The Phantom Castle Vol.1

里にはやり病が広がるころから、虎弥太はおかしな夢を見るようになった。

毎夜毎晩。いつも同じ夢だった。

場所は分からない。昼の少し前だろうか。白い砂をしいた四角い庭に立って、あわくかすんだ天をあおいでいた。

かたわらで軽く布を打つような音がして、緋色の鞠がまっすぐのぼっていく。まん丸い形が雲の間に間に吸い込まれるように小さくなり、また大きくなって落ちてくるのを眺めていると、つい笑みがこぼれ、じっとしていられなくなる。

少し屈んでから、勢いをつけて飛び上がると、額で鞠を受け、再び宙へと押しやった。再び高く舞った布玉を追って、また降りてくるところへ先回りし、頭でつついて天へと戻す。

繰り返し、繰り返し、そこかしこを跳ね回って、ひたすら戯れていると、胸のあたりからとめどもなく歓声があふれ、あたりにこだました。

“お虎、お虎”

不意に優しげな呼びかけに耳をくすぐられ、足を止め、なお遊び足りぬげに弾む布玉を抱き締めると、くるりと振り返る。

平らかな苑地の端、灰がかった塗り土の壁と黒瓦の軒が日をさえぎるあたりに、赤いあわせ を着た刀自とじがたたずんでいた。燃えるような袖から白く華奢な手を伸ばし、まなじりのあたりに当ててひさしにしつつ、下からは明るい眼差しをのぞかせている。

“お虎はまことにましら のようじゃ。いっそ名を変えたらよい”

“おたつ 様!”

半ばてのひら に隠れた美しいかたち を目にしたとたん、背筋を嬉しさが駆け抜け、相手の名が口を突いて出る。鞠を抱えたまま駆け寄ると、向こうは火の色をした裾を広げ、すっぽりと内に迎え入れようとするようだった。

けれど、あと二歩か三歩で鮮やかな朱の衣に触れるというところで、不意に一陣の青いはやてが虎弥太をさらって、布玉か何かのように軽々と虚空へ運んだ。

喉にひんやりと固いものが触れる。耳元で風がきしむように鳴る。

驚いて瞬きするうち、いつしか刀自の姿は人形のように縮んで、面差しは作りものになったかの如く強張っていた。先ほどまで楽しげにきらめいていた瞳の光も、暗くくすんでいる。ただ紅を引いた唇だけは生あるしるしに動き、何ごとかを告げるのが読み取れる。

鋭い風の音に混じって、切れ切れに届く声は、なおも穏やかだった。

“城から見えぬところへ…行ってはならぬぞ…”

返事をしようとしたが、首元に広がる奇妙な冷たさが言葉を封じてしまった。腕を伸ばすと、鞠がすべり落ちて、下方に消えてゆく。風はいっそう甲高く、仲間を呼ぶ鳥か獣の如く、必死な響きを帯びて吹き渡る。

景色は絶え間なく揺れつつ移り変わり、やがて眼前に城が映った。今しがたまでいた場所。外から望むと、刀自の着物と同じように、燃えるような赤に染まっているのがうかがえる。

泣きたくなって顔をゆがめると、急にすべてが溶け崩れ、無明の中に紛れていった。


「虎弥太、虎弥太」

肩を揺すぶられて、少年は眠りから覚めた。まぶたを開くと、気むずかしげな男の顔がのぞきこんでいる。しばらくして、父だと悟った。

もぐりこんでいた藁布団をのけて、身を起こすと、肌寒い。びっしょり汗を掻いている。周囲は仄暗い小屋の中。乾いた木や草が強く薫っている。ゆっくりと息を吸い込む。梁からぶら下がる木の根や小枝、干した実、葉の束がそれぞれ異なる香をさせているのが嗅ぎ分けられる。

どれも慣れ親しんだ匂いだった。薄闇に目を配れば、かまどや、汲み置きの水を入れておく桶や、農具の置き場、奥の方にある、わずかばかりの大切な品をしまった行李など、なじみあるものの輪郭が見て取れる。

