Hell on the Earth Vol.6

崩れ落ちる迷宮。隧道はぶつ斬りにされた蛇の如くなり果て、断層が空洞を引き裂いて、落盤が縦横の坑を埋めていく。祖先の代から暗がりに住み着いた竜や巨人は逃げ道を求めて、光の方へ突き進み、より小さな有像無像を踏み潰しながら、外へ飛び出すと、あるいは絶壁を転げ落ち、尖った岩につき当たって惨たらしい屍を露した。

出口を失った怪物は、いずれも無慈悲な巌のあいだに押し潰されるか、あるいは新たに開いた窖へと潜り込んで、有毒の瘴気にもがきながら果てていく。

わずかに残った空間にも、絶えず天井から岩の欠片が落ち、いつ崩れるか分からぬ不安に怯えるように全体が微震を続けていた。もはや瀕死となったロンダルキアという大地の獣の、折り重なり絡み合う腸。光苔が瞬く片隅に、なおかすか命の存在を知らせる動きがあった。床に走った亀裂のあいだから、埃と塵が煙のように巻き上がると、箒を逆さにしたような蓬髪が現れ、続いて引き締まった両腕が伸び、痩せた胴を引きずり上げた。

「たいした騒ぎだべ…ぶぇっくし」

テパの首狩り族、若き女戦士のバーサはくしゃみを一つすると、立ち上がって大きな眼を凝らして周囲を観察した。随分前から道に迷ったようだと悟ってはいたが、慌てず騒がず、壁に片手を突き、刻みを入れながら、歩き続けていたのだ。目的地は主君にして崇拝する女神たるロンダルキア王女カリーンの居場所。仕える姫宮の安否のほかは些かも慮らず、ひたすら足を進めてきたのだ。先だって地割れに飲み込まれたのには多少困ったが、そう時間もかけずに這い上がれた。

「さぁて…」

またごつごつした岩の表面に掌を当てながら、探索を再開する。愛用のまさかりもなく、衣服はずたずたに裂けてところどころ肌が覗いていたが、まるで意に介さなかった。腹が減れば素手でもドラゴン程度なら仕留められるつもりでいたかし、寒くなればサイクロップスの腰布でも奪い取ればいいのだ。

行くと決めた方角へずんずんと向かっていくと、やがて周囲の振動が大きくなってくる。だしぬけに激震ともいえる衝撃が隧道を貫いたあと、少女の立っていた足場が陥没し、斜め下方へ落ちていった。素早く周囲を眺め渡したが、側に捕まる手がかりもないので、じたばたせずに身を屈めると、吹き突けてくる熱風に蘇芳の鬣をなぶられながら、着地の瞬間を見極めようと、岩の縁に寄る。

バーサを乗せた岩盤は雪の坂を滑る橇のように速度を増し、広大な空間に飛び出した。頭上からは光苔とは異なる強い明かりが注いでいる。仰ぎ見ると、遥か高みに目を焼く太陽の顔があった。地上へ通じる縦穴。まるで溶岩の巨塊が突き抜けたあとの火口のように、上と下に際限もなく伸びている。蛮族の鋭い耳は、天空で荒れ狂う冷風と、地底で煮え立ち泡を弾けさせる灼熱の音を聞き取った。

豪胆な首狩り族の娘も、流石に肩を震わせた。といってもロンダルキア大洞窟の変わり様にではない。何げなく向けた視線の先に、さらに畏怖すべき光景を捉えたからだ。

紫鱗の竜が、黄金に被膜を張った翼に気流を孕んで羽搏き、青黒の膚に六本の腕を持つ異形と向かい合っていたのだ。太古の爬虫類の、美しいとさえ言える魁偉な輪郭に対し、迎え撃つのは竜と人とを混ぜて歪めたような頭が一つと、尾の先にも竜の首を一つ持ち、はっきりと現世の理から外れた姿形だった。

見惚れる少女を乗せたまま、岩盤は急落下を始める。はっとして脱出の術を探したが、四方に広がるのはただ、虚空のみだった。寒けが背筋を駆け抜ける刹那、遠くから誰かが喚ぶ声がした。

「跳べ!」

バーサは何も考えずに爪先で石床を蹴って、宙へ躍った。たちどころに、不可視の腕が痩躯を抱き止めて、引っ張っていく。やがてはるか先に、胡麻粒ほどの小さな点が現れ、徐々に大きくなると、横臥した格好のまま浮遊している巨人だと知れた。鋼鉄のような筋肉を橙の肌で覆った体は、鮮血に汚れ、弛緩しきっていたが、近付くにつれ、微かに分厚い胸板が上下しているのが分かった。

間違いなくロンダルキアの将軍。敵の呪文で操り人形と化していたはずのアトラスだ。首狩り族は宙を運ばれながらも、とっさに身構えた。ぐったりと意識のないようすの一角獣族の長の腹に、惑わしの術をかけた張本人、悪魔神官が胡坐を組んでいたのだ。

「おめは!!」

「…姫宮の護衛か…運があったな」

「どの面さげてこの!」

羚羊のような脚を跳ね上がって、蹴りを浴びせかけたが、あと一歩届かない。長衣の青年は閉ざしていた目を薄く開いて告げた。

「騒ぐな。ここで私を殺せば、アトラスも貴様もまとめて真逆様だぞ」

「ち…」

どうやら宙に留まっていられるのは、魔法の所為らしいと察して、バーサはひとまずおとなしくなった。神官はさらに相手を側へ引き寄せてから小さく嗤った。

「それにな…間もなく…私をすぐに殺さない方が良かったと思うようなことが始まる」

怪訝そうになる少女に、青年は首を振ってみせてから諸手を高く掲げた。

「スクルト!!フバーハ!!マホカンタ!!」

詠唱に続いてそれぞれ輝きの異なる光の膜が張り巡らされ、球を作っていく。バーサの知り合いで、カリーンの側仕えをする見習神官アーカニやアーカナが練習しているような呪文もあれば、まるで聞き覚えのない術もあった。

