Neighbor Vol.4 Epilogue "A"

それは獣の哮りだった。

限界まで撓んだ弓から放った矢。小さな影は、跳躍し、とてつもなく大きな標的を易々と射抜いた。猪首の中心に突き出た喉仏に、ブリーチのかかった歯がかぶりつき、噛み潰す。

洋楽が鳴り響くなか、巨躯の青年は抱いていた女を放り出すと、立ち上がりながら小さな狂人を掴み、もぎはなそうとあがいたが、叶わなかった。仰け反って膝を就き、口からごぼごぼと緋色の泡を沸き立たせた。

とうとう両腕の筋肉が盛り上がって血管を浮かばせると、凄まじい力で矮躯を引きはがし、壁に抛つ。墨色をしたテレビに蜘蛛の巣が走り、少年は跳ね返って床に落ちると、もう動かなくなった。

「章一!!」

止まっていた時間が動き出したように、倒れていた女が飛び起き、子供に駆け寄ると、呼吸と瞳孔、脈拍を確かめる。もう一人の女は頬に掌を当てながら、フローリングをのたうちまわる夫に歩み寄った。

「悪のりしすぎと言ったでしょう」

呟きながら、ビスチェに押し込んだ胸の谷間から小さなアンプルを抜き出すと、ひねってから逆手に構え、男がうなじを向けた瞬間に打ち込み、素早く離れる。

「狂乱状態になった大人一人が武装した大人三人を殺した例があったのですから、子供一人が武装していない大人一人を殺すことも、あるかもしれないと考えなくては」

柳井は痙攣し、やがて静止した。聡子は小首を傾げてからまた独りごちる。

「賭は私の勝ちですねダーリン。ちょっと、最後のおまじないが効き過ぎたかもしれませんけど、ずるという程ではない量でしたし」

毀たれた液晶に手を差し向けると、よく通る声で命じる。

「八葉の救急につないで下さい」

音楽が止まり、単調な呼び出し音の後で応答がある。

“柳井様どうしました。映像入りませんが”

「社員一名死亡です。それと強制入院が一人。回収お願いします」

“お待ち下さい…四十分ほどで到着します”

「待っています」

通話を切ると、女は踵を返して、うずくまる親子のもとへ近づく。母は息子に覆い被さったまま、頭を上げようとはしなかった。

「その子の状態は」

「失神してる」

「医療スタッフが来るまで、こちらで手当します。寝室に行って、私の服を着ていらっしゃい」

「側にいさせてくれ」

「いけません」

三江は初めて振り返り、睨み付ける。すると聡子は微笑んだまま、夫の不倫相手の頭を蹴りつけ、フローリングに転がした。

「手間をかけさせないで下さいね」

結った髪を掴んで引きずり起こすと、唇を奪い、乳房に爪を立てる。痛みと悦びを剃刀の如く使って、前の主人よりずっと短い時間で奴隷に気をやらせると、捨てる。

「頭の悪い子にはこの方が分かりやすいでしょう。あなた、渡瀬三江は今この瞬間から一生私、柳井聡子の奴隷です。選択肢はありません。復唱して、誓って、詫びたら、ぐずぐずせず命令を果たして来なさい」

寡婦になったばかりの女が立ち上がって、形の整った爪先を差し出すと、亡夫の愛人は身震いしながら正座し、背を丸めて指先に接吻した。踵に載った円かな尻が、恥辱にわななく。

「渡瀬三江は一生、柳井聡子様の奴隷になることを誓います。無礼を働き申し訳ありませんでした…章一を…お願いします」

「ええ。父親と同じく、廃棄処分にならないよう特別に計らいます。安心しなさい」

奴隷を追い払ってから、主人は小首を傾げて足元のモルモットを眺め下ろした。まだ性の境がはっきりしない、ほっそりした四肢や、折れそうにもろげな頸をあらためて鑑賞し、誰にともなく嘯く。

