Doors to Worlds Ex.

銀の悪魔、ファジャーイ・ウム・テヘド・ヴェロキッターナ・ザヒド・ガブローンは異世界を楽しんでいた。

めずらしい奴隷がたくさん手に入る好機に胸をおどらせていた。残念なのは同胞の魂と絆がとだえ、人間のように孤独に行動せねばならない点と、故郷では時間が不規則におそるべき速さで経過しているであろう点だ。

だが無限に近い寿命を持つファジャーイにとって、いずれもささいな問題に思えた。妖精の扉のむこうでの豊かな経験は、持ち帰ったのちに同胞と共有すれば、皆をおおいに楽しませるだろう。すべては、ちょっとした余興のようなものだと。

ところが実際は、そう簡単ではなかった。


ひび割れた円盤が、電光をはなちながら、床のうえで振動している。椀と皿を伏せて重ねたようなかたちに、かつては要ろ色あざやかに光をまたたかせていた球がところどころもげかけて、ぶらさがっている。

銀の髪に銀の肌、銀の瞳を持つ少年は、あえかにほほえみながら、奇妙な物体を見おろしていた。

“もう一度聞くが。婢はここにいないのだな?”

“だから、守秘義務があるので、ほかの患者の話はできない”

かすかに音割れのした声で、なお陽気さを保ちながら、異形の医者は返事をした。

童形の悪魔は唇を三日月にゆがめると、火の鞭を振るって、しゃべる皿を叩きのめす。ひらべったい体が勢いよく反転するのと同時に、かざりのようについていた玉のひとつがはじけ飛んだ。

“そうだ。勝負をしないか?魂を賭けるのだ…お前が勝てば助けてやる”

“断らせてもらおう”

淡々と応じる円盤に、いまいちど紅蓮の舌が巻き付く。

“そうか。では死ね”

磁器とも金属ともつかない素材が粉々に砕けちると、少年は得物をどこへともなくしまって、退屈そうにのびをした。なかば液体でできたような診察台にとびのり、しばらくとびはねてから、横になってほおづえをつく。

“つまらん。オオタニ、オオタニどこにいる”

ふいに螺旋状のとびらが開いて、背の高い、目つきのするどい初老の人物が入ってくる。性別は判じがたいが、目元の厳しさが男性を思わせる。左半身は白髪まじりの黒髪に黒目、黄みがかった肌だが、右半身は銀細工のようだ。悪魔の奴隷にありがちな無表情をしていたが、きびきびした足取りには急いたところがある。

“いそいで退避を。艦の自爆装置が作動いたしました”

“なんだそれは”

銀の仔がのんびりと尋ねると、翁は腕を伸ばして、猫でも抱きとるように矮躯をすくいあげる。

“ここはまもなくあとかたもなくなります”

“なんと。では急いでお前の屋敷へ通じる扉へむかうぞ”

童形の悪魔はおとなしく横抱きになったまま、老爺を見上げて命じる。

“そうは参りません。あの扉のある区画は、艦から分離してすでに虚空のどこかをさまよっております”

“こざかしい。ところでなぜ婢はおらなんだ。失った眼や手足を再生するため、ここにいるはずと、お前は申したではないか。この世界の時間で三十日から四十日。間に合うはずだと”

ふきげんに唇をとがらせる主人に、年経た奴隷はしかしかぶりをふっただけで、うねる真珠色の廊下を大股で進んでいく。ややあって魂の契約に従って、しわのよった口がひらき、気ぜわしげに釈明をかたちづくる。

“可能性があると申し上げました。しかしあの娘も父親と同じく、悪魔の細工がもたらす力を重んじ、あえて身にまといつづけているやもしれません”

“ええい。すぐお前の屋敷へゆけ。虚空とやらは泳いでわたれ”

“ご主人様とて虚空にさらされれば凍てついて命を落します。今は仮ごしらえの扉にもどるのが最善です”

“オオタニ!”