悪魔神官は困憊したようすで、腕を下げると、嘲るように呟いた。

「これだけ防御の魔法を使っても…気休めにしかなるまい…真竜王とジェノシドーの対決に巻き込まれればな…」

「あんだと?」

少女が訊き返すと、青年は疲れに震える指を、彼方で睨みあう二柱の怪物に向けた。

「あそこいにいるのはロンダルキアの僭王ズィータと、我等の神の生まれ変わりたるカリーン姫…」

「何言ってるだおめ!まさか…ちい女神様と親爺殿が喧嘩するってのか?」

「ああ…骨肉の殺し合いだ…どちらも正気を失ってな…すべて、この私の目論見通り…」

蛮族の拳が唸りを上げて、邪教徒の顎を撃ち抜いた。

巨人の胸板に叩きのめされた悪魔神官は、ベホマで砕けた骨を継ぐと、すぐに起き上がる。バーサが火の出るような目付きで睨みつけると、弱々しくまた笑みを返した。

「…死なない程度に殴るがいい…この私にはどんな罰も生温いがな…この手で…世界を破滅に導いたのだから…」

「おめ…!!」

鼻白む少女に、青年はむしろ親しげに語り掛ける。

「私は仲間を…死地に引きずり込んだ…この企みに乗らなければ…皆、島で生きていられた…不正を糺し、復讐を遂げ、地上に楽園を作るつもりが…地獄を生んでしまった…ふふ…ふははははは!!」

「笑ってねえで何とかすれ、ぼんくら!!」

首狩り族が、斧胼胝のできた手で胸倉を掴むと、シドーの祭司は掠れた喉で答えた。

「無理だ…滅びの叫びで目覚めた原初の竜と終焉の神…どちらも人や魔の力で封じることなどできぬ…ハーゴン様ですら…叶わぬだろう…」

「馬鹿こくでねぇ!!おら、させねえぞ。優しいちい女神様に、喧嘩なんかさせて…怪我でもさせたら…おめのふぐり引っこ抜いてやる!!」

バーサの恫喝にも、悪魔神官は首を横に振るだけだった。

「…いい女だな…奴に仕えているのが…不思議なほど…アトラスもそうだ…邪神の像に強いられた訳でもないのに…なぜ…」

「おう!!」

少女の剛力で鉄輪攻めを受けて、青年は咳込み、放り出されると、不様に這いつくばった。

「…方法があるとすれば…勇者ロト…アレフ…」

「あん畜生がどした!?」

「奇蹟を起こせるかもしれぬ…あの血筋には計り知れぬものがある…圧倒的な力の差すら超えて、破壊神も竜王も…屠るだけの何かが…」

「ふざけるでね!!」

叱りつけながらも、蛮族の娘はもう邪教徒を痛めつけようとはしなかった。幾ら活を入れても無駄だと考えたのだろう。変わりにどっかり腕組みをして座り込むと、ぎゅっと瞼を閉ざした。

悪魔神官は不思議そうにバーサを窺がった。

「どうした」

首狩り族は瞑目したまま苛立たしげに答える。

「おめが頼りになんねぇから。おらがちい女神様の助け方を考えるのよ」

絶望に浸っていたシドーの祭司は、つい頬を緩めた。皮肉とは無縁の、心底の笑みを浮かべてから、すぐにまた亡霊のように暗い表情に戻る。

「それはいいが…あまり時間はないぞ…そろそろ始まりそうだ…竜と神の戦いがな」


漆黒の霹靂、ドルモーアの霆槌が迸り、紫電の一烈、ジゴスパークの閃光と交錯する。

六腕が大気を攪拌し、バギクロスのかまいたちを巻き起こして襲い掛かると、竜の角はギガデインの稲妻を発してぶつかる。

ジェノシドーの顎が冷たく輝く息を吐き付け、真竜王が奔らせる灼熱の炎を打ち消すと、鉤爪と大牙が噛み合い、刃の尾と顎の尾がそれぞれの肉を千切り取ろうと絡んだ。

親と子。父と娘。互いを慈しむべき両者は、闘志を剥き出しにして、天地を揺るがす覇威を解き放った。一方は世の曙に現れた種属の、創始の力のすべてを宿して顕現し、一方は世の黄昏を齎す滅びそのもの化身として降臨していた。

ドラゴンの王は闘争の歓喜のうちに、大いなる敵の死を求め、忌み子の神は憤怒とともに万象を灰燼に帰すべく、命の象徴を砕こうとした。

赤紫と蒼黒。煌めく欠片が千々に乱れ飛び、混じって焔と雷とに映える。地上で鍛えた如何なる刃も通さぬ鱗が、それぞれの打撃のたびに剥れ、血肉とともに散った。

ズィータとカリーン。昨夜、暖炉の前で、幼い少女は、無愛想だが就き合いのよい青年を綾取り遊びに引き込んで、欠伸をがまんできなくなるまで続けていた。

今日、それぞれはどちらかの最後の呼吸が止むまで、心臓が拍たなくなるまで、噛みつき、引き裂き、地水火風を武器と変じて、戦おうとしていた。親が子を殺めるか、子が親を弑するまでに、海は干上がり、陸は焼け焦げ、月や星さえも位置を変え、鳥も獣も魚も虫も草も木も絶えるとしても。

真竜王が獲物の頚動脈をめがけて食いつくと同時に、ジェノシドーは標的の腓腹を抉った。ともに急所を捕え、片や血管を掻き切ろうとし、片や臓腑を穿り出そうとしながら、苦悶と勝利の咆哮を重ね合わせる。男と女の交すどんな愛の営みよりも強く、激しく雌雄を結びつける、憎しみの業。