ほっと息を吐いたところで、鼻先のあたりに、ひときわきつい臭気がした。視線を落とすと、大きく粗びた大人の手が濃緑の汁が入った椀を差し出していた。

「飲め」

「うん…」

舌をつけると、強い苦みが広がる。毎日のように口にする味だが、一息に干すのはつらい。だが横からじっと視線を注がれているのを感じて、無理をして呑みこむ。かすかにうめいてから、椀を返すと、ぼんやりと男親の厳しい容貌をうかがう。

「お父。俺、また夢を見た。お城の…」

しゃべり出したところで、強い言葉が割って入った。

「忘れろ」

「だけど…」

「たわけた夢の話などして。よそに聞かれて、薬師の子まではやり病の熱に浮かされたと思われては何とする」

薬師は椀を片付けながら不機嫌に呟き、腰を上げた。童児はうつむくと、急いで着衣を整え、寝具を片付けて後へ続く。

「体を動かせば、つまらんことも頭から消えるだろう。来い」

「うん」

父子はそれぞれ戸口そばに立てかけてある棒きれを取って、外へ出た。

まだあかつき で、わずかばかりの畑と、さまざまの役に立つ草木を育てる薬園はともにかぐろく沈み、四囲をとりまくぶなやならの木立の下には夜のなごりがわだかまっている。肌をなぜる大気は冷えていた。近くで気の早いほととぎすが歌い始めると、少年はふと首をもたげ、山の端がかすかに橙に染まっているのを認めて、何となくにっこりした。

とたん、前を進んでいた父が、振り向きざまに棒きれで打ちかかってくる。虎弥太が思わず飛び退くや、すぐに二の太刀、三の太刀が襲ってきた。いずれもかわして林に飛び込み、後ろ走りのままじぐざぐに逃げてゆくと、相手はぐんぐん追いすがって、また容赦のない攻撃を浴びせる。

二人とも枝や下生え、地面から浮いた根などはものともせず、縦横にやぶと葉むらのあいだをすり抜けていく。剣の稽古というには荒っぽく激しいやりとりだが、不思議にも一度として棒きれ同士が打ち合う音はしなかった。

四半刻ばかりも経ったろうか。曙の光が次第にあたりをはっきりと照らしてゆく。

駆け続けるうち、ずいぶん山の深くへ入っていたようだった。

いつの間にかひとりになった虎弥太は、うまく追手をまてやったとばかり舌を出すと、そばの大ぶりなえのきによじ登り、すばやく梢まで達する。途中で、周りと形の違う細長い葉のついた小枝が幹から生えているのを見付け、にんまりして掴み、ねじり折る。

ほどなくして、近くから甲高い音が聞こえた。迷子防ぎの竹の呼び笛だ。こうして別れ別れになるのはいつものこととて、父がぬかりなく持ってきたらしい。生い茂る緑のあいだから身を乗り出して腕を振ると、下から怒鳴り声が返ってきた。

「いい加減にせい!逃げてばかりでは修練にならんぞ」

答え代わりに、笑いを弾けさせから、童児は叫ぶ。

「お父!やどり木を見付けた。これ薬だろう?」

「何?…まことにお前は猿のようだな」

あおぎ見つつ、あきれて呟く男親に、虎弥太は一瞬はっとしたような表情をしたが、すぐ要らざる考えを追い払うように首を振り、小枝をつかんだ拳を差し出した。

「ほら」

溜息をついた薬師は呼び笛をふところにしまい、手に持っていた棒きれを、そばにあるぶなのうろにたてかけてから、やおら子供に負けぬ身軽さでえのきの幹を駆け登り、太い張り出しの一つに腰を落ち着けると、若枝を受け取った。