童児がだだをこねるがごとく手足をばたつかせるのもかまわず、翁はめざす場所へ走った。

廊下の途中、なにもない宙に鉄の扉が浮かんでいる。そでからわずか数本の、できたばかりの鍵の束をとりだし、過たずひとつを選んで、さしこみ開く。駆けぬけるようにして中に入り、後ろ手に扉を閉ざし、とびすさる。たちまち鉄板が赤熱して膨張し、煙をあげて黒ずむ。

幼げな主人はあいかわらず奴隷の腕におさまったまま、きょとんとした表情で惨状を見つめる。

“…何があった”

“艦の主駆動装置を暴走させたのでしょう。できれば我々をしとめるために”

立ちつくしたまましずかに告げるオオタニに、ファジャーイは半眼をむける。

“ふん。医者のわりにえげつないな。お前の旧友はどれもそうか”

“皆、戦いに慣れております。それよりご主人様。屋敷へ到達する最短の経路を失いました”

“では鍵を作れ。お前にはできるのだろう”

“また時間がかかります”

翁が抑揚をかいた口調で話すのへ、銀の仔はうんざりして首をふると、身をまるめ、水銀の滴になったように抱擁からこぼれおちると、器用に大地に降りたった。

“いたしかたない。ところで、さすがにあれは手に入れたのだろうな”

童形の悪魔が後ろ手を組んで、上目遣いに訊くと、銀の半身を持つしもべはうなずいて、そでに鍵束をしまい、代わりに小さな黄色の八面体をした錠剤をとりだした。

“はやくやれ”

ちゅうちょなくオオタニは薬を飲む。ファジャーイが見守るうちに、相手のしわんだ肌は張りをとりもどし、白髪には烏羽色にそまり、筋肉はしなやかさを増す。

あとには、悪魔にまさるとも劣らない美貌をそなえた妖精の若者が立っていた。

“よいぞ。やはり奴隷はみめうるわしくなくてはな。オオタニ。今のそなたなら、我が婢とどちらの剣が上だ”

“あの娘がまだ悪魔の細工をつけているなら互角。いや、剣食つるぎはみ、水晶の柄の剣がある分、あちらが有利かと”

奴隷の正直なものいいに、主人は憮然としたが、ややって腕をあげ、あくびと背のびをしてつぶやいた。

“ふむ。婢だけでなく、あの剣もとりもどさねばな。優れた武器は我がもとにあるべきだ…まして…お前が言うようにあれが…特別な扉を開く鍵だというなら”

“はい”

“まずは備えをととのえねばならん”

少年は高みをあおいだ。頭上にはどこまでも広がる洞窟。太陽のかわりに、緑に発光する光苔の玉がいくつも浮かんで、広大な空間をおぼろに照らしている。心もとない明かりのあいだを、黒い翼が無数によぎっていく。

いくつかの飛影が、奇妙な主従に気づいたのか、旋回して近づいてくる。そばへ迫るにつれ輪郭がはっきりとうかがえる。とほうもない大きさの蝙蝠だ。鋭い筒状の牙を備え、被膜からは瘴気を放つ異形。時折、仲間同士にしか聞き取れない音をはなって、やりとりをしているようだった。

“なかなか美しい。知性があるようだし、勝負にも応じよう。まずはあれを奴隷にするとしようか”

“望みのままに”

ファジャーイがほほえむと、オオタニ、大谷と呼ばれた僕はおそれげもなくうべない、かたわらを守った。以前、ただひとりの身内である孫を世話していたときより、ずっと忠実なようすで。


銀の悪魔、ファジャーイ・ウム・テヘド・ヴェロキッターナ・ザヒド・ガブローンは異世界を楽しんでいた。

めずらしい奴隷がたくさん手に入る好機に胸をおどらせていた。加えて妖精の扉のむこうでの豊かな経験は、持ち帰ったのちに同胞と共有すれば、皆をおおいに楽しませるだろう。すべては、ちょっとした余興のようなものだ。

実際はそう簡単ではなかったが、しかしだからこそ面白そうだった。

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