へと昇り始めた。現世の理を外れた軽やかな動き。勇者の子孫は喘ぐと、いきなり剣を小間使いの首に押し当てた。

「ならば息子は置いていけ!」

”およしなさい!”

「ヴィルタ様!行って下さい!私は…お仕えできて幸せでした…ズィータ様もお元気で」

少女は誇り高く告げると、自らの喉を刃へ近づける。刹那、母の前肢に捕まっていたズィータがぱっと飛び降りた。

「ちちうえ!!」

恐らく大好きな召し使いを助けたいとする一心だったのだろう。腕に取り付いてくる息子を、父は剣で傷つけまいと身をもがかせる。物見台の端で三つの体が揉み合い、一つが落ちた。

”ぁ…!!!”

あっというまに小さくなっていく少女を、竜は急降下して追った。まだあどけなさの残る顔立ちは、笑みを浮かべていた。唇が動いて、ある名前を形作る。

「ラーミア様」

あと少しで牙が服に届くというところで、少女は石畳に赤い華を咲かせた。絶叫とともにヴィルタは滑空し、腹を地面に擦らせる。均衡を失い、翼を打ち折り、全身をしたたかにぶつけて、ようやく止まった。

激痛のあと、意識が濁っていく。瞬きするたびに辺りの明るさが変わっていった。断続して失神しているのだと分かる。回復が遅かった。太后や夫のために血を抜かれすぎたのだ。やがて視界に、泣きじゃくる子を抱いた伴侶が映った。

「ズィータは俺が預かる…一緒にしておけばまた逃げようとするだろう…お前が、永遠に俺の側にいると、また誓えば…三人で暮らせる」

”かえ…して…坊やを…”

「ははうえ!ははうえ!」

「黙れ!いや誓っても駄目だ…お前はまた俺を捨てようとする…お前は…もう信用できない…」

鷲の瞳がヴィルタを見据えていた。憎しみと、悲しみと惑いに満ちた眼差しだった。

”かえして…”

だがローレシアの摂政はもがく嫡男を捕えたまま、黙って立ち去った。

ややあって走り寄てきた近衛兵に、二度と妻が竜にならないよう再び体内を聖水で満たすよう命じた。さらに人の姿に戻ったあとは魔薬で理性を奪い、三日三晩、軍馬と番わせるよう指示した。死刑囚に限り妃を慰み者にする事も、ムーンブルクから届いたままになっていた拷問器を使う事も。再び便器として喜々として奉仕するようになるか、少なくとも狂い果てて逃げようとしなくなるまで、徹底して心と体を破壊するようにと。


「なにやらひと騒ぎあったようだわぇ」

豪奢な絹に身を纏った女が盃を傾けながら呟いた。張りのある瑞々しい肌。ふっくらした頬はまだ二十歳かそこらの小娘のようだが、瞳は老いて昏い。竜の血で若さを取り戻しても、魂に降り積もった齢までは隠せなかった。

「あの家畜が暴れたとか」

「いずれそうなると思っておったが…やれやれ…孫はいつになったら目を覚ますのやら」

「…ムーンブルクの薬はしくじったのでしょうかな」

「さてな。だが毒に犯されていなければ、竜の肉を味わう機会もあろうよ」

太后は平然と述べると、流石に鼻白むようすの側近たちを俯瞰した。

「かつて兄のところで開いた宴では、最後に身重のあの家畜を大皿に載せ、菓子や料理で飾り、胸や腿に刃を入れ、盃に血を受けて、乳と混ぜて皆で飲んだそうじゃ。さぞ楽しかったろうな」

「…大御所様は…独特な方にあられました…」

「あのお人は、ムーンブルクの書庫で見つけた”ゾーマの書”に耽溺しておった。取り憑かれたようであったわ…竜めを寝取ろうとした際は、魔王熱が嵩じておかしくなったかと疑ったが」