「桑寄生か。質はわるくない」

虎弥太は自慢そうにうなずいて、周囲を眺めわたしてから、すっかり明るくなった東の斜面を指さした。

「あっちにもっとある。行こう!」

ほっそりした指が示す先を、父は黙って一瞥する。なるほど数本かたまって生えたえのきの大樹にところどころ葉の色や形が異なる部分がある。頷いて返事をしようとしてから、ぎくりと肩をすくめ、やおら西の野へと頭をめぐらせてから、短く告げた。

「いや、帰るぞ」

今度は子供が、親の眼差しを追った。

彼方の丘に、ぽつんと骸骨のような建物が見える。無数の柱と梁をつないだ城の木組みだ。朝焼けのせいか、朱に染まっている。血を浴びたようでもあった。

「お城…」

「虎弥太!」

父は叱りつけると、枝から枝へ移りながら根元へ降りる。あわてた童児もあとに従った。

棒きれを拾って早足に家へ戻る大柄な父について、小さな息子はせわしなく隣に並んだり、背に回ったりしながら尋ねる。

「やどり木…そうきせいはひざの痛むのに効く?」

「ああ」

ごつい様相は前を向いたまま、むっつりと応じるや、かたわらで幼さげな容貌が楽しげに言葉をかける。

「だったらもっと採ったらいい。教えてくれたら俺が…」

「まだ早い。お前はちゃんと手習いを終えてからだ」

「うん…」

「まず朝餉のしたくだぞ。あわ も少ないゆえまた粥を…」

小言めいた台詞をつむぎかけたところで、父は突如うつ伏せて、地に耳を押し当てた。虎弥太はびっくりしたが、すぐにまねをすると、ひそひそとささやいた。

「ひづめの音がする」

「しっ…」

低く制してから、男親は考えこむ風に目を閉じ、やがておさえた調子で述べた。

「おおかた、薬を求める客よ。はやり病にかかっているとも思えんが、お前は用心のため家を離れておれ。先ほどのところで、桑寄生を採ってもいい。客が帰ったら呼び笛を鳴らす」

「うん」

「行け」

促されるまま、少年はそっと立ち上がってきびすを返し、静かに林の中へ退く。ときどき振り返っては、同じく身を起こした父が衣から土を払い落とし、棒きれを放り捨てて、小屋へ戻っていくのを眺めやった。

ひさしぶりに馬を見たくて、こっそり後をつけていこうかと迷ったが、しかし結局は、言いつけ通り小屋とは逆に向かって歩いていった。やどり木を採ろうという気持ちは萎えていた。代わりに木々のあいだが開いて陽射しのよく入る切れ目を目指して。

覚えていた通り、ぐみが熟した実を鈴なりにつけていた。近づくと、どれもすぐ童児の手のとどくところにあって、一つつまんで食べると酸味とかすかな甘味が口に広がる。種を飛ばしながら、次から次へむさぼっていると、やがて十の指はあまさず緋に濡れた。

鮮やかな彩りに魅入って、朝日に向かって掌をかざすと、またつい笑いがこぼれる。

きれいな赤だった。

「お龍様…」

なつかしい名を独りごちてから、いぶかしげに首をかしげる。夢に出てきた名だった。

ぐみの木の根元にたまった乾いた枯れ葉の上に横たわって、まぶたを閉じる。たちどころに、和やかな、からかうような、うるわしい面差しがはっきりと心に描ける。けれど、はたして誰なのかを思い返そうとすると、ぼんやりと霧がかかったようにあいまいになる。

“お虎…お虎”

まるで童女に話しかけるように、虎弥太を呼んでいたのを覚えている。ほかに何と言っていたろう。

“城から見えぬところへ…行ってはならぬぞ…”

城。

城はいずこか。先ほど、えのきの梢に登ったとき見た、丘に建つ骸骨のような木組みか。あれはしかし、ついこのごろできはじめたようだった。

「お龍様…」

もう一度つぶやくと、枯れ葉の上で身を丸める。木漏れ日は暖かく、腹はくちく、二度寝の快さがゆっくりと背筋を這って四肢へ広がる。呼び笛の音がしないかと耳を澄ませてから、少年はまどろみに落ちていった。