「ちょっと、もったいなかったでしょうか」


天井も壁も床も、象牙色のクッションで埋まった部屋だった。中にいるのはたった一人。白い革のマスクをかぶり、同じ素材の拘束衣に繋がれた少年だった。口には猿轡が嵌っている。

マジックミラーごしに女が二人、室内を見つめていた。一人は鴉羽色のスーツ。一人は同じ色をしたくるぶしまであるロングコートを着込んでいる。

“おとなしいもんですよ。規則だからあれだけ着せてるが”

見えない場所に設置したスピーカーから解説が聞こえる。

“父親と違ってね。いじめたりしなきゃ誰も噛んだりしないし、独りにしといても泣いたり喚いたりする訳でもない。ほとんどじっとしてるから、運動不足だけが問題だが、それだってあの曲を聴かせりゃむちゃくちゃに暴れるから、楽なもんです”

スーツの女が頷いて言った。

「良い子で居るようで何よりですね。ところで、これから二時間、監視を切って下さい」

“またですか”

狼狽したスピーカーからの声に、女は沈黙で答えた。すると、すぐ相手の口調が変わる。

“ただちに”

二分ほど待ってから、女は連れを向いて微笑んだ。

「どうぞ」

ロングコートの女は頭を下げてから、自動ドアを開いて中へ入った。耳に嵌めた花を象ったピアスが揺れ、涼やかな鈴の音が鳴った。

空気の変化を感じて子供が首をもたげ、檻の中の肉食動物めいて周囲を窺うのへ、ためらわず近づいて、屈み込むと、腕を伸ばしてレザーで覆った頬を撫でる。また鈴が鳴った。

「章一」

「ぅ…ぅ…」

しなやかな指が、いとけない唇から猿轡を外してやると、唾液が糸を引いて詰め物をした床に落ちる。

「章一…章一…分かるか?私のこと」

問いかけると、少年は首をぐるりと回して、久しく使っていなかったろう人間の言葉を舌に載せた。

「…ぁ…ぉかぁ…さ…ん」

女親は拘束衣ごと華奢な体を抱きしめて、喉を震わせつつ返事をする。

「うん…うん…」

「ぉかぁさ…にげ…」

虚ろに呟く息子のうなじを撫でて、母は必死に宥める。

「大丈夫だから…私は大丈夫だから…」

「ぉとぉさ…」

「大丈夫…皆大丈夫だから…ほら、今日はお寿司持ってきた。お昼に食べていいってさ」

喋りかけながら、コートのポケットから小さな発泡スチロールの折り箱を取り出した。開けると握りや巻物がきちんと詰めてある。醤油をかけて一つを摘み、子供の口に運ぶと、矯正のかかった歯がそっと挟んで、飲み込む。

「おいしい?」

白革の覆面を被った頭が縦に振れる。女親は淡く微笑んで、一つまた一つと寿司をとっては与え、健啖さに眺め入り、絶えず話しかけ続ける。

「それイカ。分かる?分かるか…うん。私は要らないよ。大丈夫…うん。もっといいよ。ふふ。章一、唇にご飯粒ついた。ほら…」

短い食事が終わると、三江は折り箱をコートのポケットにしまって、手巾で幼い口許を拭ってやり、しばらく虜囚の姿を見つめていたが、やがてまた抱き締めた。

章一はおとなしくされるがままになっていたが、また部屋の空気が揺らぐのを感じると、今度は歯を剥き出して吠えた。

「ちゃんと分かるんですね」

感心しながら、スーツの女、柳井聡子が入ってくる。

声変わり前の喉から血も凍るような叫びが迸ると、拘束衣のベルトが軋み、よじれる。蜘蛛の巣にかかった芋虫の如く身をよじる息子を、母は両腕でしっかり捕まえながら諭す。鈴音が激しくなる。

