灰鼠にくすむ曇り空の下、黄緑に萌える草地の上を、赤と黄の紙飛行機が翔んでいく。六歳ぐらいの男児が後を追いかけて、両手を高く掲げ、素頓狂な奇声を上げて走っていった。 紙飛行機が地に落ちると、子供はそれぞれに屈み込んで、一つずつ拾い上げてから、振り返って宣言した。 “また、おかあさんのかち!!” そのまま今度は無言で元来た方へ駆け戻る。向かう先には、長身痩躯の若い男と、それより頭一つ低い、若い女が立っていた。 “これ、おかあさんの!これ、おとうさんの!” 大事に運んできた赤と黄の紙飛行機は、皺も寄らず、歪みもせず、それぞれの持ち主の手に返る。ひょろりとした青年は、形を試すすがめつして、やや悔しげに呟く。 “何でかなあ。性能はこの折り方が上のはずなんだけどなあ。やっぱり投げ方かな?三江さんもう一回やりません?” “いいよ。でも次で最後ね” ほっそりした伴侶は、苦笑しつつ紙飛行機を構えた。 睦まじく話す大人達を、傍らの男児はいささか不満げに見比べていたが、だしぬけに父親に向かって飛び跳ねる。 “ぼくやる!ぼくやる!!ねえぼくやるぅ!!おとうさんぼくやる!!” “えぇえ…お父さんお母さんと勝負ついてないんだけど…” 息子に譲りたがらない夫に、妻が咳払いをして口を挟む。 “和臣君” “はい…じゃ章一お父さんと一緒にやろっか” “うん!うんうん!!やる!!” 子供は父の胸に抱かれて一緒に赤い紙飛行機を持つと、母と並んで宙に放つ。 二つの三角形が、また風に乗って野原を渡り、遠くまで飛んでいく。章一はすぐに身をもがいて男親の腕から滑り降りると、先ほどと同じように奇声を発して後を追いかけ、やがて叫んだ。 “おとうさんとぼくのかち!!” 和臣はおっと歓声を上げてから、横目に伴侶を窺う。 “手加減とかしてないですよね” “知らないな” 三江はよそを見たまま呟き、両腕を高く掲げてうんと伸びをする。 青年が憮然としていると、男児がまた紙飛行機を持って走ってくる。まるでボールを咥えて行ったり来たりする仔犬だった。うやうやしく差し出してくる二枚の折り紙をプラスチックの箱に収めてナップザックに仕舞うと、足元でジャンプし続けている本人を再び抱き上げ、肩車をしてやる。 “章一君お昼ご飯は何がいいですか” 父が尋ねると、息子は訳もなくきゃっきゃと笑ってから返事をしようとした。 “ハンバ…じゃなくてお寿司!” “いいねお寿司” “うん” 二人のやりとりに、母は首を振って割り込む。 “それお父さんの食べたいものでしょ。章一の食べたいもの言いな” すると子供は口を尖らせて反駁した。 “ちがうよ!おすしがいい!おすし!おすしおすひ!” ろれつが回らず言い間違えると、また笑って肩の上で小さな体を上下に弾ませ、叫ぶ。 “おすひ!!” 三江はふんと鼻を鳴らすと、早足に歩き出しながら嘯く。 “じゃあ私はハンバーグがいい” 和臣は黙ったままわずかに遅れてついていく。肩に乗った章一は困った表情になって男親の頭にしがみつき、情けない声を出す。 “えー” 女親は意地悪い口調で、雲の帳に向かって話しかける。 “ハンバーグがいいなあ” “えー…えー…” 混乱する息子を、母は一瞥してから吹き出した。 “冗談だよ。お寿司でいい。私はカッパ巻き頼も” “じゃあお父さんはイカ” 父が後に続くと、元気を取り戻した男児が加わる。 “たまご!!” 家族は緑地公園の外れにある駐車場へとそぞろ歩きながら、次々に握りや巻物の種類を挙げていった。