「しかし我がムーンブルクが魔法で長足の進歩を遂げたのも、あの方と書のお陰」

「残念でございます。シメオン様をはじめお若い方々がすっかりああした秘儀と縁を切られたのが」

「いやまだ独りはおるとも…その証拠に、ちゃんと薬は届いておる。時にこの前の血の毒味は済ませたかや」

太后が問いかけると、配下の女官が痩せぎすの少年を引き出してくる。摂政から届いた竜の血を、決まって奴隷で試してから飲むのが、用心深い媼の習慣だった。

「この通り、無事です」

「ふむ…覇気のない男よな孫も。毒殺の一度か二度は試みればよかろうに」

「またご冗談を。ではお飲みになりますか?」

「おお。やはり血は新しいものに限る。活力が違うのじゃ」

血、といってもムーンブルクの薬と混ぜた黒い液体を、黄金の杯に注いで、若々しい老婆はゆっくりと干した。

「ふむ…また肌に張りが増すようだわぇ…はよう竜の息子の方も血を採れるようになればよいが…若い方がなお効き目があろう…」

「では私もご相伴を…」

「私も…」

一同に貴重な回春薬が行き渡る。

しばらくして一人が呻いて、胸を抑えた。また一人、また一人と床に突っ伏していく。太后自身も息を詰まらせ、もがいて柔らかな寝椅子の詰め物を引っ掻いた。

奴隷の少年が立ち上がって、呪文の光に輝く瞳であがく魔女の群を眺め降ろした。

「ハーゴンより、ローレシアの太后へ挨拶を送ります。口寄せの術を使う無礼をお許し戴きたい。さてお苦しみでありましょう。何よりも原因を知りたいでしょう。血の型はひとりひとり異なり、また家系や氏族によっても大きく違う。太后殿下の毒味役がシドーの民と知り、その血の型にだけ無害な毒を調合いたしました…ごくゆっくり死に至る毒をね」

「おのれ…奴隷の分際で…」

「どうぞお怒りをお収め下さいますよう。すべては摂政殿下のお望み。さらにこの技をハーゴンに伝えたるは太后殿下の兄上、さきのムーンブルク王たる御方。因果応報と申せましょう」

「くっ…ハーゴンだと…これだけの真似をしておいて…生き残れると思っているのか…我がムーンブルクとローレシアを敵に回して」

少年は呵呵大笑した。正しくハーゴンの仕草を模したのだった。

「ロトの虫けらがこのハーゴンを敵に回して生き残れますかな…まず、あなたがた古い妖怪に退場していただきましょう。あとはヴィルタ様の夫君とシメオン様、それからサマルトリアの温厚な殿が、悪霊の神々を奉る我が教団にどれほど抗うのか、冥府でゆっくりご観覧頂きたい」

「きょ…教団…」

「本日を以て旗揚げしたるハーゴン教団。シドーの破壊の面を司り、ロンダルキアに王帰りいまし、再生の始まるその日まで、かの地に巣食い、全世界に恐怖をばら撒く」

「…くく…まるで兄上そっくりの口振りじゃ…やはりあの方の弟子じゃな…」

太后は寸鉄を入れると、黒血を吐いた。艶やかだった顔に皺が浮き、すんなりしていた四肢も萎び始めていた。少年はかすかに身じろぎしたが、語調は変えずに続ける。

「ああ大御所か…だがムーンブルクは地上に残りませぬぞ。あの方が願っていたような月の都の天下統一は成らぬ」

「どうかな…ハーゴン…お主…己の血筋を…くく…疑った事はないのか…その魔法の才…」

「まだ元気がおありですかな太后殿下」

「ハーゴン…ムーンブルクを滅ぼすというなら…それはお主が故郷を破壊するのと同じ」

「私の故郷はロンダルキア唯一つ」

「たわけめが!永遠に兄の敷いた道で踊るがよいわ!!」

ローレシアの影の支配者は、嘲りとともに事切れた。少年は傀儡の術から釈き放たれると、累々たる屍を蒼褪めて見回し、やがて拳を握り締めて叫んだ。

「ハーゴン様万歳!奴隷の解放者!万歳!」

やがて摂政の率いる近衛兵が押し寄せ、奴隷を床に打ち倒しても、なおも新たな魔王の誕生を寿ぐ喚き声は止まなかった。


シメオンが先王の奴隷厩舎を討伐しようとした時はすでに、ハーゴンは仲間を率いて脱出していた。

シドーの若き大神官はまつろわぬ民を糾合し、南海の孤島に逃れて、邪神の像を手に入れると、短期間のうちに魔物を含む大兵力を築き上げ、ロンダルキアに向かった。屈強を誇るデビル族も、一角獣族も、デーモン族もさえもが像の魔力には抗えなかった。

百人の子供等は地獄の使い、あるいは悪魔神官と渾名される精鋭となり、続々と増える信者に知識を分け与えた。多くはシドーやラーミアを崇拝する民だった。ムーンブルクの闇の技をハーゴンの技と名を付け替え、並の術士では歯が立たぬ魔術師、妖術師、祈祷師からなる部隊を編成すると、各地に送り込んで教導に当たらせた。

