ゆるやかな起伏をなす平野のただなか。蒼穹を背にした小山に、城はあった。赤炎と黒煙をたなびかせて。
焼け落ちる間際のような郭や保塁から、無数の影が蜘蛛の子を散らすようにして逃れようとしていた。ただ焦熱を恐れるのみならず、見えざる災いにおびえるかのように。
草むす野を抜け、田畑のあいだを蛇行する畦道のかたわらには、侍や足軽が紅の斑を浮かび上がらせて横たわり、あるいはまだ動ける大工や人足が仲間に肩を貸して歩いている。
たが流れに抗うように、孤騎が土ぼこりを蹴立てて、燃える高砦へと馳せよってゆく。
鞍上にいるのは少年。堅い面持ちで手綱を操りつつ、前方に馬止めの柵が目に映ったところで素早く引く。いななきとともに、鉄を打った蹄が地を掻き、疾駆は並足に移り、やがて止まった。
溜息をついて、びっしょり汗を掻いている逞しい首を叩いてやると、ひらりと羽が舞うがごとくに飛び降りる。あとは、鼬か貂を思わせるすばやさで頑丈な木組みのあいだをすり抜けると、まっしぐらに坂をのぼっていく。
大手門のあたりまで来ると、渦巻く焔は近づくのもはばかられるまばゆさだったが、肌をひりつかせる熱も、炭が爆ぜる音も、柱や梁が灼ける匂いもしない。
あまりにも静かな地獄絵図を眺め回しながら、虎弥太は頭に差し込むようなうずきを覚えて、左のこめかみを掌の底で押さえつけた。周囲には人はいないというのに、どこかで叫びが聞こえた。
とっさに首をもたげたせつな、燻香や熱波が、まるで待ち構えていたように押し寄せる。だが息を吸っても胸苦しくなりはせず、肌は汗を掻かない。はたして鼻や肌は本当に今起きている火事をとらえたのか、忘れてしまった昔の思い出が頭によみがえっただけなのか、はっきりしない。
「お虎、来たかえ」
誰かが呼ぶ。懐かしい声が。
視線を遊ばせると、はるか高く、天主の月見台に、蘇芳の袷をまとった刀自が立っていた。
夢とそっくり同じ。白い手に鞠を持ち、軽やかに投げ上げてはもう片方の掌で受け止める。あたりを舐めつくす朱の舌などまるで構いつけぬようすで、どこか冷えた笑みを浮かべている。
虎弥太も息を吸い込むと、いささかもこげた匂いがしないのを確かめて一心に駆ける。燃え立つ柱のあいだを抜け、木組みの階段に取り付くと、両手と両脚を使って、かつてからかいを受けた言葉通り、
「お龍様」
「久しいの。会いたかったぞ」
まだ互いに距離を置いているのに、言葉はすぐそばを行き交っている。あまたの人足や大工が使って黒く汚れた杉材の段をきしませ、二階、三階を次々と過ぎ、とうとうてっぺんまで辿り着く。広々とした月見台へと踏み出そうとすると、紅蓮の影は鞠を持つのと反対の腕を差し伸べて制した。
「待て」
たちまち景色が変わる。炎をまといつかせてて轟々と炉の如く明るかった天守は消えうせ、まだ作りかけの木組み櫓だけがあった。いかにも戦のための急ごしらえらしく、かつて在りし城の麗しさは、欠片すらも残っていない。さながら髑髏のようだった。
少年が足をつけようとした床は板が渡していないところがそこかしこにあり、地下に開いた井戸までまっすぐ通じる空隙があった。汗ばんだ肌を、夕の風が撫ぜ、急に寒けをさせる。
「猿でもそこから落ちては助かるまいな」
「お、龍様…なぜ」
息を切らせて問いかける童児に、あやしの女は鞠を指先で回して見せた。ひどく剽軽な仕草だった。
「なぜと言うて、戦に敗れ、うらみを呑んで果てた国の
「だって、お父まで…」
そう反駁すると、袷がまるでのたうつ蛇の腹の如くゆらめき、金の鱗に似た模様を浮かび上がらせる。
「お父?そなたまだ彼奴を父と思うておるのか」
簪が煌き、龍の双眸が鋭く閃く。虎弥太はよろめき、見えない矢が眼窩を貫き通したかと思うような痛みに頭を抱え、均衡を崩しそうになってそばの柱にしがみつく。また炎が戻ってきた。だが外ではなく、内からあふれ出てくるのだった。脳裏の奥から。
いつ頃だったか。幼い虎は、部屋の中で煙の匂いを嗅ぎながらうつぶせになっていた。短い手足は鉛のように重くなり、小さな胴の中で臓腑は痛み、あどけない唇からは幾度も嘔吐していた。周りには同じように倒れ伏した大人がいる。
「お龍さ…ま…」
かすれ声で名前を呼ぶ。頭を動かす余力もなく、ただ畳に向かって呟くだけだった。
「お虎、お虎。しっかりせよ。直に助けに参る故」
すぐそばで返事がある。緋の袖があらわれ、励ますように揺れる。
「お龍さ…ま…おかげ…ん…」
弱々しく問いかける。丸まっこい指が開いたり閉じたりして、藺草の縫い目をなぞる。
「わらわのことはよいのじゃ」
いつも落ち着いた龍が、珍しく気を乱しているのを聞くと、幼い虎は涙ぐみ、ちっぽけな肢体に残る力を振り絞ると、芋虫のように這った。
「おそば…いく…」
「お虎。動くでない」
