Perfume Vol.1

よく晴れた、心地よい午後だった。西に傾いた太陽が照らす町並みは、人も車もまばらで、休日らしい静けさに浸っている。

昼寝に飽きた猫は暖まった舗装を捨ててどこかへ消え、烏もまだ当分は嗄れた喉で夕を報せるつもりがないらしかった。ただ名の知れぬ花だけがそよ風に薫っている。

幅の広くない坂道を、大きな荷を負った痩せがちの少年が、手に持った古いノートを覗き込みながら、のろのろと登っていた。汗を掻き、息を切らし、危なっかしくよろけつつ、描かれた地図を指でたどり、時折立ち止まっては、頭を上げて周囲を探る。

勾配の上まで達すると、鬱蒼と竹林の茂る寺と、八枚の葉の形をあしらった広告看板のあいだに、白い壁のマンションが見えてきたので、携えてきた案内をしまい込むと、背嚢を揺すり上げ、歩みを速める。

小ぢんまりした集合住宅の正面口を入って、よく足音の響く階段を登ると、ずっと進んだ先に目的の場所を見付けたようだった。

「待ってたよ」

戸口に出迎えた女に、無言のままぺこりと頭を下げる。予期せず重たいリュックの中身が動いて、つんのめりそうになるのを、どうにかこらえた。

「こ、こんにちは。く、久美子くみこ 叔母さん」

「いらっしゃい文実也ふみや 君。ま、狭い家だけど入ってよ。部屋は空けといた」

促されるまま玄関で靴を脱いで上がる。白い壁と明るい照明の、まだ新しいマンションの廊下は、そこかしこに重ねてひもをかけた雑誌や古着の類が積まれ、掃除の苦手な家主が居候のためにしたぎこちない努力がうかがえた。

文実也は、ついつい、いい加減な整理の仕方に目をやっては、慌てて顔を正面に戻し、大股に歩く先導役の後をついていく。途中でふと、何かの匂いを嗅ぎつけたように鼻を上向けたところで、丁度、前を進んでいた相手が立ち止まった。

「学校はいつからだっけ?」

振り向かずに尋ねる叔母に、甥は口をもごつかせてから答える。

「あ、明後日です」

「さすが進学校だ。じゃあ歓迎会やるなら今日だね。はいここ」

突き当たりにある一室は、薄い木の扉を開くとそう大きくはなかったが、勉強机と本棚代わりのカラーボックス、ベッド、クローゼットと必要な家具は置いてあった。ベッドの接する壁には小さな磨りガラスの窓もあった。

「どう?」

向き直って尋ねる家主に、居候はまたぺこりと会釈をする。

「あ、ありがとうございます」

小声で返事しながら、室内の四隅にまだ少し取り残した埃があるのを見て取ると、すぐにうつむいた。だが叔母は甥の態度を構うようすもなく、よかったと頷いてから重ねて問いかけた。

恵美子えみこ 姉さん言ってたけど、あんた家事一通りできるってね?部屋の掃除とか大丈夫?」

「は、はいっ」

慌てて答える文実也を、久美子は腕組みをして上から下まで眺め渡した。

「へえ。あたしがあんたの頃は何もしなかったけどね。何か家中の掃除とかしてたって?じゃあ頼んじゃってもいいかな…あたし苦手だからさ…とかって」

冗談めかして掌で顔をあおぐ叔母に、甥は息せき切って応じた。

「や、やります」

しばらく会話が途切れたあとで、家主は拳を握って軽く掲げる。

「よっし!やった。頼んじゃうよ。その代わり今日はごちそうしたあげる。ピザとろうピザ!ね!あとビール!あんたソフトドリンクね!」

「は、はい」

居候は相槌を打ちつつ、こっそりもう一度、部屋の隅に残った塵に眼差しを投げた。


雑巾を借りて床を拭き直し、桟を綺麗にして、調度の類にとりかかったところで、日はもうとっぷりと暮れていた。

インターホンが鳴って、しばらくすると玄関で品物を受け渡すやりとりが漏れ聞こえ、頼んでいたピザが届いたと告げる女の声が響いた。

少年は雑巾を絞り、プラスチックのバケツを浴室に運んで汚れた水を捨てると、ブラシで洗い場の床をこすってからシャワーの栓をひねって流す。慌てるあまりバケツにけつまづいてから、どうにか急ぎ掃除道具をあった場所にしまい込むと、手を洗ってリビングに赴く。