五、六回も順番が巡るうち少ない知識を早々に使い切った子供は、考え込んでしまう。 遊びが中断すると、夫は口調を変えて妻に話しかけた。 “これから力仕事要るなら、柳井に声かけて下さい。結構頼りになる奴ですから” “知ってるよ。うちの部下だぞ。そっちこそ一人でちゃんとやれるの” 女が問い返すと、男は口許を綻ばせた。 “もちろん…あーどうかな。章一に会えないと泣いちゃいそう” “おとうさんなかないで” 肩車された子供が急に心配そうな声を出す。父は目線を上に向けてにやりとすると、泣き真似をする。 “えーんえーん” “だめ、ないちゃだめ。こちょこちょ” 息子が耳の辺りをくすぐると、親は首を竦めた。 “章一君それやめてー” “じゃーないちゃだめー” “泣かないからほんとそれやめてー” 男児がまたくつくつと笑うと、父も和す。母は呆れて首を横に振ると、大股になると、さっさと一人で先へ行ってしまった。 いつしか、雲間からは黄金の陽が差し込んでいた。 天井も壁も床も、象牙色のクッションで埋まった部屋だった。中にいるのはたった一人。白い革のマスクをかぶり、同じ素材の拘束衣に繋がれた男だった。口には猿轡が嵌っている。 夢から覚めた囚人はくぐもった呻きを一つ漏らすと、我が身を壁につなぐベルトを軋ませた。 不意に自動ドアが開いて、巨躯の青年が入って来る。早足に近づくと、ごつい指をを伸ばして覆面を外してやる。 たちまち憔悴しきった、しかしかつての怜悧さの残滓を張り付かせた面差しが露になる。双眸は血走り、焦点が合っていないが、中心は澄んでいた。 「ひどいな」 大兵の男はハンカチで汗に塗れた相手の顔を拭ってやりながら独りごち、ややあって抑えた口調で話しかけた。 「柳井です。しばらく来れなくて済みませんでした。先輩がまたこんな風にされてるなんて…拘束なしで過ごせるように要請してみます…苦しくないですか…口のも外しますね」 猿轡が取れると、囚人のおとがいを涎の筋が伝い落ちる。青年はかいがいしくまたそれを拭ってやると、穏やかに語句を接ぐ。 「昇進したんです。その位はできます。もっと上に行って、絶対に先輩が帰国できるようにしますから。待ってて下さい…そうだ。お寿司買ってきたんです。日本食レストランで。口に合わないかも知れませんが」 一つをつまんで、相手の口へ運ぶ。 「覚えてます?僕等、公式戦で勝つと必ず駅前の回転寿司行きましたよね。何てとこでしたっけ。先輩が一人で二十皿食べて…」 和臣は顎を開いて後輩の指ごと寿司を口に入れ、いきなり凄まじい力で噛み千切った。 激痛に叫びながら、柳井は退く。 たちまち電流が拘束衣の内側を疾って痩躯をもがかせる。 「やめろ!!!」 巨漢が喚くと、懲罰は止まった。囚人は口に含んでいた指先を吐き捨てて、獣じみた唸りを放つ。 スピーカーから緊張した音声が響いた。 “柳井様ご無事ですか。ただちに治療を受けて下さい。そちらに職員を送ります” 「必要…ない…」 ハンカチで鮮血の迸る傷口を縛りながら、柳井はじりじりと自動ドアの方に下がっていく。眼差しは苦悶に濁りながらも、なお真直ぐに和臣を見つめていた。 「先輩…待っていて…下さい…」 後輩の巨躯が扉の向こうに消えると、繋がれた男はまた唾液を滴らせながらうなだれた。血塗れの口が動いて、名前を形作る。 「章一…三江さん…」 閉ざした瞼の奥で、また紙飛行機が曇り空の下を翔んでいった。 |
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