双方ともに痍を広げながら、些かも退こうとしなかった。人間であれば危惧しただろう相討ちの恐れさえ、本能に突き動かされる竜と神には無縁だった。互いの血を味わいながら、次は眼球を、あるいは耳孔を貫き脳を狙おうと、各々の空いた腕をもがかせる。

長虫の歯がさらに深く滅びの化身の喉へ埋まる。あと僅かで、敵にとどめを刺せる。直感がズィータの混濁した思考を走り抜け、恍惚の波となって四肢に及び、射精の前の震えにもに蠕動を呼び起こした。烟る黄金の双眸は瞳孔を針の如くに細め、相手の所作から衰弱を読み取らんと隅々まで観察する。しかし父の腸を掻き出そうとするカリーンの、異形の瞳に小さな涙の粒が溜っているのに気付きはしなかった。

ジェノシドーの巨躯が痙攣する刹那、真竜王の腹が真二つに裂ける寸前、双方の耳にかそけき声が聞こえた。ほんの幽かな、悲しみの喘ぎ。地の獄のすべてを道連れに逝かんとする親子を引き止める囁き。

小さな子守歌。

満月の湖畔に 銀の船
  ゆらりゆらりと漕ぎ出して
  あの子の眠る 水底へ

黄金の翼が、温かな光の羽毛を散らしながら、竜と神を包み込む。一瞬の幻。母なる神鳥ラーミアの影は、陽炎のように揺らめいて消え、代わりに翼ある悪魔の背に立って歌う、透明な乙女の姿が現れた。

紫竜微睡む峰々に
  降る真白は 神鳥の
 柔らな翼 抱かれて

人とスライムのあいだの児、シエロが、ロンダルキアの雪解け水の如く澄んだ身を震わせて、吟じる詞は、ただ優しく、あえかに、そよ風の如くに響いた。

だが、それが戦いを止めた。

”…カア…サ…マ”

破壊の神の顎から、言葉が零れた。威厳もなく、畏怖すべきところもなく、母を慕うだけの子供の声が。宙に舞う悪魔が羽搏きながら近付くと、歌姫の傍らからもう一人、森の緑に染めた僧服の若者が身を乗り出して両腕を差し延べた。

「カリーン!!」

”…カア…サま…かあ…さま…母さまぁあああああ”

ジェノシドーの巨躯は頽れ、罅割れ、欠片を落しながら、真竜王の腕のあいだからすり抜けていった。あとには裸身の少女が一人、喉から赤い筋を垂らしながら、奈落へ降っていく。

ドラゴンの牙が小さな標的を追うよりも早くに、悪魔が辷り込んで隻腕で抱え込むと、急上昇して遁れ去った。

「ああ、カリーン…」

治癒の呪文で首の傷を塞ぎながら、金髪の若者、否、ロンダルキアの王妃は青褪めた娘の頬に掌を当てて温もりを確かめようとした。

”トンヌラ様…どうぞ回復に専念を…ちと乱暴に飛びます故”

三人の女を運んでなお疾風の俊速を失わぬデビル族の長は、可憐な乗客を低く窘めるや、急旋回して背後から迫る灼熱の炎を躱した。シエロは恐怖で統制を失い、三つの水玉に別れるとトンヌラにしがみついた。

バズズは蝙蝠の翼を一打ちし、弧を描いて変わり果てた主君の周りを翔びながら、不審げに問い掛ける。

”何故、ズィータ様は元にお戻りにならぬ…すぐ側にルビスめの護符があるというのに…”

闇の后は慄きながら、狂える夫の、輝く黄金の双眸を凝視した。


「ルビスの守りが打ち消すのはシドーの力。あれはシドーに共鳴して目覚めたズィータの本性そのものなのだ」

遠方から戦いを見守っていた悪魔神官は、そう独りごちると、再び呪印を組んで瞑想に戻った。竜と神とのぶつかった余波で、幾重もの結界は脆くも破れようとしていた。もはや青年の魔力では己と、同伴する巨人、狂戦士を虚空にとどめておくだけでもやっとだった。

バーサは歯軋りしながら、しかめつらしく構える連れの頬を引っ張った。

「やい!おめのせいでねか!ちっとはうまい呪文でも考えれ!」

「…しかし、よもやサマルトリアの双生がルビスの守りを手にしていたとは。我々の情報では、ズィータは旅のあいだ、ああした護符の類にはまるで関心を示さなかったはずだが…」

「なにぶつくさ言っとる!このもやし小僧!」

「もや…」

首狩り族の罵りに、邪教徒は眉を顰めて物思いから覚めた。

「…無礼な娘だ…しかしお前もそうだが…ロンダルキアは存外、家臣に恵まれているな」

「あ゛ぁ゛っ?」

「あのスライム…人との合いの子か。あやつの喉には荒ぶる心を鎮める不思議な力がある。カリーン様が人の姿を取り戻したのは半ばはあの声のせいだろう…古、勇者ロトはメルキドという町を守る岩の巨人ゴーレムを笛の音で眠らせたというが…」

「シエロはおめみてえな半端ものが十人束になったよりも立派なやつだべ!いいから呪文を考れっつの!」

鬼の形相でねめつけるバーサの剣幕を、悪魔神官は柳に風と受け流す。

「あれほどの呪歌にさえ抑えられぬのであれば…考えられる可能性は…」

「ぐちゃぐちゃ言ってんでねぇ!」

「落ち着け。ひょっとすると、ズィータ自身が人に戻ることを望んでいないのかもしれぬ」

「おめになんで、んな事分かんだ!」

噛みつきかねない勢いの少女に、青年は疲れた微笑みを投げる。

「…分かるのだよ…私の体にも竜の血が流れている。ズィータとは異なり…生まれつきものではないがな…私には少し、奴の考えが伝わってくる…奴はな…憎いのだ」

「何がよ!」

「自分だ。憎くて憎くてどうしようもない。その憎しみを外に向けているあいだは良かったが、周りを愛するものに囲まれて、もはや牙を剥くべき相手がいなくなった…だから…自分を直視せざるを得ぬ…邪悪で…傲慢で…残虐な竜…あれは奴の思い描く己そのものだ」