途端、青黒い衣をまとった誰かが、階段を音もなく下ってきた。幼い虎に見えたのは、忍足袋と脚絆だけだったが、旋風のように動き回り、地刷りに刃を過ぎらせた。鮮血の匂いがして、頬に返り血が来る。
「鷲の乱破か、むごいまねをする。井戸に毒を入れたのもそなたじゃな」
氷と氷がぶつかりあうようにきしみ連なる語句に、しかし相手は一切答ようとはせず、ただ鋭利な得物を幼児に近づけてゆく。
「虎千代は、鷲の家からの預かりもの。まこと手にかけるつもりか」
なおも問いが続くと、ようやく刀が止まり、濃藍の軽衫がたたらを踏んだ。虎は、耳に入ってくる龍の語りかけを聞くともなしに聞きながら、またえずいて、胃の汁をこぼした。
だしぬけに切先が、重みに耐え兼ねたかの如く畳に突き刺さる。かすかに青い装束の脚が震えているようだった。
「許さぬぞ。虎千代に何かあれば、必ず狂い死にさせる…」
恫喝が急に遠ざかっていく。乱破は咳き込んでから態勢を直し、しばし息を整えると、やおら得物を放し、床に伏す小さな体を掬い上げて、敏捷に元来た階段を登っていく。太々しい腕の筋骨からして、よく身を鍛えた男らしかった。
天守の月見台まで着くと、眼下の景色はすでに炎に包まれていた。かなたに槍の穂波がきらめき、旗竿がはためき、かすかに法螺貝が鳴っている。虎はうつろに眺めながら、ままやいた。
「お龍…さま…」
欄干には大きな蒼穹に入り混じるような色に染まった、とてつもなく大きな凧がかかっていた。男は子供を抱いたまま近づくと、風を読むように天を仰いでから、竹の骨組と布張りの仕掛けに身を滑り込ませる。
地上の熱が昇り風を起こすのを見計らって、月見台の縁を蹴ると、そのまま宙に飛び出す。凧は軽やかに翔んだ。鳥の如くに。
いつしか天守には刀自の姿があった。人形のように縮んで、面差しは作りものになったかの如く強張っていた。瞳の光も、暗くくすんでいる。ただ紅を引いた唇だけは生あるしるしに動き、何ごとかを告げるのが読み取れる。 鋭い風の音に混じって、切れ切れに届く声は、なおも穏やかだった。
「よかろう。その子を戦より遠ざけよ。だが城から見えぬところへ行ってはならぬ。命が惜しくば覚えておけ」
虎、虎千代はかなたの人へ呼びかけようとしたが、喉元に押し当たる匕首の冷たさがもはや言葉を出させなかった。次第に朦朧としながら、ただ胸裡のうちで名を形作る。
「お龍様」
我に返ると、龍姫は赫々と耀う袖を広げて、静かにたたずんでいた。
「思い起こしたか。己が誰か、父と呼んだのが誰か」
「…俺は…」
龍姫が鞠を投げ上げると、紅い球は回りながら虚空で翼を広げ、鳥に変じて真逆様に降り、地下の井戸に消えていった。
「彼奴の仕掛けは鳥であった。羽に薬を含ませ、隠し井戸に飛び込ませた。皆が動けなくなったところで空から油をまき、火を掛けた」
「お父が…城の皆を…お龍様を」
あえぎながら問う童児に、刀自はあいまいな笑みを返した。鱗に似た袷の模様がかすかにくすみ、角を思わせる簪の輝きもやや薄らいようだった。
二人のあいだを、夜の訪れを告げる冷たいはやてが抜けていった。すでに幻の炎が織り成した衣は、骸骨じみた砦から剥げ落ちていたが、今度はすっかり西に傾いた日が一切を茜に染めて出しており、まるで人も建物も燃えるようだった。
「どうして、俺だけ」
「そなたは鷲の家に嫁いだ我が姉の子。盟の人質として預かっていた。誰ぞ生かしておけば役に立つと考えたやもしれぬ」
滔々と語る美貌の亡霊に、少年は唇を噛んでから叫ぶ。
「お龍様はどうして俺だけ助けた」
かすかに溜息を吐いてから、龍姫は嫣然として、舞うように左右の袖を打ち振ってみせた。
「お虎はわらわの宝じゃもの」
呟いてから長い睫を伏せ、おもむろにまた続ける。
「城のもの皆が愛でておった。きっと先に冥土に立ったものどもも許してくれようぞ」
身に着けている裃を重く感じて、童児は狭い肩を落とすと、うつむいた。拳を握りしめ、また開いて、口にすべき台詞を探してから、ようやく一言、搾り出す。
「お父も…許してやって…」
ひどく空々しく響いた。声の弱さを補おうとするかの如く、顔を上げてまっすぐに見つめると、女はかすかに表情を曇らせてから、また紅蓮の着物を翻らせる。
「彼奴はそなたを鷲の大殿から隠しはしたが、おかしな薬を飲ませ、昔を思い起こさぬようさせていた。乱破に信は置けぬ」
つむぐ語句の一つ一つが大気を灼かんとするようだった。童児は視線を逸らしそうになるのを懸命に堪えて、ひたと女のかんばせを据え付ける。
「お父は…いい人じゃないかもしれない…だけど…俺を育ててくれた…」
「お虎」
「俺はもう虎弥太だ。虎千代でもお虎でもない…お父の子なんだ!」
肌脱ぎになって背に負った刀を外し、鯉口を切って鞘から抜く。龍姫は不意に相好を崩し、まるで包み込むように腕を広げた。たおやな姿が何倍にも何十倍にもふくらみ、袖には戦の焔と躯と亡霊を宿して。