「だめだ、章一、だめ!」

離れてようすを窺っていた聡子は、頭を斜めにして苦笑する。

「あまり興奮すると症状が進んでしまいますよ。きっとお母さんの番犬のつもりでいるんですね。私がお母さんと仲良しだって納得して下さらないと…三江、来なさい」

奴隷はぎくりとしてから、子供を離し、主人に寄り添った。

「脱ぎなさい」

ロングコートが落ちると、一糸まとわぬ姿が露になる。白い膚の隅々まで釣鐘蔓の刺青が入り、絵の妨げになる体毛はすべて除いてあった。両の乳首と臍、秘裂の襞と雌芯には釣鐘蔓を模したピアスがぶらさがって、美しい音色をさせている。

「最近部屋の模様替えをして、新しい壁紙の柄に合わせました。ここでは映えませんね。八葉の試作品で、皮下に色をつけるのも消すのも簡単。匂いを揮発させるから、見えなくても嗅げると思うのですけど。音もおまけしました。ほら、鳴らせて」

聡子が手を叩くと、三江は唇を噛み、両腕を頭上で組んで、爪先だってその周りを回る。奇妙な響きと匂いに、章一は戸惑って低く唸った。

「ふふ。お母さんとは毎晩こうやって遊んでいます。仲良しでしょう?色も香も鈴の形も皆お母さんがカタログを見て自分で決めたんですよ。ね」

「あ、ああ」

「朝はおでかけのキス、夜はおかえりのキス。ご飯の食べさせっこもするし、お風呂も一緒に入ります。お母さんはすべすべの体をスポンジ代わりにして私を洗ってくれます。寝るときも一緒です」

言葉が通じているのかいないのか、少年は顔をあちこちに向けてブリーチの嵌った歯を剥く。守るべき相手が側から居なくなったのに苛立ち、取り戻そうとしているかのようだった。

「先週は二人で温泉に行きました。ちょっと山の中ですけど、オフシーズンだから、貸し切りにできました。露天風呂、気持ちよかった。次は南の島とかも楽しそう。ね?」

「ああ…大丈夫だから…私は…だから…」

母の声から何かを聞き取った息子は、また猛り狂って拘束着を引きちぎろうとする。だが強靱な素材はいかなる損傷もなく虜囚を固定し続けた。

「ほら、この子が不安がっていますよ。そのうち歯を噛み砕いてしまいますね。手足の筋も切れてしまうかも。荒療治しかないでしょうか」

陽気な未亡人が唇に指を当てて片眉をつむると、刺青の人妻は目を逸らしてから、そばに寄って顎を上げ、接吻をせがんだ。また鈴が鳴る。

二匹の牝が抱き合い、互いの舌を絡ませ合うのを、幼い牡はほとんど理解しないまま、枷のかかった手足に空しく力を籠め続けた。

主人の指が、奴隷のたわわな胸の谷間を滑り降りて、臍にはまったピアスを弾き、さらに無毛の恥丘を掠めて、紅蕾を飾る釣鐘蔓の花をつまむと、捻り上げる。

「んぐぅぅっ!!!」

被虐に躾けられた女は、どれほど惨い扱いにさえ随喜の涙を浮かべて達する。潮を噴きながら崩れ落ちる三江を、聡子は器用に引き離して、服が汚れるのを避け、なお無意味な威嚇を止めない章一を一瞥した。

「残念です。これ以上ここにいない方がよさそうですね。三江、ついて来なさい」

告げ置いて、主人が振り返りもせず立ち去ると、奴隷は彩り鮮やかな肌を火照らせつつも上着を巻き付け、そさくさと後を追う。開いた自動ドアをくぐりながら、振り返り、ようやく静かになった子供を省みる。