邪教徒の説明に、蛮族の娘は狐に摘まれたような顔付きになり、次いでせせら笑った。

「はん。ただの親爺殿はがきっぽい男だぁ。うちの村にもああいうのは山ほどおるだ」

「奴はそう思っていなかった。だからこそ一度は怪物になろうとしたのだろう。誰も愛さず、ただ利用し、弄んで、覇権を握る帝王に…そうして…己を産みだした世界に復讐しようと…」

あっけにとられるバーサを横目に、悪魔神官はどこか虚ろな表情で、別人のような声で呟き続けた。

「ところが何かが…奴を変えたようだ…あの双生…出来損ないの王子…同じ忌み子のくせに、どこかのんきな…あの妃やも知れぬ…だが今更遅い…奴の、怪物として生きた過去が逸脱を許さぬ。罪の記憶がズィータを捕えて離さぬのだ…だから…竜でいたいのだ…憎まれるだけの…討たれるべき存在として…運命に抗わなくても済むよう…」

狂戦士は溜息を吐いて蓬髪を打ち振ると、シドーの祭司を蹴り倒して黙らせた。

「…要は昔しでかした事が決まり悪くて、女房子供に合わせる顔がなくてぐれてんでねぇの…ったく世話の焼ける親爺殿だな…まぁ…女神様が何とかすんべ」


「ズィータ様!お願い!目を覚まして!ズィータ様!」

喉を嗄らして叫ぶ金髪の乙女に、紫鱗の竜は応えず炎を吹きかける。

”トンヌラ様、これ以上は危険です!いったん離れましょう!”

麗しい荷を背負った隻腕の悪魔は、翼の先を焦がしながら、、身を翻しつつ、剣ほどもある鉤爪のあいだから遁れた。残る左の手に抱えた少女は、まるで青磁の如く血の気のない肌をして、呼吸も聞き取れない。

”カリーン様のためにも…どうか!ズィータ様は我等ロンダルキア軍が総出で押し留めます…この様子では邪神の像は瓦礫の下…もはや魔族が操られる恐れも無き故…”

トンヌラは唇を引き結ぶと、バズズが運ぶカリーン、次いで側にしがみつくシエロに視線を移した。心臓が三つ拍ってから、侍従のスライムへ抑えた口調で話しかける。

「シエロ…バズズさんにちゃんとついていってね…できるよね?怖いだろうけど…人間の姿になってしっかり毛を掴んで…いいね?」

水玉の群は幽かな震えを返し、一つにつながって少女の形をとると、しっかりと狒々の肩のあいだに張り付いた。闇の后は頷くと、忠実な将軍の耳もとに唇を寄せて囁いた。

「バズズさん。カリーンとシエロをお願いします…お城ヘ」

擽るような吐息に、妖猿はしばし陶然となってから、慌てて首を後ろへねじ向けた。

”な、何を仰られる…トンヌラ様…我が輩、最後までお供を…”

双生の王妃はにっこりして、デビル族の長の首筋のあたりを撫ぜた。

「バズズさんにばかり…いつも迷惑かけて…御免なさい…子供たちのこと、頼みます!」

トンヌラは悪魔の背から宙へ飛び出すと、両手を一杯に広げた。黄金の翼が開くような、眩い光のあと、しかし華奢な体はまっすぐ墜落していった。

バズズは急ぎ追おうとしたが、真下を真竜王の翼にすっぽりと覆われて、煌めく金髪がどこへ堕ちていったか、目算すらつけられなかった。しばらく羽搏きながら滞空すると、腕と背にかかる少女らの重みに、歯噛みして上昇を始める。はるか縦穴の頂点、地上へとつながる出口へと。

一方でズィータは山吹の双眸を瞬かせ、小さくなっていく影を見つめたが、やがて訳の分からぬ衝動に突き動かされて、両翼を畳み、急降下した。ぐんぐんと落ちていくにつれ、吹き付ける風に熱が篭もるようになり、煮え立つ溶岩の音さえ聴こえるようになる。気流を味方につけた長虫の始祖は、しかし地底の暗闇を引き裂く流星の如くに疾さを増し、ついにはちっぽけな標的を捕えて、顎に挟み取った。

かちんと、牙と牙がぶつかるだけの空しい感触がある。かっと黄金の瞳を開くと、獲物は鼻先にへばりついて、顔に恐怖で土気色にしながらも、引き攣った笑みを浮かべている。

真竜王は不満の唸りを上げて、翼を広げ、風を叩いて飛翔へ転じた。尾の先が幽かに溶岩に触れ、煙を上げる。あと少しで炎の海に頭から突っ込むところだったらしい。だがドラゴンは間一髪逃れた危険など意にも介さず、うまく噛み殺せない乙女の存在に苛だって、幾度も牙をぶつけ合わせた。

「ズィータ様…どうして?どうして戻ってきてくれないんですか…何を避けてるんですか…」

トンヌラは頭の先にしがみついたまま、優しく尋ねかける。

「…僕の…こと?カリーンのこと?シドーのこと?…ねぇ…答えて…答えてよ!馬鹿!」

返事のない夫に、妻は突然涙含んで、洞穴のような鼻腔の間を殴った。幾度も。繰り返し。非力な拳で。

「あなたは!そうやって!何でも抱え込んで!僕の気持ちは…全部暴いて…あなたのものにしたくせに!どうして!どうして!」

”グル…グルルルル!!”