各国の新政のもとで奴隷は名実ともに廃止されていたが、宗教間の対立は凄まじく、こうした信者はまさに草莽の如く湧いて、騎士団が倒しても倒しても神官は現れるのだった。

「シドーの御名を唱えよ!その下に身分の別はない!」

「魔物とともに生きよ!大いなるシドーの子等はまず魔物である。その前では人間は劣った存在に過ぎぬ。王も貴族も一匹のスライムに及ばぬ」

「破壊せよ!秩序を!破壊せよ!圧制を!破壊せよ!汝を縛る鎖を!小作は地主を!漁夫は網元を!下人は騎士を!殺せ!打ち倒せ!シドーがついている!」

人間と魔物の骸の山を残しながら、ハーゴンは嗤った。救えたはずだったヴィルタ姫の”死”と、ローレシア新王の再婚の知らせが、最後の箍を外した。もはや地上に気遣うべき人はいない。ただ教団の同胞だけだ。あとは全世界を聖邪ともどもに焼き尽くし、失った過去への葬送の火とすればいい。

”あのハーゴンがかなしいの。かなしい。かなしい。かなしい…”

「悲しくなどありませんよマリア様。少しも悲しくなどない」

”永遠に兄の敷いた道で踊るがよい”

「ムーンブルクに未来はない。大御所の目論みは潰えたのですから」

シドーの大神官は、しばしば玉座についたまま幻影を呼び出した。雪原。アークデーモン。まだ少女の頃のヴィルタ姫。死神族の養い親たち。やがてマヌーサは消え去らなくなり、城いっぱいに満ちるようになった。訪れる客は、本人の心の望みの景色を見るようになった。

それはハーゴンの幻と呼ばれるようになった。

「ああ…何て楽しいのでしょう」

闇の司は歌いながら、虚像の踊る城、いまやハーゴンの大神殿と呼ばれる場所でムーンブルク攻略の秘策を練った。奴等が得意とする聖水による防備を反転させればいい。ルビスの加護を得た清浄の液体を毒の沼の水に変えるのだ。あとは魔物の大軍に突入させる。ベリアルかバズズか。どんな馬鹿でもできる。

”かなしい。かなしい。かなしい”

「悲しくなどありませんよ」

「ハーゴン様」

悪魔神官が現れる。おどろおどろしい仮面をつけているが、ムーンブルク時代からともに死線を潜り抜けてきた姉弟の片割れだ。

「どうしました。民の食糧が足りませんか?医薬が?よもや獣を喰らってこの飢えを過ごしたのに、デビル族への生贄を拒む輩がいるのですか?人間だけが命の連鎖から外れられると考えているとすれば大変な間違いだと…分からなくては…」

「いいえ。下界の密偵からの連絡です」

「ああ。何です」

「ヴィルタ様の一子、ズィータ様はご存命です」

「何と!」

ハーゴンの全身を温かい波が浸していった。肩に乗った重みが急に軽くなる。

「真ですか?」

「はい。ご壮健とか。しかし幼い頃から、父王に打倒ロンダルキアを吹き込まれていると」

「ふふ…だがあの城にもまつろわぬ民はいるのですよ。いつまで真相を隠し通せましょうね」

「…この報せをもたらすために、我等百人の同胞を一人…捕われました」

「ふむ…誰を」

「姉です…ハーゴン様から賜ったいかずちの杖を振るってよく戦ったと聞いています…しかし…今は…ローレシアの地下牢に」

「…あの子は”地獄の使い”でしたね…”悪魔神官”ではなく…」

「魔力が足りませんでした…だから杖に頼った…しかし機転が利き、武術には長けていましたから…男装して若い神父に化けていたのですが」

「ローレシア…助け出す方法を考えてみましょう」

「いえ、姉は覚悟していました。まずはムーンブルク攻略を!奴等に地獄を味合わせて下さい…」

そうだ。ムーンブルクが落とせなければ、ローレシアに手は届かない。救い出すなどできはしない。その通りだ。ハーゴンは沈鬱な表情になった。すっかり良心は切り捨てたはずなのに、まだ顔馴染が窮地にあると塞ぎ込んでしまう。人間を止めたはずが。

「分かりました。ムーンブルク攻略とローレシアからの捕虜救出は並行して進めます。参謀たちに伝えなさい。それとズィータ様の詳しい情報も集めるように」

悪魔神官は平伏して退出した。大神官はかすかに疲れを覚えて額に手をやる。

”かなしい。かなしい。かなしい”

「ズィータ様」

ヴィルタ姫の子供なら、いずれやってくるだろう。ロンダルキアへ。古の竜王がしたように、世界の半分を差し出すとしよう。光の側を。もう半分。闇の側は引き受けよう。実と影、陰と陽。骨牌札の両面。世界を統べるのであれば半分ずつ。これが正しい形だ。

誰の言葉だったか。

”かなしい。かなしい。かなしい”

「悲しくなどありませんよ。あのハーゴンはもうどこにもいないのですから…」

早く月の都を陥落させなくては。あの面影を持った聖女を闇に堕とさねば。ハーゴンは胸を抑えながら、童の涙を脳裏から振り払おうとした。だができなかった。恐らく永遠にできないのだろう。破壊神の炎がこの身を焼き尽くすまでは。

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