眠りの戸をくぐってたどり着いたのは、いつもとは違う夢だった。

星も月もない夜。赫々あかあか と炎をまといつかせた櫓の群が、闇に篝のごとく輝いている。不思議にも、虎弥太はすべてを天から見下ろしていた。耳元でまた風が鳴っている。

目を凝らすと、白い塗り土の壁は黒く焦げ、烏羽色の甍の上には無数の火矢が散らばり、くすぶっているのが認められた。保塁も曲輪くるわ も本丸もすべてが焼けつつあり、ただ真ん中にある望楼にはまだ火の手は及んでいない。

五重に屋根を連ねたいただき、広い廻縁には、茜の衣をまとった刀自がひとり、鞠をたずさえて舞っていた。やわらかく笑みつつ、華奢な手が布玉を高くほうるつど、層塔の根元では紅蓮が大蛇のごとくにうねり、のたうち、轟々と吼え猛る。

“お龍様!”

呼びかけると、紅衣の女は頭をもたげていっそう嗤いを広げた。

“お虎、戻ったか…待っておれ…下を片付けてしまうほどに”

“下?”

けげんに思って、あらためて眺めやると、踊る火柱のあいだに、無数に人の影が見えた。鷲の紋が入った戦装束に身を包み、槍や刀や弓を持って、もがき、よろめきながら、逃げ道を探し、ついには倒れていく。

虎弥太はかすかに肩をふるわせ、軽やかに舞い続ける刀自に叫んだ。

“お龍様!皆死んでしまう”

“ああ、すぐ済む”

“お龍様!いけないったら!おたつさ…”

さらにかき口説こうとしたところで声が出なくなる。ぐんぐんと地面が近づいてくる。風が甲高くひしり泣き、急に止んだ。驚いて四方を見回すと、とてつもなく大きな青い鳥が肩をつかんでいた。今まで翔んでいられたのは、二枚のたくましい翼に運ばれていたためらしい。

ようやく、耳元で聞こえていた風の音の正体は鳴き声だったのだと知れた。だがどうやってあんな奇妙な響きを立てていたのかは解せなかった。鳥は人の顔をしていたからだ。父の顔だった。しかも常日頃の平静な様相ではなく、激しい痛みに耐えるかのごとく歪み、双眸を血走らせ、頬や額に赤い筋を走らせている。

鳥はとうとう羽根をはばたかせる力をまったく失って、真っ逆様に落ちていく。

“お父!お龍様!”

断末魔のように、また甲高い鳴き声がほとばしる。虎弥太はそれが竹の呼び笛にそっくりなのを悟った。


また、びっしょりと汗をかいてはね起きる。呼び笛が鳴っていた。

日はあまり動いておらず、ほんの寸刻うたた寝をしていただけだと分かったが、少年はそばに転がった棒きれをつかむと、あたうかぎり早く木立を抜け、小屋へと駆けていった。

薬園と畑を通り過ぎるところで、馬が三頭、木につながれて下生えを食んでいるのを横目にとらえ、眉をひそめる。客はまだ帰っていないのだろうか。足を止めて考えようとして、いきなり背後に人の気配を感じる。

あわてて横へ飛び退ると、今度は家の方から聞き慣れない声がした。

「小僧。父御を案じるなら、中へ入った方がよいぞ」

身構えつつ屋内の暗がりを見通そうとすると、低いうめきが耳に入る。父のものらしかった。次いで嘲るような忍び笑いが響く。

虎弥太は唇を噛んで、相手の言葉に従った。敷居をまたぐと、いつもはすみに置いてあったはずの行李が開いて投げ出され、中身がぶちまけられているのが見えた。本草学の書や、青鷺色の袴、立派なこしらえの短い刀もある。どれも親が大切にしていたと思われる品だった。