テーブルにはもう蓋の開いたピザの紙ケースと、紙皿、それにのペットボトルと幾つもの缶ビールが並んでいた。家主は早くも一つを開けて、泡立つ酒に唇を当てていた。

「冷えちゃうよ?」

「ご、ごめんなさい」

「いいから食べよう」

促されるまま、居候が座っていただきますを言うと、すぐにペットボトルが突き出される。おずおずと受け取ると、続いて缶が近づいて来て、先端をぶつけ合わせた。

「かんぱーい」

叔母は上機嫌でまたアルミの容器を呷る。

甥もつられて蓋をねじり開け、ほのかに甘い浅黄の液体を少しだけすすってから、卓上に置くと、料理に目を落とした。湯気とともにチーズの香りがする。半分はサラミとズッキーニ、半分はエビとマッシュルームが載っていた。ちらりと注文した本人の方へ許しを乞うような上目遣いをしてから、ピザカッターを取って八等分に切ると、紙皿に載せる。

「ど、どうぞ」

「ありがと。あ、まだ熱い」

独りごちてから勢いよく三角形の切れ端に齧り付いた女のようすに、少年はほっとした面持ちになって己の分を手に取ると、柔らかな生地を味わった。

夕餉は初め静かに進んだが、大人の方から酒量とともに口数が多くなり、子供の方はもっぱら食べている時は黙って頷き、食べていない時は、はい、と答える度合いが増えていった。

「いや、えらいよ文実也君は」

何缶目になるか分からないビールを開けながら、何度目になるか分からない台詞を繰り返す久美子に、テーブルの斜向かいに坐った文実也はただ無言で首を縮こまらせるよりなかった。

「進学校通うのに親元離れるなんて、その歳じゃ普通できないよ。ね?」

「は、はぃ…い、いえ」

上機嫌な叔母の問いかけに、甥は生返事をしながら、ペットボトルのレモンティーを両掌のあいだで意味もなく回して、シュリンクフィルムに印刷した小さな八枚の葉がくるくると風に舞うように動くのを眺め、空っぽになった宅配ピザの入れ物を所在なげに見遣った。

家主は、せっかく綺麗にした食卓をすっかり空き缶やら紙皿やらで散らかしてしまい、普段の暮らしぶりを覗かせていたが、もういささかも取り繕うそぶりもなく、ひたすら陽気に酒をあおっていた。

「やっぱ恵美子姉さん似だよね。姉さんも一人で子供産むってさっさと家出て学校やめて、しかもちゃんとした仕事に就いてさ。本当すごいよ。しかも職場で素敵な人と出会ってさ…」

言い差したところで、小さな居候が身を強張らせると、酔眼が目敏く捉える。途端、延々とまくしたてていた語句の連なりがふっつりと途切れた。

久美子はビールを置いて、息を一つ吐くと、今度は醒めた口調で告げる。

「よし。今日はお開きにするか。楽しくて長くなりすぎたわ」

「は、はい」

文実也はペットボトルを置くと、素早く立ち上がって目の前のごみを片付け始める。

叔母は一瞬、目を丸くしてから、缶を持ったまま頬杖を突いて相好を崩した。

「ほんと、すごいなあ」

甥は、はにかむ余りぎこちない動きになりながら、素早く手に集めたものを台所に運び、ごみ袋に分け入れる。しばらく、夜の静けさの中で、薄金属の凹む音やビニールとビニールの擦れる音という音だけが室内に響いた。