竜が零す威嚇の叫びに、乙女は泣き笑いで応じる。

「…そ、そんなの怖くないんですから!馬鹿みたい…かっこつけて…意地っ張りで…勝手で…次は火でも吹いたらどうです?」

”ガァアアア!!”

「キャッ!?」

燃え盛る炎が大きな口と鼻から噴出し、尻を焦がされかけたトンヌラは慌てて鼻梁の上に這い登った。

「へ、へへんだ…そそそのくらいじゃ…ま、負けませんのだ…ねぇ…ズィータ様…ずっと後悔してたんでしょう…シドーを神様の生まれ変わりにしたこと…カリーンもそのせいで…ちょっと変わった子になっちゃったこと…」

”グウウ…”

ドラゴンの細められた眼差しに、僅かな動揺の色が浮かんだようだった。気のせいかもしれない。しかし双生の妃は勇を鼓して続けた。

「それだけじゃなくて…マリア様を見捨てたことも…ベリアルさんを死なせたことも…ううん…ハーゴンを殺したことだって…皆心の底に残って…ずっと疼いてたんだ…」

ズィータは罠にかかった肉食獣の如き、苦悶と屈辱のないまぜになった咆哮を発した。あるいは溶岩で焼いた尾が痛み出しただけかもしれない。トンヌラは涙を拭いて、呼吸を整えてからまた言葉を紡ぐ。

「…ズィータ様は…義母様や…小さい頃優しくしてくれた人たちを…自分のせいで失くしたと思ってる…自分は忌まわしい子なんだって…周りを悲しませたり、不幸にするだけだって…僕と同じですね…でも僕は間が抜けてるのに…ズィータ様はしっかりもので…だから…悩んだり…傷ついたりなんて…しない気がしてた」

”ガグ…ゥ…”

「ふふ…怖い御顔…聞いて下さい…マリア様を見捨てたのは僕も同じです…あの時はハーゴンに勝てなかった…だから仕方がなかった…でもそれだけじゃない…もしマリア様と一緒に旅するようになったら…ズィータ様は…きっとあの方に心を移してしまうって…」

”グ…”

「シドーに神様を降ろした時だって僕は…怯えながら、どこかでズィータ様に求められる喜びに溺れて…体を…お腹の赤ちゃんを含めて…すべて差し出してもいいって…考えてた…分かってたのに…ズィータ様が何をしようとしていたのか…」

”ッ…”

「ハーゴンのことが憎かったのも同じ…マリア様をあんな風にして…僕に嫌な幻を見せて……それだけじゃない…あなたの影として、最も信頼すべき友としての座を求めたよね…あなたを奪われるのかと思って怖かった…許せなかった…」

サマルトリアの王子、ロンダルキアの王妃、ラーミアの化身、人間と魔族の女神。しかして唯の女であり男である者は、滔々と懺悔を述べていった。

「僕たち二人とも贖えない位の罪を犯してきた…これからもきっと間違いを重ねていきます…だって本当はローレシアとサマルトリアに、生まれるはずがない、正しい英雄の物語には登場してはいけない、忌み子なんだから。だから…僕にズィータ様の重荷を軽くはできないけれど…一緒に背負ってくことはできるから…ね?帰ってきて下さい…僕のご主人様…」

鱗の剥げ落ちた両腕が、金髪の乙女を抱いた。竜から人へと変わりつつある青年は、ばつの悪そうな表情で伴侶を引き寄せ、短く接吻すると、やっと意味の通る言葉で返事をした。

「…奴隷の分際で命令するな」

「は…はい…」

心から幸せな笑みを浮かべる妻に、夫は仏頂面でぼそりと囁いた。

「…迷惑かけたな」

「え?」

トンヌラが聞き返した時、二人は縦穴から青天のもとに飛び出し、身を切るように突風に攫われて、ロンダルキアの白野に激突すると、濛々と雪煙を上げたのだった。


雪原に二人の少女を伴った有翼の狒々、次いで、大鬼と蛮族を伴った悪魔神官が降り立った。

”貴様!ハーゴン派め!まだしぶとく生き残って…”

牙を剥くバズズを、青年は掌を差し出して制する。

「遺恨はあとで片を付けよう。シドーの信徒として、女神の依代たるカリーン姫の具合を調べさせて欲しい…能う限りの力を尽くして癒すと誓おう」

”いけしゃあしゃあとよくも!誰のせいでカリーン様はこのような目に…”

「やらせてやれサル。そいつはつまらん嘘は吐かん」

すぐさま攻撃に入ろうとした妖猿を止めたのは、有無を言わさぬ主君の命令だった。

ロンダルキアの元帥は振り返った。目を眇めて、眩しく光を照り返す雪丘の上に、鱗を剥がし落しながら不機嫌そうに立っている王と、傍らに寄り添う男装の妃を認めると、いきなり両膝を就いて、呻いた。

”ズィータ…さま…トンヌラ…さま…”

「…毒は抜けたようだなサル。腕を一本失くしたのは運がなかったが…そいつにカリーンを診せてやるがいい…」

”は…”

素直に引き下がるデビル族の長を、破壊神の祭司は些か驚きを隠せぬようすで一瞥してから、少女の裸身に屈み込むと、滑らかな胸に手を当てた。

「姫宮…申し訳なかった…ハーゴンの幻と夢の術を以て…あなたの心から幾許か…つまらぬ記憶を戴くとしよう…代わりに…私がローレシアの太后から押し付けられた、望まぬ長寿を…進ぜる…蘇生せよ…ザオリク!!」

王女のふっくらした頬に、薔薇色が広がる。引き換えに神官の顔色はいっそう紙のようになった。だが手は止めず、半ばぼろ布と化した套衣を外して柳の若枝のような四肢を包むと、素早く防寒の呪文を施してから、やおら立ち上がり、まっすぐ竜王を睨んだ。