持ち主はといえば、そばに倒れて動かぬままだ。血は流してはいないが、芋虫のように身を丸めた姿からは手ひどい打撃をこうむったらしいと察せられた。

隣には、得体の知れぬ女が立っている。年頃は父と同じか少し上か、背は高く、鴉のようにやせぎすで、いでたちは男と変わらず、腰に刀を差し、鷲の紋が入った羽織をつけている。手には呼び笛を持ち、切れ長の瞳に皮肉な光を宿して、見つめ返している。

「よく仕込んだな」

武家姿の女は、物言わず床に伏す薬師に向かって声をかけてから、凍り付く童児に視線を戻した。

「呼び笛を吹いたのはわしよ。これは元々我らのあいだでつなぎをとるための道具でな。父御はなにも教えなんだか?」

「お父っ」

一歩前に出ようとする少年の肩をいきなり誰かが掴んで引き留めた。振り返ると、雲つくような巨漢が見下ろしている。がっしりと横幅があり、やはり鷲の紋の入った羽織をつけているが、丈に合わず、いかにも窮屈そうだった。最前、背後に感じた気配の人物だろうか。

やせた女の方はのんびりと告げる。

「お前の父御はむかし、我らと一緒にはたらいておった。いくさ でな。行方が知れなくなって、死んだと思っていたが。こんな近くにいたとはな」

淡々と語りながら、たまさかようすをうかがうように虎弥太に眼差しを向ける。

怒りとおびえにわななきつつ、少年は手に持つ棒きれに力をこめたが、とたんに鎖骨のあたりに太い指が食い込んで、あえぎを漏らすはめになった。

「父御を大事に思うなら、そのおもちゃは捨てたがよいな」

細身の女はけだるく述べると、やおら鞘を払った。あらわれたのは長さ二尺ほどの青白い刀身で、ふだん目にするなたや包丁とはまるで異なる、さえざえとした輝きを放っている。切先は、横たわる薬師の頬のあたりを狙っていた。

唾をのんだ虎弥太は、握っていた拳を開き、たよりない得物を放した。同時に肩にかかる手の力がゆるむ。

女はうなずくとすぐに刃を収めた。あくびを一つしてから、相変わらずゆったりとした所作でかがむと、行李からはみだした品々をまさぐって、青鷺色のはかまをつかみ上げる。

「元服のしたくか?たいした入れみようだ…小僧、着てみせよ」

「…えっ」

とまどう子供に、鴉に似た男は目を細めてたたみかける。

「早うせよ」

「まって、お父を」

おずおずと親の命乞いをする虎弥太に、やせぎすの女は舌打ちして、大兵の連れに命じた。

「剥け」

たちまち逞しい手が野良着のえりと脇とをつかみ、荒織りの麻をやすやすと引き裂く。童児がとっさに身を守ろうと縮まったところで、今度はごつい指がうなじをとらえて、猫かなにかのように宙へつかみあげる。残る手が下帯をとらえ、手早に脱がせて、未熟な裸形が露にさせる。

「洗え」

ひょろりとした相方が離れたところからまた指図すると、巨漢はとらえた子供が暴れるのを意に介さず、桶まで運び、おもむろに小さな頭を押し込んだ。

虎弥太はくぐもったうめきとともに華奢な腕を振り回したが、首を抑えつける力に抗えず、ついには胸の苦しさがきわまって四肢が萎え、ぐったりとなった。

しばらくして、大男は童児の頭を上げさせ、二、三度息をするのを許してから、また水に戻して乱暴に髪をゆすいだ。続いて再び外へ引き出すと、今度は先ほど引き裂いた野良着の端を濡らして、強引に肌をこすり上げていく。大根でも洗うような、みそぎを一通りなし終えると、最後に乾いた布きれの残りで湿りをぬぐい、相方に突き出す。

「着てみせよ」

やせた女は同じせりふを繰り返しつつ、薄青のはかまと真白い下帯とがひとまとめに押しつけた。虎弥太は涙ぐみ、ふらつきつつ、横たわったままの父を一瞥し、弱々しくうなずいて受け取ると、のろのろと身につけていく。糸で肩や腰、すそをつめてあるが、まだ丈はあまった。