すっかりまたくつろいだ家主は、長い指に掴んだ缶をなおも未練げにちびりちびりと啜っていたが、ややあって、甲斐甲斐しく働く居候の背へ話しかけた。

「適当でいいよ」

「は、はい」

振り返らず答える文実也に、久美子は唇の端を吊り上げる。

「助かるけどね」

「は、はい」

「ああ、もう」

女は観念したという表情で席を離れ、少年の横へ行くと、潰すのに苦戦していた空き缶を取り上げて簡単にひしゃげさせる。

甥は恐縮して頭を下げかけたところで、また何か匂いに気付いたように鼻を宙に向けた。傍らの叔母は手を止めて、変わった小動物でも観察するようにその仕草を眺めた。

「これ、分かる?」

「え、えっ」

「香水。家でつけるやつ。恵美子姉さんの会社が出してるやつ」

「は、はい」

あらためて意識すると、辺りには仄かに、しかし間違えようのない柑橘の香が漂っていた。二人はどちらともなく、薫りを確かめるように深呼吸をすると、ややあって久美子が呟いた。

「新しいの試供品でもらったんだ。落ち着くし、重宝してるよ。お陰で煙草止めれたしね。恵美子姉さんもつけてたでしょ」

文実也はもう一度大きく息をしてから、いきなり頭痛でも覚えたように瞼をきつく閉ざし、身震いしてから、戸惑った面持ちで首を横に振った。

「そう?姉さんの場合いつもつけてたら嗅ぎ慣れちゃってまずいか。この匂い苦手?控えようか?」

「あ、あの…だ、大丈夫…です」

「よかった」

微笑む女の容貌をまっすぐ捉えられず、少年はつとかたえを向くと、あとはもう口を利かず、淡々とごみの分別を済ませていった。


片付けを終えて風呂から出た後、文実也は急な気怠さを覚えて、ふらつきながらベッドに倒れ込んだ。荷ほどきの終えていない段ボール箱を見つめていると、次第に視界が狭まり、辺りが暗くなる。

リビングから、叔母が母にかけているらしい電話の声がしていたが、段々と遠ざかっていった。毛布をかけようともたつく手に力が入らず、まるで鉛の海を泳いででもいるような重さに、身体は次第に動かなくなる。抗いようもなく眠りに滑り落ちていく寸前で、また幽かに果実に似た香りが鼻をくすぐったように思えた。

始まった夢は、鮮やかに色付いていた。落ち着かない、広い居間。昨夜睡みの内に現れたのとそっくり同じ光景。いや前の前の晩とも、さらに前の晩とも同じ場所だ。

光の差し込む窓辺で、丈の高い母を、もっと上背のある影が抱いている。相手はおよそ普通の人間ではない。何に似ているのかといえば、学校で音楽の時間に観た歌劇に登場した、樺の精のようだった。

いつも強い意志を示している母の太眉が下がり、切長の双眸は潤んで、頬は風邪を引いたように朱に染まっている。長駆の影はすっぽりとおおいかぶさった。口付けだった。初めに目にした時は分からなかったが、今は理解できた。

影は母の命を吸い尽くすように、深く深く唇を重ね続けた。

文実也は後ずさりすると、足音を立てぬように場を離れ、階段を登っていった。自分の居室として割り振られた扉を引いて中へ入り、後ろ手に閉めると、着替えもせずにベッドに潜り込み、上掛けをかぶった。夢の中でもう一度眠ろうとするように。

だがしばらくして部屋の戸が開く気配があり、次いで上掛けに手がかかるのが感じられた。むせるような甘い匂いと共に、しなやかな腕が薄い布団ごと文実也を抱き起こし、菓子の包装でも剥くように頭を出させた。

怯えながら両眼を開くと、あの影がいた。浅黒く、ぞっとするほど整った縹緻が、闇より暗い瞳を瞬かせもせずに、じっと覗き込んでいる。

“見ていましたね”

低く、教会の鐘を思わせる響きのある声だった。

女のようにほっそりした指が、顎をとらえて、男らしい強さでしっかりと掴むと、無理矢理おとがいを開かせる。次いで影の容貌の下半分が三日月に裂け、肉食獣じみた皓い歯を閃かせるや、噛みつくように接吻をした。

たちまち口腔が鼻の内側がただれそうなほどの芳醇な香りでいっぱいになり、脳裏が白く焼けつく。蛇の如く長い舌が潜り込み、歯列や頬の裏を這い回るおぞましさに、文実也は涙をこぼしながら振りほどこうとしたが果たせなかった。