「さて…約束は忘れておらぬな…」

「ああ」

「では貴様の命…貰い受ける」

たちまち周りはどよめきたった。トンヌラは夫の腕を引くと、硬い面持ちで、上目遣いに尋ねる。

「どうしてです?」

ズィータは妻の手を掴んで、そっと離させると、穏やかに答えた。

「仕方ねぇ…あいつとの約束だ」

「だけど…さっきちゃんと…」

「あれとは話が別だ。こちらはこちらで反故にできん。昔の俺ならいざ知らずな…」

「…っ…」

「許せ…けじめだ」

バズズと首狩り族はそれぞれ進み出て、悪魔神官を取り囲んだ。

「おめ、調子こきすぎでねか」

”この期に及んで尚ズィータ様のお命を狙おうとは”

呪文の匠と俊敏な戦士との組み合わせを前に、シドーの祭司は眉間に皺を寄せつつも、臆せず応戦の構えを取った。

「うぬら…つまらぬ邪魔立てをすれば主君への侮辱になるぞ…だが闘うつもりならよかろう」

「よせ!そいつの云う通りだ。俺に恥を掻かせるな」

蛮族の娘は鼻を鳴らして退いたが、デビル族の長は依然として納得いかぬげだった。

”ズィータ様は!先ほどからまるで、この逆賊めの肩を持たれるようですぞ!こやつはカリーン様を…”

「サル!!」

青銅の鐘にも似た竜王の声に、たちまち妖猿は縮こまった。

雪国の君主は溜息を吐くと、残った鱗を掻き落としながら、叛徒の頭目に近寄った。

「…よし。とっとと殺れ。遅くなると、がきも妃も風邪を引く」

悪魔神官は拳を握り固め、まず仇を、ややあってその家族に視線をくれてから、大きく深呼吸した。

「…無抵抗の貴様を始末しても意味がない…ハーゴン様の魔法の、万分の一しか受け継がぬ私でも、剣を持つ貴様を討てると証明してこそ、復讐は成るのだ」

「…てめぇにもう魔力なぞ殆ど残ってないはずだ…どうやってかは知らんが、体の限界を超えて呪文を使ってるだろう」

吐き捨てるように指摘したズィータに、相手は戸惑い、粗びた掌を掲げてじっと覗き込むようにしてから、ぽつりと答えた。

「だとしても…まだ…使える術はある」

「メガンテか…」

「…だからどうした」

「ハーゴンの弟子はどいつもこいつも、融通の利かない馬鹿ばかりだな…そうやって…皆簡単に自分を犠牲にする…」

「貴様に我等の何が分かる!!ハーゴン様は…」

「奴は死んだ!!てめぇが俺を殺しても、あとに何も残らないなら、意味がない。それなら俺が…トンヌラを残して死ぬだけの価値はない」

冷たく宣告するロンダルキア王を前に、シドーの祭司は頭を抱え、髪を掻き毟った。

「…っく…何故だ…何故ハーゴン様を殺した!どうしてなんだ!どうしてハーゴン様が死ななきゃいけなかったんだ!どうして!」

「ハーゴンに殺されたムーンブルクの奴等もそう尋ねただろうな。玩具にされたマリア姫も…」

「奴等は…我々を…奴隷にしたんだぞ…シドーの民を」

「そして奴はロンダルキアの民を魔族の生贄に捧げた」

悪魔神官は虚ろな眼差しで天を仰いだ。

「ああ…ああ…怨みを数えれば終わりがないな…そうだ…貴様を殺せば…貴様の息子は…我が教団に復讐するだろう…もし…教団が貴様の息子を殺せば…ほかの王族が…」

「俺で終わりにしてやる。がきどもに馬鹿な真似はさせん。俺や、てめぇみたいにはならせねぇ…妃がな…」

叛徒の長はうなだれると、肩を落して、足元の踏み固められた雪をねめつけた。

「…竜王…貴様の命は…貴様に返してやる…」

「てめぇはどうする」

「…貴様の知ったことか…最後まで聞け…私と死んだ仲間が…教団の主戦派のすべてだ…南海の島にいるのは…復讐より平和を必要とする老人か子供ばかりだ…」

竜王はむっつりと耳を傾けるようだった。悪魔神官は宿敵へにじり寄ると、懐から掌に包み込めるほどの三日月の形をした石を出して、押し付けた。

「何のつもりだ」

尋ねるズィータに、相手は幾らか聞き取り難くなった声で述べた。

「これは月のかけらという。テパの満月の塔にも同じ品があるが…貴様に取りに行くだけの甲斐性はなかろう…これがあれば我らの島を囲む浅瀬を超えられる…いわば鍵だ」

「何故そんなものを寄越す」

「シドーの民を頼む…あの島を…ロンダルキアの飛び領地にでも…して…守れ…下界ではまだ…”邪教”への迫害は止んでいない…ハーゴン様亡き今、不愉快だが…貴様だけが…」

「断る。てめぇがやれ」

奇妙な石塊を突き返そうとするロンダルキア王の腕を、シドーの祭司は信じ難いほど強い力で掴んだ。

「命を見逃してやるのだ!これくらいは引き受けろ小僧!!…分かったな…預けたぞ…これで…やっと…ハーゴン様のもとへ…行ける…」

最後のハーゴン派はそのまま崩れ落ちた。黒々としていた髪はいつのまにか灰をかぶったようになり、艶やかだった顔には百の齢を閲したかの如き皺が寄っている。だが死せる貌は、少年の寝顔のように穏やかだった。

「ちっ…勝手な野郎だ」

竜王は月のかけらを握ると、乾きしなびてゆく骸を見下ろした。出会い方が違えば、友になれたかもしれない男の屍を。しばらくして神鳥の化身たる妃が側へ寄って、裸の背に抱きつき、細かに震える胸に手を回した。