二人組はじっとようすを見張っていたが、やがて鴉に似た方が得たりという面持ちでひとりごちた。

「なるほど。殿によう似ておる。間違いない」

次いで、そばに転がってかすかにうめく薬師へと視線を落とすと、いささか感心したていでつぶやきかける。

「まことよくしでかしたものよ」

さらに何か話しかけようとして、思いとどまって口をつぐむと、少年へ向き直って告げた。

「お前の父御には謀反むほん の疑いがかかっておる」

あどけなさの残る容貌が呆然となるのを、面白がるようにながめつつ、さらに語句を継いでいく。

「六年ほど前にな。戦があってこのあたりは我が殿の領地となった。その折、焼け落ちた敵の城があったところに、近頃は新たな砦を建てる運びとなってな。在の百姓どもに賦役を課したのよ。知っておような?」

虎弥太は、幾度も親のようすを盗み見ながら、おずおずと首を横に振る。鴉はとがった顎に指をあてつつ、さらに話を進める。

「まあよい。実は年の初めから、賦役のものども次々と疫病えやみ にかかるようになってな。総身に赤い斑が浮かび、時ならず高熱を発するという。城跡を離れるとけろりと治るので、はじめは務めを逃れる方便かと疑ったが、とうとう普請の役人までが倒れてな」

女は喋りながらゆるやかな足取りで捕らえた父子のあいだを歩いた。

「不審のことありと、我ら探索方に命が下った訳よ。調べるに、具合を悪くした百姓は皆、あとで同じ薬師の世話になっている。何やかあらんといま少し詳しくうがったところ、懐かしい顔ではないか。おまけに、無骨者にはにあわぬ麗しい子がいると聞いてな」

痩せた武家姿は急に立ち止まると、薄い笑みを浮かべ、童児を振り返った。

「父御が薬師として暮らし始めるより前をどこまで覚えておる」

問いを受けた少年は、尚も微動だにしない親の方をうかがいつつ、また首を横に振る。

「さもあろうな。まだ嬰児とそう変わらぬ年であった。よし。昔語りをしよう。そう父御を気遣うな。急所ははずしてある。こやつの頑丈さについてはよく何より我等がよく知っておる。なあ?」

鴉のしわがれた声が問いかけると、虎弥太を取り押さえている巨漢が、同意の印に唸りを上げた。男装の女はうなずき、いよいよ熱の入った風に口舌を振るう。

「かつてこの地を治めし龍姫は、姿形麗しく、物腰たおやながら、本性は酷薄。数え切れぬ男を魅したぶらかし、身滅ぼさせてきた。我が殿の兄君もしかり。龍姫との和議を結び、己が一子を人質として預けるまでに信を置いたが、結局は騙し討ちにあって奥方ともども無残に果てた」

不意に凶鳥の目でじっと虎弥太をねめつけ、ようすををうかがうかの如く小首を傾げてから、また言葉をつむいでいく。

「我が殿はただちに龍姫を討つ兵を挙げられたが、ひとつ気がかりがあった。亡き兄の一子。虎千代君がかの女の手中にある。いかででも救い奉らねばと、我ら探索方が遣わされ、守りの固い本丸に忍び入った。その折、あらかじめ潜り込んで手引きをしたのが、お前の父御よ」

少年は打たれたようによろめいて、大男に支えられた。目覚めているのに、夢が堰を切って流れ出る水のように現に押し寄せてくる。燃える城、鞠を投げる姫、父の顔をした青い鳥。

「お龍様」

「ああ思い出してきたか。いま少し教えよう。ところがお前の父御は。いざとなって裏切った。我等は多くの仲間を失い、虎千代君は行方知れず。まこと龍姫の手管恐るべし。きゃつの滅びた今も、父御は薬師に身をやつし、偽りの疫病を広めて我が殿の邪魔をする。ほかにどのような企みを隠しておるやら」