「大丈夫だから…」

戸口を抜けて、コートの背が消えると、覆面の少年はまたじっと虚空に耳を澄ませた。母が気を変えて戻ってくるのを待つかのように。


「ぃぎぃいいっ!!」

ピアスを通した雌芯を、真珠のような歯が囓る。

花のアロマを炊き込めた寝室で、一番高価な生きた家具は、容赦ない責めに泣き叫んでいた。玩弄に慣れた所有者は、柔肉の泉から尽きせず沸く秘蜜を啜り飲み、舌鼓を打つと、陰唇を縁取る飾りをつまんで左右に広げ、粘膜の内側にキスマークを刻んでいく。

「ぎぃっ…ぁっ、もぉっ…もぉっ!!ひぁああっ!!!」

「こらえしょうのない子ですね」

「ぅぁ…ぁっ…もぉ…やめっ…いきだぐなっ…」

「どうして」

「おかしぐなっ…あたま…」

「どうぞ」

甘噛みの代わりに、今度は口付けが濡れた愛撫を与える。苦痛に身構えていた体は繊細にあやすような快楽に不意を打たれ、また弓なりになって悶える。

聡子はたっぷりと前孔を穿ってから、三江の両脚を持ち上げ、膝が腋に就くようにさせ、丁度嬰児の襁褓を替える格好になると、今度は後孔をねぶる。

「っんぉっ!?そこ汚なっ…ぁっ」

「ふふ。石鹸の匂いがします」

括約筋がほぐれ、くつろぎ、腸液と唾液の混じりものを滲ませて蕩けきるまで、時間をかけて嫐り抜く。二つの穴を交互に指と舌で掻き混ぜ、偶さか紅蕾に接吻を与えて、休息を求める哀訴が意味をなさないたままやきに変わるまで、めくるめく官能の渦に引き摺り込む。

無限の時間が過ぎたかに思えた後、寡婦はやっと人妻を貪るのを止め、辛抱を労うように頬へ唇を押しつける。

汗だくで打ち震える奴隷をベッドに横たえ、白いシーツをかけてやると、主人は起き上がって冷蔵庫まで猫のように足音を立てず歩き、丸い水差しをとってグラスに注ぎ、呷る。次いでテーブルにある小箱型のプロジェクターに指を向ける。

ニュース映像が現れると、手振りで切り替えていく。

“…地検は東京都内にある八葉製薬本社を家宅捜索しました…提携先の不祥事を受け、グノーシスグループホールディングスの株価は今日の取引開始直後からストップ安となり…医療福祉担当大臣は厳しく注視していくと…社としてはコメントできないとしています”

にっこりして、グラスを手に寝台へ戻ると、縁に腰を掛け、臥せる相手に水を勧める。だが受け取るために腕を上げる余力すら残っていないのを見て取ると、首の後ろに腕を回して抱き起こし、口移しで飲ませてやってから、左右の瞼にキスをする。

「退職、間に合ってよかったですね。しばらくのんびりしましょうか。二人なら使い切れないくらいのお金もお薬もありますし」

「和臣く…と…章一…は…」

「警察が保護しますよ。八葉の人達が馬鹿なまねをしなければ大丈夫。後で確認しておきましょう」

人妻はぼんやりした眼差しで寡婦を見つめ、弱々しく問いかける。

「また、会える…?」

「今すぐは無理です。ほとぼりが醒めたら方法を考えましょう」

「ぁ…」

三江の面差しが華やぐと、聡子は目を細めて、裸の肩を抱き寄せる。

「妬けてしまいますね、この子は。でも休暇が終わったら、ちゃんと私の手伝いもするんですよ。あのでくのぼうとあなたを取り替えたこと、後悔させないで下さいね」

「はい」

素直な返事を聞くと、主人はにっこりして奴隷の耳を囓り、また指を滑らせて、楽器を爪弾くように喘ぎと嬌声を引き出し始める。

いつの間かプロジェクターはやかましい洋楽を奏で始め、部屋を狂おしいギターとベースと、ドラムの音で満たしていった。どんな獣より凶暴な唸りで。

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