「また重荷が増えたぞ。トンヌラ」

「背負いますよ。ちゃんと。二人で…ううん…皆で…ね?」

見回すと視界に入ったのは隻腕の妖猿、バズズと、未だ意識を失ったままの巨人、アトラス。昏々と眠る幼い娘のカリーンと傍らに控える護衛の首狩り族、バーサ、またしても三つに分かれて飛び跳ねている半スライムの歌姫、シエロ。いつのまにか抱え込むことになった、家族や臣下。

「…頼りなさそうだな」

ズィータは嘯くと、温もりを求めて伴侶を抱き寄せた。如何に体にドラゴンの血が流れるとはいえ、寒空の下に一糸まとわぬままというのは、少々冷えたのだ。


「いやぁ…参ったねぇ…まさかょぅ ι゙ょに首を折られかけるなんてさぁ」

真竜王とジェノシドーの対決後ほどなく、静けさを取り戻した銀世界に、のどかな台詞が谺した。ローレシアの元剣術師範は、どうやってかまっすぐに戻った頚骨を確かめるようにうなじのあたりを撫でながら、ゆっくり歩いていた。人里まではまだ遠いが、密偵として鍛えた健脚の持ち主にとってはさほど心配するような距離でもない。壮年の、のっぺりとした面差しには、剽軽な笑みさえ浮かんでいる。

「さすがにしぶといね」

声をかけたのは、同じく飄々とした若者の声だった。軽快に足を進めていた男は急に立ち止まると、傍らの斜面へ眼差しを送り、ゆっくりねめ上げて、見下ろす少年と視線を合わせた。

「これはぁアレフ殿下ぁ…ご機嫌うるわしゅう…いやぁ奇遇ですなぁ」

「もういいよ」

「いや何々…これには事情がありましてねぇ…」

「もういいってば…」

「はぁ…」

「俺には隠さなくていいよ。出て来なよ」

剣術師範の体から黒い瘴気が噴出すと、ゆらめく影となって、相対する騎士の頭上に覆い被さった。

”ほほう…易々と我、ゾーマを見抜くとはな…”

アレフはゆっくり首を振った。

「…お前はゾーマじゃない」

”我と言葉遊びを望むか…勇者ならぬものよ”

「お前は只の”魔王の影”だ。ゾーマが初代ロトと闘うために産みだした…傀儡の一つさ」

”我はゾーマなり…今は影と雖もいずれは実体を得よう”

「ロトが戦ったゾーマは、お前よりずっと誇り高く、潔かったよ」

”哀れな子よ…勇者の記憶を騙るか…ロトの血はすべてお前の兄に顕れた…お前は残り粕に過ぎぬ…知っておようが”

「ああ。そんな事。勇者なんて、血筋はあんまり関係ないんだ。人々が望んだ時に、生まれてくるんだよ…一番最初のロトみたいにね」

”ならば魔王とて同じこと…”

「そうだね…俺はロトじゃないし、お前はゾーマじゃない。でも似合いの相手かな」

”どうかな。出来損ないの偶像よ…配合にはしくじったが…この地にはジェノシドーが撒き散らした破壊の気と、真竜王の零した霊血の名残りがある…どちらも我が実体を形作るに十分なほど…ゾーマを超えたゾーマ、アスラゾーマとしてしばし顕現するのに十分なほどだ”

どこからともなく何千、何万もの紙片、古文書の断簡が蝶の如く舞い寄って、影を包むと、輪郭を膨張、変形させ、大きな人の姿になった。濃紺の膚に、三つの眼。鎌を振り上げて構えた格好は、魔王というより鬼神と喚ぶ方が相応しかった。

アレフは軽く肩を回すと、腰の得物を抜き放った。いつも愛用している稲妻の剣ではなく、古めかしい神鳥の鍔がついた業物。切れ味は悪くなさそうだが、さして凄味があるともいえない。

アスラゾーマは呵呵大笑して、鎌を振り回すや、高らかに宣うた。

”受けよ勇者をも超える斬撃を!ギガスラッシュ!!!”

刃が光の軌跡ともに宙を薙ぐ。ローレシアの王子はひょいと頭を下げて躱すと、地表ぎりぎりを滑るように走って間合いを詰め、鬼神の脛当たりに切り付けようとした。

゛小癪な!!"

喚くと三眼の巨人は体格に似合わぬ軽妙さで跳躍し、鎌を振りかぶって、真直ぐに打ち降ろした。すると古びた剣が上がって死の嘴をがっきと受け止める。

アレフとアスラゾーマは殆ど鼻と鼻を突き合わさんばかりにして鍔迫り合いを演じた。

”ロトの残り粕とはいえ…膂力にだけは恵まれたな小僧…”

「…そうだねっ」

”だが我は無限の力を持つ闇の司…ただの人間でしかないお前にいつまで耐えられるかな!!”

言い放つや鬼神はさらに武器へ重みをかけた。ローレシアの王子は膝まで雪にめり込みながら、脂汗を垂らして剣を高く保つ。

”どうした…こんなものか…出来損ない”

「…ところで…初代ロトは…さ…卑怯だと…思わない…?」

”ほう…また言葉遊びを仕掛けるか…?よかろう額に刃が食い込むまで、存分にままやくがよい…”

「うん…ゾーマは色々…手下の魔族を…嗾けたけど…結局…最後は独りでかかってきたのに…勇者は四人で…戦ったんだよ…?」

”すべては兵法に過ぎぬわ…今お前がここで死するのも同じ…戦の稚拙さ故…”

「よかった。ちょっと気が引けてたんだ」

巨人の両肩に、音を立てて二頭の獣、否、少年と少女が降り立った。一方は緑の僧服に、金髪猫眼の童児、一方は赤い頭巾に白の長衣、犬歯を生やした長身の娘。

”何!?”