女の手が、虎弥太の顎を掴んで上向かせる。

「虎千代君の面影似たお前を育て、我が殿を害して跡継ぎに据えるつもり、とかな。死してなおおぞましきは龍姫の悪辣…蛇の執念よな」

「ちがう」

童児は震えながら言葉を搾り出す。

「おたつさまは、ちがう」

「ほう。その幼さでもう龍姫の毒に染まっておるか。なるほど、虎千代君によく似たお前を、生かしておいても我が殿に益はなさそうだ。なあ?」

鴉は、嘲るようにうずくまったままの薬師に問いかけたが、答えがないのにつまらぬげに目を細めてかたえを見やる。と、やにわに刀を引き抜き、まっすぐに少年の胸元に振り下ろした。

だが、切先が届くよりも前に、女は急によろめき、くずおれた。続いて背後から虎弥太を抑えていた手がゆるみ、巨漢がうめきとともにうずくまる気配がする。

「おのれ…薬…か…いつのまに」

そばに丸まっている薬師に向かってそう問いかけながら、女は緋の斑が浮き上がった顔をしかめ、まぶたを閉じると、動かなくなった。

「お父」

期せず解き放たれた少年は、親の側に駆け寄って抱き起こす。山歩きに慣れた逞しい男の体には頭と言わず胴と言わず、真紅の鱗のような模様が広がって、脂汗に塗れていた。

「すぐ気付けをやる」

童児は台所に走ると、木の椀をとり、習い覚えた本草の知識を振り絞って、家にある一番強い気付けを調合する。駆け戻ると、匂いをかがせる。かすかなうめきがあったのに安堵して、苦い汁を含むと、父の唇に重ねて口移しに飲ませる。

しばらくして、薬師はうっすらとまぶたを開くと、弱々しく告げた。

「虎千代様…」

朦朧としている親の汗を袖でぬぐってやりながら、小さく呼びかける。

「お父。俺だ。虎弥太だ」

「ああ…元服したら…明かすつもり…まことの名は虎千代…我が殿の…一子」

ぎょっとした童児は怯えを振り払うがごとくに頭を揺すった。

「うそだ。あの女の話はうそだろ」

「あれは…私の昔のつれあい…話は半ばうそ、半ばまこと…はやり病は…」

子の嘆きをよそに、薬師はあえぐようにしながら、ろれつの回らぬ舌で告げる。

「はやり病は…あの城から…焼けた城…幻の…龍姫の…」

「お龍様の」

少年はぶるりと身を震わせ、また押し寄せてくる昔の景色に飲まれそうになる己を、かろうじて現につなぎとめた。歯を食いしばると、父親を寝床にひきずっていく。

「お父。俺が確かめてくる。もしお龍様が、本当にいるなら、お父を治してくれるよう言ってくる」

「なり…ま…」

すでに気を失いかけている父の汗をもう一度ぬぐうと、桶の水を椀にとって、また口移しで飲ませてから、しっかりと寝かせ、布団をかける。

立ち上がると、外に倒れている男女を見やる。しばらくようすをうかがってから、女の手から刀を奪い取って鞘を取り、収め、下緒を解いて背に負って結びなおす。重さにふらついてから、馬に近づいて、そっと呼びかける。

「乗せておくれ」

一頭が鼻面を突き出してきたのを、軽く手で撫でてから、つないだ綱を外し、鞍上にひらりと跳ぶ。父に時々乗せてもらった駄馬よりかなり大きな軍馬だったが、性は大人しいようで、小揺るぎもしない。息を吸ってから脇腹を蹴る。たちまち蹄が土を掻いて、風のように駆け出した。

振り落とされぬよう体を前に倒しながら、少年は刹那、視線を空へ上げる。

彼方の丘に、建物が見えた。もはや骸骨のような骨組みではない。白い壁と黒い甍を備え、紅蓮の炎に彩られた幻の城が。