痩せた肩から上掛けが滑り落ちると、木枝を思わせるひょろりとした腕がいっそうきつくからみつき、柏葉の如く広い掌がシャツや下着と素肌のあいだへ滑り入ってくる。触れたところから余さず温もりを奪い去るかのような冷たさにおののき、また弱々しく身をよじって抗おうとするが、尚も口姦は止まず、長い指は芋虫めいて蠢きつつ皮膚のそこかしこを這い回って、あるいは尻朶に爪を食い込ませ、あるいは乳首を捻り上げてきた。随所を啄む痛みにうめいた刹那、唐突に腰の付け根当たりから脊椎に沿って何かが駆け昇り、鼠蹊部に得体の知れない脈動が生まれる。

こめかみとこめかみのあいだに火花が咲いた。

どこに力が残っていたのか、考えるより先に激しくもがき、相手を突き飛ばすと、涎と涙の糸を垂らし、ひどい風邪にかかったかの如く震えながらも、逃げるようにベッドの上をいざる。最前鷲掴まれた尻が服ごしにシーツを擦る都度、股間の疼きが全身に広がり、視界がぐらついた。

影はゆるやかに揺れながら退くと、また嗤いを浮かべる。

“では、もっと時間をかけましょう”

また手が伸びてくる。

文実也は悲鳴を迸らせた。助けを求めるのでもなく、威嚇しようとするのでもなく、ただ惑乱と恐怖を吐き出そうとするように、絶叫を上げた。


「…やくん…文実也君…」

呼びかけが魔法の呪文のように夢の束縛を解いて、心をうつつに還らせた。溺れかけてでもいたような荒い呼吸をして、まぶたを開くと、天井の明かりがひどく眩しい。

気付くと水をかぶったように、びっしょりと汗を掻いていた。少年が半身を起こして見回す。電灯がついたままの部屋には誰もいない。扉を叩く音がして、女の声が尋ねる。

「入っていい?」

「ぁっ…はい」

合板のドアが半ば開くと、隙間から滑るように叔母が現れた。すでに眠る支度をしていたようだった。ゆったりした寝巻きごしに、砂時計型の輪郭がやけに目に付いて、甥は慌てて視線を逸らした。腰の芯に、まだ熱を帯びたしこりがあって、頭の天辺から爪先まで悪寒に似たさざなみを伝えている。

「うめいてたけど、具合悪い?」

そう尋ねかけた久美子に、文実也は口を噤んだまま首を横に振る。

「そう。とりあえず着替えた方がいいね。あと何か飲みな。汗掻きすぎだから。もって来るわ」

「あ…」

「着替えな」

有無を言わさぬ調子で告げると、家主は姿を消した。居候はのろのろと起きて、段ボールから下着とパジャマを取り出すと、身につけていたものを脱いで、冷ややかな空気に肌をさらす。骨張った手足を寝間着に包んで、濡れた服をたたんだところで、またノックの音がした。

「入るよ」

「っ、は、はい」

叔母が湯気の立つガラスのマグを手に入ってくる。甥はしかし、受け取ろうと進み出たところで、目の前にあるふくよかな胸をつい覗き込んでしまい、また股間に疼きを覚えて慌ててそっぽを向いた。

「ほら、ちゃんと前見て取って」

注意を受けて、俯きながら透明な容器を受け取ると、小さく礼を言って、ベッドの端に座る。温めたレモンティーだった。一口飲むと、ほのかな甘みと爽やかな香りに、肩の力が抜けた。

「別に何時まで起きててもいいから」

穏やかに説く女に、うなだれたまま少年は首を縦に振り、おもむろに頭を上げ、またすぐに視線を逸らした。

「は、はい…あ、あの…」

「何?」

「あ、ありがとう…」

やおら息を詰めるような気配があって、心臓が五つ、六つ打つあいだ奇妙な静寂が場を満たした後、叔母はひどくぶっきらぼうに返事をした。

「おやすみなさい。それ、朝流しに出して」

「お、おやすみなさい」

甥は掠れた喉で呟くと、扉が閉まる音を聞いてから大人びた溜息を吐いた。マグを机に置いて、電灯を消し、再び布団に入る。睡みはすぐに戻ってきた。だがもう、いつもの夢はもう蘇らなかった。代わりに母によく似た顔の人が、ただ遠くからずっと見つめていた。

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