二人はごく雑に呪印らしきものを切ると、それぞれの掌をアスラゾーマの頭部へ向けた。

「メガライアー」

「イオグランデ」

爆炎が渦を巻きながら鬼神の首を襲い、消す炭と化すまで五秒とかからなかった。鎌にかかっていた重圧が消えると、アレフは素早く切先を外し、自由になった剣を相手の心臓に深々と打ち込んだ。

「やっぱりお前はゾーマじゃない…魔王の影だよ…」

”サマルトリアとムーンブルクは…本物の…ロト…抜かった…だが…まだ…”

倒れゆくアスラゾーマから紙吹雪が、剣の国の世継ぎへと押し寄せた。

”さぁ…お前の真の望みを…明かすがいい…野心と引き換えに…我が魂を受け入れよ…”


「兄上!」

童児は駆けていって、年嵩の少年に飛びついた。強い腕がしっかりと小さな体を抱きとめて、高くに持ち上げる。

「どうしたアレフ」

「兄上、ハーゴンを退治に行くって本当?」

「ああ」

「一人で行くの?」

「ああ」

兄が答えると、弟は頬を膨らせてそっぽを向いた。

「どうした?」

「どうして僕を連れていってくれないの」

「お前はほんのちびだろうが」

「だけど…剣はうまいよ」

「知ってる…でもだめだ…それにアレフは本当は…戦いが好きじゃないだろう?」

「え?」

きょとんとする童児に、長身の少年が莞爾として告げた。

「よく誰かに聞くじゃないか。戦いは好き?楽しいって。あんなの、自分が楽しければ聞く訳ないものな…」

「そうか…な…」

「戦いたくないのに、皆はお前に戦えという。俺が勇者になろうとしなかったから、お前になれってな…お前…本当は…何になりたいんだ」

アレフは頬を染め、もじもじしてから答えた。

「えーっとね…メーダ料理作る人…それでね…兄上にいっぱい食べてもらうの…」

「そうか。じゃぁ待ってろ。俺の仕事が終わったら、戻ってきて、お前が自由に、戦わずに暮らせるようにしてやる。もう勇者になるとか、王位を継ぐとか考えなくていいようにな」

「本当?本当に本当?」

有頂天になって手足をばたつかせる弟を、兄はゆっくり降ろした。

「ああ…」

「だったら…待ってるね…僕ね…怖かったんだ…兄上が戻ってこなかったらどうしようって…そうしたら…だって…兄上以外は、僕の事…勇者だって…ただそれだけ…父上にとっても…宮廷の大人たちにとっても…僕は…剣…便利な…よく切れる剣だもの…誰も…用がない時は呼んでもくれないの…ただ物置に仕舞われてるだけ…」

「そんな事ないさ」

「兄上は…分からないんだね…自分がどれだけ恵まれていたか…どれだけ父上が、…ヴィルタ様や…兄上を愛していたか…もういいかな?」

いつのまにかアレフは剣を握って、無造作に兄の体を切り裂いた。糸の切れた人形のように伏す少年の体から、紙片が蝶の如く舞い上がって、再び魔王の影となる。

”戦いを望まぬ…だと…”

「十分、覗き見しただろ…終わりにしようか」

”ではお前は…初めから…”

ローレシアの王子は、ロトの剣を深々と影の胸に埋めた。

「ゾーマも、竜王も、シドーも、これで滅ぶんだ。そして多分、ロトの血筋もね…もう誰も…勇者になんか…ならなくていいように…」

”…ロトよ…”


見えない炎に炙られ、黒く染まっていく百万もの紙片。風に舞って、空へ吸い込まれていくそれらを、アレフはぼんやり見上げていた。左右から、黄金の仔猫と白銀の猟犬が近付いて、手の甲を舐める。

「終わったよ。クッキィ、プリン。”勇者”はこれで…お役御免だ…」

呟いてから視線を落すと、雪原では、魔王の影から解き放たれた元剣術師範が首を振り振り立ち上がるところだった。

「あ…アレフ殿下ぁ…ご機嫌うるわしゅぅ…いやぁ奇遇ですなぁ」

青い戦装束の若者は肩を竦め、唸る二頭の連れを抑えて、一歩踏み出した。

「本当にしぶといね…本物も云う事は同じか…やぁ師範」

「実はここでお眼に掛かったのも色々事情がありましてねぇ」

「いいよその話は。ローレシアに帰ってからたっぷりしてもらうよ。王家の諮問会議でね」

「は?いやぁ」

「お前が洗い浚いぶちまければ、父上も退位せざるを得ないだけの秘密を蓄えてるのは知ってる…そう期待してる」

「ええと…あのう…それは…アレフ殿下が王位をお望みとあれば私めはぁ」

「嫌だよ。あの重たい冠のせいで、父上はいつまで経ってもヴィルタ様のところへ謝りにいけないんだから。父上を自由にしてやるだけさ」

珍しく雄弁になるアレフに、かつての師はきょとんとして首を傾げた。

「と、仰るとぉ…殿下はローレシアをどぉされるおつもりでぇ…?」

「ルプガナ辺りでやってる共和制とかでいいよ」

「はぁ?」

ローレシアの王子は、密偵の肩に手を置いて言った。

「逃げられないよ」

「あ…の…」

「おいで。道々、会議の席で喋る内容を整理するといい。聞いて上げる。全部ね」

リリザの郷士の息子として生まれ、剣の国で成り上がった男は、ぞっと冷汗を掻きながら、年若い主に引きずられるようにしてとぼとぼと歩き始めた。幾多の修羅場を持ち前の幸運と要領の良さで切り抜けてきた彼も、今度ばかりは少年の慧眼が届くところ、地上のすべてが獄と化したかのように、遁れる術がないことをまざまざと思い知ったのだった。

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